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検索対象: アンコール・ワット : 大伽藍と文明の謎
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1. アンコール・ワット : 大伽藍と文明の謎

受容した地域てもあった。 ノ ーラタ』は最も インドから伝わった文化的枠組みのうち、『ラーマーヤナ』と『マ 村人たちが好む勧善懲悪と冒険の物語てあった。アンコール・ワットの浮き彫りには、こ の二大叙事詩がところせましと彫られており、その構図と図像描出には迫真力がある。こ の文化的枠組みがアンコール時代の宗教美術に大きな影響を与えることになる。農村ては 独自にこの物語を翻案して展開させ、新しいカンポジア影絵芝居をつくっていた。また民 話なども一部採話され、加筆されていた。カンポジア版の『ラーマーヤナ』物語は「リム ケー」と呼ばれ、カンポジア人がもっとも好むロ承伝承となっていった。アンコール朝の 王様の名前もインド風に命名されていた こうしたインド的骨組みの総体ともいえる「インド化」について、フランス人の東洋学 者・セデスは次のように述べている。 「 ( インド化とは ) 王権がインド的枠組みのうえに築かれ、ヒンドウー教と仏教の信仰、プラ ーナ ( 宗教書 ) の神話、それにダルマシャストラ ( 法律書 ) の遵守によって特徴づけられ、さ らにそれをサンスクリット語て表記するという一つの組織化された文化の発展として本質 的に理解されるべきものてあろう」 なかてもサンスクリット語から綴り字を借用して古クメール語が表記された。この古ク ノ カンポジア社会の原風景

2. アンコール・ワット : 大伽藍と文明の謎

のような配下がいて、その弟も郡の長の権勢を笠にきて威張り、不正行為を平然と行って いたのてあった。この碑文には、法廷の判決を記すのみて、法廷の長の名前は掲げられて アンコール時代の刑罰の決定には、王または法廷が調停審判的な立場から正邪曲直の区 別を行う場合と、王が布告した法令などに違反して刑罰を受ける場合とがあった。この判 例は、関係者が遵守すべき法令に背き裁きを受けるものて、その判決は公的性格を有して いた。当時において刑罰は、「正しい尺度」て有罪人に対して執り行われたという。 一般的に言って、刑罰は訓戒的措置と予防的目的を含んているのて、厳しい内容の判決 が言い渡されてきた。この判例を見ても、誰が、いつ、どこて、何の事犯を行ったかを順 序よく整理し、事実関係を踏まえながら慎重に審理していた。碑文ては、「場所および時に よって罰せられる」と述べているが、裁判において正確な時および場所の検証は重要な判 断材料てあった。 次に、罪科の適用および刑罰の軽重は、罪人の属する社会階級により異なっていた 会的地位が高くなるにつれて、刑罰が厳しく執り行われた。こうした罪人の属する社会的 地位の高低に応じての量刑の決定は、ヒンドウー法の原理と同じてあった。いかなる刑罰 に科するかは、事実の確定 ( 場所と時 ) および社会階層別刑罰などのような法的慣習が機能 アンコール朝の研究 171

3. アンコール・ワット : 大伽藍と文明の謎

には、王の側近または高官を介して請願書を出さねばならなかった。それを受けて、王は 司法関係者の助けを借りながら自ら事件を審理するか、または法廷へ委任して検討させる かのどちらかてあった。 告訴が彳 一丁われると事件の事実関係が調査されたようてある。その手順としては、まず予 審を担当する官吏が当事者双方を喚間し、事情聴取を行った上て、さらに調書をとり、証人 に証一言を行わせた。続いて王または法廷はさらに詳しい審理を進め、やがて判決となる。 告訴者が法廷に告訴をしたならば、被告人となった人物はます第一にその告訴内容が至 当なものかどうか、あるいは筋違いて事実無根なものかどうかの態度をはっきり表明しな ければならない。逆に告訴人は、その告訴が真正て正当な理由を持っていることを証明し なければならない。法廷の長は調査、証人の証言、証拠書類、さらに神明裁判などを用い て事件の真相を明らかにする。そして罪と罰に対する法的慣習および法源としての判例な どの原則に照らして判決を下すのてあった。 つまり訴訟は、告訴↓反論↓審理↓判決とい う手順て行われていた。 アンコール・ワットの回廊浮き彫りには、偽証人が地獄に転落して罪に服している場面 がある。ヒンドウー教の立場からいうならば、真実を述べる証人にあの世の至福を約束し、 偽証者には体罰を科すことを示している。一般的に碑文ては、特に証人を重要視し、数多 167 アンコール朝の研究

