性霊集 - みる会図書館


検索対象: 「空海と密教美術」展
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1. 「空海と密教美術」展

答・啓白・知識文・書十五篇、巻第十には式・讃・書・詩十篇 る。料紙は紫紙を用い、経文は正確で端正な写経体と称最重要視されるものである。『大毘盧遮那経供養次第法義 たいしふくしゅうのかんさっしにあたえんがためのしょ が収載される。特に巻第五は「為大使与福州観察使書」 される謹厳な文字で記され、奈良写経の典型的な特徴を疏』は大日経の注釈書。竜光院所蔵本は全七帖からなり、 めいざん ふくしゅうのかんさっしににゆうきようをこうけい えっしゅうのせつどしにないげのぶんしょをこうけい ( 高梨 ) 有している。 高野山検校十二世明算 ( 一〇二一 一〇六 ) が書写した 「請福州観察使人京啓」「請越州節度使内外文書啓」 ほんごくのつかいとともにかえらんことをこうけい もので、巻第一と七に明算の朱筆で天喜六年 ( 一〇五八 ) 「請本国使与共帰啓」 ( 伝空海筆「与本国使請共帰啓」一幅と に教えを受け、亡き母尼法妙の四十九日供養のために書 して宮内庁三の丸尚蔵館に御物として一首のみ所蔵され 写した旨の奥書があるために「明算受学奥書本」の名で知 るものは自筆本として臨写されたものの可能性が高い ) 、 きつがくしようほんごくのつかいにあたえんがためのけい せいりゅうのおしようにのうのけさをけんずるしょ られる。「法疏」にも翌年の康平一一年 ( 一〇五九 ) 四月十七「青竜和尚献衲袈裟書」「為橘学生与本国使啓」 とうたいしぼっかいおうじにあたえんがためのしょ 日に醍醐曼荼羅寺において受学したとする明算の奥書が「為藤大使与渤海王子書」と題された作品群で、空海人唐 でっちょうそう だいせん ある。粘葉装で見返しには元の題僉が残される。料紙に中のものからなり、巻第八から九では高野山や東寺創建 おっかい は押界が引かれ経には明算によって白点と朱点が施され に関連する作品がみられる。いずれも六朝文化を受け継 ている。巻第七の奥書に「依大師御点本読之」とあり、明 いだ中国・盛唐時代風の美文であり、平安時代前期の文化 算は空海が校訂した本を元に書写したことが知られる。 を代表する文学作品となっている。醍醐寺所蔵本ほか多 後学の僧たちが祖師空海の教えを忠実に受け継ぎ、伝え くの写本や板本が各地に伝わっており、注釈書も著され ( 高梨 ) ていこうとした姿かうかかえる ていることからも、空海が後世に与えた文学および宗教 ( 高梨 ) 的な影響力がうかがわれる。 8 ◎ ふくうけんさくじんべんしんごんきよう 不空羂索神変真一言経巻第六・巻第三十一一巻 紙本墨書 ( 巻六 ) 縦二七・五全長七五九・八 ( 巻三十 ) 縦二七・四全長一〇八〇・一 平安時代十世紀 和歌山・三宝院 ぼだいるし 唐の菩提流志 ( ? —五二七 ) の訳による三十巻の経典 三宝院には十八巻が伝わる。巻第一から五、十から十四、 十六、十八、二十二、二十四、二十六の十六巻は奈良時 代の写経であるが、巻第六と三十は平安時代中期の補写 お - つまし である。黄麻紙を用い、巻第十と十一の軸木に「大師御筆」 しようりようしゅう と朱書があるため空海筆と伝えられたが、筆跡は異なっ 性霊集 + 帖 さいしぎよくざゅうのめいだんかん ている。巻第十二と十八には平安時代初期の白書の書き 空海著 崔子玉座右銘断簡 入れや白点がみられ、補写の二巻とあわせて教学の研究 紙本墨書 伝空海筆 に資されたものであることがうかがわれる。また京都・真各縦一一五・二横一五・二 紙本墨書 宗院には同経の巻第十七が所蔵されるが、これは三宝院鎌倉時代十三世紀 縦二八・五横七一・二 京都・醍醐寺 平安時代九世紀 ( 高梨 ) と一具のものである。 しんぜい 和歌山・宝亀院 空海が著した漢詩や漢文作品等分を弟子の真済が編集 へんじようほっきしようりようしゅう したものの鎌倉時代の写本。正確には『遍照発揮性霊集』 崔子玉 ( 七七—一四一 l) は中国・後漢時代の官僚、名は暖 通常知られている『性霊集』は略称。「遍照」は空 で子玉は字である。『本朝能書伝』によれば本来は三十八 海の法号である。その成立は不明ながら、空海の晩年に 行七十六文字が大字でしたためられた巻子装であったと 当たる承和 ( 八三四—四八 ) の初年とする説が有力。百十考えられ、古来より空海の筆として伝わった。本作品は 余篇の作品が収められる。第巻八・九・十は散逸しており、 その座右銘の巻頭部分にあたる二句十字の断簡。現在台 さいせん 仁和寺の済暹が空海の遺稿四十七篇を拾集して補い、承大師会 ( 東京美術倶楽部内 ) など何箇所かに同様の断簡が 暦三年 ( 一〇七九 ) に『続遍照発揮性霊集補闕鈔』三巻を編分蔵される。「人の短を道うこと無かれ、己の長を説くこ 集して現在の形の十巻となった。巻第一には詩十篇、巻と無かれ」と大書されたその意は、よき人間足らんとする 第二には碑三編、巻第三には詩・表・序・状五篇、巻第四に人生訓そのものであろう。まさに座右銘として日々接す は表・啓・遺言十九篇、巻第五には啓・書七篇、巻第六から ることで培われるべき心がけを明確に表していて興味深 八には願文・表白・知識書四二篇、巻第九には奏状・表・勅 特に草書体が極めて見事な筆捌きで書かれており、 9 ◎ だいびるしゃなきよう 大毘盧遮那経巻第六・巻第七二帖 だいびるしゃなきようくよ - っしだいほうぎしょ 大毘盧遮那経供養次第法義疏巻第一一一帖 紙本墨書 ( 巻第六 ) 縦一七・三横一四・五 ( 巻第七 ) 縦一七・四横一六・七 ( 法疏 ) 縦一七・三横一四・五 平安時代十世紀 和歌山・竜光院 『大毘盧遮那経』は通常「大日経」の略名で知られる真言 こん′」うちょうきよう 宗の根本経典。「金剛頂経」とともに金剛界・胎蔵界両部で けんぎよう えん

