キース・ヘリング - みる会図書館


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1. Keith Haring

ごあいさつ 地下鉄の広告看板にキース・ヘリングが描いた作品群が多くのニューヨーカー達の目にとまり、強い印象を与えたのは 1 981 年のことでした。 目にもとまらぬ速さでフェルトペンで描かれる作品の数々はサプウェー・ドローイングと呼ばれ、あっという間に人々に受け入れられること になりました。そして、広告看板から道路、街の壁へとつぎつきにひろげられた彼の活動は、当時「キース・ヘリング現象」とでもいうべき ムーブメントとなり、世界中にひろがりました。 ヘリングの作品はそのテーマの解りやすさ、また彼の都市や人間を見据える並み外れた才能によって、やがて他の多くのストリート・アー ティストからは一線を画した芸術として認識されるに到りました。彼の作品は路上から画廊でそして美術館で展示されるようになっていっ たのです。そして 1 990 年、彼が工イズで 31 才の若さで亡くなって以来、世界の各都市で彼の大きな展覧会が開催されてきました。 ヘリング作品の日本初の巡回展となる本展は、キース・ヘリング財団の全面的な協力を得て可能になったもので、彼の没後 10 年を記して 企画された本展にふさわし内容になったと自負しております。特に本展では、ヘリングの生活と行動そのものがアートであったということを、 彼にまつわる多くの写真を展示することで浮き彫りにし、落書きアートから始まったヘリングの多様な側面をこ紹介いたします。 ヘリングのコミカルともいえる様々な形象は、我々をすぐに彼の世界へと引き入れますが、彼の作品は、その解りやすさとは裏腹に、とら えがたい現代社会を読み取るキーワードとして、そこに住む我々への深いメッセージとなっています。本展を通して、短くしかし激しく生き 抜いた、天才的な生活芸術家キース・ヘリングの世界をこ観覧頂ければ幸いです。 最後になりましたが、本展開催にあたり、所蔵作品をこ出品下さいましたキース・ヘリング財団、またヘリング財団と共に本展の監修にあた られた福のり子氏に厚く御礼申し上けます。尚、こ後援を賜りましたアメリカ大使館、こ協力下さいました日本航空、そして関係各位に心か らの謝意を表します。 0

2. Keith Haring

キース・ヘリング展 監修 : キース・ヘリング財団 福のり子 企画 : 株式会社ア - ト・ライフ Exhibition: KEITH HARING SeIected and supervised by The Estate Of Keith Haring and Norik0 Fuku ReaIized by Art Life Ltd. キース・ヘリング展カタログ 監修 : 本文 : 福のり子 アメリア・アレナス、福のり子、那須孝幸 翻訳・編集 : 株式会社アート・ライフ デザイン : 山鹿真琴 製作 : 発行 : 瞬報社写真印刷株式会社 株式会社アート・ライフ ( 01999 CataIog 0f Exhibition Supervised by NorikO Fuku Essay: AmeIia Arenas, NorikO Fuku, Takayuki Nasu TransIated and edited by Art Life Ltd. Designed by Mak0t0 Yamaga Printed by Shumposha co. , Ltd. Published by Art Life Ltd. 01999 132

