らは広場に止った。マルセルはしめしめと手をこすり、自分たちの前の鞄をやさしけに眺めた。 がんじよう や 「ごらんなさい」とジャニーヌが言った。広場の向うの端から、痩せているが頑丈な、長身のア ラビア人が来た。男は青い空色の外套に身を包み、黄いろのしなやかな長靴をはき、手袋を着 シェーシュ こうぜん ハンにつけた長い懸章だ け、そして鷲のように鋭い青銅の顔を昻然とあけている。わすかにター あこが けが、かってジャニーヌの憧れたことのある現地部隊のフランス将校から、これを区別してい た。男は着々と彼らのほうへ進んできたが、ゆっくりと手袋の片つばを脱ぎながら、この一団の かなたを眺めているように見えた。肩をすくませてマルセルが言った。「なんだ、こいつも大将 ・こうまん 王軍だと思っていやがる」なるほど、連中はここではみんな傲慢なふうをしている。が、その男 瞰は、全く特にはなはだしかった。まわりには広場ががらんと広いのに、男はトラングのほうへま へだ 落っすぐに進んできた。そのトランクも見す、また連中をも見ない。やがて、彼らを距てる距離は 転 あっというまにちちまった。アラビア人がついそこまで来たとき、マルセルは急に行李の取手を 擱み、これを後ろに引きさけた。相手の男は、全然気にもとめないふうで通り過ぎた。同じ歩調 で城壁のほうへ行った。ジャニーヌは夫を見た。夫は例の当惑した顔だった。「連中は何をやっ たってかまわないと思っているんだ」と夫が言った。ジャニーヌは何も答えなかった。彼女はこ おうへい のアラビア人の横柄なふうを憎み、急に自分を不幸だと感じた。一、こを立ち去りたかった。自分 の小さなアパルトマンに想いを馳せた。ホテルのあの氷のような部屋に帰るのかと思うと、がっ 、 - みごっい かりした。彼女は突然、ホテルの主人が堕塁の平屋根にのはって、砂漠を見ておいでなさいと勧
落 ) うじ うものなら、やつはたちまち猛獣どもの好餌とされちまうんですから ! わたしはね、あるとき ひょっとするとおれは思ってるはどりつばな人間じゃないのではあるまいか、そう疑ったとたん にそのことを悟りました。それからというもの、わたしは警戒するようになった。おれにはかす り傷があるんだから、全身傷だらけにだ 0 てなるかもしれない。やつらはおれを食い殺すにちが いないそ : ・ わたしと人間どもとの関係は一見もとどおりでしたが、微妙な狂いを見せてきたんです。友人 たちは相変らす、折さえあればわたしをほめあげて、君の側にいると心が融け合うようで安心だ などと言 0 てましたが、わたし自身は自分のなかにう一、めいている不協和音や混乱ばかりが気に うやうや なり、自分は傷つきやすいのだ、非難にさらされているのだ、と思っていました。今までは恭しけ にわたしに耳を傾ける聴衆だった人間どもが、今ではそうでなくなってしまい、わたしを中心に 一列に並んでしまった。要するに、お 転囲んでいた輪が崩れ、やつらは判事席に着いたみたいに、 れのなかには裁かれるものがあるのではないか、そう思ったとたんに、わたしはやつらのほうに どうにもならない裁判癖があるのに気づいたわけです。なるほどやつらは今までどおりそこにい る、しかしにやにや笑っている。というより、わたしが出会う誰も彼も、笑いをみ殺してこっ あしがら ちを見ているような気がする。この当時わたしは、やつらに足搦みにされていると感じたことさ えある。実際どういうわけか公式の席へ入りしなに、二、三度つますいたし、一度なんぞ床に倒 れてしまいました。デカルトの流れを汲むわたしはすぐ気を取直して、こうした事件を唯一の合 くず
かたびら いかにも、もし霊魂があって、そいつに目 棺の木は厚いし、経帷子も透き通らない。霊魂の目、 があるとすればですがね ! だけどこいつは確かじゃない、てんで確かじゃない。もし確かだと したら、救われるはず。そうなればまじめにも扱ってもらえる。あなたが死なないかぎり、あな たの理屈、誠実さ、あなたの苦しみの深さを誰も納得しない。生きているかぎり、あなたはうさ んくさい人間で、やつらの懐疑論の種になるばかり。だから、死んでも浮世が眺められるという 保証さえあれば、やつらがまさかと思っていることをやってのけて、あっと言わせる甲斐もある というもの。しかしまったくの話、あなたは自殺する。そうしたらもうやつらがあなたを信じて 王いようがいまいが、知ったことじゃない。