イン、そして巨大ハンバーガーやホットドッグを布やビニールで作り上げたクレス・オルデンバーグなど、 ボップ・アーティストたちは消費社会、大量生産、マスメディアのカ、大衆文化などに注目した作品を 制作した。彼らがモチーフにしたものは、聖書にでてくる一場面でも幾何学模様でもなく、アメリカ人 がひと目見て「なにか」わかるイメージだ。そしてこのボップ・アートの舞台となったのがニューヨー クだった。ヘリングが目指した、大衆のなかから生まれ、大衆に支持されたアートが生まれる下地は、 先輩アーティストたちによってすでにこの地に築かれていたのである。 1969 年、人類初の月面着陸を果たしたアメリカはますますテクノロジー大国として成長していく。 しかし 1973 年にベトナムから完全撤退し、ナバーム弾や細菌兵器などの後遺症が生々しく報道され、 1979 年にスリーマイル島での原発事故が起こると、人々のなかにはテクノロジーへの不信、しいては アメリカ社会そのものへの不信が増大していった。 ( スリーマイル島はカツッタウンから 80 キロほど しか離れていない。 1982 年マンハッタンのセントラル・バークで行われた反核集会に、ヘリングは 2 万 枚のポスターを自費制作、無料配市している。 ) 消費社会に代表されるアメリカ文化を真っ向から批判するのではなく、客観的にそれを楽しんでい る感のあったポップ・アート。しかしそれとは対照的に、芸術作品までもが単なる売買の対象になるの を拒むアーティストもこの時代には出現した。「これなら買えないだろう ! 壁にもかけられないだろう ! 」 とはかりに、ユタ州の原始的な風景のなかにある湖に、石や土で巨大な螺旋状の突堤を作ったロバート・ スミッソン ( 彼もやはり 18 才でニューヨークに移り住んで以来、亡くなるまでこの街の住人だった ) 、 ヴィト・アコンチはニューヨークの画廊に作られた仮設の床下で自慰をし、その上を観客が歩くという「作 品」を発表。現代社会の複雑さや矛盾を、常識とナンセンスな言葉を組み合わせて表すジェニー・ホ ルツアーは、「テクノロジーは我々を幸福にするかあるいは破滅する」「人殺しは避けられないことで はあるが、自慢することではない」などの文章を、ゲリラ的にマンハッタンの至る所に貼り付けた。 1977 年のことである。画廊や美術館など、既成のアート界の機構からはみだそうと試みるアーティス トたちの精神は、彼らの次の世代であるヘリングにも脈々と引き継がれていくことになる。 1980 年代ニューヨーク事情 世界 7 大銀行のうち 6 行の本店があるニューヨーク。同時にここには、世界で最も多い 9 万人ものホ ームレスがいると言われている。建築当初は世界一の高さを誇ったワールドトレード・センターを筆 頭に、摩天楼の建ち並ぶこの街では、 80 カ国以上もの言語が日常的に話されている。その数だけ異 なった文化が存在するということだ。ここはあらゆるものの存在を許容すると同時に、それらを無視 する、あるいは踏み潰す巨大な力も存在する。しかもその両方が途方もないスピードで繰り返されて いる。ジェットコースターで迷宮を走る感覚。そのスリルにとりつかれた人々がニューヨーカーだと いえるだろう。そしてヘリングがここに住んだ ' 80 年代とは、ジェットコースターの高低の差が最大限 に広がった時代でもあった。 60 年、 70 年代、アメリカ人の心の中にはどこか母国への不信感が存在していた。それを一掃するか のように 80 年代初頭、レーガン大統領は「新たなるアメリカン・ドリームの夜明け」ともいえるスロー ガンを打ち出す。アメリカ批判に疲れを見せ初めていた人々にこのキャンペーンは受け入れられ、し かも 50 年代以来の好景気も手伝って、この国、特にニューヨークは狂乱の時代を迎えることになる。 20 才代で年間数千万円も稼ぐャッピーたちがウォール・ストリートに誕生し、 1 年間で家庭でのパソ コン所有数が 3 倍になり、ゴッホの作品が最高値で競売された時代。その一方、貧富の差はますます広 がり、犯罪は増加し、ホームレスが溢れ、ドラッグの売人がたむろし、昼間でも足を踏み入れられない ほど危険な地域があるというのが、この街のもうーっの現実であった。 ' 80 年代には MTV が開局し、さまざまな人々の嗜好 ( 性的なものをも含んで ) を満たすクラブが至る 所に店を開いた。労働者階級の居住区にすら、「ニュー・リッチ」のコレクター目当ての画廊が、ピーク 時には 50 件以上も出現している。まるで雑草にように、新しいものが思わぬところから現われては勢 いよく育っていった時代である。 アメリカ人は自己主張が強い。それはワスプと比較して、一般的には地位も経済力にも恵まれない 黒人やヒスパニック ( 南米系の人々 ) など、マイノリティーの人々とて同様だ。巨大な力に押さえつけ られれば押さえつけられるほど、そのプレッシャーをエネルギーに変えて自らの存在を主張していく。
しかしニューヨークの美術館や美術評論家達、いわゆるエリート・アート界のヘリングに対する態度 ・「しよせんストリート・キッドの落書き」「ニュー・リッチが見つけだした珍奇な商品」 は冷たかった・ あるいは「コマーシャル・アーティストにすきない」と、非難するか無視し続けたのである。ヘリング同 様白人で、しかもニューヨークのアヴァンギャルドなクラブ文化をアメリカの大衆に広めたマドンナが、数々 の爆発的なヒット曲を出しながらも MTV 放映禁止、グラミー賞落選など、文化人からは総攻撃を受け た現象とそれはよく似ている。 1986 年、ヘリング・グッズを売る「ボップ・ショップ」が、彼自身の手で ダウンタウンに開店されたとき、その非難はピークに達した。 ボップ・ショップ開店 名声と経済的な成功を目一杯楽しむと同時に、ヘリングは自分自身と作品が「世の中の一員として 積極的にそれに参加」することを常に望んでいた。学校や病院などに壁画を描き、アンチ・ドラッグの メッセージをグラフィティーで伝え、アフリカの飢餓救済、文盲や工イズ撲滅のためのポスターを描き、 そして大勢の子供たちを招いて世界中でワークショップを開いている。こういった活動のほとんどは 無報酬、ときには制作費すら自前だった。彼の作品の値段が上昇し、それを購買できる層の人達だけ に作品が見られるのではなく、もっと多くの大衆にもなんらかのインバクトを与えうる手段を彼は考 えていたのだ。安価なバッジや T シャツを売る「ボップ・ショップ」開店は、その手段のひとつであった。 もうひとつの理由は「贋作」にある。すでに 1983 年ころからヨーロッパやオーストラリア、そして特 に日本で「キース・ヘリング」と称する作品やグッズが出没し始めた。こういった現象に対抗するには、 通常ニつの手段がある。著作権を主張して贋作をたたき潰すか、あるいは有名税だとあきらめるか。 ところがヘリングは、第三の答えをだした。偽物がでるなら、それ以上に多くの本物を世の中に出すと いう方法である。言い換えれば、偽物と本物、どちらを選ぶかはそれを求める私たちの鑑識眼に委ね るということだ。但しそれは、「大衆にアートはわからない」と心の底では思っている多くのエリート・ アート界の住人にとっては、ヘリング非難の好材料となったのである。 余談になるが・・・私の友人で、無農薬無添加、野菜中心の食事を心掛けている人がいる。ある日そ の人が、「うちの子は体に悪いものばっかりを食べて困る」と私にほやいたことがある。そのとき友人 の子供が「『悪い』ものを食べても生き残れる大人になりたい」と答えたのを、ヘリングの人生を省 みてふと思いだした。純粋培養されたのが伝統的なアーティストとするなら、ボップ・アーティストた ちは、自分がそれを食べるかどうかは別として、「悪いもの」を大量生産した連中だ。そしてそれを日 常食として育ったのが、ヘリングや彼の年代の人々である。彼らは、純粋培養人間たちが毛嫌いする 物ですら滋養に変えて生きていくミュータントなのかもしれない・・・少なくとも、ニューヨークの文化 人にはそう見えた。ミュータントは私たちの存在を脅かすとばかりに、ヘリング批判はますます高まっ ていった。 ロンドンの CA ( 1982 年 ) 、サンフランシスコ近代美術館 ( 1984 年 ) 、ワシントンのハーシュホーン美 術館 ( 1984 年 ) 、デンマークのルイジアナ美術館 ( 1985 年 ) 、ワシントンのコーコラン美術館 ( 1986 年 ) 、 バリのボンピドウー・センター ( 1987 年 ) など、名高い美術館で次々とヘリングの作品は紹介されている。 