・カンポジア歴史年表 西暦 一世紀頃カンポジア南部に「扶南」おこる 二世紀後半扶南外港オケオへ外国船多数来航 紀二一一九中国・呉の使節が扶南へ 五一四ルドラヴァルマン登位 ( ー五五〇年頃 ) 紀五九八バヴァヴァルマン一世在位 紲 一一ィーシャナヴァルマン一世碑文 ( 最古の年号入り古クメール語碑文 ) 一六ィーシャナヴァルマン一世の登位 六三九バヴァヴァルマン二世の登位 紀六五七ジャヤヴァルマン一世の在位確認 七〇七クメール真臘の分裂 ( 水真臘・陸真臘 ) 紀七一六サンププラ ( クラチェ近郊 ) にプシュカラークシャ王が在位 八〇二 ジャヤヴァルマンニ世登位。アンコール王朝おこる 八三四ジャヤヴァルマン三世登位 八七七インドラヴァルマン一世登位し、 ハラーラヤを都城とする ( ロリュオス遺跡 ) 紀八八九ヤショヴァルマン一世登位し、アンコール第一次都城ヤショダラブラ造営 九一〇頃ハルシャヴァルマン一世即位 九二一一頃イシャナヴァルマン二世即位 九二八ジャヤヴァルマン四世即位。コー・ケーへ遷都 ( ー九四二年 ) 九四四ラージェンドラヴァルマン一世即位。全国統一 紀九六九ジャヤヴァルマン五世即位 一〇〇〇頃ウダヤーディティャヴァルマン一世即位 ジャヤヴィーラヴァルマン一世即位 一〇〇二 スールャヴァルマン正位継承権宣一一一一口 一〇一〇スールャヴァルマン一世即位 一〇五〇ウダヤーディティャヴァルマン二世即位 一〇六六 ハルシャヴァルマン三世即位 紀一〇八〇ジャヤヴァルマン六世即位 事項
一一四五アンコール朝のチャンパ支配 ( トリプヴァナディティャヴァルマン一世即位 一一七七チャンパ軍がアンコール都城占領 ジャヤヴァルマン七世登位。コケックへ 紀一一九〇アンコール朝のチャンパ支配 ( 一 = 世紀初めジャヤヴァルマン七世、アンコール・トムを完成 一一三〇 ? インドラヴャルマン二世登位 一二四三頃ジャヤヴァルマン八世登位 ンドラヴァルマン一世登位 一二九五シュリ 紀一二九六周達観、元朝の使節に随行してアンコールを訪問 ( ハラメシュヴァラ一世即位 一一一一一一七ジャヤヴァルマン・ Ⅵ一三五三シャム軍の第一回アンコール都城攻略 世一三九四シャム軍のアンコール攻略 一四三一頃アンコール王朝陥落 一五二八アンチャン一世ロヴェック都城造営 一五五〇頃アンチャン一世旧都アンコール再発見 一五六六アンチャン一世アンコール・ワット回廊浮き彫り完成 一五七六サータ一世即位。アンコール・ワット修復。住民をアンコールへ移す 一五九四ロヴェック王都陥落 一六三二日本人、森本右近太夫一房、アンコ一ル・ワット参詣 一八四一フェ朝、カンポジアを併合。アン・メイ女王サイゴンへ 一八六〇アンリ・ムオ、アンコール踏査 一八六三フランスーカンポジア保護条約調印 一八八四フランスーカンポジア協約調印。フランスの支配強化 一八八七仏領インドシナ連邦成立。初代総督コンスタン就任 紀一八九三フランスーシャム条約 ルー・プレイ、トンレ・ルプーなどの地方が仏領となる フランスーシャム協約、ム 一九〇四 シソワット即位 一九〇七フランスーシャム条約、シエムリアップ ( アンコール地方 ) など西北部三州が仏領となる 一九〇八アンコール遺跡の保護作業開始 ー一一四九年 ) ー一二二〇年 ) ー一ニ九七年 )