2. 「空海と密教美術」展

高雄山寺に居を構えた空海は、密教宣布の活動を本格的に開始する。弘仁元年 ( 八一〇 ) 十月に国家のために修法を行うことの許可を 求め、その間は高雄山寺より出ないとしている ( 『性霊集』巻第四 ) 。弘仁二年に長岡京所在の乙訓寺の別当となり、弘仁三年に辞して高 雄山寺に還住したと伝える資料がある。弘仁三年十一月に金剛界灌頂、同年十一一月に胎蔵界灌頂、同四年三月に金剛界灌頂という、人々 が密教尊と縁を結ぶ儀式を行っている。その時の参加者名簿が「灌頂歴名」 ( ) で、一回目と二回目の筆頭には最澄の名前がある。弘 仁三年十二月に高雄山寺の三綱 ( 寺の役職 ) を択んでいる ( 『性霊集』巻第九 ) 。 高雄山寺は和気氏によって建てられた寺であるが、天長元年 ( 八二四 ) に同じく和気氏によって建てられた神願寺と合併して神護国祚 真一一一口寺 ( 神護寺 ) と名を改め、純粋な密教寺院となった ( 『類聚三代格』巻第一 I)O 空海が精力的に堂宇の整備を進めたことは、承平元年 ( 九三一 ) に記された神護寺の財産目録である『神護寺実録帳』からうかがうことができる。主要なものを抜き出せば、次のような堂宇や 安置仏があったことが知られる 根本堂 金色十一面観音像 檀像薬師仏像一驅 檀像阿弥陀仏一驅 八幡大菩薩像一鋪 根本真言堂 胎蔵曼荼羅一鋪 金剛界曼荼羅一鋪 金銀泥絵赤紫綾裏八葉形錦。天長皇帝御願。 五仏堂 金色金剛界等身五仏 五大堂 五大忿怒彩色木像 天長皇帝御願 毘廬遮那宝塔 〈神護寺ー日本密教の出発点〉 に居を構えたという。その頃、最澄との交流があり、「風信雲書」の書き出しであることから名づけられた「風信帖」 ( ) は、最澄に宛 てた空海自筆の書状である。

