神護寺 - みる会図書館


検索対象: 「空海と密教美術」展
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1. 「空海と密教美術」展

空海と高雄曼荼羅 はド ) めに たかおまんだら あや たかおさんじんごじ 高雄山神護寺に伝わる、赤紫色の綾地に金銀泥で描かれた両界曼荼羅は高雄曼荼羅 ( 囀 ) と呼ばれ、空海の活動時期に制作された現 : しカ 存唯一にして最古の両界曼荼羅として、また、今は失われた空海が恵果より授けられた唐代宮廷画家の手になる曼荼羅の図様を今によ く伝えるものとして古くより著名である。経年変化により画面は見えづらいが、縦、横ともに四メートルに達する巨大な画面は見る者 を圧倒する。その巨大さや保存状態のこともあり、所蔵先である神護寺でも掛けられることはなく、展覧会等でも展示される機会は少 ない。特に関東圏での展示は過去に遡っても極めて稀である。今回、神護寺御住職の格別の御厚意により、本展覧会への出品が叶った ことは誠に貴重なことといえる。この機会にあたり、絵画としての高雄曼荼羅について素材や技法の面からその意義や位置づけを確認 してみたい。 曼荼羅について 高雄曼荼羅について見る前に、その予備知識としていくつかの基本事項を確認しておこう。まず曼荼羅とは、サンスクリット語とい うインドの言葉の発音を漢字で置き換えたもので、「本質」などの意味を表すマンダという語に、「得る・所有する」といった意味を持っ 接尾語ラがついて「本質を具えたもの」「輪円具足Ⅱ過不足なく全てを具えたもの」などの意味を表すものといわれる。更にそこから「修 行を行う場Ⅱ道場、壇」や「複数の仏や菩薩、天などが集まったもの」という意味にもなり、仏教美術の分野では様々な仏や菩薩、それ そくしんじようぶつぎ らを護る働きの天などを集合的に表したものを曼荼羅と呼んでいる。空海の『即身成仏義』などによれば、曼荼羅は表現形式の上から さまや だいまんだら は、彩色の絵画で表わす大曼荼羅 ( 形像曼荼羅 ) 、それぞれの仏や菩薩達の働きの内容を持ち物などで表した三味耶曼荼羅、それぞれの かつま しゅじ 仏や菩薩達を梵語の名前や真言の頭文字一字で表わした法曼荼羅 ( 種字曼荼羅 ) 、立体的な像として表した羯磨曼荼羅の四つに分けられ たいぞうかい 」いに 4 つきよう ている。更に基づく経典の内容によって個別の名称がつけられる。そのうち両界曼荼羅とは、『大日経』の内容を表した胎蔵界曼荼羅と、 こん′」うかい こん′」うちょうきよう 『金剛頂経』の内容を表した金剛界曼荼羅と呼ばれる二つの曼荼羅を一対としたものを指す。しかし、二つの経典は成立の時期や場所を引 沖松健次郎

2. 「空海と密教美術」展

2 ◎ 灌頂歴名 空海筆 京都・神護寺 にスナ三月。代イ受 そま爪サペ沙てペ しつラ 2 ンタ 罹を安 叫ムペ 皿)3嚀ーt@ まを「をみ一旅壑みド ンみ【一 ノ第カを

3. 「空海と密教美術」展

「空海と密教美術」展 Kukai's 、。 r ミ【 The Arts ofEsoteric Buddhism 2011 年 7 月日ー 9 月跖日 東京国立博物館 主催】東京国立博物館、読売新聞社、、プロモーション 後援】文化庁 特別協力】総本山仁和寺、総本山醍醐寺、総本山金剛峯寺、総本山教王護国寺 ( 東寺 ) 、総本山善通寺、遺迹本山神護寺 協力】真言宗各派総大本山会、南海電気鉄道 協賛】あいおいニッセイ同和損保、きんでん、大日本印刷、トヨタ自動車、非破壊検査