さながら山項て、ガルーダが一匹の蛇を殺す - がごときてあった」と記述されている。 もう一人の王というのはハルシャヴァルマ の ン三世家系の残余勢力てあった。この戦闘場 面の描写は碑文には抽象的に述べられている。 「しかし、実際は総力戦てあった。両軍は戦象 。をを横に並べての突撃を繰り返し、旗幟がはた ~ スめく中を歩兵は槍や刀を用いて切り込みを図 、文字どおり血て血を洗う激戦てあった。これらの兵員はほとんどが農民てあった。 戦勝者スールャヴァルマン二世は、一一一三年にバラモンの王師ディヴァーカラバンデ イタを祭司として即位式を挙ガこ。 。オこの王師こそは、マヒーンダラブラ家系の前一一人の王 を王位につける即位式を執り行ったバラモンてあった。 アンコール・ワットの建造 けつじん 王は約三十年ぶりに国内を統一した。王はまるて疲れを知らない傑人のようてあった。 その四十年ほどの治世の間 、西はチャオプラヤー川上流域へ、東てはチャンパ王国へ攻 アンコール・ワットは神の世界
カンポジア人にとってこの「歴史回廊」浮き彫りは自慢の一つてある。しかしスールャヴ アルマン二世を偉大なカンボジア王として話題にするが、その人気は今一つてある。王の容 姿が立派て気高く、威儀を正して描かれているために冷たい感じに受け取るのてあろうか。 スールャヴァルマン二世の顧問てアドバイザー役は、王師職のディヴァーカラバンディ タてあった。この王師職は王の即位式を執り行うことがてきるほど隠然たる権限を持って いた。この王師は新しい王から多くの贈り物を受け、託された供物をもって、国内の主要 な寺院を巡礼するという役目を仰せつかったりしていた。ディヴァーカラバンデイタは、 今回はスールャヴァルマン二世のこうしたカによる玉座奪取に目をつむり、即位式を執り 行い、その王位の正当化に力を貸した人てあった。 スールャヴァルマン二世は、一一二一年にディヴァーカラバンデイタに対して王族と同 格て、しかも最高の称号を授与し、さらに昇進させて豪華な駕籠・金の柄にクジャクの羽 毛団扇一一個、白いパラソル四本などを特別に与えた。 碑文の伝えるディヴァーカラバンデイタは権謀術数に長けた人物てあった。王師が関与 した登位の儀式は、前王朝と全く血縁関係のないマヒーンダラブラ家系のジャヤヴァルマ ン六世、それに長兄てありながら弟よりも後て王位に就いたダラニンドラヴァルマン一世、 肉親を血祭りにあげて実力て王となったスールャヴァルマン二世など、下克上の乱世とは アンコール・ワットは神の世界
ア国内はアンコール地方と北部 ( 現在の東北タイなどの ) 地方に分裂していた。だが、一〇八 二年の碑文にはジャヤヴァルマン六世の命令が載っているから、即位年はこの時期より以 前てあり、即位場所はアンコールてはないということになる。 この王のアンコール支配については「聖都ヤショダラブラて至高の王権を得たジャヤヴ アルマン ( 六世 ) は、大勢の敵の征討者てあり、栄光の尖柱を海に至るまての四州に打ち建 てた」と述べ、この王のアンコール統治を裏付けようとしているが、それは一一〇六年よ り少し前てあろう。 また別の碑文には「当時、 ( 王の威厳は ) 一一人の長の下にあった」と書いてあるところから、 前王ハルシャヴァルマン三世とその後継者勢力がアンコールおよびカンポジア南部て展開 し、これに対峙するマヒーンダラブラ新王家勢力は、北部地方から徐々に南下して、その 支配領域を拡大し、両勢力の抗争が続いたと思われる。 しかし、ジャヤヴァルマン六世治世の最終年一一〇六年の碑文は、カンポジア南部のプ ノン・ダて発見されているし、次のダラニンドラヴァルマン一世の登位年一一〇七年の碑 文が同じ南部地方て見つかっている。これら両碑文からわかることは、マヒーンダラブラ 勢力が前王朝の残余勢力を追撃して南部に来たが、そこてジャヤヴァルマン六世からダラ ニンドラヴァルマン一世に政権が引き継がれたと考えられる。この一一〇六年の時点より 浮き彫りが伝える十一世紀の人々の生活
