円 44 年。ツェーン・ラート・フアプリク社のアウグスプルク工場が試作した自動変速機 付き車輛である。正しくは液体変速機付きといった方がよい。現在、自動車で用いられ ている、、 / ンクラッチ″自動変速機の元祖とでもいえるだろう。 車体後部のドライプスプロケット。直径 550 ミリである。液体変速器の原理は、扇風機 と向い合せに羽根車を置き、扇風機を廻すと羽根車も回転することを利用して、空気の このやトーマ″装置は一個の歯車も用いなかった。 変りに液体を用いたと考えればよい。 。 48 48 50 車体後部を完全に改造した液体変速機付 4 号 H 型戦車。実際のテスト結果は、ほとんど 残っていなかったようだ。後に米軍はア / ヾディーンに持ち帰ってテストをした。ドイツ 車車輛の中でも珍車の一つである。 - よヨに二一 - ツ この試作車は、液体変速機で動いただけでなく、砲塔の旋回も、砲の上下もすべて油圧 装置を用いた念の入れようであった。ドイツ技術陣の夢を適えさせたドイツ軍兵器局と ともに ドイツ人気質をよく現わした車輛である。 12
4 号戦車の最大の特長は、このスプロケット ( 起動輪 ) とロードホイール ( 大 転輪 ) であろう。クルップ社は、当初ドイツ車兵器局が推薦したトーションバ 32 一方式を断わって、このボギー式を採用している。技術者の自信がうかがえるようだ。 大転輪のクローズアップ。中央の割ピン付ポルトの左に 2 個のグリスアッ プ用のポルトが見える。ドイツの車輛は戦車を含めて、グリスアップする 箇所が多く、複雑な機構とともに、整備屋泣せであったという。 33 イ 自動変速機付き試作車のアイドラー ( 案内輪 ) である。 戦車は後部起動式なので、スプロケットは後部にある。 ション・アジャスター ( 履帯緊縛調整装置 ) が見える。 フ - ン 3 4 35 部の 2 個である。 る感じもするが、又、何ともいえない頼もしさも湧いてくる。写真は最後 プレスで造られた 4 号特有の大転輪のパターン。 8 個も並ぶと少し多すぎ 美くしく揃った 4 号戦車の大転輪。この転輪は、円年から 44 年にかけて、 フォルクスワーゲン工場などで一ヶ月 6 , 000 組の割合で生産された。 36
物 e 預 am 可 w Ⅳ AustH の 薬を持っていると思ったのか、我々の突進ぶ だ。だが幸運であった。敵は、わが戦車が弾 た。緊張の一瞬であった。戦車は全速で進ん ドルを握る手に冷汗がにしんでくるのを感じ 1 吾した。厳寒の車内で、べリスコープのハン すでに弾が無く、敵弾の標的になることを覚 照準していることは間違いない。わが戦車は、 台の T 34 戦車を発見した。敵戦車が、我々を 200 メートルの稜線上に待ちかまえている数 に見えた。ところが、 この時、 10 時の方向約 ほとんど損害なしに目標の村に突入できるよ 停止射撃で正確にそれを破懐した。我々は、 最大発射で敵を圧倒した。敵戦車に対しては ない。機関銃で間に合うものは、全戦車とも 入る。徹甲弾は必要最少限にしなければなら 雪を蹴立てて進撃を開始した。敵のラインに 戦車はうなり、青白い排気を残して全速力で うす暗い灰色の空に緑の信号弾が上った。全 甲弾はもとより、榴弾さえ撃ちつくしていた 中隊は先陣となったが、わが戦車は 75 ミリ徹 とし、残る 3 個中隊を後衛とした。我々第 8 隊に伝えた。残弾の多い 2 個戦車中隊を前衛 た。第 2 大隊長 Dr. べーケ少佐は、戦法を各中 関銃弾だけで敵戦車に立向わねばならなかっ 残弾を有する小数の戦車を先頭にし、他は機 分の弾薬を使い果していた。そのため、まだ あった。我々は午前中の戦闘で、すでに大部 し、第 1 大隊を敵の包囲から解放することで ネ・クームスキーへ損害をかえりみすに突進 た。それは第 1 大隊が防禦しているヴレチェ 手短かに戦況を聞いた。作戦行動が決定され 我々中隊長は、ただちに連遂長の下に集まり ならなかったからである。 ことの意味は、きわめて重大と言わなければ この連絡をとった ますあり得ない。あえて、 保できる可能性があるならば、救援の要求は 性格を持っレーヴェ少佐のことだ、陣地が確 からの救援要求の無線であった。古武士的な めのでき事は、第 1 戦車大隊長レーヴェ少佐 沈滞した士気を一度に吹きとばされた。