神護寺 - みる会図書館


検索対象: 「空海と密教美術」展
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1. 「空海と密教美術」展

め宇佐に赴くと、八幡神はその託宣を否定し、自分のために寺を建てれば国家安定の ために力を尽くすと託宣をする。その返事を持ち帰った清麻呂は怒りを買って左遷さ せられるが、称徳天皇没後に許され、八幡神との約東を果たすために建てたのが神願 寺である。神願寺には、定額寺という寺格が国から与えられていたが、高雄山寺と神 願寺の合併の際には、その寺格を引き継ぐことが重要であった。八幡神像や八幡宮が 神護寺にあるのはそのためである。 さて、神護寺では仏と神が共存するが、日本に仏教が伝来して以降、両者の関係は 必ずしも良好ではなかった。『日本書紀』によると、日本に仏教が公式に伝えられたの は欽明天皇十三年 ( 五五一 l) のことである。欽明天皇は仏教を受容するか否かを諮間す ると、賛成派がいる一方、古来より祀る日本の神々が怒るという理由で反対する者も 時を経て八世紀半ば。伊勢国の多度神は、己が神であることを悩み、神であること をやめて仏教に帰依したいと願った。満願という僧はそれを受けて多度神宮寺を建て、 多度神の像を造って多度大菩薩として安置したという。この奇妙な話は、神を仏教に 取り込むための理論で、当時それに類似した縁起を持っ神宮寺と呼ばれる寺が各地で 造られたのである。神護寺の前身である神願寺も、神の願いで建てられた寺という点 で、神宮寺と性格を同じにするものである。 しかしこの頃にも、仏と神は相容れないという考えは根強くあった。称徳天皇は、 道鏡を神事である大甞祭に立ち合わせる際に、神は仏教から離れて触れないものと 思っている人がいるが、経典には神が仏を守るということが書かれているので、僧侶 が大嘗祭に参加することは問題ないと述べている。八世紀後半になっても人々の間に、 仏と神は相容れぬという意識があったことがうかがえる 九世紀になると、仏と神に新しい関係が考えられるようになり、その関係をいち早 く取り人れたのが空海であった。空海は、高野山に金剛峯寺を建立する際に神々に対 し、この伽藍にいる仏教を破壊する悪鬼神は、結界から七里の外に出で去れ、仏法を 護る善神鬼は意のままに住せよ、と告げている ( 「高野に壇場を建立して結界する啓白 の文」『性霊集』巻第九 ( 川 ) ) 。空海は神を仏として取り人れるのではなく、仏教を護 る役割を与えたのである。神護寺根本堂に安置された八幡神は多度神のように大菩薩 と呼ばれたが、神護寺はもはや神のための寺ではなかった。空海は、八幡神を鎮守と して神護寺に迎い人れたのであった。それは称徳天皇が用いた理論を発展させたもの のようにもみえる。 ( 丸山士郎 ) 解虞諟奏 去證師杦 . 常宏延喜工、翁仕 土寸主廖明を長ニ年ハ月日 一堂ん 玉回皮をル堂一宇 全色丈觀希僚長支をす 甁像霈度一驅萇ニ尽晉 種ま何弥一軈・長ニをア 八大善茂一鋪 庄 = 箭ニ 台未礼第ニ基 六回檜皮根笨重宅堂一宇右言戸寘 三回風五を一暠庇 舍色全粤身玉 三河旨大堂一早 : 臭在 冢 . みマ三 ( 0 す三せ享長五く三寸 電・甸立五く三寸六足理。居萇 , 疋玉寸 小亠剛夜主長み疋三寸 《神護寺実録帳》 《僧形八幡神》神護寺蔵 707

2. 「空海と密教美術」展

空海は大同元年 ( 八〇六 ) に唐より帰国するが、しばらくの間その足取りを知ること ができない。大同四年頃に京都の高雄山寺に居を構えると、弘仁三年 ( 八一一 I) に人々 が密教尊と縁を結ぶ灌頂という儀式を初めて行うなど、密教宣布の活動を開始する。 高雄山寺は、日本の密教の出発地となったのである。神護寺はその高雄山寺と神願寺 という、いずれも和気氏が建立した二寺が、天長元年 ( 八二四 ) に合併して成った寺で ある。 承平元年 ( 九三一 ) に記された、寺の資財を列挙する『神護寺実録帳』という史料によ ると、当時の主な堂と安置仏は次のようであった。 十一面観音像、薬師仏像、阿弥陀仏、八幡大菩薩像一鋪 根本堂 根本真言堂胎蔵界曼荼羅、金剛界曼荼羅 金剛界五仏 五仏堂 五大堂 五大明王 毘廬遮那宝塔五大虚空蔵菩薩 平岡神宮 これらのうち根本真言堂、五仏堂、五大堂、毘廬遮那宝塔は、安置仏からして空海 人寺後の造営である。一方、根本堂は、奈良時代以来の尊像が安置されていること、 また根本堂という名称から、空海以前にあった高雄山寺の堂であったと推測される。 ところで、『神護寺実録帳』には不思議な記述がある。根本堂に祀られる八幡大菩薩 像である。一鋪とあるので画像であることがわかるが、寺の本堂ともいうべき堂に神 像が祀られたのである。さらに、寺内には平岡神宮という神社もあった。これは中世 に山下に移された平岡八幡宮のことである。寺院にもかかわらず存在する八幡神像と 平岡神宮は、合併した一方の神願寺に由来するものであった。 ここで神願寺の歴史を簡単に紹介しようと思うが、それにはいわゆる道鏡事件が関 わっている。聖武天皇の娘である称徳天皇は、僧道鏡を寵愛し、道鏡を皇位につける べしという九州宇佐の八幡神の託宣を得る。和気清麻呂は八幡神の真意を確かめるた 神護寺空海と神 ・コラム : をわを 、、物ト しいト 神護寺 ノ 0