しかしホイットニー美術館でのグループ展以外、 1988 年までに彼の作品を展示した美術館は、マンハ ッタンにはひとつもない。それは、良いも悪いもひっくるめて「ヘリング現象」があまりにもニューヨ ーク的であったがために、ニューヨーカー自身は認めたくなかったといわんばかりであった。 「人々の判断に委ねる」という考えのもとで「ボップ・ショップ」を開いたのは、地下鉄という「道場」 で人々の反応を直に感じていたヘリングの確信である。そして「無限の可能性を持っ赤ん坊」を自ら のタグとして用いたオプテイミスト、しかも「悪い」ものでも肥しにしてしまうリアリスト・ヘリングが なせた技でもある。彼の決断が正かったかどうかは、今後おのずとわかってくるだろう。ただ、彼の死 後 7 年目にホイットニー美術館で開かれた大回顧展のオープニング・バーティーには、 4000 人もの観 客が集った。これは同美術館開館以来、最も多い入場者数である。 工イス時代の到来 80 年代のニューヨークを語るとき、避けては通れない重大な要素に工イズがある。 70 年代後半に は「ゲイが罹る奇妙な病気」と言われた工イズは、新しい疾患として 1981 年に初めてアメリカで正式
1958 年 ペンシルべニア州のカツッタウンに生まれる。 1976-78 年 ピッツバーグに移る。 商業美術学校に短期間通学。 カーネギー美術館で、ピエール・アレシンスキーの絵画回顧展を見る。 ピッツバーグ・アート・センターで初個展、抽象的ドローイングを展示する。 1978-79 年 ニューヨーク市に移り、視覚芸術学校に通学。 22 番街のスタジオで、巨大な背景写真の上にペインティングし、通行人の感想を楽 しむ。その制作過程をヴィデオに撮る。 1980 年 セイント・マークス広場 57 の教会の地下にあるクラブ 57 でさまざまな展覧会を企画し、 パフォーマンスを行なう。 タイムズ・スクエア展覧会に参加。これはニューヨーク市で開催された新しい美術 の重要な展覧会であった。 空飛ぶ円盤の最初のドローイングを描く。地下鉄のドローイングに動物や人間のイ メージが表われる。 1981 年 ニューヨーク市の地下鉄の期限切れの広告板に貼られた黒い紙に初めてチョーク でドローイングする。 プラスティック製、あるいは金属製のファウンド・オブジェや庭園用の彫像にペイント グラフィティ・アーティストの L. A Ⅲ ( 工ンジェル・オリツツ ) と出会う。 ローワー・イースト・サイドの校庭の壁に初めて壁画を制作する。 ニューヨーク市のニューヨーク / ニュー・ウェーヴ展に出品。 クラブ 57 で個展。 マッド・クラブでドローイングとグラフィティ・アートの展覧会を企画。 する。 1983 年 て掲示された。 タイムズ・スクエアのビルボードのために、 30 秒アニメを制作。これは一ヶ月間続け カッセル ( ドイツ ) のドクメンタ 7 に出品。 これが始めて。 ニューヨーク市のトニー・シャフラツツィ・ギャラリーで個展。ギャラリーでの個展は 防水シートの絵画を始める。 L. A 』と共同制作。 1982 年 ホイットニー・ビエンナーレとサンバウロ・ビエンナーレに出品。 浜辺のヘリング◎ The Estate Of Keith Haring ーユーヨーク市のファン・ギャラリー、ロンドンのロバート・フレイザー・ギャラリー 東京のギャルリー・ワタリで、グラフィティ・アーティスト L. A Ⅲと共同制作展。 キャンヴァスによる絵画を描き始める。 1985 年 チューリヒのビック店のために 60 秒のアニメを制作。 ッタンで、壁画を制作。 シドニー、メルボルン、リオ・デ・ジャネイロ、ドブス・フェリーミネアボリス、マンハ 1984 年 アンディ・ウォーホルと出会う。 トニー・シャフラツツィ・ギャラリーで 2 回目の個展。 バリ・ビエンナーレに出品。 ボルドーの現代美術館で個展。 色彩の彫刻展を同時開催。 トニー・シャフラツツィ・ギャラリーで絵画展、レオ・キャステリ・ギャラリーで明るい 2 月 16 日工イズで死去。 