ったものて、紀元前から紀元四世紀にかけて次々と物語が加筆されたという。アンコール・ ーンタヴァ軍とカウラヴァ軍の大戦争の絵図が全壁面に描か ワット第一回廊西面には、。、 れている。もともとクル国 ( 現在のデリー付近 ) のカウラヴァと呼ばれる百人の王子と、その 従兄弟の五人の王子バーンタヴァとの骨肉の争いを主題としている。この浮き彫りの描写 と構図はなかなか圧巻ぞある。 シヴァ神と陪神 シヴァ神は世界の創造主てあり、守護者てあり、また破壊者てもある。その顔額には第 三の目が縦についていて、髪容は一般に高い髷に結い上げられ、頭に三日月が飾られてい る。シヴァ神はいつも一つの顔と二つの手てある。シヴァ神は多様な役柄を持っているた イ めに種々の姿相て描かれるが、リンガ ( 男根 ) の形て表されることが最も多い。さらに、 ンドても同様てあるが、カンボジアてもシヴァ神は一種の混合神としてヴィシュヌ神と合 体してハリハラ神となる。そのハリハラ神は右半分がシヴァ神て、左半分がヴィシュヌ神 の姿となっている。こうした神々に加勢する形て、男性神の配偶神Ⅱ「神妃」が存在する。 そのほかヒンドウー教の主な神々には、陪神、護世神としていつも描かれる神々がいる。 シヴァ神の息子て象の頭を持った智慧と幸運の神「ガネーシャ」、もう一人のシヴァ神の息
ゥー教と仏教が信仰されていた。両宗教とも、 生きとし生けるものの輪廻、転生の教理を基 盤として、さらに解脱へと向かって魂の救済 をしようとする宗教てある。 ヒンドウー教は、一言ていえば、プラフマ ー・ヴィシュヌ・シヴァの三大神を中心に形 成され、そのほかに多数の神々が合祀併存し , 。。第神ている。プラフマー神は理論的には最高神と ュされているが、カンポジアてはヴィシュヌと ヴ シヴァ両神が好まれ、両神の陰に隠れてしま っている。 ヴィシュヌ神は護持神てあり、世界救済の 神てもある。この神は彫像の図像ては一つ頭 てあるが、多くの場合には四本の手を持って いる。持ち物は棍棒、ほら目 ( 、チャクラ ( 円盤、 より正確にいえば車輪型の武器 ) 、一つの珠てある。 シヴァ神
てあったと考えた。 インド学の・フィリオザ氏は、高位者が大型寺院の中て秘儀伝授を受けてシヴァ神と 同一視され、死後は埋葬された墓の上に築かれた小さな建造物の中にこうした容器に入れ した月型 られて安置されていたのてはないか、と述べている。この墓の上部には基壇のつ、 のピラミッド型寺院を建てることが可能てあり、その上部にはリンガを立てることもてき ると明言している。まさしくカンポジアの山岳型寺院の原型が南インドに存在していたの てある。 碑文はしばしば王が即位式の時に秘儀伝授を受けていたと記している。その時から王は 王墓の シヴァ神と同一に見なされ、死後、その遺体は火葬に付されなかったに違いない。 上部には、リンガを安置した祠堂を建てることがてきたわけてある。 アンコール・ワットては間題がもっと複雑てある。王の死後の名前パラマヴィシュヌロ 力が示すように、スールャヴァルマン二世の守護神はヴィシュヌ神てあった。確かに中央 しかし、どのような容 祠堂て崇拝されていたのはヴィシュヌ神像てあったかもしれない。 貌の彫像てヴィシュヌ神が描かれていたのだろうか。中央祠堂にはこの神が安置されてい たという形跡は何も見つかっていない。現在ては後世持ち込まれた仏陀立像四体がこの中 央祠堂て崇拝されている。
