ヴィシュメ神と同じ地位を占めたスールャヴァルマンニ世 それぞはアンコール・ワットが建立された十二世紀のアンコール王朝をみてみよう。 一〇八〇年にジャヤヴァルマン六世が王位を簒奪した。だ、、 : 一一三年のスールャヴ アルマン二世の即位まての約一二十年間、アンコール地域てどんな政治情勢下にあったのか はあまりわかっていない。マヒーンダラブラ家系勢力のジャヤヴァルマン六世は多分カン ポジア北部を支配し、一方前王のハルシャヴァルマン三世の後継者勢力がアンコールの地 に留まっていたのだろうと思われる。そして、一一〇六年前後にジャヤヴァルマン六世勢 力がアンコール地方に入り、念願のアンコール統治が始まったようてある。 碑文によれば、ダラニンドラヴァルマン一世の姪の息子スールャヴァルマン二世は、「勉 学を修了した時は未だ若かった」が、「自分の家系の王の威厳を求めて行動を起こした」「一一 つに分かれていた王国を併せて王位を奪った」と記載されている。 二人の王のうち一人の王はダラニンドラヴァルマン一世てあって「昔、一日しか続かな かった戦闘の結果、ダラニンドラヴァルマンは無防備の王権をスールャヴァルマン二世に 奪い取られた」と述べられている。その戦闘模様について、「戦場に ( スールャヴァルマンの ) 大軍が押し寄せ、王は熾烈な戦いを交えた。敵王の象の首に飛びかかり、それを刺殺し、
カンポジア人にとってこの「歴史回廊」浮き彫りは自慢の一つてある。しかしスールャヴ アルマン二世を偉大なカンボジア王として話題にするが、その人気は今一つてある。王の容 姿が立派て気高く、威儀を正して描かれているために冷たい感じに受け取るのてあろうか。 スールャヴァルマン二世の顧問てアドバイザー役は、王師職のディヴァーカラバンディ タてあった。この王師職は王の即位式を執り行うことがてきるほど隠然たる権限を持って いた。この王師は新しい王から多くの贈り物を受け、託された供物をもって、国内の主要 な寺院を巡礼するという役目を仰せつかったりしていた。ディヴァーカラバンデイタは、 今回はスールャヴァルマン二世のこうしたカによる玉座奪取に目をつむり、即位式を執り 行い、その王位の正当化に力を貸した人てあった。 スールャヴァルマン二世は、一一二一年にディヴァーカラバンデイタに対して王族と同 格て、しかも最高の称号を授与し、さらに昇進させて豪華な駕籠・金の柄にクジャクの羽 毛団扇一一個、白いパラソル四本などを特別に与えた。 碑文の伝えるディヴァーカラバンデイタは権謀術数に長けた人物てあった。王師が関与 した登位の儀式は、前王朝と全く血縁関係のないマヒーンダラブラ家系のジャヤヴァルマ ン六世、それに長兄てありながら弟よりも後て王位に就いたダラニンドラヴァルマン一世、 肉親を血祭りにあげて実力て王となったスールャヴァルマン二世など、下克上の乱世とは アンコール・ワットは神の世界
チャン。ハ軍のアンコール王都占領 スールャヴァルマン二世について碑文て確認されている最後の年代は一一四五年てある。 その後ジャヤヴァルマン七世の即位の一一八一年まての二十六年間は、目まぐるしいほど 王の交代・簒奪、そして国内混乱に加えてチャンパ王国支配下の時代が続くのてある。し かしながら、その詳しい歴史は判明していない。 スールャヴァルマン二世がいっ逝去したかさえ正確には知られていないが、一一五〇年 頃まて存在していたといわれている。ところが、一一五五年 ( 紹興二十五年 ) にアンコール朝 の使節が中国へ派遣されている ( 『宋会要』第百九十九冊、蕃夷七、歴代朝貢条 ) が、この時まて 在位していたかどうかはわからない。 スールャヴァルマン二世の治世の末期は、確かに対外関係て忙殺されていた。 アンコール朝軍はベトナム中部にあったチャンパ国を占領中てあったが、王が据えたクメ ール人チャンパ王が殺されてしまった。第二に、タイ北西部にあったモン人の王国ハリプ ンジャヤへの征討を中止してしまった。第三にチャオプラヤー川流域のロップリー ( 羅斛 ) きはん がクメールの羈絆を脱し、自力て一一五五年に中国に使節を派遣した。十一一世紀半ばから後 半にかけて、アンコール朝は存亡にかかわる重大な危機に直面していた。スールャヴァル 104