3. Keith Haring

動いている形象の周りに施される運動を示す線、そしてもっと際立っているのは、物語の鍵となる登 場人物を示す「光線」である。 しかしこれらの慣行は必ずしもコードと一致しているわけではない。コミックプックのイディオムは、 純粋なヘリング特有の形としては、作品に入り込まなかった。それはボップアートを経由して来、した がって彼の作品はモダニズムの美術として、鍵となる表現の特質を保持している。つまり、それらは 極めて曖昧なのである。それらはロールシャッハ・テストのイメージに似ている。それらはともかくわ れわれがイメージに与えたいと思っている意味をそのまま意味している。普通の漫画と違って、ヘリ ングの物語では「悪役」を見つけようと思っても無駄である。恐るべき獣が ( 襲ってくる ) 捕食獣でも あり、また食料をも意味する旧石器時代の洞窟絵画と同じく、ヘリングの吠える犬も、巨大なヘビも、 妊娠中の大女も、すべてそんな感じである。同じように、ある文脈では共感できそうな記号も、別の文 脈では、不吉なものに変化する。つねに存在するべニスがまさにそうである。ディズニーのキャラク ターのように可愛いときもあるが、核ミサイルのように威嚇的にもなる。 ヘリングの署名「落書き」はアバートの壁全体を覆うこともあれば、名声が高まるに連れ、病院の 正面から、巨大な拡がりを見せるべルリンの壁にまで及んだ。最後にヘリングは、グラフィティ・アーテ イスト、伝道者、「ファイン・アーティスト」といった役割に加えて、美術館や大学、政府機関と協力して、 自ら制作を買って出るアーティストとしての役割をも担った。これら一見して矛盾する役割が、まさに ヘリングの最もおもしろいところである。 ヘリングの白と黒の様式が彼の署名として知られるようになったけれども、彼は熱狂的で見事な 色彩家であった。それは明らかに「高級美術」の伝統に位置づけることができる。彼の図像作品の幾 つかは、マティスのカットアウトが持っている優雅な拡がりを見せている。バリのネッカー子供病院の ための作品 ( 1987 年 ) は、レジェの壁画が持っている力強い都会の優雅さを見せている。そしてしば しば、特に彼の晩年の作品では、光り輝く子供、テレビ画面、そして空飛ぶ円盤などの宇宙が、オールド・ マスターの芸術が持っているイメージと置き換わっている。すなわち聖セバスチャンの苦悩、モーゼ と燃える柴、あるいは地獄の炎などである。ニューヨークにあるゲイとレスビアンのコミュニティ・セ ンターの壁画 ( 1989 年 ) では、猥褻な公衆トイレのグラフィティが、古典美術のアルカディア ( 理想郷 ) と一体となっている。ヘリングは浴場と男子トイレでの匿名のセックスという失われた黄金時代を再 創造するが、それは工イズによって中断された。 キース・ヘリング、この典型的な最もアメリカ的な若者は、 70 年代後半にペンシルべニアの田舎から 逃れて、ニューヨークの地下文化を深く徹底的に探求した。およそ 1 0 年後、名声の絶頂期にあって、彼 は工イズに倒れた。彼を追悼する式はペーター = バウル・ルーベンスの地位にあるアーティストに相 応しいものだった。それは大きな社会的事件であった。金持ち、有名人がこそって列席した。ロックの スターたち、美術界のプリマドンナたち、経済界の大君たち、ファッション・モデルたち、それにニュー ヨーク市長である。 さまざまな意味で、バスキアとヘリングの経歴は、 80 年代の美術界におけるアーティストの、変わ りつつあるがまだ決まっていない地位を顕わにした。バスキア、この「本物の」グラフィティ・アーティ ストの方が、結局のところ、ヴァン・ゴッホのボストモダン版であるヘリングよりも、手際よく画家の役 割をまっとうした。ドラッグをやりすきて、彼は若くして死んだけれど、金持ちだった。彼は失敗の犠牲 者ではなく、おそらく名声の犠牲者だったのである。 ヘリングははっきり理解するのが困難なアーティストであった。彼は洞窟絵画の領域と広告に対 する過剰なまでの自意識を、ニューヨークの地下鉄に導入した。彼の政治的ボスターは、プロバガン ダ芸術の伝統にイデオロギー的最新版を提供した。アクト・アップのような新たな機関の手で、それ が変容することを暗示した。彼の絵画は世界中の主な美術館によって収蔵され、そしておそらく、こっ ちの方がはるかに一般的になっているが、キース・ヘリングの T シャツやボタン、ステッカー、おもちゃ、 腕時計、カレンダーなどの広範囲に渡る目録は、ポップ・ショップで売られている。これらニつのものは、 《オブジェ・ダール》の流行に予期せぬ捻れをもたらし、復活させた。しかし、これら一見してつじつま の合わない活動の舞台、つまり、グラフィティとプロバガンダ、「ファイン・アート」と商品といったもの から、ヘリングはこれ以上、歴史的に明確ではあり得ないもの、すなわち核破壊の脅威、民族紛争、工 0

