咲 - みる会図書館


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1. N・P

8 月も下旬になったある午後、私と咲は映画を見た帰りに街中を歩いていた。お茶でも して帰ろうか、というところだった。 人通りが多いのになぜかひっそりとして感じられる駅前、絵画みたいに虹色をした噴水 と、ロータリーを通りすぎたあたり。踊る水の向こうに、例の心細い面影を透かし見た。 萃は特殊な空気を連れて歩いている。人混みの中にいてもすぐわかる。軽い足取りで、 ふらふらと歩いてゆく。 反射的に声をかけた。 咲が隣でぎよっとしたのがわかった。あ、と言った萃も、咲を見つけてきまり悪そうに z にたにた笑ってみせた。そしてこっちへ歩いてきた。 「久しぶり、コピーありがとう。」 咲がついこの間会ったひとに一一一一口うみたいに言った。とたん、萃は咲に抱きついた。きっ ひとご にじいろ

2. N・P

106 と咲が言って、みんなで大笑いをした。 それから、私は咲にコピーを渡した。いい の ? と彼女は言い、受け取った。ちょっと 見せて、と乙彦が言い、手に取ってしばらく読んだ。そして、 「すごく、 いい訳だね。」 と一『ロった。 「いいよ、これ。やるんならこれ以上のやりなよ、咲。」 咲がうなずいた。私は何だかどきどきした。庄司がむくわれたような気がした。 夕方になると乙彦は不意に時刻を確かめるように窓の外を見て、 「山山かける。」 と立ち上がった。 夕暮れが深まると、逢いたくなるのだろう、と推測した。きっと彼女の淡さと暗さが、 夜になりきれない街の、オパールのタ景に重なり合うのだ。消えてしまう前に捜し出さね ば、という気にさせるあの横顔。甘えと拒絶のコントラスト。 「じゃ、萃によろしく。」 と 2 人で見送った。咲がしようがないわね、あの子たちも、と言った。それから 2 人で

3. N・P

5 日目に、咲から電話がかかってきた。私はまだ寝ていたが、このところの癖で反射的 四にすごい速さで電話を取った。 「もしもし ? 」 「私、咲。」 と咲が言った。 「ああ、おはよう。」 「もう、昼過ぎだってば。聞いて、私、今、空港 ! 」 咲は言った。確かに電話の向こうからは空港独特のあのざわめきが伝わってきた。胸が ときめくような、緊張を含んだ昼の空港のざわめき。 「どこ行くの ? 」 「 Z ・の友達のところ。レポート書くための本とかもたくさん買ってこようと思って。」 「何でまた急に。」 私はたずねた。 「あの子がいなくなってから、乙彦が家にずっと暗くいるもので、いたたまれなくて。だ から、ちょっとね。」 「ひどい姉。」 「そう思ったら遊んでやって。」

4. N・P

「で、何で殴られたの。」 「勘違いだったみたいよ。」 「あいつ、本気で勘違いするからな : ・ 「聞いてないの ? 私に会ったこと。」 「うん、初耳。」 「そ , っ 0 」 咲はずっと黙ってコーヒーを飲んでいたが、言った。 「失礼なこと聞いていい ? 」 ししト小」 乙彦が言った。 「肉親と寝るのって、どういう感じ ? 」 咲は真顔できき、私は思わず笑った。乙彦も苦笑して、 「本当に失礼な質問で、びつくりしたよ。」 と一一一口った。 「こういうチャンスでもないと聞けないもの。めったに顔合わせないし。」 咲が言った。 「あんまり考えたことないんだ。実は。」

5. N・P

私は笑った。そして、ふとたずねた。 「そういえば、乙彦くんはどうしてるの ? 」 「何で ? 」 咲は言った。 「あれつきりみないから。」 咲は首を振った。 「女のところにいりびたりよ。」 「ああ、その、一緒に旅をしていたという。」 私は言った。 「そう。もう、どうなることかわからないわ。旅行に行く前よりひどいわ。」 咲は言った。 「悪いひとなの ? 」 「よくないわ。どう見ても悪化してるわ。」 「彼、夢中なのね。」 z それが女というものなのだろう、ちょっと淋しく思った。乙彦と話をしたのは、楽しか ったから。 ・ : 今度ちゃんと話すわ。」 「弟の恋路なんて、どうでもいいんだけど。

