と反動分子といわれようと、わかってはならないのである。人工的・意図的なアパシーであ る。無感動である。なかには勇気を出して学生の気持がよくわかると宣言し、学生とのふれあ いは体験したが、大学当局からは窓際族に追いやられた人もいる。私などもそのひとりであっ 自分が臆病なためにふれあいがもてないことをごまかして「ふれあいがあるにこしたことは しかし、なければそれも止むをえない」といってはならない。 ふれあいを拒否しなければならないこともある 最後に、こういう場合もあることを知るべきである。ふれあいどころかっきあいをも自分か らすすんで拒否することを許さねばならない場合である。 わかりやすい話が、心理療法場面である。女性患者が治療者に「私、先生が好き ! デート してよ」と子ども心まる出しに迫ってきたとする。治療者がこれを受け入れるとすれば、彼も また子ども心を出したことになる。彼は本心ではその女性とデートしたくても、それを拒否す るのがふつうである。おとな心を発動して、「今は治療的面接を続けている。デートは治療と 関係がない。私はデートしたくてもできない状況にある」と現実的判断をする。そしてそのこ 152
これを私の部屋で数回練習させた。そしてそのとおりを女性に伝えさせた。彼の報告による と目的は達したそうであるが、人に教わったセリフで自分のまいた種を刈ったのが残念だ、と ぜいたくをいっていた。 しかしこのようにでもしなければ世の中を渉っていけない人がいるものである。子どもはた いていそうだし、青年でも場合によってはそうである。私たちも子どもの頃は「 : : : と挨拶す るのですよ」と母にシナリオを教わって、人とのつきあいをおばえたわけである。おとなでも そういう覚えかたをしていけないという法はない。 外国人と接するときは、多くの場合、人に教わったシナリオで受け答えしている。けっして ハ力のひとっ覚えよろしく、 自分のことばではない。私など今でも外人宅を辞するときは、 "lhadanicetime. ごとしかいえないでいる。しかし、これでもいわないよりはましだと思 実際場面に似た状態のところで練習するにも暇がないとか状況が許さないときはどうする ーサル法という。私はこれをよく用い か。心の中で練習するのがよい。これをメンタル・リ、 ている。 講演会場についたら、まず講堂を見てくる。そして控室でお茶でも飲みながら、壇上で自分 わた 120
が挨拶に来てくれたらうれしかったと思うよ」 挨拶に行こうと思ったけれど恥ずかしかったと、子どもみたいなことをいっている。多分、 わざわざ挨拶に行くような水くさい仲ではないじゃないか、という理屈もあったと思う。しか し、その理屈が通らない人間もいることを知れと私はいいたいのである。 私が学んだミシガン州立大学に、ノーマン・ケイガンというカウンセリング心理学の教授が いる。彼は学生が面接をすませたあと、録画をクライエント ( 患者 ) に見せ、カウンセラーの 言動について感想を述べさせる教授法を実践してきた。「あの場面では私はもっと慰めてほし かった」「あの場面は少し説教くさかった」「あの場面ではもっと力強く先生の考えを押し出し てほしかった」などとクライエントが教えてくれる。それゆえ学生は、どうすれば人とかみあ えるかがわかってくるのである。 これと同じ発想で、各自がときどきはまわりの人に自分の言動に対する感想をきくのがよ い。教師ならば生徒にアンケートを依頼するのが手つとり早い。たとえば、「私のよい点と、 こうしてほしい点を列挙して下さい」と。私は学年度末の授業時にそれを行なっている。個人 面接の場合は、あるていど親しくなったとき、「ところでばくの君に対する応答の仕方で、よ かった点と注文をつけたい点をいってくれないか」ということがある。いっこうに話が進展し 149 ワンパターンの打破