4. Keith Haring

キース・ヘリング . 一個人の美術史 アメリア・アレナス 0 たのだが、「ストリート・アート」は、最初は、それよりもさらに効果的になりそうだった。そのうち、し いう初期の試みは、結局のところ、コレクターの支援と引き替えに、援助体制の公的認可を取り付け 領域を開いたのである。ハプニングやアースワークといったギャラリーや美術館の外で活動しようと った。すなわち、それはアーティストの現在の役割に代わる役割を提示し、美術界以外に豊かな活動 たものは、モダニズムの理想が崩壊したことによって開かれた数多くの様式的な選択肢に止まらなか ものすべてを含む作品であった。こういった傾向は「ストリート・アート」と呼ばれたが、それが利用し テンシルによる標識、そして都市空間のメッセージに対する市民の機械的な反応を分裂させるような い形式が出現した。広告もどきの作品や、洗練されたグラフィティ、改変された公共標識、謎めいたス ギャラリーの外、ソーホーのストリートやイースト・ヴィレッジでは、バブリック・アートのおもしろ ことが分る。もちろん、美術界の外を見れば、例外はある。 ない。全体として 80 年代は歴史的緊張感も、芸術的な洞察力も欠いた、「ソフトな」時代だったという と見つけることができたからだ。あるいはむしろ違って見えるようなものといった方がよいかも知れ かせた。あらゆる好みに合わせたようなものが必ずあり、次のシーズンには、まったく違うものをきっ 実際、 80 年代初頭、ニューヨークのギャラリーを回ると、「特売日」のデバートにいるような感じを抱 うのは、それらは時代の美術に対するイデオロギーの枠組みをあまりにも手際よく示しているからだ。 私が選んだこれらニつの例は、しかしながら、この時代を歪めて描いているかも知れない。とい 等であるという文化多元論と性の権利といった問題に集中するものであった。 思い出させる。それは初期モダニズムの階級闘争に対する関心とは全く関係なく、すべての文化は同 家庭を飾る「良き」絵画に対する需要である。一方、ポストモダニズムは特殊な政治的美術の出現も な活況を思い起こさせる。それは絵画や伝統工芸への回帰を促した。つまり、ニューリッチ ( 成金 ) の ては、ボストモダニズムは、とりわけ、レーガン時代の経済的な蜃気楼の間に生じた美術市場の劇的 を何ら指し示していないからである。しかし、少なくとも、 80 年代ニューヨークに住んでいた者にとっ ストモダン ) はあまり役に立たないことははっきりしている。というのは、それはこの時代特有の様相 出現した。つまり 70 年代後半に始まり、ボストモダンと呼ばれるようになった時代である。この用語 ( ポ ヘリングの作品は、アートを革新しようというモダニズムの推進力が失速した、まさにその時に 経歴、ヴァン・ゴッホよりもさらに短かった経歴の中で、全歴史を何とか再生しようとした。 目的のために、利用されてきたということすべてを美術史は集約する。キース・ヘリングはその短い めだとか、世論に影響力を行使するためだとか、あるいは単純に、場所をきれいに飾るためといった たそれだけでなく、アートがある目的のために、すなわち、言葉では言い表せない観念を表現するた したこれらの鍵となるエピソードに対して、美術史はアーティストの社会的役割の変遷を読み取る。ま 傷からアートを革新しようとした時代として、永久に名を残すことになるという事実は残る。私が要約 まるでラスコーもエジプトのピラミッドも、ティティアーノの存在も知らなかったかのように、引っ掻き 続くのである。しかし近代美術はこれら例外の一つではない。とはいえ、それはアーティストたちが、 地域の伝統、そしてもちろん、私が今作った規範に当てはまらない例外といったものの長いリストが 自余は逸話である。つまりアーティストの長いリストが続く。またバトロンや時代様式、技術革新、 金化される可能性がある《オブジェ・ダール》 ( 美術品 ) を彼らに提供したのである。 らの邸宅を飾った。つまり、絵画や彫像といった、コレクターの運命や好みがわずかでも変わると、現 いつの日か、フリーランスのアーティストたちが、商人階級の人々に、美しいオブジェクトを提供し、彼 職人組合が公共の記念碑を建設し、彼らの神への信仰と彼らの王への服従を促した。そして、その途中、 彼ら自身の手型、そして筆記に似た神秘的な殴り書きで、覆い始めた。その後、君主制の社会が出現し、 およそ三万年ほど前、理由は説明することができないけれど、遊牧民が洞窟の壁を、巨大な獣や 美術の歴史は解明の鍵となる三つのエピソードに還元できる。