マン二世没後に数人の王が次々と登位したが、その詳細はよくわからない。 例えば、二人目の王がいっ即位したのか、この王はどのような地方に本拠地を置いてい たのかはわからない。王がアンコーレに一 ノ者城に居住していたということはあり得るが、正式 な即位式を執り行なったのか疑いが持たれている。 こうしたカンボジア国内の混乱に乗じて、東隣国のチャンパが一一七七年にアンコール 都城に侵攻し、三人目に王位に就いていた簒奪王は戦死してしまった。そのチャンパ王ジ ャヤ・インドラヴァルマン四世については、碑文のなかて「ラーヴァナ ( ラーマ王子の敵 ) の ように自惣れの強いジャヤ・インドラヴァルマンは、大軍を車に乗せて派遣し、天国にも 似たカンプの国と戦いにやって来ようとした」と載っている。ところが陸路てはアンコ ルへ到達することがてきなかったのて、チャンパ王は戦術を変え、大軍をジャンク船に乗 せた。そして軍隊を送り届けるために、水上交通路をよく知っている中国人の水先案内人 の手助けを止日りた。 一一七七年にチャンパ軍船団はメコン川河口からデルタを通って川を さかのばり、トンレサップに入り、シエムリアップ川の河口に到達した。 奇襲攻撃は功を奏した。ヤショダラブラ都城は、これまてに一度も襲撃を受。 なかった。もともと周壁や環濠などが都城に常備されていたが、これらは象徴的な意味を 兼ねた大道具てあり、外敵から守るために防備されていたのてはなかった。もちろんヤシ 10 5 戦争と侵略と混乱
なく、常に水がなければ耕作がてきなかったことも事実てある。その水の確保のために大 のバライが必要てあった。 これらバライの開削と管理・維持は王の高官・補佐官以外の人たちによって司られてい たはずてある。こうした組織者もしくは指導者のことが、ジャヤヴァルマン七世治下の二 つの碑刻文史料に載っている。それは「村の地主 ( グラーマヴァドビット ) 」たちてはないか と推定される。しかしながら、この人物がどんな人て、どんな役割を果たしていたかは、 碑文の性向から判明しない。 それにもかかわらず、これらの「村の地主」が碑文の文意からなんらかの高い地位や肩 書きをもっていたようてあり、経済活動を推進するなかて、ある役割を担っていたのては ないかと推測てきる。そして事実、その史料によれば、多くの水処理施設を整備し管理し たのは王族以外の人たちてあったことが暗示されており、碑文もこの非王族たちの仕事を 称えている。そしてアンコール地域においては、たとえばスラ・スラン貯水池は、ラージ エンドラヴァルマン王のもとにいる大臣が造営したことてよく知られている。 王位をめぐる抗争や戦闘により国内のある地域が戦場となり、生産活動が一部停止する ことがあった。そうした内戦が長びき、国内が疲弊し、混乱することもあった。しかし逆 説的にいえば、王位をめぐる政治抗争があったにしても、新国王が即位すると、すぐに新 175 水利都市としてのアンコール朝