3. 「空海と密教美術」展

〈金剛峯寺ー理想の壇場〉 密教では人定 ( 禅定・瞑想 ) を重視するが、そのための場は深山中の平地が適する。空海は神護寺で活動を続けながらその地を求め、 像弘仁七年 ( 八一六 ) 六月十九日に高野を賜ることを天皇に願い出ている ( 『性霊集』巻第九 ) 。当時の高野は、人の通った跡のない、四方を 母山に囲まれた幽静な平地であった。弘仁十年にはじめて結界を設けて伽藍建立を開始する ( 同 ) 。承和元年八月に一一基の毘盧遮那法界体 坥性塔を建てるために人々に協力を求めている ( 『性霊集』巻第八 ) 。二基とも失われたが、現在の大塔と西塔にあたり、大塔の方が先に完 羅成して胎蔵界の五仏、西塔は仁和三年 ( 八八七 ) 完成といわれ、金剛界の五仏が安置された。今回出品される大日如来坐像 ( ) は、西 雄塔安置像のうちの一体である。 高 ところで、『日本後紀』弘仁十二年五月二十七日条には、この頃の空海について興味深い記述がある。それは讃岐国からの言上で、農 図 挿 業用溜池の堤防を修造しているが工夫が集らない。空海は当地の出身で、山中で修行し鳥獣に親しみ、唐で仏教を学んだ人物であり、 というものである。当時の一般の人々 いまは平安京に住むが人々から慕われている。そこで空海を責任者にして事業を完成させたい、 の空海への評価を知ることができる。 挿図 2 金剛業菩薩 五大虚空蔵菩薩彩色木像五驅 以上のうち、高雄山寺以来の堂宇と考えられる根本堂のほかは、密教尊像が安置される。根本真言堂に安置される赤紫綾に金銀泥で 描かれるという胎蔵界と金剛界の曼荼羅は、高雄曼荼羅とも呼ばれる両界曼荼羅図 ( 引 ) のことで、淳和天皇の発願であることがわか る。これは入唐中に恵果から授けられた彩色の両界曼荼羅、あるいはその写本を、金銀泥で写したものである。五仏堂に安置される五 仏は、大日如来をはじめとした密教では最重要尊像であり、現存しないが空海が止住している間に造られたはずである。五大堂には、 これも淳和天皇の発願とあるので、空海在世時のものであろう。山中に所在するために大きな堂 五大明王が安置されたが現存しない。 宇の建立が難しかったのか、東寺とは異なって五仏と五大明王は別の堂宇に安置されている。五菩薩がなく、五大明王が安置されたの は、より密教らしい尊像が選択されたためであろう。 部 . ) は、『三代実録』貞観二年 ( 八六〇 ) 二月二十五日条によれば、空海の弟子真済によって造られ なお、宝塔と五大虚空蔵菩薩 ( z たことがわかる 一一東寺講堂の立体曼荼羅 空海の活動はしだいに広がり、弘仁十三年に奈良・東大寺に灌頂道場 ( 真言院 ) を建立する。そして、弘仁十四年には、東寺の経営を 任されたのである。 227