6. N・P

☆ 同じ学校のよしみで、私と咲はしよっちゅう一緒にいるようになった。夏休みも近く、 学生たちが試験期間に入って突然校内の人数が増えはじめる。 その日も、 2 人で学食にいた。 「いつもこの時期になると、ああ、ここって大学なんだなあって思わない ? 」 咲がコーヒーを飲みながら言った。 「うん、試験が人ごとで嬉しいなあって。」 私はオレンジジュ 1 スを飲んでいた。 「夏好き ? 」 「死ぬほど好き。いつも夏のことばっかり考えてる。」 「恋ね。」 「咲は ? ・」 「私は春が好き。でも、わかるわ。あなたのわくわくが伝わって来るもの。隣にいても。」 「暴力的に待ち遠しいのよ。」

7. N・P

162 「そうかもね、鼻のあたり。」 と言って人差し指で咲の鼻を押した。 別れた後、 「今までなんでばったり会うことなかったんだろう。」 と不思議そうに咲が言った。 「神様がもう会ってもいいって決めたんじゃない ? 」 私が一一 = ロうと、 「私はいつでも同じだってば。」 と彼女は言った。 「そういうものなのかな。」 「弟の人生だもん。どうでもいいよ。」 咲は笑って、 「でも、あの子は心配。頼りなげで、会った後ちょっと何かを後悔するみたいな気持ちに なっちゃうの。あいかわらずね。」 と一 = ロった。 「うん、いつも消えそうに歩いてく。もう会えないかも、といつも思う。」

8. N・P

「本人からもらったの ? 」 「そう。死ぬ前に匿名で僕あてに送りつけてきた。母には見せた。僕が持っているべきだ と一一一一口った。」 「萃が持っているのは ? 」 「咲に送ってきたやつだろ ? あれ、内容は同じだけど、萃の字だよ。おやじが寝てる間 に写したんだろ、多分。」 「そんな : あの日の萃を思いだした。 「言ってなかったのか。」 「じゃあ、それを持っていること、あなたは萃に言わなかったの ? 」 「一言えやしないよ。」 「咲には ? ・」 「言ってない。萃が見せるぶんにはよかったけど、他にも持ってるやつがいて、それが僕 や咲だったら、かわいそうすぎるじゃないか。あれだけが自分だけのおやじの、思い出な z んだよ。」 「そうだったの。知ってたの。」 私は、闇の中で父の原稿を書き写す、まだ十代前半の萃の姿を思い浮かべた。すぐに紙

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「女でパ 咲が笑った。 「何て簡潔でわかりやすい説明でしよう。」 私は言った。咲がジンジャーエールをコップに入れて出してくれた。 「ジン入り。」 「学校では飲まないものね。」 「節度あるわよね。私たち。」 咲は言った。床に座って飲んだ。甘くて、変においしかった。 「暑かった。」 私は言った。引いていく汗のところから酔いが回ってゆく感じがした。 しい部屋ね 「ありがとう。横浜の家にも呼びたいな。純日本家屋で、部屋がいつばいあるの。はじめ に日本にきたときいきなりそこでしよ、インテリアが合わなくってさあ。笑っちゃった。」 「そうでしようね。ぜひ今度。」 z 生まれ育ったところと違う国に住むのはどういう気持ちなんだろう。姉が結婚してから よく考える。その土地に物語の主人公として溶けていくのか、それとも心のどこかでいっ か帰ろうと思っているのか。

10. N・P

☆ 「そういえば、萃っていうひとに会って、仲良くなったよ。」 と一一 = ロ , っと、咲は、 と言って黙った。そして、 「なあんだ。」 と一一一一口った。 研究室でさばっている昼休み後のひとときだった。私は苦笑して立ち上がり、冷蔵庫か らもう 1 杯麦茶を注いだ。咲は仕方なくにこにこ笑っていた。ノースリープの黄色いワン ピースを着て、教授の椅子に座り、足を机のうえに投げ出していた。そんなふうに咲がい る風景は、私にとって慣れ親しんだものになりはじめていた。彼女と初めて会ったとき、 この研究室の窓から見えたのは梅雨景色だった。しかし、もうすっかり真夏だ。夏休みの 校舎に人はまばらで、となりの高校のプ 1 ルから歓声や水音が聞こえてきていた。あまり きかないし、しかも音がうるさいクーラーにいらだちながら、からからと氷を回して麦茶