1990 年 アントワープのギャラリー 121 で個展開催。 である。 キース・ヘリング財団を設立。これは広範な社会問題に寄与しようとする慈善組織 制作。 モナコ、シカゴ、ニューヨーク、アイオワで壁画を制作。ピサの修道院外壁に壁画を 工イズを正しく認識するための広範な運動に参加。 1989 年 ーで個展。 デュッセルドルフのハンス・マイヤー・ギャラリーとトニー・シャフラツツィ・ギャラリ マンハッタンのヒューストン通りの FD 日ドライヴに壁画を制作。 れをワシントンの子供病院に寄贈する。 ホワイト・ハウスの芝生に建てられた壁に、「ホワイト・ハウスの復活祭」を描き、そ シカゴとアトランタで子供たちと壁画を制作し、ワークショップを開催。 東京にボップ・ショップを開店。 1988 年 東京で道路標識をデザインする。 デュッセルドルフ、バリ、アントワープ、ノッケで壁画制作。 スティーヴン・レイチャード企画の慈善展覧会、「エイズに対抗する美術」展に出品。 画を展示。 トニー・シャフラツツィ・ギャラリーでペイントされた鉄仮面とキャンヴァスによる絵 ヘルシンキ、アントワープ、ベルギーのノッケでそれぞれ個展開催。 1987 年 ビルボードでジェニー・ホルツアーとそれぞれ共同制作。 「フォールト・ライン」でブライアン・ガイシンと、ウィーン・フェスティヴァル ' 86 の ない」のためのものだった。 グレイス・ジョーンズにボディ・ペインティング。これは彼女のヴィデオ「私は完全で バリ、フェニックス、アリゾナで壁画制作。 壁画クラック・イズ・ワックを制作。ベルリンの壁に壁画を描く。またアムステルダム、 ヘリングの商品とマルテイプルを販売する店、ボップ・ショップを開店。 ニューヨーク市のハマースク・ジョルド・プラザに 3 点の巨大な彫刻を設置する。 アムステルダムの市立美術館で個展開催。 地下鉄のドローイングを中止する。 1986 年 スウォッチ社 ( IJSA ) の腕時計 4 個デザインする。 自由南アフリカのポスターを 2 万枚刷り、配布する。 ニューヨーク市のバラデイウムのために、 750x950cm のバックドロップを描く。 マルセイユのナティナル舞踏団の「天国と地獄の結婚」の舞台をデザインする。 する。 ニューヨークのブルックリン音楽アカデミーで「甘き土曜の夜」の第台をデザイン
摩天楼を駆け抜けた男 福のり子 「ニューヨーク・イズ・アート」と書かれたボスターが、ニューヨークの玄関、ケネディー国際空港の いたるとこに貼られている。ここに降り立った人々を「ニューヨークはアートだ」と自信たつぶりの言 葉でこの街は迎えているのだ。こう主張するだけあって、南北 24 キロメートル、東西 4 キロメートル、 総面積が淡路島の 10 分の 1 という小さなマンハッタン島には、メトリボリタン美術館やニューヨーク 近代美術館を始め、世界に名だたる美術、博物館が 60 館もあり、画廊の数は数百軒にものぼる。 この街にかかわった著名なアーティストも多い。たとえば、既製の便器をそのまま「泉」と題して作 品にしてしまったマルセル・デュシャン、ジャズに惹かれ、マンハッタンの格子状の通りを絵にして「ブ ロードウェイ・ブギウギ」と名付けたモンドリアン。アクション・ペインティングの巨匠ジャクソン・ポロ ック、アメリカ国旗や地図を絵画のモチーフにしたジャスパー・ジョーンズ、そしてマリリン・モンロー やキャンベル・スープ缶のラベルなど、大衆的なイメージを版画で量産することでそれをより大衆化 させたアンディ・ウォーホルなどである。ここにあげたアーティストたちはだれもニューヨーク生まれ、 あるいは育ちではない。この街にはアーティストあるいはそれをめざす人々が、全世界からやってくる。 ニューヨークという街のなにかが、彼らを魅了するのだ。 キース・ヘリングも、この街の魅力にとりつかれた一人であった。しかも彼の存在や活動そして作品は、 ツアイトガイストのことく、 80 年代のニューヨークの空気を見事に伝えている。ヘリングを知るためには、 私たち自身もこの時代とこの街に、一歩足を踏み入れなくてはならないだろう。 