5. Keith Haring

摩天楼を駆け抜けた男 福のり子 「ニューヨーク・イズ・アート」と書かれたボスターが、ニューヨークの玄関、ケネディー国際空港の いたるとこに貼られている。ここに降り立った人々を「ニューヨークはアートだ」と自信たつぶりの言 葉でこの街は迎えているのだ。こう主張するだけあって、南北 24 キロメートル、東西 4 キロメートル、 総面積が淡路島の 10 分の 1 という小さなマンハッタン島には、メトリボリタン美術館やニューヨーク 近代美術館を始め、世界に名だたる美術、博物館が 60 館もあり、画廊の数は数百軒にものぼる。 この街にかかわった著名なアーティストも多い。たとえば、既製の便器をそのまま「泉」と題して作 品にしてしまったマルセル・デュシャン、ジャズに惹かれ、マンハッタンの格子状の通りを絵にして「ブ ロードウェイ・ブギウギ」と名付けたモンドリアン。アクション・ペインティングの巨匠ジャクソン・ポロ ック、アメリカ国旗や地図を絵画のモチーフにしたジャスパー・ジョーンズ、そしてマリリン・モンロー やキャンベル・スープ缶のラベルなど、大衆的なイメージを版画で量産することでそれをより大衆化 させたアンディ・ウォーホルなどである。ここにあげたアーティストたちはだれもニューヨーク生まれ、 あるいは育ちではない。この街にはアーティストあるいはそれをめざす人々が、全世界からやってくる。 ニューヨークという街のなにかが、彼らを魅了するのだ。 キース・ヘリングも、この街の魅力にとりつかれた一人であった。しかも彼の存在や活動そして作品は、 ツアイトガイストのことく、 80 年代のニューヨークの空気を見事に伝えている。ヘリングを知るためには、 私たち自身もこの時代とこの街に、一歩足を踏み入れなくてはならないだろう。 とうもろこし畑をぬけ出して ] 958 年、キース・ヘリングは、ペンシルべニア州レディングの病院で生まれた ( そのとき、父アレン は海兵隊の一員として日本に駐屯していた ) 。ヘリングがこの町で生まれたのは、実家のあったカツツ タウンに大きな病院がなかったからだ。ペンシルべニアといえば、映画「目撃者」にでてくるアー シュの人たちののどかな生活、美しい田園風景を思いおこす。彼の育った、そして祖父母の時代から ヘリング家のあったカツッタウン周辺にも、とうもろこし畑が広がっている。多くの住民はワスプ ( 白人、 アングロサクソン、プロテスタントの総称。初期アメリカ移民の子孫で、この国の主流派 ) で、保守、中 産階級の価値観が支配する典型的な田舎町だ。 1958 年といえばアメリカの人工衛星が初めて打ち上げられた年。翌年にはベトナム戦争が始まり、 その後 10 年以上にもおよんでこの国は、彼ら自身が「最も震名誉な戦争」と呼ぶ戦いにドプリと首 までつかっていく。その結果 ' 60 年代には反戦運動がもりあ力、り、ヒッピーが生まれ、そういった状況の 中で、カウンター・カルチャー ( 反主流派の文化 ) も芽生た。それと並行して、世界最強のテクノロジ ーを誇る、世界最大の消費国家としてアメリカは育っていくのである。 日曜画家であった父の影響、そしてディズニー漫画などに興味を持ったヘリングは、幼いころから常 に絵を描く少年だった。しかし暖かい家庭で平凡な幼少時代を送った彼も、ティーンエイジャーにな ると、静かな、だからこそ退屈なカツッタウンに我慢できなくなる。禁欲的で厳格、そして排他的なワ スプの社会からのがれ、もっと広い外の世界をみるために、ロングへアーのヘリングは家出、商業美 術専門大学を中退、ヒッチハイクによるアメリカ横断などを経て、 1978 年、 20 才のとき、ついにマンハ ッタンに足を踏み入れたのである。当時を振り返って、彼はこう語っている。 「ニューヨークしかなかったんだよ。そこは僕が緊張感をみつけだせる唯一の場所。僕のアートの ためにも、そして人生のためにも強烈ななにかが必要だったんだ」 ( 1 ) 。 ボップ・アートを背景に育つ ℃ 0 年代の世界のアート界における最も重要な動きのひとつに、ボップ・アートがあげられる。ウォー ホルをはじめ、印刷の粒子を拡大描写するという技法で漫画のひとこまを描いたロイ・リキテンスタ