4. 「空海と密教美術」展

謝辞 本展の開催にあたり貴重なご寺宝・ご所蔵品をご出品賜り、またご協力いただきました 左記の関係機関、関係各位に深く感謝の意を表します。 ( 敬称略 ) 総本山仁和寺 総本山醍醐寺 総本山金剛峯寺 ( 財 ) 高野山文化財保存会高野山霊宝館 総本山教王護国寺 ( 東寺 ) 総本山善通寺 遺迹本山神護寺 遺跡本山観心寺 大本山弥谷寺 大本山金剛寺 大本山西國寺 総本山西大寺 獅子窟寺 別格本山聖通寺 西新井大師總持寺 宝厳寺 竜光院 岡山県立美術館 京都国立博物館 奈良国立博物館 前田育徳会尊経閣文庫

5. 「空海と密教美術」展

七月金剛界学法灌頂を受ける 八月伝法灌頂を受け、恵果から曼荼羅・経典・仏具 などを授けられる 十二月恵果人寂 大同元年八〇六三十三歳唐より帰国 請来した文物の目録を作成する 八〇九三十六歳高雄山寺 ( 現在の神護寺 ) に居を構える この頃、最澄と交友 弘仁元年八一〇三十七歳高雄山寺で国家のために修法を行う 八一一一三十九歳高雄山寺で金剛界結縁灌頂 ( 十一月 ) 、胎蔵界結縁灌 頂 ( 十一一月 ) を行う 七 八一六四十三歳高野山を下賜される 八一七四十四歳高野山で伽藍造営を始める 十一一八二一四十八歳四月、八月請来した両部大曼荼羅の破損がひどく なったので、両部曼荼羅・五大虚空蔵・五忿怒尊・金剛 薩垣・仏母明王・十大護天王・龍猛・龍智像等一一十六幅 を描く 十四八二三五十歳東寺を下賜される 天長元年八二四五十一歳高雄山寺を神護寺と改める 八二五五十二歳東寺講堂建立の勅許を得る 承和二 八三五六十二歳高野山で人定 東寺講堂諸像開眼 八三九 仁和四 延喜十三九一三 四 弘法大師の諡号を授けられる 善通寺、建立始まる 善通寺落成 仁和寺落成 聖宝、醍醐寺創建 真言七祖像 ( 凵 ) ・密教法具 ( 芻 ) 1 ) 真言七祖像 御請来目録 ( 、 2 ( 凵 ) ・揵陀穀糸袈裟 ( に ) 、密教 法具 ( 芻 ) ・諸尊仏龕 ( 肪 ) が現存 する 灌頂歴名 ( ) 風信帖 ( ) 東寺講堂諸像 ( 甲 ) 阿弥陀如来および両脇侍像 ( ) 薬師如来および両脇侍像 ( 当 真言七祖像 (> ä) のうち龍猛・龍智像 275