とうもろこし畑をぬけ出して ] 958 年、キース・ヘリングは、ペンシルべニア州レディングの病院で生まれた ( そのとき、父アレン は海兵隊の一員として日本に駐屯していた ) 。ヘリングがこの町で生まれたのは、実家のあったカツツ タウンに大きな病院がなかったからだ。ペンシルべニアといえば、映画「目撃者」にでてくるアー シュの人たちののどかな生活、美しい田園風景を思いおこす。彼の育った、そして祖父母の時代から ヘリング家のあったカツッタウン周辺にも、とうもろこし畑が広がっている。多くの住民はワスプ ( 白人、 アングロサクソン、プロテスタントの総称。初期アメリカ移民の子孫で、この国の主流派 ) で、保守、中 産階級の価値観が支配する典型的な田舎町だ。 1958 年といえばアメリカの人工衛星が初めて打ち上げられた年。翌年にはベトナム戦争が始まり、 その後 10 年以上にもおよんでこの国は、彼ら自身が「最も震名誉な戦争」と呼ぶ戦いにドプリと首 までつかっていく。その結果 ' 60 年代には反戦運動がもりあ力、り、ヒッピーが生まれ、そういった状況の 中で、カウンター・カルチャー ( 反主流派の文化 ) も芽生た。それと並行して、世界最強のテクノロジ ーを誇る、世界最大の消費国家としてアメリカは育っていくのである。 日曜画家であった父の影響、そしてディズニー漫画などに興味を持ったヘリングは、幼いころから常 に絵を描く少年だった。しかし暖かい家庭で平凡な幼少時代を送った彼も、ティーンエイジャーにな ると、静かな、だからこそ退屈なカツッタウンに我慢できなくなる。禁欲的で厳格、そして排他的なワ スプの社会からのがれ、もっと広い外の世界をみるために、ロングへアーのヘリングは家出、商業美 術専門大学を中退、ヒッチハイクによるアメリカ横断などを経て、 1978 年、 20 才のとき、ついにマンハ ッタンに足を踏み入れたのである。当時を振り返って、彼はこう語っている。 「ニューヨークしかなかったんだよ。そこは僕が緊張感をみつけだせる唯一の場所。僕のアートの ためにも、そして人生のためにも強烈ななにかが必要だったんだ」 ( 1 ) 。 ボップ・アートを背景に育つ ℃ 0 年代の世界のアート界における最も重要な動きのひとつに、ボップ・アートがあげられる。ウォー ホルをはじめ、印刷の粒子を拡大描写するという技法で漫画のひとこまを描いたロイ・リキテンスタ
ヒューストン通りの壁画、ニューヨーク 1982 年す Martha Cooper
パラダイス・ガレージ閉店の夜、ニューヨーク 1987 年 ( 0 ) The Estate of Keith Haring
Plates E [ 40 ト ( H 0 0 U AMEL ヒューストン通りの壁画、ニューヨーク、制作中のヘリング 1982 年◎ Martha Cooper
モントルー・ジャズ・フェスティヴァルのポスターを制作中のヘリングとウォーホル、ニューヨークのヘリングのスタジオ 1987 年 Photo: Pierre Keller 「「ミこ三
に報告された。そしてそれがヒト免疫不全ウイルスの感染によるものだと判明したとき、ニューヨーク に戦慄が走った。 1984 年のことである。 従来この国でゲイは精神病者として扱われ、しかもいくつかの州では未だにホモセクシュアリティー は法律で禁じられている。「子孫をふやせ」という聖書の教えに背くゲイの人々は、宗教的にも背徳 者とされてきた。彼らはアメリカ社会から排除された、もうひとつのマイノリティーだ。アート界のス ター、ウォーホルでさえ自分がゲイであることを最後まで公に認めなかったのには、こうした社会的背 景があったからだろう。 1969 年に、ひとつの事件が起こった。マンハッタンにあるゲイ・バー「ストーン・ウォール・イン」に 警察の手入れが入ったのだ。いつもなら外聞を恐れて黙って立ち去ったゲイの人々は、その夜、まっ たく違う行動にでた。警察を逆襲し追い払い、そしてその後 3 日間、官憲の不当な弾圧に抗議する仲 間がこの周辺に何百人と集結。数日後には「ゲイ解放戦線」が結成され、ゲイの市民権獲得運動は火 ぶたを切り、それは全米へと広がっていったのである。 