ーっ 言葉に対し、緊張したように見えた。我々は 元気づけられた。大隊長は、我々以上にこの この言葉を聞いて腹を立てる以上に 我々は、 「ただ前進あるのみ。突撃せよ / 』。 『あの戦いぶりを恥と思え / 』。 「今日の戦いぶりは何たることか』。 たのた 次のように戦いぶりを酷評し、我々を叱日宅し までやってきたことであった。そして無線で た ーっは、連隊長が指揮戦車で我々の戦線 「この時、我々を発奮させる二つの事が起っ りに戦意を失ったのか。稜線を下って後退し たのだ′ 残弾のある戦車に追撃を命しる。 T 34 は 2 台 撃破され、他は敗走した。我々はただちに部 落に突入し、第 1 戦車大隊本部を見つけ出し た。本部の将校は全員負傷し、下士官が指揮 して辛くも死守していたのだ。彼らの戦車は いたるところに放棄され、炎上していた べーケ少佐から新しい命令の無電がとどく。 止まらすに部落の東端まで突進し、確保せよ というのだ。雪におおわれた村の家々は、人 影なく、すべて炎上していた。そして路上に は敵、味方の死傷達が横たわり、救いを求め ていた。そこには凄惨な戦いの場が広がって いた・ これは 1942 年 12 月 15 日、スターリングラード に包囲されたバウルス大将麾下の第 6 軍を救 援せんものと激戦を続けていたドイツ第 6 戦 車師団、第 11 戦車連隊第 2 大隊の戦闘日誌で この大隊は、フランスで再編成され、 ある。 当時、最新鋭であった長砲身 75 ミリ砲を装備 したⅣ号戦車 G 型 24 台を保有していた これ は、ロンメルの指揮するアフリカ軍団が、工 ル・アラメインの前日肖戦とも言うべき、エル ムファルフア、リッジの戦いにⅣ号 F 2 型を 登場させたのと同しく、対ソ戦に多数登場し てくる改良型Ⅳ号戦車の流れの呼び水とでも 言うべきものであった。そして第 2 次世界大 戦の大転機と言われた、スターリングラード とエル・アラメインの戦闘に登場してきた長 砲身 75 ミリ砲装備のⅣ号戦車、これこそドイ ツの運命を背負って最後まで戦い抜いた一人 の老英雄の登場にも似た姿であった。英雄の 出現、それは常に希望とそして悲劇を象徴す るからである。 Ⅳ号戦車の開発史は、ドイツ戦車部隊の興亡 の歴史と同一であった。 たた・一一つ一星うところ があるとすれば、Ⅳ号戦車は誕生の当時から 最後の大攻勢となったアルデンヌの戦いまで いつも地味な存在に甘んじなければならなか った点であった。Ⅲ号戦車が主戦闘戦車とし て開発されたのに対して、短砲身 75 ミリ砲に 象徴されるように、当初は支援戦車として開 発された。そして長砲身の強力な主砲を持っ た時は、ドイツ軍の苦闘の始まる時でもあっ た。また構造的、形態的な面から見ても、Ⅳ 号戦車は地味な戦車であった。 パンサーやタ イが一のような圧倒的な強さは感じられない。 しかし、Ⅳ号戦車を細部にわたって見てゆく 時、ドイツ軍の戦車に対する一貫した考想と これを設計したクルップ社の兵士に対する細 かな配慮を十分に汲みとることができる。 ドイツ戦車の最大の特長は、集団戦に適する ように作られていたことである。その第 1 が 3 名用砲塔の採用であった。車長は機械操作 に忙殺されることなく、敵状を観察 な決断を下すことができた。次に無線電話の 使用であった これは中隊レベル、大隊レベ ルを使いわけられた中隊長車から指揮戦車ま で、戦況を把握しながら連繋プレーを行い、 強力な敵も持てる力をフルに集中して各個撃 破し得る基盤となったのである。これらの考 想は このⅣ号戦車の設計の基本となり、当 時としては短砲身ながら強力な 75 ミリ砲の高 性能炸薬弾と共に、支援戦車として十分に活 躍し、結果的には電撃戦という花を咲かせた のである。 多角形の車体は、形態的には平乢なものであ った。そして前後左右にハッチの多いことも この戦車の特徴であった。 ッションやプレ キの点検ハッチからエンジン交換用の大型 点検ハッチまで、車体だけでエスケーブハッ チを含めると 7 ヶ所も見い出せる。 この車体 構造は、Ⅳ号戦車が最後まで戦車兵達に強く 支持された理由でもあった。車輛の保守と部 品交換など修理に便利だったのである。特に 工ンジンの交換は短時間で行えたという。 