すね」という。 人とふれあえない場合、その人のかくされた他の面を知らないことが原因していることがあ る。コーヒーを飲むだけではわからない面が誰にでもある。酒を飲んでもわからない面もあ る。もっともよくわかるのは、多分いっしょに極限状況を共有することだと思う。 極限状況とは、自分を失う危機場面のことである。自分を失う危機場面とは生命を失うか、 社会的な自分を失うかという意味である。たとえば戦場で弾の下を一緒にくぐったとか、一本 のザイルに身を托して山を登ったとか、一緒に海上を漂ったとか、死の病を看護する側とされ る側に立ったとかである。あるいはふたりが同じ会社で倒産寸前を乗り切ったとか、ふたりで 危険をおかしてある企画の立案・実施をしたとか、ふたりで協力して弱いチームを強くしたと か、である。 このような切迫した人生の瞬間を共有することによって、お互いの生地にふれあうことがで きる。相手を心から信頼することができる。 旧制高校の卒業生が、何歳になっても往時をなっかしみ、何十年のギャップがあってもすぐ むかしの気持に戻って、「おい、お前」の仲になれるのも、寮で生活を共にしたからだと思う。 あるときは自殺したいという友人を救おうとして夜を徹して語りあい、あるときは事件をおこ 177 自他のイメージ・チェンジ
たような人間にいつまでもっきあっている必要はない。私はそうしている。 そのかわり、自分が人にきかれた場合には、なるべく豊かな応答を心がけている。ところが 豊かな応答をしても、たいして反応を示さない人がいる。それではあまりおもしろくない。人 にきくだけきいて、感心もせず驚きもせず、さらに質問もしないとあっては、きかれた側にす ればそれこそしらけてしまう。私はそんな心のはずまないっきあいは続けないことにしてい で る。それこそ Life is short. である。 ^ 自分を開く〉 あ きくばかりだと相手がだんだん不快になってくる。自分だけうまく乗せられてしまった、泥れ を吐かされてしまったと思うからである。 で そこで相手が自分を開いて答えてくれたていどに自分自身も開くべきである。「私はひとり っ子です」と相手が答えたら、「私は五人兄弟の末なんです」という具合に自分も開くのであは あ る。これを繰り返しているうちに、お互いがどんな人間かだんだんわかってくるから、構えが とれる。構えがとれるから感情交流もおこりやすくなる。つまりふれあいに一歩近づくわけでつ ある。
る。 こういったこともあるので、夫婦げんかをしない夫婦は仲のよい夫婦であるともいえない。 夫婦げんかができないほどにふたりの心理的距離がありすぎる場合もある。 さて気づいていなかった自分に気づくことによって、自己イメージが変わる。自己イメージ が変わるから人との接し方も変わると述べた。これをひとことでいうと、ふれあいのもてる人 間というのは、自分のあるがままの姿に基づいた自己イメージをもっている人物ということに なる。ということは、無理のない、カまない生活をしている人である。これを凡人という。凡 人中の凡人である。 凡人中の凡人になるためには、世代や文化のちがう人と接してみる、集団活動に参加してみ る、仕事を引き受ける、人並みの苦労もしてみる、という具合に、かくされた自分が触発され て出てくる機会をみずからっくることである。そうしなければ、思い込みの自分が本当の自分 だと信じてしまうから、みずからを過小評価して人に劣等感をもっか、あるいは過大評価して 鼻もちならぬ人間になる。 162
ある。うつむくとますますみじめになる。目を「見て返す」というのは自己主張である。叱る ほうも目をじっと見られると、そんなに長説教はしにくいものである。 あるていど叱られたあとで「 : : : の点がまずかったわけですね。今後は注意します」と音声 を出せば、これはもっと自己主張がつよい。さらに「 : : : という場合には、どう考えたらよい ・とい、フ でしようか」と相手に質問をなげかけるのは、もっと自己主張的である。続けて「 : 私の考えはどうでしようか」と自分の考えを打ち出せば、もっと自己主張的である。多分、こ のあたりまで来ると上司へのこわさはぐっと減っている。 もっと自己主張したければ「一度、ゴルフにつれていってくださいませんか」「私の : : : を 差しあげますから使って下さい」など、相手に甘えるか甘えさせるかすればもっとよい。これ は心理療法の終結場面でよくある。面接初期の頃、おどおどしていた人が、「暑いですね、先 生、窓をあけましようか」「面接がすんだら一緒に酒を飲みませんか」「先生の本を買いました よ。サインしてくださいませんか」というのがそれである。 心理療法の結果、恐怖が減少したからこういう言動がとれるようになったわけであるが、日 常生活では逆にこういう言動をまずとることによって恐怖を減少させることができる。 要は、徐々に自己主張をつよめていくことである。せいては事を仕損じる。