6. Keith Haring

' 80 年代、「アメリカの汚点」とまで言われたニューヨークのサウス・プロンクス地区に住む、こうした マイノリティーの若者たちの主張行為が文化として育ったストリート・カルチャー、それがヒップ・ホッ プである。 ヒップ・ホップと仲間たち 前にはドブネズミ 後ろにはゴキブリ集団 狭い路地には野球バットにヤク中患者 逃げ出したいけど遠くにやいけねえ 月賦は払えず車はもっていかれっちまうし 俺を押すなよ、崖つぶちさ 俺たち、自分を見失ったらおしまいなのさ グランド・マスター・フラッシュ「サ・メッセージ」から ( 2 ) ヒップ・ホップとは音楽、ダンス、そして美術が一体として溶けあった総合文化をいう。巨大なカセッ トデッキを片手にラップ・ミュージックをガンガンと鳴らし、そのリズムにのって街をねり歩く黒人の若 者たち。ときにはそれを地面において、様々な技を競ってのブレイク・ダンス。あるいはこの両方が屋 内で繰り広げられることもある。それがナイト・クラプだ。 DJ は独特のミキシングや、「スクラッチング」 の技法でレコードを回す。すると何千人ものブラックやヒスパニックのティーンエイジャーたちが「へ ッド・スピン」、「ウェーブ」あるいは「ロボット」 ( 後にマイケル・ジャクソンによって全世界に知れ渡る ようになる ) などのダンス技法を駆使して、トランス状態になるまで踊り明かす。 ヘリング自身は白人ではあったが、カツッタウンでは決して見られることのなかった、エネルギッシ ュなマイノリティーの文化に強く惹かれていった。そしてそれは彼の作品の重要なモチーフとなって 現われくるのである ( カタログ 59 , 73 , 74 , 75 頁 ) 。ヒップ・ホップの発信地であったクラブに足しげく通 ったヘリングは、ついに単なる常連以上の関わり方をするようになる。黒人の DJ を恋人に持ち、無名 の頃にはそういったクラブの一つである「ダンステリア」で働き、そして「マッド・クラブ」ではグラフ イティー ( 落書き ) の展覧会を自ら企画している。グレイス・ジョーンズにボディー・ペインティングを 施したのも、毎週土曜日にはゲイに解放された「バラダイス・ガレージ」だ。ボーランド移民のための キリスト教会の地下集会所を、夜だけ借りてできた「クラブ 57 」 ( こういう組み合わせこそ、まさにニ ューヨーク的だ ) では、ダンスや音楽の他、ストリップ・ショー、怪獣映画やウォーホルが制作した映画 の上映など、さまざまなテーマを持ったバーティーが開かれた。ここでヘリングは詩を朗読したり、自 らがキュレイターとしてジェニー・ホルツアーやジャン = ミッシェル・バスキアなどを招いて展覧会も行 っている。クラブに集う人々は同時代を生きる仲間であり、そして実際に「一緒に住んでいるか、ある いは寝たことのある」 ( 3 ) 、一種の「拡大家族」だった。工イズの原因がまだ知られていない時代の話 である。 当時、まだ無名であったマドンナと知り合ったのも、そういったクラブのひとつだ。後にヘリングは尊 敬していたウォーホルと親交を結び、ニ人は共同でマドンナをモチーフにした作品を仕上げ、それを 彼女の誕生日に贈っている ( カタログ 84 頁 ) 。ヘリングと同様白人であるマドンナは、 80 年代のクラブ を共に体験した友人についてこう語っている。 「キースの活動はストリートからはじまった。そして彼のアートに興味を持った人たちは私に興味を持 ってくれた人たちでもある。それは黒人、そしてヒスパニック、貧しい下層階級の人々です。・・・・キース と私は同じ境遇にいた奇妙な小鳥。私たちは同じような世界にひかれ、それに影響されてきたのです」 ( 4 ) 。 グラフティーの街 ヒップ・ホップ・カルチャーのもうーっ重要な要素、それがグラフィティーだ。スプレー式ペンキを用 いて描かれた独特の字体のメッセージ、作者のニックネーム ( タグと呼ばれる ) 、そしてカラフルなイ ラスト。あっという間に増殖する奇妙な生物のことく、グラフィティーは街中いたるところに増えてい った。