6. 「空海と密教美術」展

空海自身も高雄曼荼羅に先立っ弘仁十二年 ( 八二一 ) に ¯ ) にみえている。 是所望、 / 山城・石川両大徳、深 / 渇仰、望申意也、 / 仁海に与えたことが『御請来目録』 ( 、 2 空海人唐時の遣唐大使であった藤原葛野麿の形見の紫綾 王経等、備講師将 / 去未還、後日親将去 / 奉呈、莫責々々両界曼荼羅は修法を行う堂内の東に胎蔵界曼荼羅、左に の文服を地として金銀で十七尊曼荼羅一鋪三幅を図して 也、因 / 還人、不具、沙門遍照状上 / 九月五日 / 止観座金剛界曼荼羅をそれぞれ向かい合うように配置し、その 間で行者が修法を行う。 主法前謹空 冥福を祈ったことが『性霊集』 ( ; ) にみられる。高雄曼 ( 高梨 ) 高雄曼荼羅は現存最古の両界曼荼羅図で高雄山の神護荼羅制作の技術面については、そうした先行する技術的 寺に伝来することから高雄曼荼羅と通称される。『神護寺裏づけがあったことがわかるが、曼荼羅の大原則であっ 略記』の記事に基づいて、神護寺の灌頂堂用として天長年た彩色を金銀泥にかえるという発想面については、密教 の観想の視点からや古代の色や祖霊信仰の視点からいく 間 ( 八二三—八三三 ) に淳和天皇の御願により制作された りようかいまんだらずたかおまんだら つかの見解があるが、明確なことはわからない。今後、 ものとみられている。図様の手本となったものは大同元 両界曼荼羅図 ( 高雄曼荼羅 ) 二幅 年 ( 八〇六 ) に空海が唐から請来した原本あるいはそれが中国、西域も含めた広い視点からの研究が必要であろう。 紫綾金銀泥 いずれにせよこの両界曼荼羅は空海が制作に係わった 損傷したために空海の指揮のもと弘仁十二年 ( 八二一 ) に ( 胎蔵界 ) 縦四四八・〇横四〇八・〇 ( 金剛界 ) 縦四〇九・〇横三六八・〇 制作された第一転写本とみられるが、原本と第一転写本密教の美術、造形のうち、絵画における第一級の作例で 平安時代九世紀 ( 沖松 ) が彩色本であるのに対して、ここでは彩色を金銀泥に置ある。 京都・神護寺 き換え、画面の地となる絹も通常の絵絹ではなく、中心 曼荼羅とは、サンスクリット語の音を漢字に写したも に菱形の花文を置き、その外側を四羽の鳥、更にその外 ので、「本質を具えたもの」などといった意味となる。こ 側を花と葉を繋げた文様が囲んだ直径一四—一五センチ こでの本質は仏の悟りの意味となるので、密教では悟り メートルの大きい花鳥丸文を互の目に織り出した赤紫の りようかいまんだらずちまんだら 両界曼荼羅図 ( 血曼荼羅 ) 二幅 を得る場としての道場、壇の意味ともなり、壇には仏菩綾地が用いられている。 薩を集めて供養し、祈願を成就させることから仏菩薩等 絹本着色 画面は傷みのために判然としない部分があるが、各像 各縦四二四・二横三九四〇 を集合させたものという意味ともなる。