十三年間の在位中において、現在ロリュオス遺跡といわれている初めての本格的な都城 を建設し、アンコール地域て初めての大貯水池バライ ( 東西三・八キロ、南北〇・八キロ ) を「イ ンドラタターカ ( 『インドラヴァルマンの池』の意味 ) 」の名のもとに開削した。この、ハライは、 現在は機能してはいないが、遺跡として残っている。このバライは平地に五メートルほど の土砂を盛土築堤した簡単な構造てあった。村人を動員して土木工事と堰づくりをしたと バライの表面積は三百ヘクタール、試算によれば貯水量は一千万立方メートルて、 しかしながらこの貯水池の下方低地の灌漑面積は、推定ては五千ヘクタール以上に及んて いた。このバライの完成により、乾季にも裏作などが可能となり、この地域の農業生産が 飛躍的発展を遂げた。そして祖先を祀るためにプリヤ・コー寺院を八七九年に建立し、八八 一年に祭儀を執り行う国家寺院としてバコン寺院を建てた。そこには王と神々を合祀した 特別の神像「インドレシュヴァラ ( インドラヴァルマン王十シヴァ神名を結合した特別の神像名 ) 」 が安置され、五穀豊穣の祭式を執り行っていたようてある。王権の神格化てあった。 壮大な神の世界プランーー第一次アンコール王都 インドラヴァルマン王逝去の後、第四代目の王として息子のヤショヴァルマン一世が前 リハラーラヤて即位した。王は八九三年、大貯水池インドラタターカ中央に煉 王の都城ハ
檳榔子の実八個の僧院生活 九〇〇年ごろ、新王都と前都ハリハラーラヤを結ぶために道路が建設された。この道は 新都の東南角からまっすぐに大貯水池インドラタターカの北東端にまて達し、今も旧土手 道の名称て住民から呼ばれている。この沿道とその近隣には数多くの集落が存在していた と考えてよいだろう。近くには石造りの中小の遺址や土台跡が見つかっているか、これら 集落の木造家屋が中小の寺院を取り囲んて存在していたと推定される。 この祠堂の配置とその数は、神々が住む宇宙を象徴したものてあり、例えば五祠堂は須 弥山の五つの項を表している。これらの祠堂にはすべてにシヴァ神のリンガが安置されて いたという。寺院の下から項上をあおぎ眺めると、項上の五祠堂尖塔のうちに三祠堂尖塔 が見え、中央の大祠堂が他の二つよりも高くなっている。これは、ヒンドウー教のプラフ マー ( 梵天 ) とヴィシュヌとシヴァの三神が世界を維持するという古代インドの故事になら 従ってこの寺院は神々の住まいと同じ状態 ったものて、「三神一体」を表しているという。 につくられており、宇宙世界の基軸てある須弥山を象徴していることになる。 この第一次アンコール王都は、今のアンコール・ワットがすつばりと入る大きさてあっ 新しい都城をなぜ建設するか
ぎなき安泰と発展を祈念して、神仏の世界を地上に実現しようとする行為てあった。 このようにジャヤヴァルマン七世の治下ては、転輪聖王の威力をアンコールの地におい て具現化し、ヒンドウー教の祭礼と仏教勤行を結合することにより、この王国が「神の世 界」となることを念願していた。しかしながら、王の逝去後は、国内外に大きな混乱が起 すべての道はアンコールへ 12 5
古発掘てはインドや西方世界から到来したと思われる出土品が多い。それに比べて中国系 統の出土品が極めて少ない。 ′扶南はインドなど西方諸国と頻繁に往来していたのてあった。 出土品には銀貨・貴金属・装身具・護符など多数が見つかっている。また、ヒンドウー教 きほうきよう 神像や仏像などが数多く見つかっている。また、数少ない中国系の出土品ては鳳鏡など が見つかっている。 かって扶南の領域だったと思われる地域ては、寺院跡基壇、レンガ造りの祠堂、発掘さ れたヒンドウー教神像や仏像、当時の生活用具としての陶器破片、インドや西方世界から 到来した数々の出土品、若干のサンスクリット碑刻文などが発見されている。