4. 「空海と密教美術」展

空海 日本密教の祖 んう の讃岐国多度郡に冫 末期の亀五年七四一、 る鷲名を魚 ッ気みうきようどう、 しう変瑾の ) ・ナな不安綻《世情 0 な空海」践的イ動を重んげ 0 在野 0. 仏教者にわりなみ畭良・ぎ野 , 大搴・ けられ ( 明星が飛び込んくるのを体感るなどの囀秘的体験を積んでいく。そして暦生ハ年 ( 七九七 ) 、 十四歳 0 時に儒教・道教・広教 0 最も仏教が優ことを主張する『聾瞽指帰」を墸「 ~ ~ れこそまさに後に日 本密教祖となる空毎の」家宣 = 号まやた。 " →」 0 章は、幅広」中町 0 古典や仏」関す学識」基づぎ ( 自 00 思想遍歴と出家 ( 0 決意を流麗な漢文と 力強「書て表わした若き空海の人物を象徴する自筆の「聾瞽指帰 5 ) を中心として、ぞの執筆前後の学習内容 を彷彿させる奈良時代に書写された密教経典 ( 659 ) 、一海っ姿を伝える「弘法大師像」 ( 1 ( 2 、 3 ) 、 生厓績を描いた「弘法大師行状絵詞」 ( 4 ) 、空海が書いた漢詩文を集めた「性霊集」 ( 2 ) などにより、空海 の人となりを紹介する。 章