そして基づく経 ともしなやかで張りのある描線によって、やや面長な面 平安時代十二世紀 典、表現形式によって様々な曼荼羅が存在する。空海の『即貌と均整の取れた体つきの像容に描かれ、原本の唐代の 和歌山金剛峯寺 身成仏義』には表現形式に基づき、具体的な形像を彩色画宮廷画家による本格的密教絵画の様子を偲ばせる優れた 空海が唐から請来した曼荼羅は根本曼荼羅と呼ばれ、 として表す大曼荼羅、金剛杵など各仏菩薩等の特性を示 表現をみることができる。描線の質や細部の表現、金銀 さんまや ; 引の高雄曼荼羅にみられるようにその正確な継承が図 す標識で表す三味耶曼荼羅、梵名・真言の頭文字で表す法 泥の使い分けなどから十人以上のエ人による分担制作が られてゝ しく。そうした根本曼荼羅の図様を継承する曼荼 ( 種子 ) 曼荼羅、立体的な像で表す羯磨曼荼羅の四種の曼 指摘されている。通常の絵絹よりもひっかかりが大きく 羅は現図曼荼羅と呼ばれ、真言密教教団における正統と 荼羅を挙げている。 描きにくい綾地にこれだけしなやかな描線で生き生きと される。本図は、彩色の現図曼荼羅としては現存最古と 両界曼荼羅は、『大日経』に基づく大悲胎蔵生曼荼羅 ( 胎 した像を描いていることを考えると、いずれのエ人も高 考えられるもの。画面の規模も、根本曼荼羅の「七幅」と 蔵界曼荼羅 ) と、『金剛頂経』に基づく金剛界曼荼羅を一対度な画技を具えた一流のものだったことが想像される。 いう絹七枚継ぎの規模を踏襲する巨大なものである。寺 にしたもので、真言密教で最も基本となる曼荼羅。本来 なお、金銀泥で描くことについては、日本においては 伝によれば久安五年 ( 一一五〇 ) の火災で焼失した金剛峯 別々に成立した経典に基づく曼荼羅であるが、空海の師 正倉院宝物などの工芸品を中心に先例がみられ、中国に : カ 寺金堂の東西両壁用に、翌久安六年、平清盛寄進によっ 匠である青龍寺の恵果が、二つを一対とするいわゆる両 おいては敦煌請来のスタインコレクション中に、濃紺地 て制作されたと伝える。『平家物語』巻三に、常明という 部密教として体系を整備・大成したといわれている。そし の絹に銀泥の代用の白色と金泥の代用の黄色で描かれた 絵師が金剛界を描き、平清盛が胎蔵界の大日如来の宝冠 て空海の帰国に際して、祖師像とともに「大毘盧遮那大悲 八世紀の作とみられる日曜菩薩像幡があり、九世紀後半 に自らの頭の血をまぜて彩色したと語られることから「血 胎蔵大曼荼羅一鋪七幅一丈六尺」「金剛界九会曼荼羅一 から十世紀にかけても紺地に黄あるいは金で、赤地に銀 りしん 曼荼羅」とも呼ばれている。なお、近年の >< 線調査でそれ 鋪七幅一丈六尺」などを宮廷画家・李真等に図絵させ空 で像を描いた幡が制作されていたことが知られている。 ぞれの軸内に、清盛一門が結縁のために収めたものかと 2