70 年代に入ると、アメリカ精神病学会の発表する精神病リスト、そしてニューヨークを初めとする幾 つかの州の法律の罰則枠からもホモセクシュアリティーは削除された。抑圧から解放された多くのゲ イは自らの性的嗜好を謳歌し、それはその時代の現象あるいは文化と呼べるほどまでに花開いたの である。ゲイ・バーやレザー・クラブ、あるいは「バス」と呼ばれる、男性だけが入浴できる公衆浴場な どがマンハッタンのダウンタウンにたくさん出現した。 当時、多くのゲイは一人の相手ではなく、複数のバートナーと性交渉を持っていた。一人が何百人も の相手と寝ることもあったと言われている。「一夫ー婦制」をも含む従来のあらゆる性的価値観に反 対するという意味からか、あるいは美少年への愛がゲイの起源だと言われる彼らが次々と「少年」を 求めて愛の遍歴を重ねたのか、理由は定かではない。ゲイであることを公にしていたヘリングも、 時は毎夜クラブやバスに出掛けた一人であった。「夜の出来事を、昼に関連させていた」と当時を振 り返る彼が学生時代描いた作品のモチーフの多くは、男性性器である。 ( 12 ) 工イズはゲイだけの病気ではない。しかし不特定多数の人々と性的関係を持っていたゲイ、そして ゲイが大勢いたニューヨークの、特に芸術関係者たちは、この病気が血液や性交渉によって感染する しんかい ことが判明したとき震駭した。一時はあれほどの隆盛をみせた性的な店は次々と姿を消し、フリーセ ックスはびたりと影を潜めた。アート界では多くの人たちがこの病気に冒され、亡くなっていった。時 を移さす、彼らを助け、人権を守り、治療対策の向上や予防を訴えるための様々な活動がアーティス トたち自身の手によって開始された。世界初の工イズの NPO ( 非営利団体 ) 「アクト・アップ」や、「 Day without A 「 t ( 工イズ・デー ) 」を全世界に広めた「ビジュアル・エイズ」などが次々と設立され ていったのである。 ニューヨークは不思議な街だ。徹底的に個人主義を追及する大都会の冷たさと合理性を持つ一方、 ある濃厚な共同体験を持てば、一瞬のうちにそれは「村的」精神を発揮する。ある意味では、その共 同体意識の強さがヒップ・ホップ・カルチャーを生み、そして工イズ危機への見事な、かつ人間味溢れ る対応を可能にせしめたのである。 80 年代半ば、工イズが引き起こしたカタストロフィー的状況が、アーティストの制作に影響を及ほさ ないはすはなかった。理論や思考というよりは、直感的にしかも日常生活のすべてを包括した作品を 描いてきたヘリングもその一人だ。 1 985 年以降の作品には、彼のトレードマークである漫画チックな モチーフのなかに、グロテスクな要素が多く現われるようになってくる。 ( カタログ 96-97 , 1 18-119 頁 ) ニューヨークを生きぬいて 1988 年、ヘリング自身も工イズを発病した。彼はそのことを翌年 8 月「ローリング・ストーン」誌のイ ンタビューで公にしている。 1987 年 10 月、ウォール・ストリートの株が大暴落し、狂乱の時代はあっけなく幕を閉じた。ジェットコ ースターが急降下し始めたのだ。多くの画廊は店を閉じ、アート市場の急騰に伴って、街頭からギャラ リーに移ったグラフィティー・アーティストの多くも姿を消した。そういう状況にも拘わらず、死を暗示 するインタビューを掲載した雑誌が出版された直後から、ヘリングの作品の値段は急上昇している。 同時に、彼と親交のあった有名人のなかには、ヘリングとの関係を詮索されるのを怖がってか、ある
動いている形象の周りに施される運動を示す線、そしてもっと際立っているのは、物語の鍵となる登 場人物を示す「光線」である。 しかしこれらの慣行は必ずしもコードと一致しているわけではない。コミックプックのイディオムは、 純粋なヘリング特有の形としては、作品に入り込まなかった。それはボップアートを経由して来、した がって彼の作品はモダニズムの美術として、鍵となる表現の特質を保持している。つまり、それらは 極めて曖昧なのである。それらはロールシャッハ・テストのイメージに似ている。それらはともかくわ れわれがイメージに与えたいと思っている意味をそのまま意味している。