5. 「空海と密教美術」展

りもうひつほうけんひょう 狸毛筆奉献表一巻 伝空海筆 紙本墨書 平安時代九世紀 京都・醍醐寺 空海は人唐中の経験と見聞をもとに中国・唐での筆作り 第ニ章 の技術を日本に伝えるため、真書・行書・草書・写書法の書 ごんぞうそうじようぞう 人唐求法ー密教受法と唐文化の吸収 勤操僧正像一幅 法別に四種の筆を製作させたといわれる。これは弘仁三 絹本着色 年 ( 八一 (l) 、空海が嵯峨天皇 ( 七八六—八四一 l) にその筆 縦一六六・四横一三六・四 を献じた際に提出された上表文として伝えられるもの。 平安時代十二世紀 上表文によれば空海が筆生の坂名井清川に、唐で使われ和歌山・普門院 しんごんしちそぞう 真言七祖像七幅 ていたさまざまな筆に関する見聞をもとに製作法を伝授 勤操 ( 七五八—八二七 ) は大安寺信霊のもとで出家し、 ( 善無畏・金剛智・不空・一行・恵果 ) 空海請来 し、自ら監督して作らせたとある。『性霊集』巻第四にも「奉善議に三論を学んだ三論宗の碩学。紫宸殿で諸宗の大徳 ( 善無畏・金剛智・不空・一行・恵果 ) 李真等筆 献筆表」や同趣異文の上表文として「春宮献筆啓」一首が収 を論破して少僧都に任じられるなど弁舌に長けた人物で絹本着色 載される。また末尾には安土桃山時代の醍醐寺座主で三 あったという。造東寺別当・造西寺別当も務めた。最澄や ( 善無畏 ) 縦二一一・二横一五〇・六 ( 金剛智 ) 縦二二・五横一五七・二 宝院門跡の義演 ( 一五五八—一六二六 ) による寛永二年 ( 一 空海のもたらした新来の仏教にも理解を示し、空海が青 ( 不空 ) 縦二一二・三横一五〇・六 六一一五 ) 六月十九日付の奥書があり、そこでは空海自筆と 年期に山林修行を行っていた折に『虚空蔵菩薩求聞持法』 ( 一行 ) 縦一二〇・九横一四八・五 して醍醐寺に相承されたとあり、後水尾天皇の叡覧に供 を授けた「一沙門」とも伝えられるが、近年ではその沙門 ( 龍猛 ) 縦二一二・四横一五〇・六 されたことが知られる。現在の見解では、空海の字の特 を大安寺僧の戒明にあてる説が有力となっている。戒明 ( 龍智 ) 縦二一三・〇横一五一・二 ( 恵果 ) 縦二一一・一横一四七・九 徴が残されているものの、行の流れと文字のバランスに は空海と同じ讃岐の出身。 ( 善無畏・金剛智・不空・一行・恵果 ) 唐時代九世紀、 不調和の個所もみられる点、淡墨の界線が引かれた料紙 本画像は、弁舌に長けた勤操の人物を表すように、牀 ( 龍猛・龍智 ) 平安時代 銘の持っ世界観を余すところ無く表現していることから に墨書されるが、四行目までと三行目以降が継がれてお座に坐し、両手を構えて口を開いて何かを語る説法の様 も、その流麗な筆致が空海の作と伝えられた所以である。 り、『性霊集』巻第四の上表文と比較すると本文に欠落が子を描き出している。老相でありながら活き活きとした 従来空海の書風を継承した摺模本と考えられてきたが、 あり、文章が連続していない点、そして差出書の署名部その姿は、空海請来の真言七祖像の五祖像 ( 凵 ) に通じ 空海自筆とされる真言七祖像 ( 凵 ) の賛や『金剛般若経分が空白であることなどからも、空海自筆ではなく平安るような、しつかりとした骨格、存在感を示しながらも、 開題残巻』 ( ) などと比較して、本作品を自筆とする説時代前期の写しと考えられている。しかしながら能書で ほぼ一定の細さの柔らかで流暢な描線と面的な暈によっ が有力となっている。 さまざまな書法に通じていたとされる空海が筆造りにもて、より平明化した親しみを感じさせる描写・造形になっ 能力を発揮したことがうかがえる点で興味架 ) ている。画像の上部には『性霊集』巻第十 ( 川 ) 所収の空 海の撰述による勤操への追悼文「故贈僧正勤操大徳影讃并 序一首」に基づく讃文が墨書される。これは、勤操の弟子 ( 高梨 ) 狸毛筆四管真書一行書一草書一写書一 達が天長五年 ( 八二八 ) の一周忌にあたり、師の冥福を祈 右、伏奉昨日進止、且教筆生坂名井 / 清川、造得奉進り学徳を称えるために檀像を造立した折、空海に文を求 空海於海西所聴見 / 如此、其中大小長短強柔齊尖者、随めたものであるという。 / ( 以下欠 ) 星好各別不允聖愛、自外八分小 / 書之様、 画面右下隅の墨書銘から本図は、永正九年 ( 一五一一 ) かくしゅん に、菩提山宝幢院の了俊により、先師覚俊房等の菩提の 躍書臨書之式、雖未見作、 / 得具足ロ授耳、謹附清川奉進、 不宣 / 謹進 ために天川求聞持堂に寄進されたことが知られる。菩提 しようりやくじ 弘仁三年六月七日沙門 山宝幢院は現在の菩提山正暦寺 ( 奈良県 ) にあった子院と ( 沖松 ) ( 高梨 ) みられている。 無道人之短、無説己之長 〔釈文〕 〔釈文〕 進 しよう 2 イ 5

