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検索対象: 豆腐の如く : 融通無我のすすめ
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1. 豆腐の如く : 融通無我のすすめ

ックな生命の本質ではないだろうか。 これを野放しにしたら、どうなるか 強盗や殺人、暴行など非合法的手段に訴えてでも自分の欲望を満たそうとする人 が間が今よりさらに増えるに違いない。戦争、紛争があちこちで勃発するだろう。私 エコノミック・アニマル、セック 豆たちのまわりでも、争いやケンカが絶えない。 ス・アニマルと外国から非難されるような状况というのは、もしかすると限りなく それに近いのかもしれない。 エゴイズムは他人を傷つけるだけではない。 自分自身にも牙が向けられる。対人 っ し日 関係の軋轢、葛藤が大きくなり、絶えす深刻なストレスにさらされる。心身症やノ のイローゼ、精神病が増え、精神科医は引っ張りだこ。私の病院も商売繁盛という、 世 喜んでいいのか悲しむべきかわからない、破局的事態が遅からす到来するだろう。 一それならば、いっそこんな野蛮で、危険な衝動はないはうがいいかというと、そ プうでもないのだ。 私たちがピンチに陥ったとき、窮地に立たされたとき、そこから脱出するエネル ギーを生むのが、はかでもないこのエゴイズムである。今よりもいい環境を求める あつれき

2. 豆腐の如く : 融通無我のすすめ

ろ て 個性は性格の偏りがつくる ? て 豆腐と豆乳、豆乳の搾りカスであるおから、さらに、熱した豆乳の表面にできる 章薄い膜である湯葉の四つは、大豆という同し母から生まれたきようだいと考えてい 第 いと思う。生まれ持った性格はまったく変わりない。しかしその後、自分の格の 中の何を特徴として伸ばしていくかで、豆腐、豆乳、おから、湯葉に分かれてい 繊維という性格を強調したのがおからである。逆に豆乳は、繊維以外のタンパク かかっているのである。 タネが大きく伸びていくかは、その人自身の心がけに これは、個性や自分らしさについて大事なことを教えていないだろうか。 私たちは性格とか個陸というものは、与えられたものと考えがちだ。しかし実際 は、自分で選んでいるのだ。「こんな性格だから : : : 」と言いわけする資格は誰に もない。生まれ持ったものの中から何を伸ばしていくか、何を発揮していくか、そ れは自分自身の責任なのである。

3. 豆腐の如く : 融通無我のすすめ

土 6 ま言もカみんな主人公 さ 味荻原井泉水の随筆「豆腐 . を読みながら、生き方としての柔軟性 ( 第一章 ) や自 分らしさと個性 ( 第一一章 ) 、人間関係 ( 第三章 ) についてお話ししてきた。 和 章こうして書きながら何十回となく随筆を読んだけれど、そのたびに新しく発見す 第るものがある。名文というのは、こういうものなのかと感心させられどおしだった。 しかしプロローグにも書いたが、「この豆腐はエラすぎる」との思いが消えたわ けではない。 もちろん、井泉水は豆腐に託して自分の理想を語っているのだから、 ろう。しかしどのような状態であれ、「いまが最善のときなのだ」と受け入れるこ とができれは、これはどの幸せはない。 人と和する、環境と和する、自分自身と和すことができる : 人生を豊かにするも、楽しくするも、また自分の人生を悲観や悲嘆で終わらせる のも、自分の心一つなのである。

