それが民族の固 文化を受容すると同時にもともと持っていた基層文化との混淆を行ない、 有文化の創造と展開につながってきた。第四に様々な文化の交流の一つの帰結として、各 地において地域の自然に適合した生活文化が創られ、そこには他の地域とは異なる独自性 が見られる。この地域に住む多くの民族が、それぞれ固有の文化に加えて、外来文化を取 り込みながら新しい文化展開をくりかえし、保持してきたわけてある。 古代遺跡などの一部分にはそれぞれの民族社会の祖型らしきものが見られるし、そこに はその民族の発展の経過を示す芳香や上薬が残っていた。 たとえば独自の創意とその構成の絶妙さを見せるカンポジアのアンコール・ワットやポ ロブドウールといった遺跡は、インドても肩を並べるものがなく、東南アジアという地域 において釣り合った深遠な調和を保っている。その背景には、これら東南アジア各地の人々 が先史時代からずっと独自て一定のレベルの基層文化を保持してきたことがある。 アンコール文明と高度な技術 アンコール朝はクメール人 ( カンポジア人 ) の建てた王国てある。九世紀から約六百年あま りにわたって続き、最盛期は十二世紀から十三世紀初めてあった。最盛期にはインドシナ 半島の中央部のほとんどを領土としていた。そして、アンコール文明といえば、アジア最 プロローグ
カンポジアの王位は実力で簒奪する 前章て述べたように、カンポジアには王位継承について規定や皇室典範のようなものは したがって実力こそが登位への道てある。ただし、何らかの形て前王もしくは元王 ( 王族 ) とのつながりを提示して、王位を継承てきるという証拠が必要てある。この王位継承 をめぐり十一世紀初頭のカンポジアは、政治混乱に揺れ続けた。 ジャヤヴァルマン五世は、十世紀後半の三十年におよぶ政治的安定と伝統社会の発展を もたらしたが、一〇〇一年亡くなった。王はおそらく四十歳未満だったらしく、子供がい なかったのてあろう。新王位は親戚のウダヤーディティャヴァルマンの手に移ったが、す 二〇〇二年に亡くなったのて、彼はほとんど一年しか統治しなかった。 ′しオ二人の王 新王の死は王位継承戦争の始まりとなった。この内戦は約十年もの間続、こ。 位継承主張者のうち、その一人はジャヤヴィーラヴァルマンてあり、もう一人はスールャ ヴァルマンてあった。 前者はすぐにアンコール王都て権力を掌握し、タ・ケウ寺院の建設に着手したが、一〇 〇六年以後はアンコール地域から放逐されたようてある。この王は一〇〇三年から一〇〇 六年まてアンコール地方ての活動が確認されている。新王権を確立するために高官や補佐
、 1 ま 1 ゞー・イ なを、 41 こ・ら 9 ーーアン 0 ール朝の袞退と再発見 バイヨン廃墟跡 ( 十九世紀フランス )
マル ) などが繁茂していた。しかしアンコール・ワットごけはそのまま近隣の住民たちの仏 教聖地になっていたようてあった。 アン・チャン一世は命令を出して、一五六四年からアンコール・ワットの第一回廊の北 面と東面北側の浮き彫りの作業継続を指示している。十二世紀前半のスールャヴァルマン 二世治下ては、壁面に部分的に下絵が描かれていたに過ぎなかったという。浮き彫りの絵 図が完成したのは一五六六年てあった。それは王が逝去した年てもあった。アン・チャン 一世の息子バラマラージャが、この時期に対タイ軍事作戦を遂行するため一時的にアンコ ール地方に住んていオ 一五七六年に即位したサータ一世 ( 在位一五七六ー一五九四 ) は旧都に再び住民を移し、自 分自身も移り住んだといわれている。アンコール・トム都城内のプリヤ・ピトウ寺院の彫 刻や象のテラス北端の改修工事が十六世紀の修復跡として確認てきる。さらにアンコール・ ワットては、サータ一世によって改修工事が続けられていた。 一五七七年にサ 1 タ王の后 妃が碑文を残し、一五七九年に王自身が城壁や尖塔を修復した旨を碑文の中に記している。 アンコール・ワットは、 かなり早くから上座部仏教寺院に衣替えしていたようてある。中 央祠堂にアユタヤ朝様式の立仏像四体が安置されたのはこの時代てあった。 アンコール地方は半世紀にわたり平穏て活気が戻ってきたところてあったが、タイのア 192
