転換期のアンコール朝 十二世紀および十三世紀初頭まてのカンポジアては、まだヒンドウー教・大乗仏教的諸 原理や土着の枠組みがそれなりに機能し、大建造物の建立に示されたように、その社会も 生気を有し、活気があった。 しかしながら、同じ時期カンポジア以外の東南アジア大陸部世界ては、北方から徐々に ビルマ・タイ・ベトナムなどの諸民族が大河川や海岸に沿って南下していた。これら新興 諸民族のところにはこれまて大陸部世界において主潮を占めていたヒンドウー教的文化の 枠組みとは異なる新しい外来の文化 ( 上座部仏教や中国文化など ) が到来し、定着しつつあった。 彼らはこれまての大陸部を牛耳っていたカンポジア人・チャム人・モン人などに代わる勢 カてあった。十三世紀後半には、中国元朝の遠征軍が東南アジア各地 ( ミャンマー、チャンパ ベトナム、ジャワ ) へ侵攻した。島嶼部てはイスラム教が広まってきた。 この大きな変動を加速するかのように、旧カンポジア領に一部含まれていたインドシナ 半島中央部てはタイ系の集団が続々と南下していた。タイ系の人々は八世紀中ごろ中国南 西部こいたといわれ、十一ー十二世紀にかけて西方や南に向かって拓けた河谷平野に沿っ て移動した。タイ系のラーオ人がインドシナ半島東寄りのメコン川にそって南下しラオス 150
および梵語を使用した小乗仏教と大乗仏教などが併存していた。この大乗仏教系勢力は七 世紀から八世紀にかけて伸張したようてあるが、九世紀初めから王宮ては王権の神格化に 向けてヒンドウー教シヴァ派の王即神の「デーヴァラージャ信仰」の儀礼が盛んとなり、 仏教は公式な場所から姿を消してしまった。代わってシヴァ派の信仰が王宮内の重要な宗 派となってきた。それに反してヴィシュヌ派は、多くの彫像や重要な寺院の建立が証明す るように、大きな勢力を保持し続けていた。大乗仏教は十世紀半ばにわずかに盛り上がり を見せたが、反面十二世紀半ばにヴィシュヌ派はスールャヴァルマン二世治世下てとりわ け威勢を誇った。王は死去と同時にヴィシュヌ神になると考えられていた。 その後一一八一年からジャヤヴァルマン七世の時代になると、大乗仏教がこの王の強烈 な個性と篤信に導かれて発展し、その結果短い期間てはあったが、大乗仏教の大建造物が 次から次 ~ と建立されたのてあった。特に建築装飾てはヒンドウー教と仏教の混淆が随所 ーリ語を経典と に見られた。十三世紀末からのスリランカとの往来の結果、最終的にはパ する上座部仏教が浸透してきた。 ジャヤヴァルマン七世は仏教徒としては初めての王てあった。王の理想の人は、インド のアショーカ王 ( 前三世紀頃、マウリヤ朝第三代の王、仏教を保護し、世界 ~ 布教 ) といわれる。王は てんりんじようおう 仏法をもって天下を平定し、正義をもって世界を統治する君主といわれている「転輪聖王」 114
大級の文化遺産てあるアンコール・ワットが思い浮かぶ。アンコール・ワットはアンコー ル朝が十二世紀前半に建立した寺院てあり、カンポジアの首都プノンペンから北西三百十 三キロのシエムリアップ市郊外にある。このアンコール遺跡群のある地域はほば東京都区 内と同じ面積の広さを持ち、ここにはかってのアンコール朝の王都が存続していた。この 地域にはアンコール・ワットをはじめ主要な遺跡だけても六十二カ所に及んている。 アンコール・ワットのような巨大建造物が建立てきたのは、当時の政治・経済基盤、社 会組織、宗教・精神価値体系の思想などがうまく機能していたからてある。たとえば技術 面を考察すると、アンコール・ワットの中央本殿には高さ六十五メートルの大尖塔五基が 構築されている。さらに周囲五・五キロ、幅二百メートルの環濠に約五百万立方メートル の水量をたたえることがてきた。さらに大建築を建立するためには、建築・水利・土木・ 築堤の高度な技術と共に、それに携わる人たちの動員とその組織化が挙げられる。当時の 寺院の建設には人的資源としての大きな人口が必要てあった。アンコール文明の真髄は、 これらの条件を満たして世界に類例をみない大建造物の精華を創りだしたことにある。 十二世紀から十三世紀の繁栄は、アンコール・トム都城とバイヨン寺院の建設によって 象徴されている。しかし、その後アンコール朝は急速に衰退する。 アンコール朝を崩壊に導いたのは、十四世紀半ばから約八十年間にわたって続いた隣国