檳榔子の実八個の僧院生活 九〇〇年ごろ、新王都と前都ハリハラーラヤを結ぶために道路が建設された。この道は 新都の東南角からまっすぐに大貯水池インドラタターカの北東端にまて達し、今も旧土手 道の名称て住民から呼ばれている。この沿道とその近隣には数多くの集落が存在していた と考えてよいだろう。近くには石造りの中小の遺址や土台跡が見つかっているか、これら 集落の木造家屋が中小の寺院を取り囲んて存在していたと推定される。 この祠堂の配置とその数は、神々が住む宇宙を象徴したものてあり、例えば五祠堂は須 弥山の五つの項を表している。これらの祠堂にはすべてにシヴァ神のリンガが安置されて いたという。寺院の下から項上をあおぎ眺めると、項上の五祠堂尖塔のうちに三祠堂尖塔 が見え、中央の大祠堂が他の二つよりも高くなっている。これは、ヒンドウー教のプラフ マー ( 梵天 ) とヴィシュヌとシヴァの三神が世界を維持するという古代インドの故事になら 従ってこの寺院は神々の住まいと同じ状態 ったものて、「三神一体」を表しているという。 につくられており、宇宙世界の基軸てある須弥山を象徴していることになる。 この第一次アンコール王都は、今のアンコール・ワットがすつばりと入る大きさてあっ 新しい都城をなぜ建設するか
身分の高い人には輿 正式な称号の他に、官吏たちは王から栄誉の印を与えられていた。 や日傘てあった。馬車や輿などは王族や身分の高い者に限られていた。『真臘風土記』に明 記されているが、その位階の上下関係により、担架柄が金または銀て区別されていた。 高官は祭礼祝典に出席する際、まわりから日傘が差し掛けられるが、その日傘の数は高 官の官位により多かったり少なかったりした。碑文ては王妃はしばしば王と同様に称賛に あずかっている。王妃には王権そのものを息子に譲り渡すことさえ可能てあった。 になぞらえられる。十新こ アンコール時代には、王と王妃の関係はシヴァ神と神妃ウマー ハンテアイ・スレイ寺院浮き彫りに描かれたシヴァ神とその膝の上に座れる神妃ウマーが その典型てあり、王妃の特別な地位を象徴している。第一王妃の次には第一一王妃たちが続 くのてある。 碑文ては祭典儀式の様子を詳述していないが、奧義伝授儀式、潔斎のための沐浴、灌項 など欠くことのぞきない儀式を示している。王は毎年、王国を飢餓や疫病から守るための この供犠を通じて王の祝聖がなされる。その他の祝祭が一年間を通じて 儀式を執り行い 彩られている。特に王の勝利凱旋に伴う特別な祝祭は人々を歓喜させていたのだった。碑 文に掲げられた官職を比較・検討していくと、最高の官職は大臣 ( マントリン ) てある。政権 全般について権限を持っていたし、王位継承者の選出にも関与していた 156
王師てあった。王が成年に達したときも、この王師の影響力はそのまま残っていた。 ハンテアイ・スレイ寺院はアンコールから北東へ約三十キロほどのプノン・クレーン丘 陵のふもとのシエムリアップ川畔に建ち、当時は「シヴァプラ ( 『シヴァ神の町』の意味 ) 」と 呼ばれていた。ラージェンドラヴァルマン王の死の少し前の九六七年から建設が開始され ハラ色の砂岩て造られた寺院は、東塔門口から境内に入り、ラテライト敷石の参道を 歩き、周壁や塔門を通り、中央の祠堂へ到達する。 この寺院は東西軸を基軸に持っ建築様式によって建てられ、ほば左右対称に配置されて いる。中心部の三祠堂は〇・九メートルの基壇の上に乗っており、二つの脇祠堂、それに 中央祠堂があり、その前に礼拝堂がある。この寺院の装飾や文様は特に入念に造られてい る。バラ色の砂岩につくられた精緻な浮き彫り彫刻が素晴らしく、壁歙に彫られた門衛神 の立像があり、さらに微笑みを浮かべた容姿端麗な女神立像は清楚な美しさに輝き、「東洋 のモナリザ」といわれている。経蔵などの楯や破風の浮き彫りには、瞑想したり、戦った り、あるいは森の中に住ん・ たり、当時の日常生活の様々な場面が描かれている。 南経蔵の西面破風には、カイラーサ山の項にて瞑想するシヴァ神が描かれている。北経 蔵の東面破風ては、インドラ神が雷雨を森に降らせ、人々や動物が大喜びしているところ が描かれている。バンテアイ・スレイの浮き彫りはその図像表現の躍動的な美しさと均整 新しい都城をなぜ建設するか