臣や高級官吏たちから王に対する忠誠を誓わせ、それに給与に見合う土地 ( 地方など ) を下 高官たちはこれまてに自分の土地や財産を守るためてあれば、しば 付することぞあった。 しば反逆者へ同調してしまうことがあった。 そして、この王は高官の忠誠の誓い文を、王宮入り口塔門の開口部の側柱に刻ませ、 れ↓もが→めるよ - フにし ' 」。 「タムルヴァチュ ( Ⅱ査察官 ) 職を司るわれわれは、迷うことなくスールャヴァルマン国王 陛下に我々自ら命を捧げ、感謝あふれる奉仕を捧げることを誓う」 今てもカンポジアては官吏たちが毎年国王の前て忠誠の誓いを述べる儀式の習慣が残っ ている。 スールャヴァルマン一世の治世は五十年近くにおよび、その平穏な統治下ては、宣誓文 に見られるように官吏登用制を改善し、国内の行政基盤が強化整備され、特に地方におい て経済発展が見られた。そして、現在のタイのチャオプラヤー川流域にまて進出し、クメ ル人太守をおいて支配地域を拡張した。王は一〇五〇年に逝去した。 土木技術の発達 、、、目、て王位に就いた。 二人の王子力本次し 一〇五〇年にウダヤーディティャヴァルマン二世 浮き彫りが伝える十一世紀の人々の生活
「村の地主」が水利網の管理責任者 アンコール朝の経済的繁栄を支えたのは、緻密に計算された水利灌漑網だということが わかっている。その水利システムは「バライ」という貯水池を中むに隅々にまて張りめぐ らされた水路網のおかげてあって、田地を直常的に灌漑化することがてきたからにほかな らない。 しかし史実から一言えば、インドラヴァルマン一世が造営したインドラタターカ貯 水池とヤショヴァルマン一世が造営した「東バライ」を除くと、それ以外の大小の貯水池 造営と水利網建設は特定の王だけてはなく、開発事業として諸王が何代にもわたり推進し てきたことが判明している。 アンコール朝の諸王の治世ては、長期にわたる強力な統治はある意味て経済的繁栄をも たらした。ヤショヴァルマン一世の治世は約三十年、ラージェンドラヴァルマンは二十四 年間だが、途中の混乱期もあったらしいがその息子のジャヤヴァルマン五世の治世は三十 二年に及んている。そして、スールャヴァルマン一世、スールャヴァルマン二世、ジャヤ ヴァルマン七世などは、それぞれ約四十年の治世に及んていたのてあった。 アンコール時代の農業経済は、ヤショヴァルマン一世が率先して「東バライ」を造営し たことが以後の大きな推進力となったが、 アンコール地域そのものが、もとから肥沃ては 174
官たちに土地を与え、その支持を得ようと画策していたらしい。実際に何人かの高官は、 新しく財産を入手したいという欲得て新王の味方についた。というのは、碑文が引き抜か れた境界標を再度埋め直さなければならなかった事実に言及しており、時流に乗ってうま くやろうとした人物かいたのてある。 王位に就いた者は新しい王都と大寺院を建設し、祭儀を執り行うのが王としての義務て あった。しかし、この王は王位継承戦争において敗北したゆえに、タ・ケウ寺院の建設は オこれまての寺院の建築ては浮き彫りや文様などの建築装 中止され、未完のままとなっ ' 」。 飾により美術的価値が増幅されると考えられていたが、このタ・ケウ寺院は未完ながら均 整の取れた立体的な輪郭を保ち、どっしりとした出来栄えの建築美を作り出している。今 も訪れる多くの人に荘厳さと造形の美しさを伝えている。 この王は一〇〇六年から一〇一〇年まてのある時期に、政治の舞台から姿を消す。対決 していたスールャヴァルマン一世が勝利を収め、前王の王妃と婚姻して王位継承権を正当 化したのてあった。スールャヴァルマン一世は前の王族たちとは全く血のつながらない家 系の出身てあったようてある。碑文ては王を「気前のよさに関しては財宝の神クベーラ ( 毘 沙門天 ) てあり、安定性ては大海てあり、勇壮さては獅子てあり、美しさては月てあり、学 問ては大師てあった」と称賛している。 浮き影りが伝える十一世紀の人々の生活