そして有名なアンコール・ワットについては「石の塔の山は南門の外、半里余りのとこ ろにある。俗に魯般が一夜にして造成したと伝えられている。魯般の墓は南門の外一里余 りのところにある。周囲が十里ほどて、石の部屋が数百室ある」と記述されている。 周達観が見たときは、プノン・バケン寺院は建立後四百年あまり経ていたのて、すてに 遺跡になっていた。アンコール・ワットも墳墓てあると考えられていた。在住の中国人が 魯般の墓と称していたのてあろう。「魯般」とは中国のエ匠たちが祭る神てあったのて、『真 臘風土記』を読む中国人にわかりやすく説明するため、この字句を引用していた。 現在、王宮跡を背後にした象のテラスあたりには大樹が茂り殺風景てあるが、往時は 「王宮や官舎、役所はすべて東を向いている。 ・ : その正殿の瓦は鉛てつくられている。 : 梁や柱はとても大きく、どれも仏の姿が彫られていて、部屋はまことに壮観てある。長 い廊下は上下二段になっていて、高くそびえて続いており、きちんと規範に基づいている」 といった様子てあった。 周達観は感動をもって灼熱の太陽の下に輝く華麗な、そして荘厳な王宮の大建築を見て いたたが、これらの壮大な建物はほとんど木造建築物てあったのて、十四世紀半ばから のシャムとの打ち続く戦争てやはり焼失してしまったため、現在はまったく見ることがて きない。王が執務する建物は金製の窓枠て飾られ、鏡をはめ込んだ四角の大柱が屋根を支 中国人が見た十三世紀末のアンコール社会 1 ろ 7
たりインド人来航者たちとの間て交易活動を続けていたと思われる。現地の首長たちはこ うしたインド的原理をまねて少しずつインド文化を自分たちの日常生活の中に受け入れて いたのてあろう。 美術ては扶南時代の彫像などに後グプタ様式の痕跡が見られる。また、現在のカンポジ ア文字の原型はインド文字の僴用てあった。これらのインドの文化要素は当時のカンポジ ア社会て取捨選択され、そしてカンポジア方式に置き換えられた。たとえばカンポジアて 制作されたヒンドウー教神像は明らかにインドのそれとは異なるカンポジア風様式の彫像 となっていた。 真臘の興起 扶南国が六世紀末ごろ衰退し、次に中国史料に掲載された「真臘」国が興起したという が、この国は扶南のもとの属国てあったと記されている。建国説話ては、始祖バラモンに 由来するカンポジアの人々は六世紀半ばに独立を果たし、七世紀には扶南国を併合してし まった。 真臘国は六世紀前後からカンポジア東部から中部にかけて領域を拡張させていたようて、 六一六年ィーシャナヴァルマン一世なる王が登位し、首都を定めた。その首都というのが、
ノレ い、飲、十九世紀フランスのアン「ール・ワット復元図
門研究者などへ送付してきた。こうした調査研究成果は三千一一百六十六ページにおよぶ十 〈上智大学アジア文化研究所刊〉 ( 日・英・ 一一冊の報告書『カンポジアの文化復興』 1 カイホジアの三カ国語 ) にまとめられている。これら膨大な研究成果は、一九八〇年から十七 年にわたってカンポジアの学術的空白を埋める唯一の資料となっている。これらはアンコ ール遺跡全体のマスタープラン作成の貴重な基礎資料となるものてある。 カンポジアの自立を援ける国際協力 アンコール遺跡はカンポジア民族の自負と誇りの源泉てあり、和解を目指す人々の精神 的なよりどころてある。アンコール遺跡の保存修復への国際協力は地道て想像以上に長い 時間のかかる文化貢献事業てあり、二十一世紀に向けてのアジアにおける最大の文化事業 の一つとなるだろう。 アンコール遺跡の現場ては発掘および修復事業を促進するために、日本から事務機器や という声が聞かれる。カンポジ 土木機械、最も新しいハイテク考古の機器などが欲しい、 アの一部の人々の中には、日本人と見れば金があって、何か援助してくれるものと思い込 んている人がいる。そして、すぐに寄贈希望リストが届けられる。これまての日本がお金 にものをいわせてアジアて活動してきたことに原因があると田 5 われる。 206