6. 「空海と密教美術」展

るがくそう 年でもあった。留学僧として唐に渡るには正式な僧になる必要があったが、なぜそれに合わせるように得度が可能であったのか、そも そも、なぜ留学僧に択ばれたのかは不明である。その時点ですでに僧として高い評価を得ていたのかもしれない 〈人唐〉 『日本後紀』延暦二十四年六月八日条によると、遣唐使一行は延暦二十三年七月六日に肥前国 ( 現在の佐賀県 ) 松浦郡田浦を出航する。 当時、大陸への航海は命がけであり、空海が乗った船は嵐のため予定地の明州 ( 現在の浙江省寧波市 ) から南に遠く離れた福州 ( 現在の 福建省 ) に八月十日に漂着した。その後も、上陸許可がおりずに一行はそこで足止めされ、空海が福州の監察使 ( 責任者 ) に書状を送っ て許可を求めている ( 『性霊集』巻第五 ) 。そのかいもあってか大使等の長安人りは認められるが、空海には許可がおりず、改めて許可を 求めている ( 同 ) 。 十二月二十一日に長安に着くが、すぐに仏教の修行に集中することはできなかった。翌延暦二十四年二月に遣唐使が帰国すると、空 海はようやく時間を得て高徳名僧を歴訪し、偶然、青竜寺で師となる恵果に出会った。恵果は、多くの密教経典を漢訳し、密教を大成 した不空の弟子で、その不空は、インドから密教を中国に伝えた金剛智の弟子であった。 初めて会ったときに恵果は、空海が長安にいることを知っていて、会うことが待ち遠しかった、と笑みを浮かべて言ったという。そ れが二月以降の何時であったかは不明であるが、六月に胎蔵界学法灌頂、七月に金剛界学法灌頂、八月に伝法灌頂を受けている。学法 伝法灌頂を済 灌頂は、密教尊と縁を結ぶ結縁灌頂のことであるが、伝法灌頂は、密教のすべてを修めたものでなければ受けられない ませると、恵果は「密教は奥深く、文章で表すことは困難である。かわりに図画をかりて悟らないものに開き示す。種々の姿や印契は、 仏の慈悲から出たもので、一目見ただけで成仏できるが、経典や疏では密かに略されていて、それが図像では示されている。密教の要 はここにあり、伝法も受法もこれを捨ててはありえない。」といって、両界曼荼羅・経典・法具を造って空海に授け、帰国して布教するこ とを勧めた。 十二月に恵果が没すると空海は帰国を決意する。ちょうどその頃、同年一月に徳宗皇帝が没し、順宗皇帝に代わったことへの慶弔の 意を伝えるために日本から高階真人遠成が派遣されていた。空海は遠成に帰国を願い出たのであった ( 『性霊集』巻第五 ) 。翌大同元年 ( 八〇六 ) のおそらく三月に長安を出発、四月に越州 ( 現在の浙江省紹興市 ) に着くと、仏典その他の書物収集への協力を越州の節度使 ( 責 任者 ) に依頼している。八月に明州を出航したといい、十月に大宰府に到着する。帰国すると空海は、請来した経典・絵画・彫刻・仏具な どの目録 ( 『御請来目録』 ) を十月二十二日に作成し、朝廷に提出した。今回出品される、真言七祖像 ( 凵 ) ・揵陀穀糸袈裟 ( に ) 、密教 法具 ( 3 、 3 ) 諸尊仏龕 ( 肪 ) は、その目録に掲載される作品である。 さて、空海は留学を二年間で終えたが、当初は二十年間の予定であった。空海は『御請来目録』の中で、期間を短縮した罪は死して余 りあるが、得難い法を生きて請来できたことを密かに喜んでいると述べている。期間短縮が間題となったのか、あるいは文章の習読を 学んだ叔父の阿刀大足が伊予親王に学間を教授する侍読であったため、大同二年十月にあった伊予親王の政変の影響が空海まで及んだ のか、しばらく京に人ることがなかったようである。嵯峨天皇に代が替わると人京し、大同四年 ( 八〇九 ) 七月に高雄山寺 ( 現在の神護寺 )

7. 「空海と密教美術」展

川◎性重亠集空海著京都・醍醐寺 、ンツレー . ン。 討に飛い十心に 眇門まオ差すー多をも 物海へ頑を一石茅 まなまな門強も円ネ。ラ吁之 巻第四 ョト /. ーア′ノ 行樫第第ま窄物を . ト - ) ! 7 ノ 1- ソ ( う」、メリ