4. 豆腐の如く : 融通無我のすすめ

ことできる。 けれど、不運にして天才に生まれてしまったとしたら、それでも天才であること を嘆かす、呪わす、「天才であって本当によかったーと思いたい そして強いストレスにいつもさらされることになるのは、自分自身を受け入れるこ とができす、絶えす自分に不平不満を抱く人たちである。 豆腐をなぜ、井泉水が達人の面影を持ち、自然にして自由な姿でいるというのか。 それは、煮られても、焼かれても、油の中に放り込まれても、熱いあんをかけられ ろ ても、不平不満を言うことはおろか、はたから見ても立派な料理となって人びとの 則に登場する度量を持ち合わせているからだ。 焼とはいえ、人間はこうはいかない。生きていくうえで不平不満のタネはっきない し、自分で自分がイヤになるはど情けない思いに駆られることだってある。しかし、 章なかには客観的にみて、どうしてそんなふうに考えてしまうのか、と思うような人 第もいる。むろん、それは私の職業が、そういう人に出会うことを前提としたもので あるからだが : 自己臭症とか自己臭恐怖症という言葉を、みなさんも聞いたことがあると思う。 一番不幸なのは、

5. 豆腐の如く : 融通無我のすすめ

174 することを忘れなかった。これが、魅力的な大人の〃しまりみである。 貞心尼の『はちすの露』に、良寛が人々に教え、自分に対しても、守るべき戒め としていた九十一一条の「戒語」が記録されている。 いくつかを紹介してみよう。 そこにある戒めの 〇言葉の多き ( おしゃべり ) 。 〇自慢話。 〇よくむ得ぬことを人に教ゆる。 〇顔を見つめて物言う。 〇酒に酔いてことわり ( 理屈 ) を言う。 〇腹立てるとき、ことわりを言う。 〇人に物くれぬ先に、何々やろう、と言う。 〇ああ致しました。こう致しました。ましたましたのあまり重なる。 〇おれがこうした。おれがこうした。 読んでいると、どれも思い当たることはかりではないか。私自身や友人たちのあ の場面、この場面が次つぎと目に浮かんでくる。これはもう良寛さんの時代と少し

6. 豆腐の如く : 融通無我のすすめ

222 病気や老い、死をはじめ、この世の中には受け入れがたいことがいくらでもある。 身近なところでは、ロうるさい上司や、自分よりはるかに仕事能力のある同僚の存 在も、簡単には受け入れられないだろう。夫や妻の欠点には腹が立っし、息子や娘 の不出来も我慢ならない。 そんな人は、たいてい自分自身にもたくさんの不平不満を抱えているものだ。 イギリスの天才物理学者と言われるホーキング博士は、大学生のとき進行性の筋 肉の病気におかされ、今では車イスで生活している。数年前来日した折には、すで にもかかわらす、博 に舌の筋肉もマヒし、しゃべれない状態にまで進行していた。 士は特殊なワープロを使って、私たちの知らない宇宙の話を楽しく講演された。 筋肉のマヒは次第に進み、やがて呼吸も不可能になる。はっきりした治療法もな く、死を待っしかない病気である。しかしホーキング博士は、「私は病気になった おかげで、ありあまるはど研究の時間を持てたーと言う。死に至る病さえ、これは どみごとに受け入れている人がいるという事実は、私たちにとって大きな励ましで ある。 客観的な幸せ感は、それこそ見る人それぞれ。百人いれば百通りの答えがあるだ

7. 豆腐の如く : 融通無我のすすめ

に辷いかもしれない。スポーツをしても、お茶を飲んでも、花を生けても、踊りを 踊っていても、同じように人生の極意、達人の境地へ近づいている。 楽しい話である。断食したり、滝に打たれたりしなくてすむのが、私には嬉し、 荻原井泉水は「俳句とは道である」と考えた。 自分の心を掘り下げ、自分の内に脈打っている自然と一体になるための自由な句 作。それには、形式はった季題など邪魔だ。もっと直接的に、生命の光と力を表現 することが必要である、というのが彼が唱えた自由律俳句の考えだった。 井泉水のこうした求道的姿勢は、随筆「豆腐」にも一貫している。 「彼は實に融通がきく、自然に凡てに順應する。蓋し、彼が偏執的なる小我を持た すして、いはば無我の境地に到り得て居るからである。」 まことに宗教的な豆腐である。もっとも中国生まれの豆腐を日本へ伝えたのは、 遣唐使として中国へ派遣された学者や学僧であり、その後は精進料理として、もっ ばら寺で科理法を工夫されてきた。もともと仏教とは縁が深いのだ。井泉水自身も 何度か参褝し、出家しようかと本気で考えたこともあったという。 おうむしよじゅ、つにしよ、つ・」しん 「金剛經に『應無所住而生其心』とある。