中国の呉の 使節の見聞録残簡などの検討から、この扶南は当時東西の交易による商取引や人物交流の 点から、東南アジアの中て最大の規模を誇り、先進的な文化を保持していたと思われる。 この扶南国の立国の経済基盤は何といってもメコン川デルタを後背地とした内陸農業て あった。確かに外港オケオは初期段階てはインドからの文物到来の窓口てあり交易港てあ った。もともと扶南の首都は内陸部 ( カンボジア南部 ) にあり、碑文に述べられる農業用語 ( 子 拓など ) などの考察からわかるように農耕地が拡大し、農業を基盤とした後背地が国内の経 済を支えていた 扶南はどのように国家形成をしてきたのてあろうか ? 恐らく現地社会は長い年月にわ カンポジア社会の原風景
一方においては、諸王はそれぞれが国家寺院を建立しようと意図し希望していた。また 一部にはそれを実現もしていた。そして、その寺院内に安置する御本尊には、しばしば王 の名前を付けていた。たとえば、インドラヴァルマン王はその神像に「王名十神」のかた ちて「インドレスヴァラ」神という名 ~ 則をつけ、ヤショヴァルマン王は「ヤショダレスヴ アラ」神という名前て神像を奉納し、祭儀を執り行っていた このように、王が神と合祀されて神格化していたわけてある。史実からいえることは、 どの王も可能ならば、その栄光を誇示するために壮大なアンコール・ワットのような大寺 院 ( 山岳型寺院 ) とその都城をぜひ建立し、そこにおいて国家安泰の祭儀を執り行、 っていた。また、世界の中心山 ( メール山 ) としての大寺院を建立することが王たる者に課 せられた義務てもあった。 なぜならば、建前からいうならば、どの王も前任王の都城や寺院を使うことがてきなか ったからてある。王はこうした祭儀を執り行う山岳寺院や都城を新たに建立しなければな らなかった。これらの構築物の大小とその存在が各王の本当の実力を反映しており、結果 的には王たちのリーダーシップの有無やその繁栄ぶりを証明する一つの裏付け材料になっ たのてある。アンコール地域に寺院と都城が数多い理由は、各王がそれぞれ別々に中心山 寺院と一つの都城を造営しなければならないという例にもとづいていたからにほかなら 149 アンコール朝の研究
当て、スポットライトよろしくあたかも順番に見せ場を作り出しているようてある。さら に入陽の迫るころ、赤いタ陽にあの壮大なアンコール・ワットが赤色に染まり、樹海の濃 い緑色を背景に大伽藍が大空に浮かび上がる。やがて六時ごろ西空には真っ赤な大きな太 陽が沈みはじめ、そのタ陽の余光は尖塔をシルエット状に照らし出す。アンコール・ワッ トの「神秘」といわれる理由がここにある。人間の目の錯覚と渇仰の気持ちを巧みに建物 ぞ提示したアンコール・ワット。こうした崇高な信仰の世界が、今てもカンボジアの密林 の中において悠久の時を刻んている。 かつごう 102
大きさてはない。 ・セデスは、遺体を折り曲げた屈葬てあ ろうと考えた。確かに、近代カンポジアては、 死後に火葬に付される王や王族の遺体をかめ 棺の中に納めるのはこのような屈葬のやり方 てある。底に開けられた穴は、血膿を流出さ せるためのものてあったかもしれないし、蓋 に付けられたロは、葬儀のときに、死者と儀 式に参列している生者とを結び付ける木綿の テープを通すのに使われたのかもしれない。 したがってこれらの容器は、例えばそれが火 瞰葬に付されるまて遺体を一時的に納めたに過 ッぎなかったかもしれない。 しかし、埋葬する ための建物の中に安置されたてあろう。セデ 一スは大型寺院は墓てあると同時に、亡くなっ た王が神として祀られ、死後崇拝される場所 アンコール・ワットは神の世界