い。勝負に負けたらそれで終わりである。 学校でもそうである。勉強のできない子が宿直室で先生から教えてもらったとか、先生の家 に遊びに行ったとか、先生が〃親代理〃だという感情体験が今の子どもは少ない。竸争に負け たからといって、なぐさめてくれる先生が少ないのである。 竸争が激しくなるほど、自分をつつんでくれる人、勝ち負けとは無関係に自分を愛してくれ る人を求めるものである。そうしないと、切なさ・悲しさ・不幸感の処理ができない。竸う必 要のない世界、劣等感・屈辱感のない世界。これを誰でも求めるようになる。わかりやすい例 が、命の電話とかカウンセリングである。カウンセラーが特に役立つアドバイスをしなくて も、電話で声をきくだけでおちつくとか、先生の顔をみながら対話するだけで満足だ、という 人が出てくるのも当然である。 たとえていえばこうである。父が長女を大事にした場合、次女は愛情争奪戦に負けたことに学 帝 なる。しかし、母や祖母あるいは祖父にかわいがられることによって負け大の心理にならない の ですむ。孤独・悲哀・屈辱・劣等感をもたないですむ。今の社会は一般的にいって、この場合 あ れ の母や祖母や祖父に相当するものが少ない。それだけに竸争が身にこたえるのである。 むかしはこういう場合でも神や仏がいた。現実世界で満たされない欲求ーーー父母に認められ
とがある。 これは止むをえない。そう考えるべきである。きらいなものをしいて好きになろ、つとする と、ますます苦しくなる。好きではないが、どうしたらこの人と一緒に暮らせるか、と考えれ 心がふれあわなくても、つきあいがあまりなくても、お互いが自分の役割を果たし合 っている限り、ふたりの仲は存続する。 しかし、なければないで、自分は生きていける。そう ふれあいがあるにこしたことはない。 自分にいいきかせる。 今回はたまたまふれあいがもてなかったが、そのことは、今後の人生ですべての人からふれ あいを拒絶されることを意味しているわけではない。「けっして絶望に陥ってはならない。ふ れあいがあるにこしたことはない。しかし、なければそれも止むをえない」このことばをお経 のように自分にいいきかせるとよい ただし、ふれあいがないといっても、自分に勇気がないために、ふれあいがもてない場合が ある。その場合には前述のように「それも止むをえない」とはいうべきではない。 たとえば大学紛争中がそうであった。教授は学生の訴えがよくわかる。しかし、わかった、 といえば学生の陣営に与してしまう。そこでわざとわからないふりをする。頑固といわれよう くみ 151 ワンパターンの打破
開くだけ開いてみる、一緒につきあうだけつきあってみる。これを実行しているうちに、 心の中になんらかの変化が出てくるはずである。 もし何の変化もなければ、この方法は今の自分には合わなかったのだと思えばよい。そして ちがう方法を実践してみることである。ちがう方法のひとつが、次に述べる徐々に実行する方 法である。 で 2 ーーー体から徐々に あ れ 行為から心へ ふ むかしの心理療法は、心をなおせば行為もなおるという考えであった。たとえば甘えたい気 で 持 ( 心 ) を満たせば、夜尿症がなおる。恐怖心を除けばどもりが消える、というのである。本章 へ はそれとはちがう考えに立っている。行為をなおせば心もなおるという考えである。病人でも ハンをはくとか、ステテコ一枚 洗面し化粧をすると病人らしい気持が減少する。教授でもジー っ になると、少しは話がくだけてくるなどがその例である。 さて、この場合、急激にある行為がとれない場合には、ステップ・・ハイ・ステップで徐々に