さながら山項て、ガルーダが一匹の蛇を殺す - がごときてあった」と記述されている。 もう一人の王というのはハルシャヴァルマ の ン三世家系の残余勢力てあった。この戦闘場 面の描写は碑文には抽象的に述べられている。 「しかし、実際は総力戦てあった。両軍は戦象 。をを横に並べての突撃を繰り返し、旗幟がはた ~ スめく中を歩兵は槍や刀を用いて切り込みを図 、文字どおり血て血を洗う激戦てあった。これらの兵員はほとんどが農民てあった。 戦勝者スールャヴァルマン二世は、一一一三年にバラモンの王師ディヴァーカラバンデ イタを祭司として即位式を挙ガこ。 。オこの王師こそは、マヒーンダラブラ家系の前一一人の王 を王位につける即位式を執り行ったバラモンてあった。 アンコール・ワットの建造 けつじん 王は約三十年ぶりに国内を統一した。王はまるて疲れを知らない傑人のようてあった。 その四十年ほどの治世の間 、西はチャオプラヤー川上流域へ、東てはチャンパ王国へ攻 アンコール・ワットは神の世界
コール・ワットは「西欧の最高の大聖堂と堂々と肩を並べられよう。それに雄大さにかけ てはギリシア・ローマ芸術が造り上げた何物にも勝る : : : 」と述べている ( アンリ・ムオ『シ ャム・カンポジア・ラオスの諸王とインドシナ中央部の小さな国々』アシェット社 ・パリ・一八六九年 ) 。 一九〇七年からはフランス極東学院の手に委ねられ、学術的な解明と保存修復技術が行わ れてきた。 アンコール遺跡があまりにも 壮大てあったため種々の憶測や感想がそのままひとり歩き して仮説となり、年月を経て裏付けもなく既成事実化してしまっていることがたくさんあ った。例えば、現存する都城アンコール・トムとバイヨン寺院はアンコール時代の最も早い 時期の寺院てあるといわれたが、一九二六年にこの仮説が覆され、アンコール時代後期の ものとして修正された。約四百年も後の時代に新しく位置づけられたのてある。これは美 術史家・ステルンの研究成果に基づくものてあった。 フランス極東学院の設立 フランスは、植民地支配を強化するため一八八七年に仏領インドシナ連邦を成立させた。 カンポジアは一八六三年にフランスの保護国となっていたか、そのまま連邦に組み込まれ たのてある。そして、一九〇〇年にこの地域および東アジアの民族・歴史・文学などを総 198
古発掘てはインドや西方世界から到来したと思われる出土品が多い。それに比べて中国系 統の出土品が極めて少ない。 ′扶南はインドなど西方諸国と頻繁に往来していたのてあった。 出土品には銀貨・貴金属・装身具・護符など多数が見つかっている。また、ヒンドウー教 きほうきよう 神像や仏像などが数多く見つかっている。また、数少ない中国系の出土品ては鳳鏡など が見つかっている。 かって扶南の領域だったと思われる地域ては、寺院跡基壇、レンガ造りの祠堂、発掘さ れたヒンドウー教神像や仏像、当時の生活用具としての陶器破片、インドや西方世界から 到来した数々の出土品、若干のサンスクリット碑刻文などが発見されている。中国の呉の 使節の見聞録残簡などの検討から、この扶南は当時東西の交易による商取引や人物交流の 点から、東南アジアの中て最大の規模を誇り、先進的な文化を保持していたと思われる。 この扶南国の立国の経済基盤は何といってもメコン川デルタを後背地とした内陸農業て あった。確かに外港オケオは初期段階てはインドからの文物到来の窓口てあり交易港てあ った。もともと扶南の首都は内陸部 ( カンボジア南部 ) にあり、碑文に述べられる農業用語 ( 子 拓など ) などの考察からわかるように農耕地が拡大し、農業を基盤とした後背地が国内の経 済を支えていた 扶南はどのように国家形成をしてきたのてあろうか ? 恐らく現地社会は長い年月にわ カンポジア社会の原風景