ゥー教と仏教が信仰されていた。両宗教とも、 生きとし生けるものの輪廻、転生の教理を基 盤として、さらに解脱へと向かって魂の救済 をしようとする宗教てある。 ヒンドウー教は、一言ていえば、プラフマ ー・ヴィシュヌ・シヴァの三大神を中心に形 成され、そのほかに多数の神々が合祀併存し , 。。第神ている。プラフマー神は理論的には最高神と ュされているが、カンポジアてはヴィシュヌと ヴ シヴァ両神が好まれ、両神の陰に隠れてしま っている。 ヴィシュヌ神は護持神てあり、世界救済の 神てもある。この神は彫像の図像ては一つ頭 てあるが、多くの場合には四本の手を持って いる。持ち物は棍棒、ほら目 ( 、チャクラ ( 円盤、 より正確にいえば車輪型の武器 ) 、一つの珠てある。 シヴァ神
れて、いつも瞑想に耽っている。デヴァター ( 女神 ) たちは壁龕や内庭の壁面に優美て魅惑 的な容姿を見せているし、寺院の壁面を永遠に生き生きとしたものに演出しているのてあ る 大伽藍アンコール・ワット、ナーガ ( 蛇神 ) の欄干に縁取られた石畳の長い西参道、遠く にかすんて見える五基の尖塔、これらの高塔群は天空へ突き出したように見える。広い境 内にある二経蔵とこれら高塔を水面に映す二つの聖池の装置は心憎い限りてある。数キロ に及ぶ三重の大回廊と、その内壁に彫られた薄肉浮き彫り絵図、急傾斜の大階段、高塔堂 の項上まて全壁面に施された巧緻な文様、壁龕などに刻まれたデヴァター立像浮き彫り、 さらに遠くから眺められる天界の宮殿のごとき本殿、均整のとれた左右対称の威容は今も 昔も同じてあった。 アンコール・ワット参詣に出掛けようとする人には、熱帯の強い日差しが照り返してい る午後からが良い。長い五百四十メートルの石畳の西参道をゆっくり本殿に向かって歩く 四時頃にはまだ昼間の残光が眩しく、壁面の丸紋文様や柱の花弁文様などの細かいところ まてはっきり見える。四時一二十分から五時にかけて陽光に少し赤みが差しかけ、本殿の五 尖塔がタ日に映し出される。この時間帯に側柱や格子窓から回廊に横から差し込まれるタ 陽は、数分ごとに場所を変え、浮き彫りの絵図や壁龕の女神立像の群舞に次々と明かりを アンコール・ワットは神の世界 101
アンコール・ワット級の大きさの寺院 ( バンテアイ・チュマール遺跡 ) の建設に際してどれく らいの数の人夫が働いていたのてあろうか。カンボジアて現場監督をしていたフランス人 専門家の試算てあるが、作業員は十六歳から四十五歳ぐらいまての男性て、雨季・乾季の 条件を考えて一日七時間の労働と仮定して、石工約三千人、彫工約千五百人、建築仕上げ 工約四千人、石材運搬人約一万五千人、それに補助作業員などを加えて合計て約一一万五千 人が総掛かりて二十四年間かかったとの推算てある。人夫たちの食事・日用品を運ぶため 毎日約一万台の牛車が駆り出されていたという。これだけの人口が常時働くためには 背景人口が十五万ー二十万人ほど必要てあるという ( 『フランス極東学院紀要』による ) 。それゆ えにアンコール王都周辺には最盛期て約六十万人の人々が居住していたという数字は、説 , 名カか ~ のる スールャヴァルマン二世は即位以来三十余年の歳月をかけて、アンコール・ワットの大 伽藍を建造した。数千人の棟梁が分担して数万人の人夫を使役していたことになる。石エ・ にをつくり、 図師・彫り師・仏師・塗り師などがグループて働いている。彼らは近く 人夫たちは村々から賦 家して移り住み、三十年も四十年も寺院装飾にたずさわっていた。 。灼熱の太陽が照りつける工事 殳として駆り出され、戦争捕虜たちも石切場て働いていた 現場て、彼らは汗と砂埃て真っ黒になりながら働いていたのてあろう。 アンコール・ワットは神の世界