7. 「空海と密教美術」展

会具」のうちには、「同 ( 金か ) 閼伽銧廿ロ」「同盤八ロ」「同であったはずである。 寺院に鎮守として神が祀られるのは九世紀以降のこと 粥銧十六ロ在盤十六ロ」「同御汁物銧十六ロ在盤十 で、空海が帰国後最初の活動拠点とした京都・神護寺の金 六ロ」などの記述があり、現存する遺例との関わりにおい て注目される。 ( 伊藤 ) 堂には八幡神の画像が祀られ、寺内には平岡神宮が建て そくしんじようぶつぼん られた。八幡神は東大寺の大仏造像のとき、事業に協力 即身成仏品 するという託宣をして、聖武太上天皇とともに大仏を参 空海撰述 拝するなど仏教と関係の深い神であった。貞観元年 ( 八五紙本墨書 じよしんざぞうよちまんさんしん 九 ) に空海の弟子行教が、京都の南西の裏鬼門を守護する縦二七・九全長五七三・〇 女神坐像 ( 幡三神のうち ) 一驅 平安時代九世紀 ために石清水に八幡神を勧請している。本像はその頃に 木造、彩色 和歌山・金剛峯寺 造られたと考えられ、東寺への勧請は、寺とともに平安 像高二一・七 空海が撰述した真言密教の根本教義である「即身成仏」 平安時代九世紀 ( 丸山 ) 京の守護も期待してのことであろう。 京都・東寺 についてその要点を著述した『即身成仏義』の原本と考え られるもの。即身成仏とは現在の身のままで成仏するこ 八幡神と二体の女神で一具となる八幡三神のうちの一 ていはっ と、すなわち仏教の説く究極的な悟りを得ることを指す。 体である。八幡神は剃髪で袈裟をまとう地蔵菩薩と同じ おおそで からぎぬ さいじこんこ - つみようさいしようおうきよう 二経一論八箇の経文を引用して即身成仏の教証を論じ、 姿であり、二体の女神は大袖の衣の上に背子という丸首 細字金光明最勝王経二巻 次に六大無礙の頌と呼ばれる二頌八句を示してこれを解 の衣、下半身には裙を着ける。髪は頭頂で結い、ゴ ヒ冂面と 紙本墨書 釈していくといった構成をとる。空海は人唐中に密教の 胸前に垂らす。本像は胸の高さで、左手は一、三指で蓮 ( 上巻 ) 縦二七・〇全長一〇二三・六 求法に努めたが、その際に不空三蔵の思想や師である恵 ( 下巻 ) 縦二七・〇全長一一六八・二 華をとり、右手は掌を上に向ける。その手の形がにどの 平安時代九世紀 果阿闍梨からの教えにより、自らが学んだ密教の成果を ような意味があるのかは不明である。 和歌山・竜光院 「攘災招福」と「即身成仏」の二つと考えており、これはそ 三神とも細目で唇が小さく、丸顔で茫洋とした雰囲気 中国・唐の義浄 ( 六一一一五—七一五 ) が訳した経典で十巻か の後日本で展開する真一言密教の特質でもあった。こうし を漂わせる。八幡神は地蔵菩薩と同じ姿であるが、明ら らなるものを、細字の楷書で二巻に書写したもの。料紙 た即身成仏思想は、奈良仏教とくに法相宗を中心とした かに仏像とは異なる雰囲気である。茫洋とした表現は、 一紙に五十三行・一行三十四字で正確に書写されている。 三劫成仏思想 ( 無限の長い時間の修行によってのみはじめ 仏ではない神らしさ示すための表現であると考えられる。 八幡神は赤味を帯びた濃い肉色であるが、女神は黄色味細字ではあるが、格調高い謹厳な字の雰囲気は奈良後期て成仏が可能となるとする考え方 ) の論駁を目的とした著 から平安時代前期にかけて流行した書風を残している。述であると理解される。修行者のみが成仏できるとした を帯びた薄い肉色であるのは、女性らしさを表現するた おうまし 斗氏は黄麻紙を用い本文中に朱点・白点が付けられてお思想に対し、空海の教えが幅広い層に受け人れられた背 めである。衣は現状では褐色を呈するが、彩色が比較的半吊 り、白点は平安時代初期の例として貴重。下巻の巻末に 景に即身成仏思想の果した役割は大きい。空海自筆と伝 よく残っていて造像時の華やかな姿を髣髴させる。袖や うんげん は本文とは異筆で「歎般若波羅蜜偈」が朱書される。高野えられたが筆致・書法からみても異筆と判断されるもの 背子上縁には繧繝と呼ばれるグラデーションの手法で花 文、背子の区内には緑の小円による花文がみえる。繧繝山では空海筆と伝えられ「御筆最勝王経」と称された。奈の、料紙や文字の雰囲気から平安時代前期の書写と考え じようへん の輪郭線を白色とするが、それは九世紀後半以降の手法良時代を代表する経典であり、「鎮護国家」を目指した朝られる。附属する建保五年 ( 一二一七 ) 、平頼盛の子静遍 ( 一 しんじよう 廷内外で盛んに書写されたという。若き空海も本経を学 一三四 ) 。幼くして空海に従って出家した真紹 であり、本像の造像年代を示す。 さんごうしいき んでいたことは、その著作『三教指帰』に、儒教を示す架が創建した禅林寺の第十二世 ) の「相承記」により範俊僧正 三神像はヒノキ材を用いた一木造であるが、三体とも 空の人物として「亀毛先生」、「兎角公」とその外甥「蛭牙公 の弟子懐俊以来受け継がれて高野山御影堂に奉納された 木心部分が朽損して空洞になっており、一本の木から三 ( 高梨 ) ことが . 知られる。 子」が登場するが、これら亀毛、兎角、蛭牙という語句は 体の用材をとったことがわかる。面部や胸部に当木があ るが、それは朽損のためである。何らかの由緒のある木「金光明最勝王経」等を典拠としていることが知られる。 また空海は後に『最勝王経開題』を著している。 ( 高梨 )