・カンポジア歴史年表 西暦 一世紀頃カンポジア南部に「扶南」おこる 二世紀後半扶南外港オケオへ外国船多数来航 紀二一一九中国・呉の使節が扶南へ 五一四ルドラヴァルマン登位 ( ー五五〇年頃 ) 紀五九八バヴァヴァルマン一世在位 紲 一一ィーシャナヴァルマン一世碑文 ( 最古の年号入り古クメール語碑文 ) 一六ィーシャナヴァルマン一世の登位 六三九バヴァヴァルマン二世の登位 紀六五七ジャヤヴァルマン一世の在位確認 七〇七クメール真臘の分裂 ( 水真臘・陸真臘 ) 紀七一六サンププラ ( クラチェ近郊 ) にプシュカラークシャ王が在位 八〇二 ジャヤヴァルマンニ世登位。アンコール王朝おこる 八三四ジャヤヴァルマン三世登位 八七七インドラヴァルマン一世登位し、 ハラーラヤを都城とする ( ロリュオス遺跡 ) 紀八八九ヤショヴァルマン一世登位し、アンコール第一次都城ヤショダラブラ造営 九一〇頃ハルシャヴァルマン一世即位 九二一一頃イシャナヴァルマン二世即位 九二八ジャヤヴァルマン四世即位。コー・ケーへ遷都 ( ー九四二年 ) 九四四ラージェンドラヴァルマン一世即位。全国統一 紀九六九ジャヤヴァルマン五世即位 一〇〇〇頃ウダヤーディティャヴァルマン一世即位 ジャヤヴィーラヴァルマン一世即位 一〇〇二 スールャヴァルマン正位継承権宣一一一一口 一〇一〇スールャヴァルマン一世即位 一〇五〇ウダヤーディティャヴァルマン二世即位 一〇六六 ハルシャヴァルマン三世即位 紀一〇八〇ジャヤヴァルマン六世即位 事項
さながら山項て、ガルーダが一匹の蛇を殺す - がごときてあった」と記述されている。 もう一人の王というのはハルシャヴァルマ の ン三世家系の残余勢力てあった。この戦闘場 面の描写は碑文には抽象的に述べられている。 「しかし、実際は総力戦てあった。両軍は戦象 。をを横に並べての突撃を繰り返し、旗幟がはた ~ スめく中を歩兵は槍や刀を用いて切り込みを図 、文字どおり血て血を洗う激戦てあった。これらの兵員はほとんどが農民てあった。 戦勝者スールャヴァルマン二世は、一一一三年にバラモンの王師ディヴァーカラバンデ イタを祭司として即位式を挙ガこ。 。オこの王師こそは、マヒーンダラブラ家系の前一一人の王 を王位につける即位式を執り行ったバラモンてあった。 アンコール・ワットの建造 けつじん 王は約三十年ぶりに国内を統一した。王はまるて疲れを知らない傑人のようてあった。 その四十年ほどの治世の間 、西はチャオプラヤー川上流域へ、東てはチャンパ王国へ攻 アンコール・ワットは神の世界
カンポジアの下克上 一〇六六年に王弟のハルシャヴァルマン三世が王位に就き、国内の政治混乱を収拾しょ うとしたが、一〇七四年から再び対チャンパ戦争が始まった。こうした内乱と対外戦争の 頻発は、政権の弱体化をもたらしご。 ナこの機会に乗じて東北タイ地方のマヒーンダラブラ を本拠とする地方の有力者一族が一〇八〇年に王位を簒奪し、ジャヤヴァルマン六世と名 乗った。 ジャヤヴァルマン六世の家系は、これまてのスールャヴァルマン一世の王家とは全く血 縁関係をもっていない。新王家マヒーンダラブラは現在の東北タイ地方のムン川流域を揺 籃の地としており、当時のカンポジアの北部地域において半独立的な王国を形成していた といわれている。 マヒーンダラブラの王ヒランヤヴァルマンの次男がジャヤヴァルマン六世てあった。彼 のことはタ・プローム碑文て「その祖先がマヒーンダラブラに住んていた」と書かれてい るが、王位就任以前の動静については何もわかっていない。 碑文の考察によれば、一〇八九年まては前王ハルシャヴァルマン三世が王都アンコール を統治し、簒奪者ジャヤヴァルマン六世は北部地方を支配していたようてある。カンポジ
てあったと考えた。 インド学の・フィリオザ氏は、高位者が大型寺院の中て秘儀伝授を受けてシヴァ神と 同一視され、死後は埋葬された墓の上に築かれた小さな建造物の中にこうした容器に入れ した月型 られて安置されていたのてはないか、と述べている。この墓の上部には基壇のつ、 のピラミッド型寺院を建てることが可能てあり、その上部にはリンガを立てることもてき ると明言している。まさしくカンポジアの山岳型寺院の原型が南インドに存在していたの てある。 碑文はしばしば王が即位式の時に秘儀伝授を受けていたと記している。その時から王は 王墓の シヴァ神と同一に見なされ、死後、その遺体は火葬に付されなかったに違いない。 上部には、リンガを安置した祠堂を建てることがてきたわけてある。 アンコール・ワットては間題がもっと複雑てある。王の死後の名前パラマヴィシュヌロ 力が示すように、スールャヴァルマン二世の守護神はヴィシュヌ神てあった。確かに中央 しかし、どのような容 祠堂て崇拝されていたのはヴィシュヌ神像てあったかもしれない。 貌の彫像てヴィシュヌ神が描かれていたのだろうか。中央祠堂にはこの神が安置されてい たという形跡は何も見つかっていない。現在ては後世持ち込まれた仏陀立像四体がこの中 央祠堂て崇拝されている。