久の時間が刻まれてきたのてあった。 農民の生活は農作業カレンダーによって営まれ、こうした大自然のなかてカンボジア人 は魂の救済にむけて功徳を積む時間てもあった。自然の恵みが豊かなカンポジアては、人々 い。村落ては の性格も楽観的て純朴、あまりくよくよしないし、人々の表情はいつも明る くらても吸収てきたし、広い地域に同じカンボ 水田耕作て生活が安定し、人口の増加はい 現在てもカンボジアの全人口のうち約九 ジア人が住んていて身の安全が確保されていた。王 〇パーセントは農村地帯に住んている。 アンコール朝ては登位をめぐって抗争や内戦があったが、それを除けば大きな国内の混 乱もなく、平和そのものてあった。農村ては、こうした豊かてのんびりとした悠久の時が 刻まれ、村人は来世への魂の救済に向けて種々の祭儀にいそしむのてあった。しかし、十四 世紀半ばからはシャム人 ( タイ人 ) 勢力と、十七世紀からはベトナム人勢力との対外戦争が 始まり、十九世紀半ばまては国内問題がすぐに両隣間題につながり、国の存立をめぐって 右往左往するのてあった。 村落ては自然の恵みにより農民の生活が組み立てられ、農民は上座部仏教 ( 小乗仏教 ) へ ねはん の篤信を実践し、村人たちが目指した究極の目的は涅槃の境地が得られることてあった。 そのために村落そのものがカンポジア人にとって、一つの宇宙世界と考えられていたよう
〇年頃のバブーオン寺院、十二世紀前半のプリヤ・ピトウ寺院などをそのままの形て残し、 一部保存のための手入れなどをしていた。いうなれば、前からあった諸寺院や祠堂をその ままにして都城を造営したのてあった。 そして都城内の四隅には、小寺プラサット・チュルンが建っている。そこの碑文には、 ジャヤヴァルマン七世が「ジャヤギリ ( 勝利の山 ) を築き、その項上から輝く天空を見下ろ した」「不滅の大蛇の世界とはかり知れない深遠さてつながっているジャヤシンドウ ( 勝利 の大洋 ) を造った」と述べられている。 新都城アンコールの周壁と環濠は外敵に対する防御を意識し、同時にこの都城は「神の 世界」を象徴した世界観に基づき造営されていたことがわかる。この周壁は宇宙を取り巻 く霊峰に見たてていたし、環濠はやはり宇宙世界を支えているナーガ ( 蛇神 ) と結びついた 大洋を意味していた。 新都城に入るには、幅百十三メートルの陸橋をわたり、 陸橋の両脇に並んだ巨人像の前 を通らなければならない。彼らは七つ頭のナーガの胴体て綱引きをしている。左手の巨人 像群は宝冠をかぶったデーヴァ ( 神々 ) て、柔和て端正な顔つきてあり、右手の彫像群は好 戦的な髪型をしたアシュラ ( 阿修羅 ) て、目がギロッと飛び出している。 この陸橋のナーガは、神の世界と人間の世界を結びつけている虹を象徴したものてある 118
こんてん ている扶南の建国説話ては、インド方面から「混填」という名前の人物が来航し、土地の りゅうよう 女王柳葉と結婚して国づくりが始まったという。この建国説話は、長い間かかってインド文 化を受け入れ、集落がいくつもてきて、耕作地の拡大により人口が増え、さまざまな立国 の条件を整えた後に小国家へと発展する過程を示したものてあった。この扶南国はおよそ 一一世紀から七世紀ごろまて存続し、シャム湾に面した同国は、中国とインドの海上交通ル 。交易などのためインド人・中国人・東南アジア近隣周辺の人々 トの要衝を占めていた が往来し、賑わっていたという。 一三九年に扶南において来航中の中国人使節がインド人使節と出会ったと書かれている。 交易と内陸農業て国力を発展させた扶南は、東南アジア大陸部の近隣諸国を攻め、現在の マレー半島方面まてその領域を拡大していったという。 これまてこの扶南国が東南アジアのどこにあったかについては諸説があった。 一九四〇年にフランス人考古学者 >-a ・マルレがオケオ趾を発掘し、そこが扶南の外港て あったことが判明した。その交易と集散の中心地だったオケオ港は現在のベトナム南部ロ ンセン省 ( メコン川デルタ ) にある。オケオは当時大きな港市てあったらしく、その交易を裏 付ける数多くの出土品が見つかっている。 例えば、遠く西方世界から来た二世紀半ばのローマ貨幣型メダルが発見されており、考