それは同時にアンコール朝の王位継承の非連続性を如実に示していた。 「諸王のなかの王」の実像 これらアンコール朝の王たる者の実像について、もう一度考え直してみなくてはならな 一般的にアンコール朝の王というのは、忠実な部下たちの一団を引き連れた大将てあ り、そうした支持者や同調者たちに推されて王としての登位が可能になるのてある。王と なる人物にとって、出会う敵対者が互角のライバルてある場合には、武力て殲滅して追放 するか、交渉と妥協により自分の支配下に組み入れてしまうか、どちらかの選択をしなけ ればならない。わずかな例外を除けば、諸王は国内平定に要する時間が特に長くかかり、 地方鎮撫を最優先課題として取り組んだようてある。 ところが、アンコールの「諸王のなかの王」として即位してしまうと、もはやこの玉座 に対して異論を唱えることはなかったようてある。聖別によって王は王国の卓越した保護 者に変身するのてあった。しかし、またその王の実権が脆弱てあればあるほど、「保護者」 としての側面をうまく前面に押し出し、その精神的影響力を行使して。このように、アン コール朝ては王なる者を必要とした政治制度そのものが制度として伝統的な王権の枠組み のなかて考えられ、存続してきたために、曲がりなりにも何世紀にもわたって継承されて 150
う余地がない。彫像は実物モデルから着想を得て造像されたようてあり、彫工は胸に迫る 感動をそのまま恐れず塑像化したの ( あろう。この作品は、造形の美しさ、力強さ、それ に素朴質実さにあふれており、そして目鼻立ちにおけるわずかな左右不均衡も忠実に実写 したようてある。 王は生涯二人の王妃によって支えられてきた。最初の王妃ジャヤラージェデヴィーは篤 ごんぎよう 信の仏教徒てあり、王の無事と戦功を祈る勤行を実施していた。その間、王はチャン。ハとの 戦闘を続行し、最初の戦地は遠くてあった。次いてカンポジア領内て戦いを交わしていたと いう。碑文は、王妃が「難行苦行に身を焦がし、厳しい戒律の遵守のためにやつれていた」 「王のなかの王てある夫に再会し、仏に謝して大地に恵みの雨を降らせた」と伝えられる。 この王妃の幸せな生活は短かったに違いない。なぜなら、王妃は王の即位の直後に亡く なってしまったからてある。そこて王は、王妃の妹インドラデヴィーを二番目の王妃とし て迎え、正室の地位を与えた。新王妃も「生まれつき聡明て博学、そして非のうちどころ のない」女性てあったという。 初の仏教徒王 古代カンポジアては、三世紀から六世紀にわたり、ヒンドウー教 ( シヴァ派とヴィシュヌ派 ) すべての道はアンコールへ 11 ろ
てあったと考えた。 インド学の・フィリオザ氏は、高位者が大型寺院の中て秘儀伝授を受けてシヴァ神と 同一視され、死後は埋葬された墓の上に築かれた小さな建造物の中にこうした容器に入れ した月型 られて安置されていたのてはないか、と述べている。この墓の上部には基壇のつ、 のピラミッド型寺院を建てることが可能てあり、その上部にはリンガを立てることもてき ると明言している。まさしくカンポジアの山岳型寺院の原型が南インドに存在していたの てある。 碑文はしばしば王が即位式の時に秘儀伝授を受けていたと記している。その時から王は 王墓の シヴァ神と同一に見なされ、死後、その遺体は火葬に付されなかったに違いない。 上部には、リンガを安置した祠堂を建てることがてきたわけてある。 アンコール・ワットては間題がもっと複雑てある。王の死後の名前パラマヴィシュヌロ 力が示すように、スールャヴァルマン二世の守護神はヴィシュヌ神てあった。確かに中央 しかし、どのような容 祠堂て崇拝されていたのはヴィシュヌ神像てあったかもしれない。 貌の彫像てヴィシュヌ神が描かれていたのだろうか。中央祠堂にはこの神が安置されてい たという形跡は何も見つかっていない。現在ては後世持ち込まれた仏陀立像四体がこの中 央祠堂て崇拝されている。