7. Keith Haring

しかしニューヨークの美術館や美術評論家達、いわゆるエリート・アート界のヘリングに対する態度 ・「しよせんストリート・キッドの落書き」「ニュー・リッチが見つけだした珍奇な商品」 は冷たかった・ あるいは「コマーシャル・アーティストにすきない」と、非難するか無視し続けたのである。ヘリング同 様白人で、しかもニューヨークのアヴァンギャルドなクラブ文化をアメリカの大衆に広めたマドンナが、数々 の爆発的なヒット曲を出しながらも MTV 放映禁止、グラミー賞落選など、文化人からは総攻撃を受け た現象とそれはよく似ている。 1986 年、ヘリング・グッズを売る「ボップ・ショップ」が、彼自身の手で ダウンタウンに開店されたとき、その非難はピークに達した。 ボップ・ショップ開店 名声と経済的な成功を目一杯楽しむと同時に、ヘリングは自分自身と作品が「世の中の一員として 積極的にそれに参加」することを常に望んでいた。学校や病院などに壁画を描き、アンチ・ドラッグの メッセージをグラフィティーで伝え、アフリカの飢餓救済、文盲や工イズ撲滅のためのポスターを描き、 そして大勢の子供たちを招いて世界中でワークショップを開いている。こういった活動のほとんどは 無報酬、ときには制作費すら自前だった。彼の作品の値段が上昇し、それを購買できる層の人達だけ に作品が見られるのではなく、もっと多くの大衆にもなんらかのインバクトを与えうる手段を彼は考 えていたのだ。安価なバッジや T シャツを売る「ボップ・ショップ」開店は、その手段のひとつであった。 もうひとつの理由は「贋作」にある。すでに 1983 年ころからヨーロッパやオーストラリア、そして特 に日本で「キース・ヘリング」と称する作品やグッズが出没し始めた。こういった現象に対抗するには、 通常ニつの手段がある。著作権を主張して贋作をたたき潰すか、あるいは有名税だとあきらめるか。 ところがヘリングは、第三の答えをだした。偽物がでるなら、それ以上に多くの本物を世の中に出すと いう方法である。言い換えれば、偽物と本物、どちらを選ぶかはそれを求める私たちの鑑識眼に委ね るということだ。但しそれは、「大衆にアートはわからない」と心の底では思っている多くのエリート・ アート界の住人にとっては、ヘリング非難の好材料となったのである。 余談になるが・・・私の友人で、無農薬無添加、野菜中心の食事を心掛けている人がいる。ある日そ の人が、「うちの子は体に悪いものばっかりを食べて困る」と私にほやいたことがある。そのとき友人 の子供が「『悪い』ものを食べても生き残れる大人になりたい」と答えたのを、ヘリングの人生を省 みてふと思いだした。純粋培養されたのが伝統的なアーティストとするなら、ボップ・アーティストた ちは、自分がそれを食べるかどうかは別として、「悪いもの」を大量生産した連中だ。そしてそれを日 常食として育ったのが、ヘリングや彼の年代の人々である。彼らは、純粋培養人間たちが毛嫌いする 物ですら滋養に変えて生きていくミュータントなのかもしれない・・・少なくとも、ニューヨークの文化 人にはそう見えた。ミュータントは私たちの存在を脅かすとばかりに、ヘリング批判はますます高まっ ていった。 ロンドンの CA ( 1982 年 ) 、サンフランシスコ近代美術館 ( 1984 年 ) 、ワシントンのハーシュホーン美 術館 ( 1984 年 ) 、デンマークのルイジアナ美術館 ( 1985 年 ) 、ワシントンのコーコラン美術館 ( 1986 年 ) 、 バリのボンピドウー・センター ( 1987 年 ) など、名高い美術館で次々とヘリングの作品は紹介されている。 しかしホイットニー美術館でのグループ展以外、 1988 年までに彼の作品を展示した美術館は、マンハ ッタンにはひとつもない。それは、良いも悪いもひっくるめて「ヘリング現象」があまりにもニューヨ ーク的であったがために、ニューヨーカー自身は認めたくなかったといわんばかりであった。 「人々の判断に委ねる」という考えのもとで「ボップ・ショップ」を開いたのは、地下鉄という「道場」 で人々の反応を直に感じていたヘリングの確信である。そして「無限の可能性を持っ赤ん坊」を自ら のタグとして用いたオプテイミスト、しかも「悪い」ものでも肥しにしてしまうリアリスト・ヘリングが なせた技でもある。彼の決断が正かったかどうかは、今後おのずとわかってくるだろう。ただ、彼の死 後 7 年目にホイットニー美術館で開かれた大回顧展のオープニング・バーティーには、 4000 人もの観 客が集った。これは同美術館開館以来、最も多い入場者数である。 工イス時代の到来 80 年代のニューヨークを語るとき、避けては通れない重大な要素に工イズがある。 70 年代後半に は「ゲイが罹る奇妙な病気」と言われた工イズは、新しい疾患として 1981 年に初めてアメリカで正式