8. 「空海と密教美術」展

4 ◎水天像 ( 十二天のうち ) 冖 / LO ◎花蝶蒔絵念珠箱 ◎宝相華蒔絵宝珠箱 ◎蘇悉地儀軌契印図 ◎十天形像 ◎観心寺縁起資財帳 冖 / ◎仁和寺御室御物実録 ◎処分状 ワ」 ◎御遺告 ◎御遺告 ◎宝簡集 ◎又続宝簡集巻第八十八 ◎蓮華虚空蔵菩薩坐像 ( 五大虚空蔵菩薩のうち ) 一 8 冖 / ◎業用虚空蔵菩薩坐像 ( 五大虚空蔵菩薩のうち ) ◎薬師如来坐像 ◎千手観音菩薩立像 ◎天蓋西院所用 ◎大壇西院安置 ◎阿弥陀如来および両脇侍像 ◎増長天立像 ( 二天王のうち ) 一 4 ◎法界虚空蔵菩薩坐像 ( 五大虚空蔵菩薩のうち ) ◎蓮華虚空蔵菩薩坐像 ( 五大虚空蔵菩薩のうち ) ◎五大明王像 ◎薬師如来および両脇侍像 8 一 ◎如意輪観音菩薩坐像 ◎如意輪観音等鏡像 趙琮筆 宗実写 聖宝筆 一合 一合 三巻 一面 五驅 一面 絹本着色 平安九世紀 紙胎黒漆塗蒔絵平安十二世紀 平安十世紀 黒漆塗蒔絵 唐咸通五年 ( 八六四 ) 紙本墨画 鎌倉建暦三年 ( 一二一一一 紙本墨画 平安元慶七年 ( 八八三 ) 紙本墨書 紙本墨書 平安天暦四年 ( 九五〇 ) 平安延喜七年 ( 九〇七 ) 紙本墨書 彩箋墨書 平安十二世紀 絹本墨書 平安十二世紀 平安—安上桃山十一—十六世紀 紙本墨書 平安—室町十一—十四世紀 紙本墨書 平安九世紀 木造、彩色 木造、彩色 平安九世紀 木造 平安九世紀 平安十世紀 木造、漆箔 木製彩色 平安九世紀 木製彩色 平安九世紀 平安仁和四年 ( 八八八 ) 木造、漆箔 平安仁和四年 木造、彩色 唐九世紀 木造、彩色 唐九世紀 木造、彩色 平安十世紀 木造、彩色 木造、漆箔 平安延喜十三年 ( 九一三 ) 木造、漆箔 平安九世紀 唐八—九世紀 銅鋳造線刻 奈良・西大寺 和歌山・金剛峯寺 京都・仁和寺 京都・東寺 京都・醍醐寺 大阪・観心寺 東京・前田育徳会 京都・醍醐寺 京都・醍醐寺 京都・東寺 和歌山・金剛峯寺 和歌山・金剛峯寺 京都・神護寺 京都・神護寺 大阪・獅子窟寺 香川・聖通寺 京都・東寺 京都・東寺 京都・仁和寺 京都・仁和寺 京都・東寺、観智院 京都・東寺、観智院 京都・醍醐寺 京都・醍醐寺 京都・醍醐寺 京都・醍醐寺 2 め

9. 「空海と密教美術」展

内容から推定して、大同元年 ( 八〇六 ) に帰国してからしばらく経った弘仁三 ( 八一一三四年のころの手紙と考えられる。豊潤で重 厚な第一通〔註リ、濶達自在な第二通〔註リ、雄渾でありながら軽妙さも兼ね備えた第三通〔註リ、と実に変化に富んだ多様な書法を展開 しており、書道史・仏教史の上でも注目される遺品である。空海が伝統的な王羲之書法や顔真卿の書法を学んだ上で、自らの美意識 を加えた書風を展開しており、空海の書法の広さや奥深さの一端が偲ばれる。豊潤で重厚、濶達自在の変化に富んだ多様な書風を見 せている。二通目の「書」 ( 挿図 4 ) は高校の書道の教科書や競書雑誌〔註当の表紙を飾っているように、最も日本で知られた「書」という文 字であろう。 高雄山寺 ( 現在の神護寺 ) において、空海は弘仁三年 ( 八一一 l) 十一月には金剛界灌頂〔註リを、そして十二月に胎蔵界灌頂を、さらに かんじようれきみよう 者合三回にわたって求法の人々に真言の灌頂を授けている〔註リ。この「灌頂歴名」 ( 神護寺蔵・ 翌年の三月には金剛界灌頂というように、に ) は、この時の受法者の名簿で、空海が自ら筆を執ったものである。年長の最澄が空海より灌頂を真摯に受けており、真言、天台 の両巨頭の交流が、何より注目される。また、後に両者が不仲になる一因ともされる最澄の高弟・泰範の名も第三通の金剛界灌頂で受 法者にその名が見える。 「弘仁」「高雄山」「人」 ( 挿図 5 ) を見ても、空海の多様な書法の一端が偲ばれる。「三」の横画などでは、初唐の三大家の一人虞世南風の 穏やかな筆致が窺われる。「高雄山」では逞しい中唐の顔真卿を思わせる。同じ文字を書いても、各書体を能くした空海は、異なる筆法、 異なる字形を自然と駆使することができた様子である。並々ならぬ能書ぶりをこれによっても確認できよう。 だいにちきようそ ぜんむ だいこちきようかいた 「大印経開題」 ( 醍醐寺蔵・ ) も空海の自筆である。中国の唐時代の高僧として著名な善無畏が講述し、一行が筆録した『大日経疏』 の要点を抜き書きしたものである。さまざまな紙を用いており、また本文を補った書き込みを加えたところ、訂正を加えたところなど が散見しており、一度に『大日経疏』から抄出したものではなく、『大日経疏』を読み進めるにしたがって、その要点を抜書きしたもので、 手控え本と考えられる。見られるように「風信帖」の書風と近似しており、ほぼ同時代の書写と考えられる。文字も、大、中、小とさま ざまな大きさの文字を交用している。また、比較的丁寧に筆を運び、転写時に原本の字形まで正確に写そうと試みたように思われる箇 挿図 5 灌頂歴名 ( 部分 ) 2 み 9