なせってあなたは、やつらの驚ぎやらお悔みやらに立 。ー。しカオい、つまり誰しも空想 追ち会 0 てーーーどうせその場かぎりだがーー・そいつを受けるわナこよ、 自分自身の葬式に参列するわナこま、 落することだが、 ひと思いに存在することをやめなきゃならないですよ。 しかしまあ、こんなふうでかえっていいんじゃないでしようか ? さもないと、われわれはや つらの冷淡さに必要以上苦しみますよ。 ^ 思い知らせてあげるから ! 〉身だしなみがよすぎるとい う理由で、その恋人との結婚に反対された父親に向って、こう言った娘があります。娘は自殺し た。しかし親父のほうは一向思い知りなんぞしませんでしたよ。この男はリール竿の釣りに夢中 で、三週間もすると、またそろ川通いがはじまりました、親父さんの言草によれば、忘れるため に、ですがね。思惑どおりに、やっこさん、忘れちまいました。まったくのところ忘れなかった 。うさんくさく思われなくなるには、 ざお
ないが」ョナは笑いだした・「ああ、よく欠点を考えることはある。ただ忘れてしまうんだ」彼 まじめ は真面目になって、「己も自分の存在に自信はない。でも今に存在するだろう。それを確信して いる」 ラトーはこれをどう思うかとルイズにきいた。彼女は疲労から抜けだして、ヨナが正しいと言 った。訪問客の意見は何の意味もない。ただ、ヨナの仕事だけが大切だ。子供がヨナの邪魔にな ることも、彼女は十分感じている。おまけに子供は大きくなる。ソファーを買わなければならな 国いが、これがまた場所をとるだろう。もっと大きなアパルトマンが見つかるまで、どうしたらよ とかろう。ョナは夫婦の部屋を眺めていた。もちろん、それは理想的ではなかった。寝台が大きす 追ぎた。しかし、部屋は一日じゅう空いている。彼がそう言うと、ルイズは考えこんだ。部屋の中 落では、少なくともョナは邪魔されないだろう。それにとにかく彼らの寝台に寝ようとは誰もすま い・「どう思う ? 」と今度はルイズがラトーにたすねた。ラトーはヨナを眺め、ヨナは正面の窓 を眺めていた。ョナは星のない空に目をあけた。カーテンを引きに行った。戻ってくると、彼は ラトーに微笑み、床の上のラトーのそばに腰かけた。が何も言わない。ルイズは、明らかに疲れ 果てて、シャワーを浴ひてくると言った。二人の友達同士だけになると、ヨナはラトーの肩が自 分の肩に触れているのを感じた。ョナはラトーを見すに、こう言った、「己は画が好きだ。一生 涯昼も夜も画を描きたいと思う。これは幸連ではなかろうか」ラトーは優しく彼を見つめた・ 「そうさ、それは幸運さ」と彼は言った・
れに、もし彼が生ぎていたら、彼のためにわたしはも 0 と我慢したでしよう。わたしは彼を愛し ていたんだから、そうですとも、愛していたんです、少なくともわたしにはそう思われますよ。 だがわたしは水を飲んでしま 0 た、これは厳たる事実です、しかもこう自分を納得させながらで す。つまり、ど 0 ちみち死のうとしている男より、おれのほうが仲間には必要なんだ、おれは彼 らのために身を守らなきゃいけない、といったぐあいに自分に言い聞かせながらです。ねえ、帝 国とか教会とかは、こういうふうにして死の太陽の下に生れるんです。で、こうしたことーー・・そ れが実際の体験だったか、それとも夢だったかさえ今でははっきりしませんがーー・今それをお話 ししている間に、すばらしい考えが浮んだのですが、昨日のわたしの話を若干訂正していただく ために、お伝えしましよう。その考えとは、法王を赦すべきだ、ということです。第一に法王に はなんびとよりも赦される必要があるからだし、第二にはそれがさらに彼の向上する唯一の手段 怯だからです : ・ あ ! 戸をしつかりしめてくださったでしようね ? お願いですから、確かめてください。恐 かんぬぎ 縮ですな、わたしには閂のコンプレッグスがあるんでしてね。いつも眠るときになってから、閂 はたとわからなくなるんですよ。毎晩それを確かめに起きなくてはならない を掛けたかどうか、 んです。前に申しあけたとおり、確かなことはなにひとつないのですからね。わたしが閂に不 安をいだくのを、びくびくしている金持の反応といっしよくたにしないでください。昔わたし かぎ は、住居の戸にも、車にも鍵などかけなかったし、金をしまうこともしなかった。所有物に執着 113 ゆる