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キース・ヘリング時間の流れ / 来るべき 21 世紀 那須孝幸 地球上に住むボクらにとって、たとえば立ってるだけなら一次元。位置を説明するには緯度と経度で 測ることができる。それがニ次元。そのままジャンプしたら高さが変わる。これが三次元。ジャンプし ながら左腕の時計を見たら時間がわかる。これで四次元だ。 日本のバブレ崩壊を知らずに 1980 年代を駆け抜けたキース・ヘリングは、それはもう倹約家だった。「タ イム・イズ・マネー」は西欧のコトワザ。瞬時に描く、その制作時間もそうだし、 31 年という短い生涯 もそうだった。もし、彼の制作時間が 1 点につき 1 ヶ月、いや 1 週間かかっていたとすれば、もしかしたら、 キースの寿命は一般的なヒトの平均寿命に相当していたかもしれない。世界長寿を誇る沖縄の平均 まで抜いたかも。でもそんなに時間をかけてたら、地下鉄構内で無許可のグラフィティなんて描けな いわけで、とすれば、彼にとって時間の物差しがボクらとちょっと違ってただけなのかも。 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ キースが活躍した当時に若者たちの間で大流行したスイスの腕時計メーカー、スウォッチ社が、「イン ターネット・タイム」という新しい時間標準を開発した。 インターネット・タイムの単位は 1 分 24 秒 6 で 1 ビート。 1 日を 1 OOO ビートに分けて、午前 O 時からカ ウントする。たとえばお昼の 12 時だと「@500 」と表す。 98 年 IO 月 23 日から開始されているこの インターネット・タイム、その新たな基準子午線をスウォッチ本社の所在地としているあたりが、さす がというか・ この場合、「年」や「月」の単位はそのままだけど、時間の単位は現在の 12 進法から 1 0 進法に変わっ て ( 時計の文字盤は 1 0 刻み ? ) 、その時刻は世界中どこでも同じになる。つまり時差がなくなる。今 までのは、時間の進み方は世界共通だけど、各地で時刻が違う。 そういえば、世界で公式に認められた度量衡単位のなかで、 1 0 進法によらないのは時間と角度だけ。今、 天体を基にしない時刻が全世界で採用されるとすれば、これは大変革だ。 ボクが知るなかで最も長い時間の単位は、インドの「カルバ」だ。これはサンスクリットの言葉で、中 国では「劫 ( こう ) 」と漢訳されている。 なんでも一説によれば、硬くてでつかい岩の立方体が目の前にあるとする。その一辺は、牛車で 1 日 に歩ける距離の単位、 1 由旬 ( ゆじゅん ) で、だいたい 1 2km と推定されている。そのとてつもない岩 があなたの眼前にある。気がつくとあなたの手には柔らかい布が。それで拭い続けて、巨大な岩が磨 耗しきるまでの時間でやっと 1 単位なんだけど、ちょっと待って、あなたが手にした布は、 1 OO 年に 1 回、 軽くサッと拭うためダケのものなのだ。 距離の単位でいえば、天文学で使う「バーセク」が一番長いのかな。 1 バーセクは約 3.26 光年。光の 速さで 1 年間に進む距離が 1 光年。サッと計算しても、光の速さは秒速 300000km として、時速 1 080000000km だから、光は 1 年間で 9460800000000km も進んでしまう。しかもその 3.26 倍なんだから、えっと、ザッと 30 兆 km だ ! えっと、ザッと月と地球を 4 千万回往復する距離だ。か ぐや姫の里帰りなんて近いもんだ。人類はアポロ 1 1 号の到達以来、 6 回しか月面に降りたっていない。 たった「 1 」という単位でこんなに長いんだから、何億バーセクも離れている星の距離はもっとすこい。

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ことをお知らせします。」キース・ヘリング 時制がわからなくなってきた。いったい彼は何を云ってるんだろう。「死ぬということ」を「知らせ」る とは ? それは、だれか。どこに立っているのか。「いすれ」、それはいつのこと ? プランク時間は、宇宙 が誕生してから重力が生まれるまで、つまり「無」から「有」になるまでかかった時間だ。それ以前の 宇宙を、ヒトは決して観測することができないという。宇宙誕生という果てしない過去や、キースの死 の予告 ( 告知による ) という未来は、見えない時制の象徴だ。 今日からヨーロッパ 11 カ国で、ローマ帝国以来の単一通貨「ユーロ ( EIJ 日 O ) 」が導入された。 2002 年には、フランやマルクは完全に姿を消してしまう。今日、消滅が決定した横浜フリューゲルス が最後の試合 ( 天皇杯全日本サッカー選手権 ) を優勝で飾った。年末の TV では「ノストラダムスの大 予言」の話で持ち切りだ。大阪の市外局番が 4 ケタになった。携帯電話や PHS は 1 1 ケタだ。ブラック ホールの様相は、まるでビックバンから始まる宇宙の創世劇を逆回しにしたようなものらしい。日本 では金融界でビッグバンが始まったばかり。デフレの恐怖だってまだまだ拭えない。 20 世紀最大の落 とし穴 ( ブラックホール ) にはまってしまったのは、全く不確定なボクらなのかもしれない。来るべき 2 1 世紀。 「終わりに行き着くまでお行きなさい。そして、止まりなさい。」ルイス・キャロル ☆ 西暦 1 999 年 1 月 1 日 ( 金 ) / 平成 1 1 年 1 月 1 日 ( 金 ) ( なすたかゆき・倉敷市立美術館 )