4. アンコール・ワット : 大伽藍と文明の謎

顕職・地位などを識別するのは、彼らが乗る轎や白いパラソルの数てあった。周達観は、 「轎の腕木が四本の金の傘が最高位て、二本の金傘、一本の金傘と続き、さらにその下は轎 の腕木が金てはないが一本の金の傘、そして銀の轎の腕木に一本の銀の傘となる」と五階 級の序列を挙げている。碑文ては、役職には四つの階級に属する高官が就いていると述べ ている。これらの高級官僚は忠誠の証しとして後宮に彼らの姉妺・娘などを差し出してい 王とこれらの妻妾との間の王子たちは、もちろん高位の要職に就いていたし、母の出身 家系ともつながっていた。 王宮内ての要職にどんな人材が就き、どんな実務に携わってい たか詳しくはわからない。ある家系の者が特定の職を世襲的に継承して 時に宗教職は継承者があらかじめ決まっていた。 ある有力家系所属の者がいろいろな高職 を兼務している場合もあった。 報酬は不動産 アンコール王朝はインドシナ半島の全域を版図とする空前の大帝国に発展したが、その 対外政策の理念と広大な地域を征討した軍事組織はどうなっていたのてあろうか。 てんりんじようおう 王は、対外政策の基本的理念として、正義をもって国を治めるという転輪聖王の考え方 いく場合があった。 アンコール朝の研究 1 う 7

5. アンコール・ワット : 大伽藍と文明の謎

そして城門には門番がいて朝開けられ、夜閉じられていた。 木製の大扉が開閉していた と思われ、その柱穴跡が城門て確認ぞきる。ただし、奴隷といわれる身分の者や足の指を 斬る刑を受けた者は入門を許さなかった。アンコール都城には村民が自由に出入りてきた わけてはなかった。まして府内の寺院見物などは不可能てあった。 さらに都城内へ入っていくと、まず彩色の施されたバイヨン寺院につきあたる。周達観 はバイヨンをこう描いている。 「金の塔が一座ある。近くには石の塔が二十余座と石造の部屋が百余室ある。東向に金の 橋が一本あり、金の獅子一一体が橋の左右に並んている。金の仏像が八体、石の部屋の下に 並んている」 に隣接したヾプーオン寺院については、こう記している。 、ハイヨン寺院北則一 「金の塔の北、一里ばかりて銅の塔が一座ある。金の塔よりかなり高く、これを見上げる と抜きんてて高い。その下にもやはり石の部屋が数十室ある」 その北側に接する王宮ピミャナカスについては「さらにその北一里ほどに国王の家があ る。その寝室にまても金の塔が一座ある」と述べ、その金の塔とはピミャナカスのことて ある。アンコール・トムの中心部の光景はまさしく今日私たちが見る遺跡の配置と同じて ある。 1 ろ 6

6. アンコール・ワット : 大伽藍と文明の謎

道路建設は聖なる行為と考えられていたようてあり、王から住民への慈善事業のひとって もあった。具体的な事業とは、道路に沿って「施療院」と「宿駅」を建設したことてあっ 施療院の数は、領土内において百二カ所に建設されたといわれているが、一部木造て建 てられていたため所在地ははっきりしない。 しかし、そのいくつかの施療院の旧敷地内か らは石造の祭壇や創建の碑文が発見され、場所が特定てきる。 アンコール都城の近くても四カ所の施療院祭壇跡が見つかり、その場所は現在のタ・ケ ウ遺跡のすぐ近くてあった。 つまりタ・ケウのすぐ東側の遺址、南側のタ・プロム・ケル のプラサット・トンレ・ 址、西側の名前なし址、一九五四年に碑文がててきて判明した北側 スング址てある。 プリヤ・カ もう一つの王の慈善事業にあたる宿駅は、百二十一カ所に建設されていた。 ーン碑文によれば、中国史料のいう宿駅は碑文のなかて述べられている「炉のある家」の ことてあり、巡礼者や旅人が休息てきる場所てあるという。これらの建物内陣には御本尊 て突出部のような長い部屋もあった。 を安置する石造の祠堂が附置されていて、祠堂に続い 母屋は、もともと木造てあった。また、大寺院や僧院の境内にもこうした宿駅が建てられ ていたという。とくに、アンコール都城すぐそばのタ・プローム寺院やプリヤ・カーン寺 すべての道はアンコールへ 1 2 1

7. アンコール・ワット : 大伽藍と文明の謎

〇年頃のバブーオン寺院、十二世紀前半のプリヤ・ピトウ寺院などをそのままの形て残し、 一部保存のための手入れなどをしていた。いうなれば、前からあった諸寺院や祠堂をその ままにして都城を造営したのてあった。 そして都城内の四隅には、小寺プラサット・チュルンが建っている。そこの碑文には、 ジャヤヴァルマン七世が「ジャヤギリ ( 勝利の山 ) を築き、その項上から輝く天空を見下ろ した」「不滅の大蛇の世界とはかり知れない深遠さてつながっているジャヤシンドウ ( 勝利 の大洋 ) を造った」と述べられている。 新都城アンコールの周壁と環濠は外敵に対する防御を意識し、同時にこの都城は「神の 世界」を象徴した世界観に基づき造営されていたことがわかる。この周壁は宇宙を取り巻 く霊峰に見たてていたし、環濠はやはり宇宙世界を支えているナーガ ( 蛇神 ) と結びついた 大洋を意味していた。 新都城に入るには、幅百十三メートルの陸橋をわたり、 陸橋の両脇に並んだ巨人像の前 を通らなければならない。彼らは七つ頭のナーガの胴体て綱引きをしている。左手の巨人 像群は宝冠をかぶったデーヴァ ( 神々 ) て、柔和て端正な顔つきてあり、右手の彫像群は好 戦的な髪型をしたアシュラ ( 阿修羅 ) て、目がギロッと飛び出している。 この陸橋のナーガは、神の世界と人間の世界を結びつけている虹を象徴したものてある 118