めていたことを想い出した。彼女はそれをマルセルに言った。トラングはホテルに置いてぎたら しいとも言った。しかし、夫は疲れていた。夕食前にちょっと眠りたかったのだ。「お願い」と ジャニーヌが言った。夫は妻のほうを向いて、じっと見つめた。「いいとも」と夫が言った。 彼女は、通りの、ホテルの前で夫を待っていた。白衣を着た群衆はしだいに数を増していた。 そこには一人の女も見つからなかった。こんな多くの男を見たことがないように、ジャニーヌに は思われた。にもかかわらす、誰一人彼女のほうを見なかった。ある者は、彼女の顔を見ようと するふうはないのに、陽にやけて痩せた顔をゆっくりと彼女のほうへ向けた。それは、彼女の目 からは、車のなかのフランス兵の顔にも、さっきの手袋をはめたアラビア人の顔にも共通に見え こうかっ る、狡猾で同時に倣慢な顔つきであった。彼らはこうした顔つきを異国の女のほうへ向けた。 と くるぶし 放が、決して女を見ようとはせす、そのまま、この疲れて踝のふくれた女のわきを、言葉もかけす 追にすんすん通り過ぎたのだ。そうして、彼女の不快、ここを立ち去りたいという気持はいっそう 募った。「どうしてこんなところへ来たんだろう」しかし、すでにマルセルが降りてきていた。 空は、す 二人が堡塁の階段をのはったのは、すでに午後五時であった。風は全くやんでいた。 ほお そう つかり雲が消えて、今やツルニチニチ草の青たった。寒気はいちだんとするどく、知を刺した。 階段の中途には、老いほれのアラビア人が壁ぎわに寝そべっていて、案内をさせてくれと言っ 材た。が、全然身動きはせす、断わられるのをあらかじめ知っているかのように見えた。土をなら
れわれのとるべき処置について、お考えいただきましたか ? 」ダラストは微笑みながら彼を見つ めた。「決めましたよ」ダラストは、イグアベの美しい町とりつばな住民を知ることをたいそう うれしく思っているが、その滞在が協調と友好の空気のなかではじめられるように、自分の名に おいて、あの軽はすみな男を赦してもらえるならば、自分はこれを個人的な恩恵と想い、真に例 外的な好意と考えるだろう、と言った。判事は、これに聞き入って微笑みながら、うなすいた。 彼はその道の専門家らしく、しばらく言い方を考えていたが、まもなく列席者に向って、フラン かんじんたいど 国スという偉大な国民の寛仁大度の伝統を賞め称えたいと言った。それからふたたびダラストのほ とうを向いて、満足ですと言った。「こうと決ったからには」と彼は言葉を結んだ。「今夜署長とい 追っしょに食事をしましよう」しかしダラストは、友達から小屋におけるダンスの会に招かれてい 落ると答えた。「ああそうですか」と判事が言った。「あなたが行かれるのは結構なことです。わが 民衆は実に愛さざるを得ない、それがよくおわかりになりましよう」 その晩、ダラストとコックとその兄弟とは、技師がすでにその晩訪れた小屋の中央の、消えた 火のまわりに坐っていた。兄弟のほうも、彼の顔を見ても別に驚いたふうもなかった。彼はを うなず んどスペイン語を話さす、大概は頷くだけだった。コックはと言えば、大寺院のことに夢中にな ってしたが、 、 ' 次には黒豆のスープについて長々と論した。今、日は暮れようとして、ダラストは うずくま コックとその兄弟はまだ目に見えるにしても、小屋の奥に蹲っている人影は見分けがっかなかっ 282 ゆる
ひとっ忘れてません。 パリというところはまったくこけおどしの街、四百万人の幻影が住むすば らしい舞台装置ですね。え、五百万近くですって、最近の人口調査では ? じゃあ、みんな子供 を作ったんですな。驚くことはない。わたしはね、いつもこんな気がしていましたよ。わが同郷 かんつう 丿ジャン諸君は、思想と姦通、この二つがむしようにお好ぎなのだとね。いわば無分別に好 きなんですな。しかしまあ、 ハリジャンの悪口はよしましよう、なにも彼らにかぎったことじゃ ない、全ヨーロッ パがそうなんですから。よく考えることなんですが、未来の歴史家はわれわれ についてどう言うでしようかね。近代人についてはただの一句で十分、つまり近代人とは姦通 王し、新聞に読みふけったとね。こうはっきり定義されちまったら、あとはまあ、種切れで文句な 放しでしようよ。 落オランダ人となると、そうはいかない、近代人とはるかにかけはなれています。