10. Keith Haring

かしながら、 80 年代の貪欲な美術市場は、アヴァンギャルドの生命力が停止するという困った事態に 追い込まれて、「ストリート・アーティストたち」のなかでも最も洗練された連中をも取り込んだ。そ れが、ジャン = ミシェル・バスキアのようなグラフィティ・アーティストたちをマーケットの主流に取り 込み、またキース・ヘリングの多芸多才な役割演技を許容したのである。もっと詳細に見ることにしよう。 一人のアーティストの発展過程を判断するとき、晩年の作品の予兆として、修業時代の研究をす ることは普通になされている。ヘリングは成熟した様式に達するほど充分長く生きなかった。それでも、 学生時代の作品を見て、彼の名と同一視されるようになり、またニューヨーカーが毎朝、地下鉄のプ ラットホームで電車を待っているとき眼にするような、漫画もどきのくっきりした絵画を予見すること は困難である。ヘリングの初期の作品、特に、「学生のボートフォリオ」のような作品には、エレガント で簡潔、ペインタリーな抽象や、陰翳に富んだコラージュ、バウル・クレーに似ていなくもない微妙な 形象を含んでいる。一方、パフォーマンスやコンセプチュアル・アートに対する彼の冒険、特に、語順 の並べ替えや、もっと後の、新聞の見出しの改変などは、様式とは言えないまでも、少なくとも、地下 鉄作品の背後にある精神的傾向を予告している。地下鉄のヘリングのイメージは、隣にある広告のメ ッセージの注釈になっているし、またそれと混同させるものともなっている。 ここで形式に関して注意しておくことが有用かもしれない。伝統的な都市グラフィティ ( 古代ロー マにおけると同じく現代ニューヨークでも ) は壁全体に繰り広げられる傾向がある。そうでなければ、 公衆トイレや公衆電話のブースの断片的な壁に押し込まれる傾向があるものだ。しかしへリングは自 ら限定した、はっきり区切られた表面を好む。地下鉄広告板の既成の枠のような表面を好むのである。 ( 立 体的な形態に描くときでさえ、彼は視覚的にも概念的にも明確ではっきりしたものを選ぶ。つまり眼 鏡のフレームだとか、キッチン・トースター、ミケランジェロのダヴィデ像の複製だとかである ) 。 ヘリングの様式は視覚的に、見ればすぐにそれと分る。キャンペーンの空白時、期限切れの広告 スペースに普通用いられる、黒いシートの上に白のチョークで描くのが彼の典型である。フルカラー のきらびやかなポスター広告に負けないように、彼は幅のある連続する線を用い、身振りによる偶発 的効果とは無縁の、簡明で単純な構成を目指した。それは都市グラフィティの衝動的で常軌を逸した 構成とはそんなにかけ離れたものではなかった。そのうち、 ( そして晩年になるとますますそうなる のだが ) 絵画構造は込み入ったものになった。それらはます抽象的な背景として表われ、そこでは、図 像や記号が混乱した衝撃の中に合流する。以前の様式が、走っている地下鉄の電車に座っている人 の眼によって捉えられるとすれば、後の様式は、電車の到着をプラットフォームで待っている人の精神 状態に合っているように思える。 これらの条件、そしてヘリングの持続する競争心、そして既存の広告の役割を簒奪することなど が彼の様式の本質であった。この理由で、彼は最終的に自分のカでグラフィック・デザイナーとして広 く成功したのである。彼は大衆からすぐにそれと認められる様式を持った唯一のグラフィック・デザイ ナーだったと私は思う。核兵器廃棄、アバルトヘイトの告発、あるいはゲイの権利闘争を支持する数 えきれないほどのボスターやステッカー、公共広告などのデザイナーとしてである。 幾度となく言われているように、地下鉄のボスターはヘリングの世代の最も重要な視覚メディア と似ている。つまりテレビ画面と漫画の枠である。しかし、それはまた、ルネサンス以来絵画制作の歴 史の中で最も普通の形式をも髣髴させる。すなわちキャンヴァスである。それは何故ヘリングが、 80 年代の既存の美術市場へいとも容易く参入できたかを部分的に説明するものであろう。それは大体 において、絵画の市場であった。 この文脈においてはジャン = ミシェル・バスキアとの比較が有用かも知れない。バスキアの絵画 様式には、個人的筆記体の身振りによる傾向とこっそりと手早く遂行される「芸術破壊的」性格が感じ られる。結局のところ、バスキアはカンヴァスで戦闘隊形をとった。彼はそれを常軌を逸した記号で 覆い、強情なまでに恣意的なやり方で構成した。ちょうど、校庭の壁に書き殴られたグラフィティのよ うであった。しかし地下鉄のヘリングのイメージは、すでに形の整った絵画のように見えた。 ヘリングの造形言語はグラフィテイからではなく、コミックプックから来ている。その特有のイデ イオムから、物語を構成するという考えを彼は採用した。しばしば連続した「枠」を使用して、それは「英 雄」と記号、つまり吠える犬、「光輝く子供」、空飛ぶ円盤、しゃべるテレビ画面といった記号の簡潔な レバートリーによって、物語られる。またいくつかの重要な視覚的慣行も、漫画から来ている。例えば、