普通の漫画と違って、ヘリ ングの物語では「悪役」を見つけようと思っても無駄である。恐るべき獣が ( 襲ってくる ) 捕食獣でも あり、また食料をも意味する旧石器時代の洞窟絵画と同じく、ヘリングの吠える犬も、巨大なヘビも、 妊娠中の大女も、すべてそんな感じである。同じように、ある文脈では共感できそうな記号も、別の文 脈では、不吉なものに変化する。つねに存在するべニスがまさにそうである。ディズニーのキャラク ターのように可愛いときもあるが、核ミサイルのように威嚇的にもなる。 ヘリングの署名「落書き」はアバートの壁全体を覆うこともあれば、名声が高まるに連れ、病院の 正面から、巨大な拡がりを見せるべルリンの壁にまで及んだ。最後にヘリングは、グラフィティ・アーテ イスト、伝道者、「ファイン・アーティスト」といった役割に加えて、美術館や大学、政府機関と協力して、 自ら制作を買って出るアーティストとしての役割をも担った。これら一見して矛盾する役割が、まさに ヘリングの最もおもしろいところである。 ヘリングの白と黒の様式が彼の署名として知られるようになったけれども、彼は熱狂的で見事な 色彩家であった。それは明らかに「高級美術」の伝統に位置づけることができる。彼の図像作品の幾 つかは、マティスのカットアウトが持っている優雅な拡がりを見せている。バリのネッカー子供病院の ための作品 ( 1987 年 ) は、レジェの壁画が持っている力強い都会の優雅さを見せている。そしてしば しば、特に彼の晩年の作品では、光り輝く子供、テレビ画面、そして空飛ぶ円盤などの宇宙が、オールド・ マスターの芸術が持っているイメージと置き換わっている。すなわち聖セバスチャンの苦悩、モーゼ と燃える柴、あるいは地獄の炎などである。ニューヨークにあるゲイとレスビアンのコミュニティ・セ ンターの壁画 ( 1989 年 ) では、猥褻な公衆トイレのグラフィティが、古典美術のアルカディア ( 理想郷 ) と一体となっている。ヘリングは浴場と男子トイレでの匿名のセックスという失われた黄金時代を再 創造するが、それは工イズによって中断された。 キース・ヘリング、この典型的な最もアメリカ的な若者は、 70 年代後半にペンシルべニアの田舎から 逃れて、ニューヨークの地下文化を深く徹底的に探求した。およそ 1 0 年後、名声の絶頂期にあって、彼 は工イズに倒れた。彼を追悼する式はペーター = バウル・ルーベンスの地位にあるアーティストに相 応しいものだった。それは大きな社会的事件であった。金持ち、有名人がこそって列席した。ロックの スターたち、美術界のプリマドンナたち、経済界の大君たち、ファッション・モデルたち、それにニュー ヨーク市長である。 さまざまな意味で、バスキアとヘリングの経歴は、 80 年代の美術界におけるアーティストの、変わ りつつあるがまだ決まっていない地位を顕わにした。バスキア、この「本物の」グラフィティ・アーティ ストの方が、結局のところ、ヴァン・ゴッホのボストモダン版であるヘリングよりも、手際よく画家の役 割をまっとうした。ドラッグをやりすきて、彼は若くして死んだけれど、金持ちだった。彼は失敗の犠牲 者ではなく、おそらく名声の犠牲者だったのである。 ヘリングははっきり理解するのが困難なアーティストであった。彼は洞窟絵画の領域と広告に対 する過剰なまでの自意識を、ニューヨークの地下鉄に導入した。彼の政治的ボスターは、プロバガン ダ芸術の伝統にイデオロギー的最新版を提供した。アクト・アップのような新たな機関の手で、それ が変容することを暗示した。彼の絵画は世界中の主な美術館によって収蔵され、そしておそらく、こっ ちの方がはるかに一般的になっているが、キース・ヘリングの T シャツやボタン、ステッカー、おもちゃ、 腕時計、カレンダーなどの広範囲に渡る目録は、ポップ・ショップで売られている。これらニつのものは、 《オブジェ・ダール》の流行に予期せぬ捻れをもたらし、復活させた。しかし、これら一見してつじつま の合わない活動の舞台、つまり、グラフィティとプロバガンダ、「ファイン・アート」と商品といったもの から、ヘリングはこれ以上、歴史的に明確ではあり得ないもの、すなわち核破壊の脅威、民族紛争、工 0