連中を見てご らんなさい、ひまがあるでしよう。なにをしているかって ? このへんの男どもは、あの女たち の働きで食ってるんです。あの連中は男も女も、きわめてプルジョア的人種で、幻想にふけった り、馬鹿けたことをしに、ここへ来るのです。要するに、片や想像力過剰、片や想像力欠如です な。男のほうはときどき、短刀やビストルの立回りを演じますが、べつだん好きでやってるわけ たま じゃない。単に役目がそうさせるだけなのですから、最後の弾丸を射ってしまうと、恐怖でヘな へなになる。そうは言うものの、なしくすしに家族を食いつぶす連中よりも、彼らのほうが道徳 的だと思いますよ。われわれの社会が作られたのは、こうしたなしくすしの決算のためだという
189 底板を張っていた。工場主は彼がやるのを眺めていた。ヴァレリイは仕事をつづけていた。 」とラサール氏が言った。青年のしぐさは急にぎごちなくな も言わなかった。「おい君、どうだい った。彼はエスポジートのほうを眺めやった。エスポジートは、そのそばで、イヴァールのとこ ろへ第はうとして、樽板の山を頑丈な腕にかかえこんでいた。エスポジートも青年のほうを見た が、相変らす作業はつづけていた。ヴァレリイは、主人に何も答えすに、自分の樽にまた鼻をつ やがて、肩をすくめて、 っ一、んだ。ラサールは少々驚いて、しばらく青年の前に棒立ちでいた。 国マルグーのほうを向いた。マルクーは自分の台に馬乗りにな 0 て、ゆっくり確実にこっこっと、 王底板の切込みを削り終えようとしていた。「お早う、マルグー」前よりは素気ない調子でラサール とが言った。マルクーは返事をせす、その木片からほんのわすかな屑しか出ないようにと、それば 放かりに気をとられていた。「どうしたんだ」とラサールは激しい声で、今度は他の工員たちのほ 追うを向いて言った、「話合いはつかなかった。それはわかっている。だが、それはいっしょに働 とうしようと言うんだ」マルクーは立ちあがった。自分の くことの妨けにはならぬ。いっこ、、・ しわ 底板を持ち上けた。手のひらで円い切込みを検査し、大いに満足な様子でそのものうけな目に皺 をよせた。相変らす黙ったまま、大樽を組み立てている別の工員のほうへ行った。仕事場じゅう こだわりがとれたら、パレステルから言っ に金鎚と機械鋸の音しか聞えなかった。「よろしい。 てもらおう」とラサールが言った。しすかな足どりで、彼は仕事場から出ていった。 けんそう そのはとんど直後に、仕事場の喧騒をつんざいて、一一度ベルが鳴った。煙草を巻こうとして腰 がんじよう
ものを見いだせなかったからである。彼の内の芸術家は、闇のなかを歩いていた。どうして真の 道など教えられたろう。しかし、彼はじきに、弟子というものは必すしもしきりに何かを学はう とする者ではないことを悟 0 た。むしろしばしばこれに反して、その師を教育しようという無私 の喜びのために、ひとは弟子となる。以来、彼は謙虚にかかる光栄が増えるのを受入れることが できた。ョナの弟子たちは彼に彼の描いたものを、その理由まで、長々と説明してくれた。こう してョナは、自分の作品のなかに、自分で少々驚くほどの数々の意図を発見し、自分ては描かな かったつもりの数多のものを発見した。自分を貧弱だと思っていたのに、その生徒のおかげで一 国 王度に豊かにな 0 たのを感じた。時にはそれまで知らなか 0 たあまりの富を前にして、ちょ 0 びり と高慢の心が湧きそうになったりした。「とにかくそれは真実なのだ」と彼は心につぶやい 放ちばん奥にある、あの顔、それしか見えない。間接的人間化について語るとき、彼らの言おうと 追するところは、己にはよくわからない。しかし、それの効果によって、己はさらに進歩したのだ」 しかし程なく彼は、その星に関するこうした窮屈な抑制を追い払った。「先に進むのは星だ」と とど 彼は言った、「己はルイズと子供たちとのそばに止まる」 弟子たちにはもう一つ別の功績もあった。自己に対してきわめて厳格たることをョナに余儀な 特に彼の良 くさせたことである。弟子たちはその話のなかでヨナを非常な高みに置くから、 心、制作力についてはそうであったから、そうなるともういかなる弱味も彼には許されぬほどだ くだり った。こうして、彼は、困難な条を終えたとき、ふたたひ仕事にとりかかる前に、砂糖やチョコ あまた やみ