て彼は出てきて、 「水をください。」 と言った。顔はますます青白く、目は真っ赤に血走っていた。 「あなた死にそうよ。」 とコップに水を注いで渡すと、彼はそれをごくごく飲んだ。 「こういう話あったつけ。 「なあに ? 」 「御礼に僕が水をたくさん出してやるんだっけ。砂漠で。ひしやくが出てきたつけ ? 金 貨だっけ。」 1 人でぶつぶつ言っていた。 「言いたいことわかったわ。おいしかったのね。もう 1 杯飲む ? 」 「サンキュー。」 「そこのソフアに座ってて。寝ててもいいわ。」 といって、もう 1 杯水をあげた。彼は黙ってまた飲みほした。静かになったら急に、外 のたたきつけるような雨音が聞こえてきた。雨はますます激しくなっていた。 「すまない。」 乙彦は言った。
「女でパ 咲が笑った。 「何て簡潔でわかりやすい説明でしよう。」 私は言った。咲がジンジャーエールをコップに入れて出してくれた。 「ジン入り。」 「学校では飲まないものね。」 「節度あるわよね。私たち。」 咲は言った。床に座って飲んだ。甘くて、変においしかった。 「暑かった。」 私は言った。引いていく汗のところから酔いが回ってゆく感じがした。 しい部屋ね 「ありがとう。横浜の家にも呼びたいな。純日本家屋で、部屋がいつばいあるの。はじめ に日本にきたときいきなりそこでしよ、インテリアが合わなくってさあ。笑っちゃった。」 「そうでしようね。ぜひ今度。」 z 生まれ育ったところと違う国に住むのはどういう気持ちなんだろう。姉が結婚してから よく考える。その土地に物語の主人公として溶けていくのか、それとも心のどこかでいっ か帰ろうと思っているのか。
ランチタイムで、レストランはとても混んでいた。私は川分の遅刻でかけこんだ。 1 人 で席について、母は紅茶を飲んでいた。紺のスーツを着て、きっちり化粧をして、窓の外 z を見ていた。何でだか未亡人っぱく見えた。昔から、そういう外見をしていた。 「お母さん。」 と声をかけると、こちらを向いて笑った。 久しぶりに母に会った。 2 か月ぶりくらいだっただろうか。 突然、「明日お昼一緒に食べない ? 」と電話で呼び出された。私たち以降、母は子供を 産まなかった。母の夫 ( というイメージしかない、一緒に住んだことがないから ) は雑誌 の編集長をしている。彼は初婚で、もちろん子供がいなかった。 3 人で住もうというのを 断った。時々後悔したり、申し訳なく思ったりする。後悔は、独り立ちなんて遅ければ遅 いだけいいような気がするとき。申し訳ないのは、そういう淋しそうな声の電話がきたと き。 ☆
「きっとすれちがったことあるわね。」 「時間ある ? お茶しない ? 」 彼が言った。時間はまだまだたつぶりあった。 「 , つん、 いい、わ 0 」 私は言った。 昼前のがらんとした喫茶店で、向かい合ってコーヒーを飲んだ。私にとって彼は物語の 中にしかいないはずの過去の人間で、こんなことがあるなんて思ってもみなかった。変な 感じだった。あらためてよく見ると、彼はずいぶん変わった。その、白いポロシャツや、 つるんとしたほほの印象とはまるで折り合わない、暗い目をしていた。はじめて会ったと きにはなかったものだった。 「乙彦さん、ずいぶん変わりましたね。」 「すごく年上の人のように思える。でも、実際は 2 っしか離れてないのよね。あなたのこ z となら何でも知ってるわ。」 「じゃ、君今、 「そうよ。」
114 私は言った。この人は住居に愛がないんだな、と思った。見たとおりの、箱のようにし か思ってないんじゃないかな。 「お茶のむ ? 」 彼女は言って台所に立ち、冷蔵庫から冷えたお茶をグラスに注いでくれた。飲んでみる と、どくだみ茶だった。 「おいしい ? 」 「ま、すい。」 「バイト先でもらってさ。 2 杯目はコーヒー淹れるわね。」 萃は笑った。 そしてキッチンテープルでエクレアを食べた。べランダにぶら下がっている風鈴が、う るさいくらいにちりちり揺れた。 彼女のアンバランスな存在感は、人を落ち着かなくさせる。そして 居心地が悪かった。 , そこが美点で、別れると何か言い残した気がして、また会いたくなる。 「見せたいものって ? 」 「ああそう、これ。この間のお礼に。」 萃はテープルのうえに置いてあった黄ばんだ紙束を、私に手渡した。 「何 ? ・」