8. 「空海と密教美術」展

註法を授けた人の数は延べ百六十六人。 註円座右銘といえば、この崔子玉、すなわち後漢の崔暖のものが最も著名である。 註『遍照発揮性霊集』。 註幻天皇三十七歳の筆跡で、三筆の一人として尊重される能書ぶりを発揮した遺墨である。料紙は、縱簾紙である。 註『文徳実録』は「宮門榜題。手跡見在」と内裏の門額を揮毫したことと能書であったことを記録している。 註当時、法皇は醍醐寺の報恩院憲淳よりの伝法灌頂を伝授してもらおうと懇願していた。手紙はいずれも、徳治三年 ( 一三〇八 ) のものである。一通目は、 伝授を懇請するとともに、憲淳の東寺長者 ( 住職 ) 就任を勧めている。二通目で伝授を受けようとする小野流 ( 醍醐寺三宝院流 ) が正統であることを認め ている。結果、法皇は万里小路殿で灌頂を受けることができた。憲淳は四月に伝授を認めた付法状を提出し、三通目で法皇は当流 ( 小野流 ) の興隆を誓 約している。 註四倒幕計画を進行したが、未然に発覚し隠岐に流された。幕府滅亡とともに京都に帰り、建武の新政を主導した。ところが、足利尊氏の離反があり、後 醍醐天皇は、吉野において南朝を樹立した。第九十六代の天皇。 註跖天皇みずからが政治と行うこと。 註この二か月後の八月に没する天皇の最晩年の筆跡である。印信とは、印を押して証拠とした文書のことで、弟子に秘法を伝授する潅頂の儀式を修了し たものに、仏法を授けた証書として与えられた。 註『入木ロ伝抄』、文和元年 ( 一三五一 I) 尊円親王奥書。ほかには、一人で一切経書写を完成させた藤原定信の右肩上がりの個性的な定信様と、源経信の細 身の書体の細様が知られる。 しょはかせ もりなお 註敦直の曾孫司直 ( 一六八四—一七三八 ) の代には、久しく廃絶していた書博士の官を授けられて、宮廷からの厚遇を受けた。 ( しまたにひろゆき・東京国立博物館副館長 ) さいえん 2

9. 「空海と密教美術」展

一空海の生涯 空海の生涯については、同時代に書かれた伝記や空海自身が記した自伝があり、当時の人物としてはよく知ることができる。最も 重要な伝記は、『続日本後紀』承和二年 ( 八三五 ) 三月二十五日条の淳和太政天皇の弔書に含まれる記述である。自伝はいくつかあるが、 『三教指帰』の序文は出家前の青年期の様子を伝える。『三教指帰』は空海の著述で、儒教、道教、仏教の優劣を述べて、仏教が最も優れ たものであるということを戯曲風に著したものである。内容は、延暦十六年 ( 七九七 ) 頃に著された「聾瞽指帰」 ( 5 ) とほぼ同じ文章で あるが、序文がそれには無い空海の生い立ちの記述に変わっていて、人唐後に書かれたと考えられている。人唐中については、空海が 、 -" ) に、様々なことが記される。また、空海が書いた文章を集めた「性霊集」 帰国後に朝廷に提出した報告書である「御請来目録」 ( 2 ( 川 ) にも、空海の事績を伝えるものが多くある。それらによって空海の生涯を簡単に追うことにする。 〈空海の生立ち〉 空海は、宝亀五年 ( 七七四 ) に讃岐国 ( 現在の香川県 ) 多度郡に生まれた。生家は佐伯氏で、讃岐国造りの流れをくむ家であった。延暦 あとのおおたり 七年 ( 七八八 ) 、十五歳のときに叔父の従五位下阿刀大足から文書の習読を学び、十八歳の時に京の大学に人って勉学に励んだ。大学で 学ぶ間に、一人の僧に出会い『虚空蔵求聞持法』という経典を示された。それは、もし経に説かれている通りに虚空蔵菩薩の真言を百万 遍唱えれば、あらゆる経典の文句を暗記し、意味を理解することができるというものであった。空海はその言葉を信じ、阿波国の大滝 岳に登り、また、上佐国の室戸崎で一心不乱に修行すると、それに応えて虚空蔵菩薩の応化である明星が空に現れたという。 大学では官吏になるための勉強をしていたがイ彳 修一丁するうちに朝廷での出世や経済的な豊かさを求めることが次第に疎ましくなり、 出家を望むようになる。しかし、周囲から忠孝に反するといって反対にあった。『聾瞽指帰』はそのような周囲を説得するように書かれ た、出家の宣一一「ロ書のようなものであった。 その後しばらくの間の事績は不明であるが、『続日本後紀』によると三十一歳の時に得度したという。得度とは国から正式に僧として 認められることをいうので、それまでは未公認の僧であったことになる。空海三十一歳は延暦二十三年 ( 八〇四 ) に当たるが、人唐した 空海の生涯と東寺講堂の立体曼荼羅 丸山士郎 22 イ