きたのてあった。 碑文てはいつも、王権のあり方や王の理想像に対して期待をこめて述べ、王国の原理原 則が断片的に掲げられている。碑刻文作成者は多くの場合、一握りの知的工 高官・宗務官・王師などの王の実務を補佐する人たちてあったと思われる。彼らはインド つうぎよう の法体系の概略に通暁していたし、マヌ法典や諸シャーストラ ( 法律書 ) などの知識があっ 彼らは帰化インド人もしくはその血縁につながる子孫たちてあったと推察され、祭儀 や宗教行事を実際に執り行う人々てあった。 アンコール時代の政治を一言ていえば、王を中心とした政祭一致的な寡頭政治体制てあ った。まず王は当時の「ナガラ ( 都城 ) の力強き保護者」てあり、自らをインドラ神やシヴ ア神やヴィシュヌ神の化身と考えていた。そして、臣民を守ることを王の責務として描い ている。 ヤショヴァルマン一世治下 ( 八八九ー九一〇 ) の碑文ては、「王の不滅の職務は法の規範を 維持し、カーストおよびアーシュラムを堅持し、それに諸神の祭儀を執り行い、過ちに応 じて犯人を罰することてある」と述べている。つまり王は政治を統轄する要石的な存在て あったが、政治方針とその遂行は王および王を取り巻く高級官僚と宗教関係者により決め られていた。アンコール時代は政祭一致的な色彩の強い政治体制てあったといえる。 リートたちて、 アンコール朝の研究 151
いった寺院名や地名があり 、村名にも植物名が頻出している。また、植物・樹木名と関連 して「水」に関する地名も多し 、。日縁・池・沼・水路・溝・掘割りなどを冠称した地名て、 たとえば「べン・ロヴェア ( いちじくの池 ) 」、「プレイ・サンディエク ( インゲン豆の小川 ) 」な い」か ~ のる。 この命名を縦観すると、アンコール朝の時代の碑文にも植物と水に関する建物名や地名 が多く、昔から続いてきた日常生活が反映しているといえる。村人の生活は自然環境のな かて営まれていたことを裏付けている。村人たちがどのように田地を拓き、どのように村 落をつくっていたかは、一〇五二年の碑刻文のなかに述べられている。この「スドック・ カック・トム ( 『葦・蘭草の生えた大きな池』の意味 ) 」遺跡は、カンポジア・タイ国境の町アラ ンヤプラテートから約二十キロ東のところにあり、両国の国境にまたがる場所に存在して いる。この碑文ては、王から広大な土地を拝領し、新寺院を建設したことを伝えている。 寺院の建設に先立って、関係者の住む村「ストウク・ランシイ ( 『竹の生えた池』の意味 ) 」を つくり、自給自足体制をとりながら寺院の建設工事を開始した。 碑文ては、寺院のために聖像を聖別し、財貨を奉供し、聖池を掘ったことを述べている。 それから園地をつくり、池を掘り、土手をつくったという。つまり、本堂を建て、聖具や 供物台などを搬入したあとて、落慶式を執り行なった。灯明を絶やさず、寺院を長く維持 プロローグ
し、判決が言い渡されていた。 刑罰には体刑と罰金刑とがあった。体刑には死刑、身体部の切断刑、笞刑などがあった。 もいた。罰金刑は現物納 ( 例【つがいの牛を代わりに差し出す ) と金銀のパラ また、体刑執行人 納などてあった。そして、境界争いや土地問題に関する訴訟事件が頻発するのは、田地が 重要な生活手段てあったからにほかならない。当時は法廷が強制力を有する社会的規範を 的確に実行し、それなりの法治的機能を果たし、社会生活が円滑に進むように法的秩序が 維持されていたと思われる。 九四一年の勅令ては、村の長老たちに、王の命令に違反した者を檻に閉じこめるように 求め、刑務所とは言えないまても、罪人を留置するところがあったようてある。判決が言 い渡されたあと、被告がその量刑に不満な場合には王 ~ の上訴と減刑嘆願、王の特赦権に ついて碑刻文中に言及がある。さらに碑文ては、「あの世において罪人たちは三十二の地獄 の様々な責苦を受ける」と述べ、犯罪者を呪縛するような凄味を利かせている。 172
れていたというから、これらが課税の対象商品の範囲てあったことが判明してくる。この倉 庫を管理するものは、倉庫の長てあった。貨幣制度の欠落した当時の社会ては、現物納に よる税徴収が行われていた。 税のことはカラ ( 租税一般 ) やアーカラ ( 現物納の税 ) 、プームャーカラ ( 地租 ) などの語句て 記載されている。ラージャカールャもしくはカールヤは賦役もしくは租税のことを指し、 主として年間数週間 ( 事例により異なる ) の勤労奉仕が義務づけられているが、この代わりに 物納することも可能てあった。これを納めるため土地などを売却したり、代償の土地を差 しだす場合があった。 また当時ては土地の所有・境界・収穫などを記載した台帳があったらしく、碑文ては台帳 管理人のことを述べている。こうした租税徴収のメカニズムが機能し、賦役などにおける 組織力がアンコール朝発展の重要な基盤てあった。 そうした税を担当する収税吏がいた。籾米を現物のままて徴税する「米の長」がいた 米穀は日常貨幣の代行に用いられていたと周達観は言及している。それから胡麻の収税吏、 油とバターの税を扱う長、塩の税の長、王の倉庫に蜜や蠣を供給する「蝋の長」などがい 織物・布などについては、周達観は中規模の売買をするときには布を貨幣の代用とした 162