3. 「空海と密教美術」展

高雄山寺に居を構えた空海は、密教宣布の活動を本格的に開始する。弘仁元年 ( 八一〇 ) 十月に国家のために修法を行うことの許可を 求め、その間は高雄山寺より出ないとしている ( 『性霊集』巻第四 ) 。弘仁二年に長岡京所在の乙訓寺の別当となり、弘仁三年に辞して高 雄山寺に還住したと伝える資料がある。弘仁三年十一月に金剛界灌頂、同年十一一月に胎蔵界灌頂、同四年三月に金剛界灌頂という、人々 が密教尊と縁を結ぶ儀式を行っている。その時の参加者名簿が「灌頂歴名」 ( ) で、一回目と二回目の筆頭には最澄の名前がある。弘 仁三年十二月に高雄山寺の三綱 ( 寺の役職 ) を択んでいる ( 『性霊集』巻第九 ) 。 高雄山寺は和気氏によって建てられた寺であるが、天長元年 ( 八二四 ) に同じく和気氏によって建てられた神願寺と合併して神護国祚 真一一一口寺 ( 神護寺 ) と名を改め、純粋な密教寺院となった ( 『類聚三代格』巻第一 I)O 空海が精力的に堂宇の整備を進めたことは、承平元年 ( 九三一 ) に記された神護寺の財産目録である『神護寺実録帳』からうかがうことができる。主要なものを抜き出せば、次のような堂宇や 安置仏があったことが知られる 根本堂 金色十一面観音像 檀像薬師仏像一驅 檀像阿弥陀仏一驅 八幡大菩薩像一鋪 根本真言堂 胎蔵曼荼羅一鋪 金剛界曼荼羅一鋪 金銀泥絵赤紫綾裏八葉形錦。天長皇帝御願。 五仏堂 金色金剛界等身五仏 五大堂 五大忿怒彩色木像 天長皇帝御願 毘廬遮那宝塔 〈神護寺ー日本密教の出発点〉 に居を構えたという。その頃、最澄との交流があり、「風信雲書」の書き出しであることから名づけられた「風信帖」 ( ) は、最澄に宛 てた空海自筆の書状である。

4. 「空海と密教美術」展

章 密教胎動ー 神護寺・高野山・東寺 空毎はた同元年 ( 八〇六 ) に唐ら帰国する。その後 ( ・数年の動向は明らかではないが、大同四年 ( 八〇九 ) の七 までには京都へ入 0 ていたとられる。 京都では高雄山寺 ( 後の神護寺 ) に居を定め、一密教経典の貸借を通して最澄と交流し、また自ら筆を執った書跡 。。さが や漢詩の献上を通じて嵯峨天皇との信頼関係を築いて一いく「 - そして弘仁三年 ( 八こ l) 十一月と十ニ月、一日本ズ初 けちえんかんしよう めての胎蔵界・金剛界の両部の結縁灌頂を行う。そのときの参加者名簿が「灌頂歴名」 ( ) で、その筆頭には最 澄の名前が記されている。その後、 , 弘仁穴年 ( 八一五 ) 頃から本格的な密教宣布の活動を始め、弘仁七年 ( 八一六 ) 高野山の下賜を請い許可され、翌年 0 弘仁八年 ( 八 L 七 1 に高野山の開創に着手する。更に弘仁十四年 ( 八一 llll) 正 月十九日には国立の寺院であった東寺を嵯峨天皇から賜ることとなる。また天長元年 ( 八ニ四 ) には、入京以来居 しんごこく、そしんごんじ としていた高雄山寺を和気氏から付属され、寺名を神護国祚真一言寺と改め、・灌頂堂や護摩堂などを建立して真言 。寺院としての充実を図っていく。 この章では ) 神護寺の灌頂堂用に制作された両界曼荼羅図 ( 高雄曼荼羅 ) ( ) や、高野山に伝わる法具や経典 類、空海の構想に基づいて造像された東寺講堂の仏像群 ( 9 55 ) など、日本の密教寺院の原点といえるこれら の寺院を中心とした、密教揺籃期の状況をうかがわせる絵画、書、仏像、工芸を紹介する。