アンコール都城の陥落 十四世紀のアンコール朝については、詳しいことが分っていない。アンコール王朝の系 譜に関する碑刻文史料には、王位簒奪をした娘婿 ( 在位一一元五ー一三〇七 ) の後に、某王 ( 在 位一三〇七ー一三二七 ) ともう一人の某王 ( 在位一三二七ー ? ) の二人の王しか載っていない。 両王についてはわずかな知見しかなく、前者がその前の王の親族てあるとか、後者がマ ンガラールタ寺院へ奉納したとか、治下において最後の梵語碑文を残したといったことし か判明していない。ただしこの頃のカンポジアては、上座部仏教が浸透してきた一つの物 的証拠として一三〇九年の年号の入った。、 ーリ語の最初の碑文が残っている。 これ以後のカンポジアの歴史は、十八世紀末もしくは十九世紀初めに書かれた『王朝年 代記』などに掲載されることになる。この『王朝年代記』には数種類の版本がある。その なかて十九世紀初頭に高官ノンによって書かれた版本がその構成内容から信憑性があると 言われている。もともとロ承伝承的に伝えられてきた王の事蹟をまとめたのが、こうした 王朝年代記類てある。その『ノン本』の最初に掲載されている王ニルヴァーナバダ ( クメー ル語てはニルピアン ・バット ) が一三四六年に即位したという。 『ノン本』によれば、アユタヤ朝の初代王ラーマーティボディー王 ( 在位一三五一ー一三六九 ) 190
アンコール王朝誕生 : : : 壮大な神の世界プランーーー第一次アンコール王都 ・ : 天空の都 城とその宇宙観 : : : 檳榔子の実八個の僧院生活 : : : コー・ケー都城とヤショダラブラ都城・ 高級官僚はだれか 浮き彫りが伝える十一世紀の人々の生活 カンポジアの王位は実力で簒奪する : : : 土木技術の発達 : : : カンポジアの下克上 : : : 民族衣 裳「サンポット」をつけた人々 4 ーーーアンコール・ワットは神の世界 ヴィシュメ神と同じ地位を占めたスールャヴァルマンニ世 : : : アンコール・ワットの建造 : 巨大建造物はどのように完成したか : : : アンコール・ワットはお墓かお寺か : : : アンコール 美術は人間賛歌の芸術 : : : シヴァ神と陪神 : : : カンポジアにおける仏陀 : : : 女神たちの衣裳 と表情 : : : 宇宙観と建築技術
群は六十九カ所が一九九二年十二月に世界遺産条約リストに登録され、世界遺産に指定さ れた。しかし、倒壊防止などのための保存修復措置が必要てあることに変わりはない。 のところの政治空白期を利用して、遺跡の彫像などの盜掘・盗難などが頻発していること が憂慮される。 調査団は次のような基本方針を掲げている。 第一にはカンポジア王国の自立を助ける協力てあること、第二にアンコール遺跡の調査・ 研究と保存修復事業の密なる運動、つまり詳細な調査・研究無くしてただ修復工事をすれ しいというものてはない。第三にはアンコール地域の経済発展と社会文化発展の調和、 それは二十一世紀に向けて森林・住民・遺跡の共存・共生を目指した活動てなければなら アンコール遺跡の保存修復は、これからはカンポジア人自身の責任て遂行していくこと が必要てある。カンボジアの固有な伝統や文化を一番よく理解し、世界に向かって説明て きる人たちは、現地て暮らす力ンポジアの人々てあり、遺跡を救済する国際協力というのは 現地の人々の自立を支援することを最終目標としなければならない。 結局のところ、国際文化協力とは「ぶつかり合い学ぶ」ことてある。こちらが善意と思 っても、カンポジア側は干渉と受け取る場合がある。日本のやり方だけが普遍的とは思わ 2 1 1 エピローグ
都付近に建設した。 そして十二世紀末頃からは、アンコール・トム都城そのものが造営された。この都城は 宗教宇宙観を具現した王都てある。復興された首都の中心寺院バイヨンの建立は、おそら く十三世紀の初めてあろうといわれている。 これら諸寺院の建設はアンコール地域だけてはなく、チャオプラヤ川流域からメコン日 流域まて、東北タイ、ラオス南部からカンボジア南部地方に至るまて、全土て数多くの寺 院が建てられた。その中て最も注目すべき寺院は、おそらくは現在タイの国境に近いバン テアイ・チュマール寺院てあろう。この寺院はアンコール王都よりも規模が大きく、近隣 地方の発展と経済の繁栄ぶりを裏付ける遺跡てある。 新都城とバイヨン寺院 一一七七年にチャンパ軍に占領された当時のヤショダラブラ王都には、十世紀初めにヤ ショヴァルマン一世治下において造営されたときの主な寺院・祠堂・僧院が残っており、 一辺四キロの環濠、城門など大部分が機能していたと思われる。また、その後建設された 諸寺院なども存続していた。チャンパ軍は王宮内の財貨や寺院の財宝などを略奪したが、 火をかけたりはしなかったようてある。 1 16