10. 「空海と密教美術」展

ワ」 ◎文館詞林残巻 ワ」 っ 0 ◎文館詞林残巻巻第五・巻第六 -4 ◎兜跋毘沙門天立像 ワ」 金念珠 ワ」 ◎三鈷杵 ( 飛行三鈷杵 ) ワ」 ◎四天王五鈷鈴 ◎梵釈四天王五鈷鈴 ワ」 ◎五大明王五鈷鈴 ◎四天王独鈷鈴 っ 0 ◎独鈷杵 ◎密教法具 っ 0 っ 0 ◎錫杖頭 っ 0 ◎板彫両界曼荼羅 ◎諸尊仏龕 っ 0 ◎釈迦如来および諸尊像龕 っ 0 ◎五大カ菩薩像 ◎五大カ菩薩像 ◎灌頂歴名 ◎風信帖 4 ◎両界曼荼羅図 ( 高雄曼荼羅 ) -4 ◎両界曼荼羅図 ( 血曼荼羅 ) -4 ◎漆皮箱 4 4 ◎刻文脇息 4 ◎三鈷杵 -4 ◎三鈷杵 ◎羯磨 4 伝空海所持 伝空海所持 空海請来 空海請来 二巻 一柄 一基 豊前五郎為広筆五幅 空海筆 空海筆 一合 四ロ 平安弘仁十四年 ( 八二三 ) 紙本墨書 平安弘仁十四年 ( 八二三 ) 紙本墨書 唐八世紀 木造、彩色 金・珊瑚・琥珀・瑪瑙唐九世紀 唐または平安九世紀 銅鋳造鍍金 唐八世紀 銅鋳造鍍金 唐—宋九—十世紀 銅鋳造鍍金 唐九世紀 銅鋳造鍍金 唐八—九世紀 銅鋳造鍍金 唐または平安九世紀 銅鋳造鍍金 唐九世紀 銅鋳造鍍金 唐八—九世紀 銅鋳造鍍金 唐八世紀 木造素地 唐八世紀 木造 唐八世紀 木造素地 平安十世紀 絹本着色 鎌倉建久八年 ( 一一九七 ) 紙本墨画 平安弘仁三年 ( 八一二 ) 紙本墨書 平安九世紀 紙本墨書 平安九世紀 紫綾金銀泥 平安十二世紀 絹本着色 平安九世紀 皮製黒漆塗 木製木画 平安九世紀 平安十一世紀 銅鋳造鍍金 平安十二世紀 銅鋳造鍍金 平安九—十世紀 銅鋳造鍍金 和歌山・宝寿院 和歌山・正智院 京都・東寺 和歌山・竜光院 和歌山・金剛峯寺 香川・弥谷寺 広島・西國寺 和歌山・正智院 和歌山・金剛峯寺 和歌山・金剛峯寺 京都・東寺 香川・善通寺 和歌山・金剛峯寺 和歌山・金剛峯寺 和歌山・普門院 和歌山・有志八幡講十八箇院 和歌山・普賢院 京都・神護寺 京都・東寺 京都・神護寺 和歌山・金剛峯寺 京都・東寺 京都・東寺 和歌山・金剛峯寺 和歌山・金剛峯寺 京都・東寺 2 め