5. 「空海と密教美術」展

業用虚空蔵菩薩坐像 ( 五大虚空蔵菩薩のうち ) 京都・神護寺 7 男

6. 「空海と密教美術」展

◎ 蓮華虚空蔵菩薩坐像 ( 五大虚空蔵菩薩のうち ) 京都・神護寺 こし 00 どご ノ .92

7. 「空海と密教美術」展

引◎ 両界曼荼羅図 ( 高雄曼荼羅 ) 京都・神護寺 金剛界 97

8. 「空海と密教美術」展

◎ 両界曼荼羅図 ( 高雄曼荼羅 ) 京都・神護寺 ュすを洋 ま当を 胎蔵界 .96 ・

9. 「空海と密教美術」展

第一章空海ー日本密教の祖 第二章入唐求法ー密教受法と唐文化の吸収 コラム空海と長安の町沖松健次郎 第三章密教胎動ー神護寺・高野山・東寺 コラム神護寺空海と神丸山士郎 コラム空海と高野山ー山に抱かれた弘法大師伊藤信一一 コラム東寺賜与ー桓武・嵯峨朝における「鎮護国家」の再生高梨真行 第四章法灯ー受け継がれる空海の息吹 空海と日本の書島谷弘幸 空海の生涯と東寺講堂の立体曼荼羅丸山士郎 空海と高雄曼荼羅沖松健次郎 作品解説 参考文献 空海年譜 用語解説 出品目録 List of Exhibits 目次 図版 Ⅳ 282 276 274 272 242 233 224 216 163 122 Ⅱ 6 106 85 60 35

10. 「空海と密教美術」展

第二章の「降三世品」に基づくと考えられている。 このように、両界曼荼羅は、空海の師恵果が『大日経』『金剛頂経』の基本の部分を押さえながら、経説にない要素を加味して新たに構 成を考えたものであったことがわかる。 それでは次に高雄曼荼羅について見てみよう。 高雄曼荼羅の由来 じんごじりやっき 高雄曼荼羅については『神護寺略記』 ( 以下、『略記』 ) の灌頂院の条において、 。在二面庇戸七 右承平実録帳云。六間桧皮葺根本真言堂一宇 日本記日。空海僧都新建灌頂堂云々 具。在額云々。 奉安置 金泥云々 胎蔵界曼荼羅一鋪 金剛界曼荼羅鋪 右承平実録帳云。胎蔵界曼荼羅一鋪八副金銀泥絵。赤紫綾。裏八葉形錦。縁同。紐并軸。 桶尻等。金剛界曼荼羅一鋪。七副装束同上。天長皇帝御願云々。此曼荼羅是也 じゅんな しようへいじつろくちょう と「承平実録帳」の文を引きながら述べられる曼荼羅にあたるものとして、空海が建てた灌頂堂用に、淳和天皇 ( 七八六—八四〇、在位 八二三—八三三 ) の御願により天長年間 ( 八二四—八三一一 l) に制作されたものとして理解されている。実際、高雄曼荼羅の胎蔵界は絹八 枚継ぎ、金剛界は絹七枚継ぎで記録と規模が一致し、材質・技法も赤紫綾、金銀泥のみによる描写と一致している。また、制作に当たっ ては、傷みが進んでいたとはいえ当時まだ存在していたと思われる請来原本を参照したか、弘仁十二年 ( 八二一 ) に請来本に基づいて新 たに制作された第一転写本を基にしたと考えられている。 なお、『略記』には続けて、 当寺中絶之時者。被奉宿納蓮華王院宝蔵。其後暫奉渡高野山與。 後白河院御時奉安置当堂畢。曼荼羅被奉返渡院宣云。右大弁宰相親宗奉 れんげおういん ごしらかわいん として、神護寺が中絶した一時期、高雄曼荼羅が蓮華王院宝蔵、高野山と移り、後白河院から返還された経緯が述べられている。この ことについては、神護寺を再興した文覚の起請文『文覚四十五箇條』にも詳しく述べられ、それによって右を補えば、蓮華王院宝蔵に人 る前に一日一仁和寺に人り、宝蔵に入ったあとは後白河法皇から高野山に贈られ、それを文覚が法皇に訴えて神護寺への返還を図り、院 経由で元暦元年 ( 一一八四 ) 神護寺へ返還されたことが知られる。その時の、院が高野山に対して、曼荼羅を院に返還するよう命じた院 宣が宝簡集巻第二十五に収められている。 また、記録上からは一一度の修復が行われていることが知られる。一度目は、後宇多法皇宸筆の「高雄曼荼羅修復記」に詳しく、徳治三 年 ( 一三〇八 ) 春に法皇自身が参詣の折に曼荼羅を実見したところ、画面の損傷個所は多く、絹が断片化して脱落し箱の底に多く集めら