8. 豆腐の如く : 融通無我のすすめ

た、もともとの歌はこうであった。 良寛僧が今朝の朝け花もてにぐる御すがた後の世まで遺らむ ある家の庭に咲いていた菊の花を良寛さんが折ったところを、家の主が見とがめ た。主は紙に花盜人の絵を描いて、「ここに自筆の和歌を書き込んでくれたら許し てあげますよーと言ったらしい。そこで、良寛さんが詠んだのがこの歌である。 葉菜と花の違いだが、どちらもユーモアがあって面白い。美しい蔔が咲いていた す から、つい手が出てしまった。主人に見つかり、頭をかいている人間良寛の姿が目 天に見えるようである。「良寛僧が : : : 」と自分自身をカリカチュアライズして笑い 々、物にしているところに、良寛さんのゆとりが感しられる。 父が昭和二年に青山脳病院の院長になったときに詠んだ歌 茂吉われ院長となりいそしむを世のもろびとよ知りて下されよ 工 良寛の歌と、どこか似ている気がするのは私一人だろうか。 ときには息苦しくなるぐらい生マジメだった父と、天衣無縫の良寛さん。まった

9. 豆腐の如く : 融通無我のすすめ

つまり、欲望をセープできないのである。ここがまた、あの高校教師と似ている。 衝動をコントロールできず、カーツとなって本能の赴くまま走り出す。セクシー な歌 臣の魅力にのばせ上がり、破滅へ突き進んでしまう。まさしく命を削る恋であ る。 そうした映画的人生、ドラマチックな生き方に、私もれはする。産れはするが、 自分自身で生きてみようとは思わない そんなシンドい人生は、気の弱い私には到底全うできそうにない 。また不都合な ことに、私は家内をはじめとする家族にかかわりを感している。そして、心の底に ある衝動を巧みにコントロールすることこそ、人類が長い歴史を通じて築き上げて きた、文化という名の「ゆとり」ではないかと考えるからだ。 石油値上げと聞けば、自己防衛本能に駆られた人たちがトイレットペ ッと群がる。土地が値上がりしそうだとなると、猫も杓子も不動産広告を手に走り まわる。米が不作になれば、たちまち米屋の前に長い行列をつくる。余った外国産 米を捨てる不心得者も出る。てんやわんやの集団ヒステリー状態が、あちこちで展 開する。私たち日本人には、おおらかに構えるゆとりがなぜか足りない気がしてな

10. 豆腐の如く : 融通無我のすすめ

あいだをウロウロするコウモリのようないい加減さではない。カメレオンのように、 ただ保身のためだけの様変わりとも違う。その場、その時、与えられた条件の中で 〃煮てもよろしく、燒いてもよろしく〃自分と居合わせた相手とが最もいい味を出 せるような身の処し方なのである。 一方、自分の考え方や意見だけを二所懸命みに守っていると、この世で一番正 しいものは自分の眼差しであると信じ出す危険性がある。はかの場所からは、それ がどう見えるか、他の人はどんなふうに見、考えているかということに無頓着にな ろ る。 て主義主張のために人を傷つけるなどは、その典型的な例だ。 それはど極端ではないが、もっと身近なところにも似たようなことがいくらもあ る。妻の言うことに断固として耳をかさない。子供の言い分はきかす、ガミガミと 章一方的に叱るだけ。舅や姑の意見は古すぎると決めつけてかかる。 しいと述べたが、それは二足の草 第多所懸命的な生き方が現代的で、心の健康にも ) 鞋を履いたり、趣味の同好会に入ったり、町内会やに顔を出さなけれはでき ないというものではない。