ンアイズのことを思い出した。君は黒い鳥を見たかい ? 君は黒 だめだわ、と呟く。僕はグリ ーンアイズはそう言った。この部屋の外で、あの窓の向こうで、黒い巨大 い鳥を見れるよ、グリ な鳥が飛んでいるのかも知れない。黒い夜そのもののような巨大な鳥、いつも見る灰色で。ハン屑 を啄む鳥と同じように空を舞っている黒い鳥、ただあまり巨大なため、嘴にあいた穴が洞窟のよ うに窓の向こう側で見えるだけで、その全体を見ることはできないのだろう。僕に殺された蛾は 僕の全体に気付くことなく死んでいったに違いない 緑色の体液を含んだ柔かい腹を押し潰した巨大な何かが、この僕の一部であることを知らすに 死んだのだ。今僕はあの蛾と全く同じようにして、黒い鳥から押し潰されようとしている。グ ーンアイズはこのことを教えにやって来たのだろう、僕に教えようとして。 プ ーは気が付いてるのか ? 鳥が見えるかい ? 今外を鳥が飛んでるんだろう ? 近俺は知ってるよ、蛾は俺に気が付かなかった、俺は気が付いたよ。鳥さ、大きな黒い鳥だよ、 ーも知ってるんだろう ? ) ュウ、あなた狂ってるわ、しつかりしてよ。わからないの ? 狂ってるわ。 ごまかすなよ、俺は気が付いたんだ。もうだまされないぞ、俺は知ったんだ、ここは 限 どこだかわかったよ。鳥に一番近いとこなんだ、ここから鳥がきっと見えるはずだよ。 俺は知ってたんだ、本当はすっと昔から知ってたんだ、やっとわかったよ、鳥だったんだ。こ
146 れに気付くためにこれまで生きてきたのさ。 見えるかい ? 鳥だよ、 止めてよ ! 止めてよ、 リュウ、止めてよー ーここはどこだかわかるか ? 俺はどうやってここに来たんだろう。鳥はちゃんと飛んで るよ、ほらあの窓の向こう側を飛んでるよ、俺の都市を破壊した鳥さ。 リリーは泣きながら僕の頬を打つ。 ) ュウ、あなたは狂ってるのよ、それがわからないの ? ーには鳥が見えないのだろうか ーは窓を開ける。泣きなから思いきり窓を開ける、 夜の町が横たわっている。 どこを鳥が飛んでいるって一一一口うのよ、よく見なさいよ、どこにも島なんかいないのよ。 僕はプランデーのグラスを床に叩きつける。 ) 丿ーが悲鳴をあげた、がラスは散らばり床で破 片がキラキラと光る。 あれが鳥さ、よく見ろよ、あの町が鳥なんだ、あれは町なんかじゃないぞ、あの町に は人なんか住んでいないよ、あれは島さ、わからないのか ? 本当にわからないのか ? 砂漠で ミサイルに爆発しろって叫んだ男は、鳥を殺そうとしたんだ。鳥は殺さなきやだめなんだ、鳥を 殺さなきや俺は俺のことがわからなくなるんだ、鳥は邪してるよ、俺が見ようとする物を俺か
なそんな感じだ。 ここでは非現実感そのものが対象化されている。しかも、興味深いのは対象化されたこの非現 実感が逆に現実感を帯びてくることである。現実と非現実のこの転倒が決定的となる段階がその ままこの小説のクライマックスであるといえるだろう。非現実そのものともいうべき幻視と幻聴 に襲われて主人公は絶叫する。 あれが鳥さ、よく見ろよ、あの町が鳥なんだ、あれは町なんかしゃないぞ、あの町 には人なんか住んでいないよ、あれは鳥さ、わからないのか ? 本当にわからないのか ? 漠でミサイルに爆発しろって叫んだ男は、鳥を殺そうとしたんだ。鳥は殺さなきやだめなん だ、鳥を殺さなきや俺は俺のことがわからなくなるんだ、鳥は邪魔してるよ、俺が見ようとす 、鳥を殺さなきや俺が殺されるよ。 る物を俺から隠してるんだ。俺は鳥を殺すよ、 何も見えな 何も見えないよリ どこにいるんだ、一緒に島を殺してくれ、 いんだ。 解「鳥」は異様な現実感をもって主人公に迫ってくる。現実の描写における非現実感とは正反対に なまなましい現実感をもってまばろしの「鳥」が迫ってくる。主人公だけにではない。読者に直 接的に迫ってくるのである。おそらく、ここだけが全篇を通じて唯一現実感を漂わせる箇所であ