55 N ・ P 「落ち着いたら話して。何を私に聞きたかったの ? 」 私は床に座ってそう言った。 「すぐに話す。うん、ちょっと待ってくれ : ・・ : 。」 「よくないことなの ? ・」 「僕はそう思うんだ : そう言って彼は目を閉じた。また雨音が際だち、窓が風でがたがた揺れた。ずうっと、 あらし 永遠に嵐が続くようなうるささだった。 「寝ないで。布いじゃない。」 私は乙彦を揺り起こした。 「うん、寝てない。コピーをとるんだ。まず、念のために。」 彼は言った。 「何ですって ? 」 「話目の。あの、男の人の形見の。」 「何で ? いやだー、怖いじゃない。待ってよ、眠らないで。」 私はもう 1 杯水をくんできて差し出し、 「ほら、お水飲んでしゃべって。」 と言った。彼はうなずいて一口のみ、
144 「あ、違う違う。」 ないたからすは、手を振って大笑いしながら弁解した。唇が笑いを形作って、ほっとし た。ひとが泣くのはいやだ。 「飲みながら来たのよ。」 「うわー、らつばのみで ? あなた、自分のことかっこいい女優かなんかだと思ってるん じゃない ? 」 私が肩をたたいてからかうと、 「残念でした、紙コップで飲んでました。」 とまた笑った。 楽しかった。 「その飲み方、まずそうね。」 「いいの、それよりさ、今すごいところで飲んでたの。誘ってあげたくってさ。行かな い ? ・お・店、がいい ? ・」 コつうん、そこ ( 何ってみよ一つよ。どこどこ」 「興奮しちゃうわよ。誰もいなくて。」 萃は言った。 「あなたが実は何度も行ったことあるだろうところ。」
184 ていたから、あと少しでも大きいことがあったら、もう 2 人とももたないのはわかってた と言わ と思う。彼女もよく知ってた。ここまでもったのも奇跡だったと思う。産みたい、 れるのは怖くなかった。でも、彼女自身が本当は産みたくないと思っている気がしていた。 だから、何もはっきりと決断できなかった。別れ話をしたみたいにしたまま、何もはっき りさせずに出かけた。」 「キャンプに ? 」 さすがに頭が痛くて笑えなかった。 「野外に行きたかったんだ。」 「うん : : : ねえ、避妊してなかったの ? 」 私はたずねた。 「してたよ。萃がピル飲んでた。」 「じゃあ、わざと飲み忘れることも、いつのまにか飲み忘れることも、ありうるのね。」 「自分でもどうしたらいいかわかんなかったんじゃないかな。それで無意識のうちに飲み 忘れてみたんだろう。」 ひざのうえで固く手を組み合わせて、乙彦は言った。そのほかはただ静かすぎる夜中だ ざんがい った。墓場みたいに、荒涼とした空気だけがあった。夢からさめた惨めな空間の残骸があ っ一」 0
182 ☆ 力強く揺さぶられて目が覚めた。瞬間、異常に頭が痛かった。何かで刺されたかと本気 で思うくらいだった。とがった痛みが私を打ちのめした。口がからからに乾いていた。 私は言った。 「何飲んだんだ ? 」 乙彦だった。今にも私を担いで病院に行きそうな表情で私を見ていた。私は首を振って、 「大丈夫。」 と言った。それでまたずきっときて、顔をしかめた。 「頭が痛い。」 「水飲むか ? 」 うなずいたら乙彦が水を持ってきてくれた。なまぬるいそれをごくごく飲むと、やっと ここが自分の部屋でないことに気づいて、そして、 全部思い出した。
☆ 9 月が始まっていた。 突然回ってきた下訳のバイトで徹夜をして、明け方ばったり眠った。目が覚めたら昼過 ぎで、突然、コーラが飲みたくなった。すぐそばの自動販売機に買いに行って飲み、つい でに散歩をして戻ってきて、久しぶりに郵便受けをのぞいたら、その手紙が入っていた。 部屋に戻ってビールを飲みながら、べッドに寝ころんで読んだ。 いい手紙だった。 読み終わってからしばらく、それを持ったままで目を閉じていた。カーテン越しの光が まぶたに赤く、夏の海にいるようだった。 浜辺で、陽射しの下で波音を聞きながら、熱風を顔に受けているようだった。そしてま た少し眠った。 まだ、夏がそこここに残っていた。 目が覚めたらもうタ方で、陽が金色をしていた。空は夜の直前、夜明けにそっくりの状