れは現在の西ドイツ主力戦車の特徴にもなっ ている。ドイツ技術の地味ながら堅実な面は 大転輪とそのサスペンションにも見ることが できる。ドイツ兵器局は、当初、トーション ーを推薦した。しかしクルップ社の技術陣 は、古風なボギー式リーフスプリングを頑と してゆすらす、ついには兵器局が折れてⅣ号 の特徴ある堅実にして強固な転輪が生れたの である。 Ⅳ号戦車が最高度に訓練された技術兵として の戦車兵達から愛された理由は、もうーっあ った。それはエスケープノ、ツチか、多かった とであリ、車体及び砲塔を合わせると各兵士 あて 1 っすつの専用ハッチを持っているので ある。そこには、人命尊重の精神があった。 Ⅳ号戦車は、ドイツ戦車技術の精髄から生ま れた戦車であった。よく考えられ、最高の技 術を駆使して作られた。だからこそ、主砲の 強化をはしめとする数次にわたる改良を受け られるキヤノヾシティの大きさを持ち、常にド イツ兵のよき友でいられたのであろう。Ⅳ号 戦車は、ドイツ戦車兵と技術陣との血の通い 合った戦車であった ドイツ軍のワークホー ス ( 軍馬 ) と呼ばれるのも当然だろう。Ⅳ号 戦車は、ドイツ戦車部隊と興亡を共にした栄 光と悲劇の戦車なのである。 ( 戦史研究家菊地晟 )
この車輛は、その中 単な説明が記されている。 GERiAN ED ーリ TANK pzKW Ⅳ 1 今 GUN ー 0 閥 G15 盟盟 WEIGHT A x. 25 10N5 標示板 0 、今回写真集 00 ーー 0 ー。長 砲身 = 0 砲装備 0 Ⅳ号戦車 0 も 00 あ。 この車輛は 後 0 写真 0 解説にもあるように H 型å•J 型議論百出な - 。日くき 00 も 000 あ・ ) 、 H 型と J 型 00 両方 00 特徴を持ー。て 。、る。しか 0 = 判別 0 = は苦労する、逆 0 = そ . 00 特徴を見。、出す楽、一も 0 。砲塔 旋回用発電機をまわす小型 ' ' 00 ラ ーが無。、車体後部、 = れは J 型も 00 であり、 鋼管 0 = 、 0 →、 ' 一、→一 ~ 、 = 0 = 型 ク ) ような日 とは言え、 意 0 、 0 知 0 。、。実際 " 戦場 0 = " 、、傷 。、 . = 載車を修理する 0 = は、・ = とえば H 型 0 = J 型には J 型の は日型の部品しか使わない、 ことが行なわれる 部品しか使わないといー。 ぅ。補給も途絶え勝ちな前線 0 = あ - 。 = 0 機能 0 = 問題 000 ば、あ 0 合・。 00 部 とが、むしろ日 品で間に合わせるといー。 常茶飯 0000 = 0 。、 0 。酷使 0 = 耐 なければならな 0 、兵器し 0 = 、そくら 0 、 00 融通性がなければ、実用にはならな。 ーの車輛のサポートロ えるだろう。実際、 ーラー 0 = は数種 0 タイプ 0 もが見られる。 こうであー。たのか。また載場 00 変鸞 0 、も判断す 0 手 、 00 = 0 。、。大戦末期 00 ←・イ 0 窮乏し ーグ ) 大埃 状態を考えれは・、工場を出る時から 0 あー。もしれな。、し、もろん載場ー 0 け変えられた可能性はも一 , と大き。、。 は、そう 0 、一。たものだろう。 日型å•J 型 00 判断 0 、もく、標示板 0 = 0 = 次のように記されて 0 、る。 ドイ、 , 中戦車、Ⅳ号戦車、 1941 ドイ、 , で生産され・ = = 00 型 0 最後 00 も " 0 。 0 戦車 0 、第次大戦末期、 , ・ 0 捕穫 、、勝利 0 後、 00 = 合衆国 0 = 海上 輸送 000 馬力 00 、型 0 気筒 , , 0 , , 駆 . 動、。 00 = 0 ( → , ) 砲 0 、秒速 ートの初速を持つ。 塔 0 周囲 0 = 対 , 、 = ー砲用 00 防楯を装備車 体 00 面 0 = 装備 0 0 ー、、 00 " 取付金 具 0 持ー 0 。弾薬 0 = 、発分 0 携行。砲、 長 75 。。、重量約 25 トン。 ると H 型とされている。 ~ = , ( 前垂装甲板 ) 0 保守、付 0 0 、 0 、 00 、。 = 0 車体 00 号型 0 。、 0 、 0 。・ = ・ = 、実験車 0