162 「そうかもね、鼻のあたり。」 と言って人差し指で咲の鼻を押した。 別れた後、 「今までなんでばったり会うことなかったんだろう。」 と不思議そうに咲が言った。 「神様がもう会ってもいいって決めたんじゃない ? 」 私が一一 = ロうと、 「私はいつでも同じだってば。」 と彼女は言った。 「そういうものなのかな。」 「弟の人生だもん。どうでもいいよ。」 咲は笑って、 「でも、あの子は心配。頼りなげで、会った後ちょっと何かを後悔するみたいな気持ちに なっちゃうの。あいかわらずね。」 と一 = ロった。 「うん、いつも消えそうに歩いてく。もう会えないかも、といつも思う。」
「そうなんだ。」 私は言った。 かんべき 「もしかしたら、 2 人はそれはそれで完璧なのかもね。文句言いながら、疑問を持ちなが らやってくのかも。」 そうでないカップルのほうが少ないくらいだ。 「うーん、どうでしよう。普通の関係だったら、とうに別れているのかもしれない。」 萃が言った。 「お父さんのときはどうだったの ? 」 「貧乏で、思春期で、ぎらぎらしてて、下町で、母は行方知れず。ぐちゃぐちやで、頭も 少し混乱していて、何が正しいのか悪いのかさつばり分からなかった。エネルギーだけが ゝつばい、そこここにあった。父は好きなタイプだった。私のほうには罪悪感まるでなか った、と思う。父にはあったみたい。あのひと、でも、私に会わなくてもながくなかった。 会って、親密な時間を過ごすことができただけでもよかったと思ってる。」 「ちょっと親密すぎたんじゃない ? 」 Z 私が一一一一口うと、萃は笑った。 「そうかもね、でも私はそういうほうが肌に合ってるみたい。日本って、整然としてて、 善と悪が統一されてて、人の目を気にして、電車でやたら痴漢にあって、かと思うとすご
目を大きく見開いて萃は言った。 「私、怖いものなんて何もないけど、あれだけは別よ。いつも感じる。お父さんが死ぬ前 の部屋にもいた。気配があるの。邪悪な、運命のカみたいなもの、あの本からしみ出して くる。お父さんもそれで死んだ。私が生きているのは、それのせいなのかもしれないと思 うといやになる。あなたと会ったことも、こうしていることも。」 「それって、よくわかるんだけど、あの小説の力なの ? お父さんの才能なの ? 」 はいきょ 星空を仰ぐ。今まで知りあった人々の顔を思い浮かべる。廃墟のような建物のうえで、 異国の遺跡に腰かけているように。そう感じているのは私。私って ? いつもここで止まる。 「違うわ、お父さんなんて、ただの箱よ。国を捨てた流れものの日本人よ。あれがのりう つったのよ。お父さんが死んでもあれは消えなかったのよ。」 「それって、芸術と魂、とかの話 ? それとも : ・ 言いかけた私をさえぎった。 あくりよう 「それとも、のほう。知ってるでしよ。悪霊とか、呪いとか、悪い宿命のこと。私と乙彦 をどうしてもとどまらせる、悪い血みたいなもの。」 「そうなのかしら。」 私は言った。
いた。かなりの間沈黙があって、意外にも彼女はそのままの彼女を通した。 ししゃない、し 「ただ、話がしたかったのよ。それで、会える日をずっと待ってたの。いゝ、 ばらく話すくらい。冗談はきっかったかもしれないけど、ひどいことをしたわけじゃない でしよう ? ・私。」 「もう一声。」 私は笑った。 「いろいろと不安なことがあって、話のわかりそうな人に会いたかったの。」 彼女は微笑した。私に会うことに、彼女なりにこちらと同じく緊張していたことがやっ と伝わってきた。私はそういうのでやっと、話をしたりいっしょに時間を過ごせるかわか るような気がする時がある。第一印象が悪いこういう場合が特にそうだ。やっとあきらめ てついてゆく気になった。 「そう言ってくれれば、少しわかるわ。何となくだけど。」 と私はうなずいた。 そしてまたしばらく、黙って考えた。机のうえに広げたノートや、開けつばなしの窓、 飲みかけの麦茶、ほしつばなしの洗濯物。私の、マリーセレスト号みたいな部屋を何だか 、いっ帰れるかわからな 恋しく思った。さっきまでの自分が懐かしかった。このままじゃ いカら
160 く腕をからめて、「本当に久しぶり。」と言った。目に涙がにじんでいた。萃は本気で懐 かしいんだ、と私は思った。 「こら、お離しなさい。」 咲は笑った。あまりにも愛想がよすぎて社交だけという印象さえ与える、そのくらいき ちんと心のある笑顔だった。 萃は咲から離れると、すぐに普通の顔に戻って、 「大きくなっちゃって。」 と一一一一口った。 「乙彦はしよっちゅう見ているんだけど、あなたのほうは幼いイメージしかなくってね。 懐かしい、何だか自分でも驚くほど懐かしい。」 3 人で立っていた。ゆっくりと車が回り込んでくるロータリー 、バス停にならぶ行列、 何の変哲もない晴れたその午後の空間に、いろんなものが入っていた。複雑だったり、年 月がかかっていたりするもの。日本も外国も混ざった距離も。でもそんなことにはまるで 気づかずに、すれ違う人達がちょっと肩を触れたり、その声が私たちをさえぎったりした。 変な感じだった。どうして萃は泣いたりしたのだろう。許しあってしまったら、この人た ちはどうなっていくんだろう。そう、私はこの人たちと知りあってからまだ間もないのに、 こうやってばったり会うまでの双方を、ずっと子供のころから見てきたような錯覚にとら