102 ここからは鳥の目が見えない。僕は円い縁どりだけの鳥の目が好きだ。頭に冠のような赤い羽 をもっ灰色の鳥。 僕はまだ捨てていないハイナップルを島にやろうと考えた。 雲が東の方で切れて光が差してくる。空気は光に触れると白く濁る。一階のべランダの戸がが ラがラと開くと、鳥はすぐに飛び立った。 部屋に戻りパイナップルを持ってくる。 「あの、これ島にやろうと思うんだけど」 顔を出した優しそうな夫人にそう言うと、ポプラの根元を指差し、あそこに置いとくとよく突 つくわよ、と教えてくれた。 放り投げた。ハイナップルは地面に落ちて潰れ形がくすれたが、それでもゆっ くりと転がってポ プラの脇に止まった。ヾ ノイナップルが地面に落ちた音は、きのうのトイレでの私刑を思い出させ る。 アメリカ人の夫人はプードルを連れて散歩に出ようとしている。パイナップルを見て眩しいの か手を目の上にかざして僕を見上げ、鳥が喜ぶと思うわ、とうなすいて笑った。
からはまだあの匂いがっている。 僕は地面にしやがみ、島を待った。 鳥が舞い降りてきて、暖い光がここまで届けば、長く延びた僕の影が灰色の鳥と。ハイナップル を包むだろう。
空は曇っていて、白く柔かい布のように僕と夜の病院を包んでいる。風がまだ熱をもった頬を 「冷やすごとに、木の葉の擦れ合う音がする。風は湿気を帯びて、夜の植物の匂い、ひっそりと呼 吸する夜の植物の匂いを運んでくる。 病院は玄関とロビーにだけ非常用の赤い灯りがあって、他は眠っている患者達のために暗い。 秀一 く細いアルミニウムの枠で区切られたたくさんの窓には夜明けを待っ空が映っている。 紫色の線が屈折して走り、そこは雲の切れ目だろう、と思う。 時々通る車のヘソ・ 、ドライトが、子供の帽子のような植え込みを照らす。捨てた蛾はそこまで届 いていなかった。地面の上に小石や枯れてちぎれた草と一緒に転がっていた。拾い上げて見る 147 ら隠してるんだ。俺は島を殺すよ、 、鳥を殺さなきや俺が殺されるよ。 何も見えないよリ 何も見えないんだ。 んだ、一緒に鳥を殺してくれ、 ーは走って外へ出た、車の音がする。 僕は床を転げ回る。 電球がぐるぐる回っている。鳥が飛んでいる、窓の外を飛んでいる。 巨大な黒い鳥がこちらへ飛んで来る。僕は絨毯の上にあったグラスの破片を拾い上げた。握りし め、震えている腕に突き刺した。 リリ・ーー↓よド」、」こ 9 ついなし どこにいる
158 「鳥」とはなにか。それを殺さなければ「俺は俺のことがわからなくなる」という「鳥」とはは たしてなにか。 この「鳥」が、暗喩として、現代社会を、その構造を示唆しているのは明らかであろう。作者 が意識するしないにかかわらす、それは、不安定な自己意識をさらに曖昧なもの、不確かなもの へとおしやる巨大な力を思わせるのである。 小説「限りなく透明に斤一いプルー」 には、きわめて興味深い逆説が潜んでいるといわなければ ならない。 ここでは、現実的なものが非現実感を与え、非現実的なものが現実感を与えるのだ。 そして、この逆説こそがしつはこの小説の隠された主題なのであり、私は私であるという自明と されていることがここでは危機にさらされているのである。 しかし翻って考えるならば、この、現実と非現実の転倒こそわれわれの日常生活そのものでは ないだろうか。テレビや新聞によってもたらされる夥しい〈現実〉の洪水のなかで、自分自身の 〈現実〉を刻一刻失ってゆかざるをえないのが現代ではないだろうか。 おそらく、村上龍は、社会内部に自己をはっきりと位置づけることができないという、この きわめて現代的な不安を自覚することによって書きはじめたのではあるまい。むしろ、ここに 見られる鮮烈な〈私〉意識の崩壊は、一種の胎内回帰願望の現れであると考えたはうがよいか もしれない。感覚を全開にした受動性はある意味で胎児を思わせるといえなくもないからであ る。 る。