10. 「空海と密教美術」展

高野山金剛峯寺は和歌山県伊都郡、紀伊山中の海抜八一五メートルの高地に位置す る。現在は真言宗総本山である金剛峯寺を中心として、百十七の子院が民家や商家に 混じって所在し、ひとつの都市を形づくっている。江戸時代には子院の数が二千近く にもおよび、これら一山全体を金剛峯寺と称していたという。 弘法大師空海は、人唐留学し恵果阿闍梨より真言密教を相承してのち、京都・高雄 山寺 ( 神護寺 ) を拠点として、密教の流布と教団確立に力を注いだ。さらに密教研鑽の 道場として、また人定の地として定めたのが、京から離れた紀州高野の地であった。 弘仁七年 ( 八一六 ) 六月十九日、嵯峨天皇に高野の地を賜るよう上奏文を提出、すでに 真言密教の教えや書での交流を通じて、空海に深い信頼を寄せていた嵯峨天皇は、七 月八日付という異例の速やかさで、紀伊国史に高野下賜の太政官府を発した。この地 を空海が求めた背景は、その上奏文に明らかである。すなわち、「空海が少年の日々、 好んで山水を渉覧していた時、吉野より南に行くこと一日、さらに西に向かって二日 しし、紀伊国伊都郡の南に当たる。四方に ほどで、平原の幽地があった。名を高野と ) は高い峯が連なり、人跡は途絶している。今ここに、上は国家のため、下は諸々の修 行者のために、荒れた藪を刈り平らげて、修禅の一院を建立せんと思うものである。」 しどそう と ( 『性霊集補闕抄』巻第九 ) 。入唐し正系の真言密教を会得する以前の空海は、私度僧 ( 国家に認定された官僧ではなく、道を求めて遍歴する僧 ) として四国や吉野など、各 地の山水霊地を訪ね歩いており、かねてより心にとめていた中に高野の地があった。 かつら 七世紀後半には、『高野大師行状図画』 ( 金剛峯寺蔵鎌倉時代 ) にも登場する、大和葛 えんのおづぬ 城山の山林修行者で後に修験道の開祖に仮託される役小角 ( 役行者 ) があり、奈良時代 ごみよう しんえい どうせんしようご ( 八世紀 ) 、吉野・大峰山で修業した元興寺の神叡や、大安寺の道瑢、勝虞、護命ら南 都大寺の僧など、山岳修行の求道者が数多く存在した。空海もまた各地の霊地を訪ね、 山岳也欠こゝ 上ノーしだかれた信仰、つまり地主神の崇拝と仏教の信仰が混在したありかたに 強く心を惹かれていったものと想像される。 空海は自らの理想とする密教伽藍を建立するにあたり、まず高野の地主神である丹 ・コラム 空海と高野山ー山に抱かれた弘法大師 根本大塔