ア、当ールソト 0 4 7 9 アンコール・ワット 石澤良昭 四講談社現代新書 大伽藍と文明の謎 インドシナ半島の中央に 次々と巨大な寺院を 完成させたアンコール王朝。 建造に費した年月は ? 回廊に描かれた物語とは ? なぜ密林に埋もれたのか ? 遺跡研究の第一人者が カンポジア史を辿りながら 東南アジア最大の謎に迫る。 ・いしざわ・よしあき 一九三七年、北海道生まれ。 一九五九年、上智大学外国語学部卒業。 現在、上智大学外国語学部長。 専攻は古クメール語碑刻文学。 主な著書に「古代カンポジア史研究」ーー国書刊行会、 「甦る文化遺産ーーアンコール・ワット」 ・ー日本テレビ出版部ー・などがある。 現代新書既刊よりーーー東西口ーマ分裂後、ビザンティンとは 対照的な道を歩んだ西口ーマ。弓削達『ローマはなぜ滅んだか』は 「永遠」をうたわれた巨大文明減亡の謎を探る。 魁偉な建築、華やかな学芸を誇った文明がなせ減亡したのか、 その真実に迫る青木晴大「マヤ文明の謎』。 金子史朗云ー大陸の謎』『アトランティス大陸のは、 かって海洋上に存在したという謎の大陸の全容と滅亡の原因をさぐる。 吉村作治「。ヒラ、、、ツドの謎』「ツタンカーメンの謎』は、 古代エジプト文明をめぐる歴史の謎に挑む。 鈴木董『オスマン帝国』は「柔らかい専制」の秘密を語りつつ、 西欧中心の世界史からの読みかえを迫る。 東洋と西洋の古代百万都市を比較する若山滋「ローマと長安』。 アンコール王朝艇生 アンコール遺跡群は、壮大で、プ - え、 しかも建築装飾の素晴らしい 建造物ばかりである : ・ 訪れる人たちは、並はずれて強大な 王権が存続し、王はこれらすべての建造物を つくりだした最高責任者であったと 想像してきたにちがいない : ・ 。だがしかし、実際の歴史をひもといていくと、 それとはまったく異なる史実が判明するのである。アンコール朝の長い歴史上においては、 実力のある王が次々と登位し、その玉座を必死に守ろうとして、命を落とすこともあったという史実がわかっている : ・ 新都城の造営の理由は、王の単なる虚栄心からではなく、王たる者が神から授けられた崇高な使命を遂行し、 王権の確立を都城造営の形で見せる必要があったからに他ならない。ーー耒書より 一石澤良昭一 1295 大伽藍と文明の謎 定価 650 円 ( 本体 631 円 ) I S B N 4 ー 0 6 ー 1 4 9 2 9 5 ー O C 0 2 2 5 P 6 5 0 E ( O ) アンコール・ワットーー目次より ・カンポジア人は「稲田の民」 ・アンコール王朝誕生 ・天空の都城とその宇宙観 ・浮き彫りが伝える十一世紀の人々の生活 ・女神たちの衣裳と表情 ・戦争と侵略と混乱 ・すべての道はアンコールへ ・中国人が見た十三世紀末のアンコール社会 ・中央行政制度 ・アンリ・ムオの再発見とフランス極東学院 ーを第ヨ物 講 談 社 現 カバー・フォトれ田村仁 特製ブックカバー贈呈 右のマークを 2 枚集めて 封書でお送りください〈葉書は不可〉 ノクスのマーク代用も可 宛先 講談社新書販売部ブックカバー係 マークⅡアジアの「豊穣の渦」 ー 295 P650
う余地がない。彫像は実物モデルから着想を得て造像されたようてあり、彫工は胸に迫る 感動をそのまま恐れず塑像化したの ( あろう。この作品は、造形の美しさ、力強さ、それ に素朴質実さにあふれており、そして目鼻立ちにおけるわずかな左右不均衡も忠実に実写 したようてある。 王は生涯二人の王妃によって支えられてきた。最初の王妃ジャヤラージェデヴィーは篤 ごんぎよう 信の仏教徒てあり、王の無事と戦功を祈る勤行を実施していた。その間、王はチャン。ハとの 戦闘を続行し、最初の戦地は遠くてあった。次いてカンポジア領内て戦いを交わしていたと いう。碑文は、王妃が「難行苦行に身を焦がし、厳しい戒律の遵守のためにやつれていた」 「王のなかの王てある夫に再会し、仏に謝して大地に恵みの雨を降らせた」と伝えられる。 この王妃の幸せな生活は短かったに違いない。なぜなら、王妃は王の即位の直後に亡く なってしまったからてある。そこて王は、王妃の妹インドラデヴィーを二番目の王妃とし て迎え、正室の地位を与えた。新王妃も「生まれつき聡明て博学、そして非のうちどころ のない」女性てあったという。 初の仏教徒王 古代カンポジアては、三世紀から六世紀にわたり、ヒンドウー教 ( シヴァ派とヴィシュヌ派 ) すべての道はアンコールへ 11 ろ