8. アンコール・ワット : 大伽藍と文明の謎

苗、て、ジャヤヴァルマン七世によって解放されたア 生活を描き、家や市場などを細かく才し ンコール地域の安定と発展の様子を伝えているようてある。 はっきりしていない。 もちろん王の即 ジャヤヴァルマン七世の勝利がいっぞあったか、 位年一一八一年より以前てあろう。この王の即位式はチャンパ軍を撃退したあと、そして 少なくともアンコール都城の諸機能が復興された後に行われたようてある。なぜなら、戦 争によって都城は略奪し尽くされてしまっていたし、寺院や祠堂の貴重な神像や祭祀用具 などがすべて奪い去られてしまっていたからてある。 こうしたヤショダラブラ都城の宗教建造物の復旧と王宮などの再建の仕事は、新王の役 割てあった。それよりも、 王はチャンパ軍が再度襲来しないように先手を打たなければな らなかった。 チャンパ王国に対しては、長い期間にわたり情け容赦ない誅伐が実行された。中国の史 料てはジャヤヴァルマン七世の徹底した復讐戦に言及している。一一九〇年、チャンパ軍 の再度の攻撃がクメール軍の報復を招いたという。ベトナム南部のニャチャンにあるポー ナガール寺院の古チャム語碑文には、クメール軍がチャン。ハの首都ヴィジャヤ ( ベトナム中 部 ) を占領し、そこからすべてのリンガを持っていってしまったと述べられている。 チャンパ王は捕虜としてカンポジアに連行され、チャンパは二つの王国に分割された。 109 戦争と侵略と混乱

9. アンコール・ワット : 大伽藍と文明の謎

しかしながら、アンコール・ワットが墳墓寺院てあったという記慮は十三世紀末の言い 伝えの中に残っていた。 7 章て詳述するが、ここを訪れた中国人周達観が、人から聞いオ 話を伝える中て「魯般の墓南門一里辺りに有り。周囲十里ばかり。石室数百間」と書き、 お墓てあると述べている。この魯般とは中国のエ匠たちが祭る神のことて、周達観が中国 人に分かりやすく説明するため引用した文句てあった。 同時代の建物ては現在のアンコール・トム都城の勝利門を出たところに小ぶりの遺跡て あるトマノン寺院とチャウ・サイ・テポーダ寺院が建っている。どちらもヒンドウー教の ンテアイ・サムレ寺院 寺院て、陸橋付きの祠堂と経蔵があり、まわりに周壁があった。バ は東バライ貯水池の東堤防の向こう側にあり、小アンコール・ワットといわれている。中 央祠堂、経蔵、二重の周壁など見ごたえがある構成となっている。 アンコール・トム都城の城内に現存するアンコール・ワットと同時代の寺院にはヒンド ゥー教のプリヤ・ビトウ寺院があり、また仏教寺院のプリヤ・パリライも同じ時代に建て られている。 アンコール美術は人間賛歌の芸術 アンコール美術はいうなれば宗教美術てある。カンポジアては、カンポジア版のヒンド アンコール・ワットは神の世界

10. アンコール・ワット : 大伽藍と文明の謎

ア国内はアンコール地方と北部 ( 現在の東北タイなどの ) 地方に分裂していた。だが、一〇八 二年の碑文にはジャヤヴァルマン六世の命令が載っているから、即位年はこの時期より以 前てあり、即位場所はアンコールてはないということになる。 この王のアンコール支配については「聖都ヤショダラブラて至高の王権を得たジャヤヴ アルマン ( 六世 ) は、大勢の敵の征討者てあり、栄光の尖柱を海に至るまての四州に打ち建 てた」と述べ、この王のアンコール統治を裏付けようとしているが、それは一一〇六年よ り少し前てあろう。 また別の碑文には「当時、 ( 王の威厳は ) 一一人の長の下にあった」と書いてあるところから、 前王ハルシャヴァルマン三世とその後継者勢力がアンコールおよびカンポジア南部て展開 し、これに対峙するマヒーンダラブラ新王家勢力は、北部地方から徐々に南下して、その 支配領域を拡大し、両勢力の抗争が続いたと思われる。 しかし、ジャヤヴァルマン六世治世の最終年一一〇六年の碑文は、カンポジア南部のプ ノン・ダて発見されているし、次のダラニンドラヴァルマン一世の登位年一一〇七年の碑 文が同じ南部地方て見つかっている。これら両碑文からわかることは、マヒーンダラブラ 勢力が前王朝の残余勢力を追撃して南部に来たが、そこてジャヤヴァルマン六世からダラ ニンドラヴァルマン一世に政権が引き継がれたと考えられる。この一一〇六年の時点より 浮き彫りが伝える十一世紀の人々の生活