および梵語を使用した小乗仏教と大乗仏教などが併存していた。この大乗仏教系勢力は七 世紀から八世紀にかけて伸張したようてあるが、九世紀初めから王宮ては王権の神格化に 向けてヒンドウー教シヴァ派の王即神の「デーヴァラージャ信仰」の儀礼が盛んとなり、 仏教は公式な場所から姿を消してしまった。代わってシヴァ派の信仰が王宮内の重要な宗 派となってきた。それに反してヴィシュヌ派は、多くの彫像や重要な寺院の建立が証明す るように、大きな勢力を保持し続けていた。大乗仏教は十世紀半ばにわずかに盛り上がり を見せたが、反面十二世紀半ばにヴィシュヌ派はスールャヴァルマン二世治世下てとりわ け威勢を誇った。王は死去と同時にヴィシュヌ神になると考えられていた。 その後一一八一年からジャヤヴァルマン七世の時代になると、大乗仏教がこの王の強烈 な個性と篤信に導かれて発展し、その結果短い期間てはあったが、大乗仏教の大建造物が 次から次 ~ と建立されたのてあった。特に建築装飾てはヒンドウー教と仏教の混淆が随所 ーリ語を経典と に見られた。十三世紀末からのスリランカとの往来の結果、最終的にはパ する上座部仏教が浸透してきた。 ジャヤヴァルマン七世は仏教徒としては初めての王てあった。王の理想の人は、インド のアショーカ王 ( 前三世紀頃、マウリヤ朝第三代の王、仏教を保護し、世界 ~ 布教 ) といわれる。王は てんりんじようおう 仏法をもって天下を平定し、正義をもって世界を統治する君主といわれている「転輪聖王」 114
うに長い画面が展開されていくが、なかなか 見ごたえがある。 第 ~ アンコール・ワットの図像は宗教的伝統主 義に戻り、威厳を求め、装身具類に重点を置 いていた。 回廊西側の角にある隅塔の内壁は 大絵図面て覆われ、そこには特にラーマ王子 とクリシュナの神話がエピソード風に描かれ ている。また、シヴァ神に関する場面もいく つか出てくる。壁面浮き彫りの配置は自由な 雰囲気が感じられ、これら四隅塔という場所 の壁面ては彫工たちは少し肩の力を抜き、荘 厳てはないところて、逆に完成度の高い独印 性さえも見せてくれているのてある。 塔門や祠堂の出入り口の両側の壁に、また 拌 上部回廊の窓と窓の間にまて、多くの女神が 乳彫刻されている。この寺院の守護神てある女 アンコール・ワットは神の世界
アンコール王朝誕生 : : : 壮大な神の世界プランーーー第一次アンコール王都 ・ : 天空の都 城とその宇宙観 : : : 檳榔子の実八個の僧院生活 : : : コー・ケー都城とヤショダラブラ都城・ 高級官僚はだれか 浮き彫りが伝える十一世紀の人々の生活 カンポジアの王位は実力で簒奪する : : : 土木技術の発達 : : : カンポジアの下克上 : : : 民族衣 裳「サンポット」をつけた人々 4 ーーーアンコール・ワットは神の世界 ヴィシュメ神と同じ地位を占めたスールャヴァルマンニ世 : : : アンコール・ワットの建造 : 巨大建造物はどのように完成したか : : : アンコール・ワットはお墓かお寺か : : : アンコール 美術は人間賛歌の芸術 : : : シヴァ神と陪神 : : : カンポジアにおける仏陀 : : : 女神たちの衣裳 と表情 : : : 宇宙観と建築技術
コセイ寺院て、現在レンガ造りの一一塔が残っ 」・刄立立答水立像 立ている。 神 女 ラージェンドラヴァルマン二世は九六八年 し院に亡くなったが、 , 彼の治世下ては隣国のチャ レンパ王国 ( ベトナム中部から南部にかけての地方 ) を占領し、ニャチャン地方のポー・ナガール イ . 寺院を略奪した。 ン 王が逝去した折、まだ少年てあったと思わ れる王の息子がジャヤヴァルマン五世と名乗り、王位を継承した。父の統治下において重 。王の摂政の役割 要な役割を担っていた幾人かの高級官僚がそのまま新王を補佐していた を担ったこれら高官たちが政務・財務の権限を握り、彼らは寺院を建設てきるだけの財カ ラモンのヤジュニ も併せ持つようになってきた。もっとも権力を握っていた実力者は、バ ャヴァラーハてあった。 このバラモンは同時に博識てあった。碑文の中て「あらゆる学問に通じていたヤジュニ ャヴァラ ーハは、シヴァ派の大師てあると同時に、王の筆頭王師てあった」と記されてい る。ジャヤヴァルマン五世の年少の頃、実際上の政治を代行し、執り行っていたのはこの