総合病院の中庭には水溜まリがまだ残っている。タイヤの跡がついた泥濘を避けて新聞の束を 抱えた子供が走る。 自がどこかで鳴いているが姿は見えない プ きのうの夜、この部屋に帰りついた時僕は。 ( イナップルの匂いを嗅いで激しく吐し 斤一 電車の女は唇を吸った時、僕の目をしっと覗き込んで一瞬だが不思議そうな顔をした。あの時 明どんな顔をしてたのだろう。 鳥がアハ トの庭に舞い降りて来た。一階に住んでいるアメリカ人の夫婦が撒くパン屑を突っ くちはし いている。あたリを荒ただしく見回して嘴で摘まむと急いで呑み込む。パン屑は小石の隙間に落 限 ちていて上手にそれを啄む。すぐ側を病院に向かう頭に布を被せた掃除婦が通ったが、鳥は逃げ なかった。 抱き起こす。目が痛く顳を揉むと涙が出てくる。猛烈な吐気が波のように通路のタイルから立 ち昇ってきて、ロを手でしつかリと押さえる。 足を縺れさせて歩いているモコのからだから今朝まであった黒人の匂いがすっかり消えてい る。
僕は苦い草や丸い虫と一緒に胎内に閉じ込められている。小石と同じになったこの蛾のようにか 艮り、鳥から逃れることは出来ない らだを硬く乾燥させてしまわないド ポケットから親指の爪程に細かくなったガラスの破片を取り出し、血を拭った。小さな破片は なだらかな窪みをもって明るくなり始めた空を映している。空の下には病院が横に広がり、その 遠くに並木道と町がある。 影のように映っている町はその稜線で微妙な起伏を作っている。その起伏は雨の飛行場でリ ーを殺しそうになった時、雷と共に一瞬目に焼きついたあの白っぱい起伏と同じものだ。波立 ち霞んで見える水平線のような、女の白い腕のような優しい起体 これまですっと、いつだって、僕はこの白っほい起伏に包まれていたのだ。 「血を縁に残したがラスの破片は夜明けの空気に染まりながら透明に近い ートに向かって歩きながら、この 近限りなく透明に斤一いプルーだ。僕は立ち上がり、自分のアハ 明がラスみたいになりたいと田 5 った。そして自分でこのなだらかな白い起伏を映してみたいと思っ た。僕自身に映った優しい起伏を他の人々にも見せたいと思った。 空の端が明るく濁り、がラスの破片はすぐに曇ってしまった。鳥の声が聞こえるともうガラス には何も映っていない トの前のポプラの側に、きのう捨てたパイナップルが転がっている。濡れている切り口 149
たケーキの包み紙、パン屑、赤や黒や透明の爪、花びら、汚れているちり紙、女の下着、ヨシャ マの乾いた血、靴下、折れた煙草、グラス、アルミ箔の切れ端、マヨネーズの瓶。 レコードジャケット、フィルム、星形の菓子、注射器のケース、本、本はカズオが忘れていっ たマラルメの詩集だ。僕はマラルメの背表紙で、黒と白の縞模様がある蛾の腹を押し潰した。蛾 は脹らんだ腹から体液が漏れる音とは別の小さな鳴き声をだした。 「リュウ、あなた疲れてるのよ、変な目をしてるし、帰って寝た方がいいんじゃない ? 蛾を殺した後、妙に空腹を感して冷蔵庫にあった食べ残しの冷たいローストチキンを齧った。 それが完全に腐っていて、舌を刺す酸味が頭の中にまで拡がった。喉の奥に詰まったねばっく塊 を指で出そうとした時、寒気が全身を包んだ。殴られたような激しい寒気だった。鳥肌がどんな に擦っても首筋にすっと残り、何度うがいをしてもロの中が酸つばく、歯茎がヌルヌルした。歯 の隙間に引っ掛かった鳥の皮がいつまでも舌を痺れさせた。吐き出したチキンは唾液に塗れ、 ロドロになって流しに浮いた。流しの排水孔には角切りの小さなしやがいもが詰まって、表面に 油が渦を巻く汚ない水が溜まっていた。そのヌルヌルして糸を引くじゃがいもを爪で挾んで取り 出すと、水がようやく減り始め、鳥肉の屑は円を描いて穴に吸い込まれていった。