湖上での激戦 碑文 ジャヤヴァルマン七世がチャンパ軍をどのようにして撃退したのかはわからない。 によれば、王妃ジャヤラージャデヴィが実践した難行苦行を述べたあとに、「この上もない 献身の気持ちから、・ : ・ : 優しく崇高な王妃は打ち続く不幸の海から王が大地を救うようお 望みになった」と宗教的暗示を言及している。 「不運の中て強い忍耐力を持って、 ( 王は ) 戦闘て膨大な数の戦士を抱えるこの ( チャム人の ) 王を打ち負かし、威厳あふれる聖別を受けた後、王はチャンパの王都ヴィジャヤと他の国々 を征服して、清められた大地を手にしたが、その大地こそ王の住みかといわれるところて あった」 この撃退作戦がどんな戦闘てあったか、詳細はわからない。しかし、最後の白兵戦はア ンコール都城の北側の今のプリヤ・カーン寺院の付近て行われたようてある。水上ての激 戦はトンレサップ湖上て行われた。その戦闘の模様がバンテアイ・チュマール寺院とバイ 、ハイヨン寺院の方がより詳しい戦闘場面が掲げられ ョン寺院の浮き彫りに描かれており、 ている。 かいざ 両国の水軍は一段櫂座の川船を操り、激しくぶつかり合う。トンレサップ湖上て敵味方 107 戦争と侵略と混乱
いて種々の教本を誦み、法の位置づけを行い、訴訟解決の手がかりを与える第一級の官吏 てある。ご、、、、 オカその吟誦する内容とその指示には拘束力がなかった。カンポジアの王たち は、善業悪業の果報および輪廻を詳説する吟誦者の意見を尊重していたのて、吟誦者の社 会的地位は高く、裁判においてその陪席が重要視されたのてあった。 さらに「司法調査官Ⅱ予審判事」なる人物がいた。この官吏は秘密裏に動く一種の司法 調査官てあり、その任務は予審のために現地調査を行い報告していた。また、「司法事務の 長」がいた。司法に関する事務職の長てある。いずれもタイトルから推して下級官吏てあ やはり土地関係の ったと思われる。さらに「ランヴァン」なる職の人物が関係していた 職務に携わる下級職員てあり、地主不在の空き地などの件て現地に赴いて調査を実施し、 関係者から事情を聴取していた。 いずれにしても碑文をいくつも精査していくと、同一の判事や役人、長所・短所の検査 官などがグループとなって、数カ所の法廷に関与していたようてある。 「正義」にもとづいていた裁判 裁判上の手続きについて述べるならば、周達観が「民間ての裁判沙汰は、たとえ些細な ことてあってもかならず国王に奏上しなければならない」と言及している。王に提訴する 166
てあったと考えた。 インド学の・フィリオザ氏は、高位者が大型寺院の中て秘儀伝授を受けてシヴァ神と 同一視され、死後は埋葬された墓の上に築かれた小さな建造物の中にこうした容器に入れ した月型 られて安置されていたのてはないか、と述べている。この墓の上部には基壇のつ、 のピラミッド型寺院を建てることが可能てあり、その上部にはリンガを立てることもてき ると明言している。まさしくカンポジアの山岳型寺院の原型が南インドに存在していたの てある。 碑文はしばしば王が即位式の時に秘儀伝授を受けていたと記している。その時から王は 王墓の シヴァ神と同一に見なされ、死後、その遺体は火葬に付されなかったに違いない。 上部には、リンガを安置した祠堂を建てることがてきたわけてある。 アンコール・ワットては間題がもっと複雑てある。王の死後の名前パラマヴィシュヌロ 力が示すように、スールャヴァルマン二世の守護神はヴィシュヌ神てあった。確かに中央 しかし、どのような容 祠堂て崇拝されていたのはヴィシュヌ神像てあったかもしれない。 貌の彫像てヴィシュヌ神が描かれていたのだろうか。中央祠堂にはこの神が安置されてい たという形跡は何も見つかっていない。現在ては後世持ち込まれた仏陀立像四体がこの中 央祠堂て崇拝されている。