「そうだな。」 Ⅱ「お父さんは : 酔っ払ってるときに決めた人生のほうを本当だと思ってるでしよう。と、幼児の頃から 言いたかった捨てぜりふを言おうとしたけれど、よした。 「仕事うまくいってる ? 」 「仕事はね、ずっといいようだよ。」 「て , っ : 娘と寝たいと思ったことある ? という質問はもっとしにくいのでやつばりよした。 「じゃ、また。」 「うん、おやすみなさい。」 しいことを話した 気を使って、何時間も話したみたいに疲れた。すごく多くのどうでもゝ ような。 父が家にいて、普通に会話していたときのことを思いだすことはできるのだが。手に取 るようなのに、実行できない。久しぶりにスケートやスキーをするときのように、体がっ していかない これが年月かな、と思った。私の心のほうは小さな子供のままで、でもも し会ったら彼の前には大人の女みたいなのが、母親もどきみたいなのが立っている。うま くいきっこない
140 私は萃が好きだったが、呼ばれないかぎり会いに行かなかったし、こちらからは電話も しなかった。自分でペースを作っていかないと、生活の中に平気で入ってきてしまいそう な人だし、そうなると萃のいない日々が怖くなってしまいそうな気がしたからだ。あの人 はそういう人だ。真夏の 1 、 2 週間は不思議だ。永遠に変わらないような陽射しの中で、 いろんなことが進展していたりする。人の心や、出来事。そうしているうちに、秋が牙を といでいる。時間がたたないなんて錯覚だったというふうに、ある朝突然冷たい風や高い 空で思い知る。 とにかく、目に見えないところで何かが進んでいた。萃はしよっちゅう電話をよこした。 熱い日に彼女の声を聞いていると、耳の奥から心が腐って行くような感じがした。もう末 期だな、というような響きがいつもあった。 そういうとき、よくあの夜の道端、月に照らされていた乙彦の顔が浮かんだ。 夜遅く、萃から電話があった。 ☆
「もういつばい水くれる ? 私は顔をしかめた。コップを受け取って乙彦が言った。 「どうして君に薬を飲ませるなんてひどいことをするんだ ? 何のために。」 少し怒った調子だった。そこに、彼なりの蓄積した疲れを感じた。 「死ぬつもりだったよ、萃。」 私は言った。 「やつばり。そういうふうに決めているのかな、といういやな予感がした。だから早く帰 のどもと ってきたんだ。でもいない。 心中しようっていう言葉が喉元まで出ていた。お互いにずつ とそのこと考えてたんだ。はたから見るとばかみたいだろうけど、その考えに取りつかれ たんだ、いつごろからか。それにしたって、何で 1 番好きな君をひどい目にあわせたりす るんだろ一つ ? 」 不思議そうだった。私は何となくわかる気がした。本気で、本当に本気で死のうと思っ ていて、乙彦が帰ってくる前でないとそれはできなくて、私に会いたくて、でもさとられ たくなくて、私を呼んでしまって、顔を見たらますますどうしていいかわからなくなって、 z 私を殺したいとまで思ったのかも知れない。でも、しなかった。あいだを取った。 「止めたよ、私。必死で、心から。」 私は言った。
ここにこうしているためだけに ? 乙彦とは終わってしまった。 終わった。長い時間をかけて。 モザイクみたいに乱れてごちやごちゃになった彼女の心は、死というひとつの一一一口葉に向 かって集約されつつあった。すごい勢いで、無音で。 「だめ、そんなの冗談にもならないわ。この夏、面白かったでしょ ? 笑ってたじゃない、 何度か、何もかも忘れて笑ったり泣いたりしたくせに。死んだら私、忘れちゃうよ、すぐ。 くやしいでしよう ? 」 私は弾丸のように言葉を紡いで、引き止めようとした。でも、心の回転とはうらはらに、 : この : ・・ : 死・・・・ : 」とか言ってるだけ 体はどんどんマヒしてゆき、届かなかった。「だ : ヾ , 」っ一」 0 萃はふらりと立ち上がり、私をちらっと見て玄関に向かっていった。私には本当にわか った。水晶のような透明度で、稲光みたいな発光で、確信が胸を刺した。 「もう二度と会うことはないのです。」 Z そう、思った。 後ろ姿が百合に似ていた。やつばり似てる、って言えばよかった、と後悔した。 そのとき、萃が振り向いた。 つむ
☆ 「そういえば、萃っていうひとに会って、仲良くなったよ。」 と一一 = ロ , っと、咲は、 と言って黙った。そして、 「なあんだ。」 と一一一一口った。 研究室でさばっている昼休み後のひとときだった。私は苦笑して立ち上がり、冷蔵庫か らもう 1 杯麦茶を注いだ。咲は仕方なくにこにこ笑っていた。ノースリープの黄色いワン ピースを着て、教授の椅子に座り、足を机のうえに投げ出していた。そんなふうに咲がい る風景は、私にとって慣れ親しんだものになりはじめていた。彼女と初めて会ったとき、 この研究室の窓から見えたのは梅雨景色だった。しかし、もうすっかり真夏だ。夏休みの 校舎に人はまばらで、となりの高校のプ 1 ルから歓声や水音が聞こえてきていた。あまり きかないし、しかも音がうるさいクーラーにいらだちながら、からからと氷を回して麦茶