コンクリート - みる会図書館


検索対象: カンガルー日和
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1. カンガルー日和

かいつぶり 175 コンクリート造りの狭い階段を下りると、その先には長い廊下がまっすぐに 続いていた。 天井がいやに高いせいか、廊下は干上がった排水溝みたいに見え た。ところどころにとりつけられた蛍光灯はたつぶりとほこりをかぶって黒す み、その光はこまかい網てもくぐり抜けてきたように不均一だった。おまけに 三本に一本は電球が切れてしまっている。自分の手のひらを眺めるのも一苦労 という有様だ。あたりにはもの音ひとつない。運動靴のゴム底がコンクリート を踏む奇妙に平板な音だけが薄暗い廊下に響いていた。 一一百メートルか三百メートル、いや一キロは歩いたかもしれない。僕は何も 考えすにひたすら歩きつづけた。そこには距離もなければ時間もなかった。そ のうちに前に進んでいるという感覚さえなくなってしまう。しかしまあ、とに かく前には進んでいたのだろう。僕は突然字路のまんなかに立っていた。 E-" 字路 ? 僕は上着のポケットからくしやくしやになった葉書を取り出し、ゆっくり読 み返してみた。

2. カンガルー日和

176 「廊下をまっすぐ進んで下さい。つきあたりにドアがあります」、葉書にはそ う書いてある。僕はっきあたりの壁を注意深く眺めまわしてみたが、そこには ドアの影も形もなかった。かってドアがあったという痕跡もなければ、これか ら先ドアがとりつけられそうな見込みもない。それは実にあっさりとしたコン クリートの壁で、コンクリートの壁が本来的に有している特質の他には何ひと ひゅ つ見るべきものはなかった。形而上学的なドアも、象徴的なドアも、比喩的な ドアも、まるで何もない。 やれやれ。 僕はコンクリートの壁にもたれかかって煙草を一本吸った。さて、これから どうすればいいのだろう。先に進んだものか。それともこのまま引き返したも のか。 とはいっても、正直なところそれほど真剣に迷ったわけではない。本当のこ とを言えば、先に進むしか僕には道はなかったのだ。僕は貧乏な生活には十分 うんざりしていた。月賦の支払いにも、別れた妻への離婚手当にも、狭いア ートにも、浴室のゴキプリにも、ラッシュ・アワーの地下鉄にも、そんな何 もかもにうんざりしていた。そしてこれがやっとみつけたうまい仕事だった。 仕事は楽だし、給料は目玉が飛び出るはど良い。年に二回のポーナス、夏の長

3. カンガルー日和

なった海岸の匂いだった。 一時間後にタクシーを海岸に停めた時、海は消えていた。 いや、正確に表現するなら、海は何キロも彼方に押しやられていた。 古い防波堤の名残りだけが、かっての海岸道路に沿って何かの記念品のよう に残されていた。もう何の役にも立たない、古びた低い壁だ。その向う側にあ るものは波の打ち寄せる海岸ではなく、コンクリートを敷きつめた広大な荒野 だった。そしてその荒野には何十棟もの高層ア。ハ ートが、まるで巨大な墓標の ように見渡す限りに立ち並んでいた。 初夏を思わせる日差しが、大地に降り注いでいた。 「もうここができて三年にもなるかな」とタクシーの年配の運転手が教えてく れた。「埋めたてを始めてから七年くらいかかったけどね。山を切り崩して、 ベルト・コンべアで運んだその土で海を埋めたんだよ。そして山を宅地にし て、海にアパートを立てたんだ。知らなかったの ? 「もうかれこれ十年振りだからね」 運転手は肯いた。「ここもすっかり変わっちまったよね。もう少し行けば新 しい海岸に出るけど、行ってみますか ?

4. カンガルー日和

をひっそりと漂っている。もし齢をとっていたとしたら、彼女はもうかれこれ 四十に近いはすだ。もちろんそうしゃないということもあり得るだろうけれ ど、彼女はもはやすらりとしてもいないだろうし、それはど日焼けもしてはい ないだろう。彼女にはもう三人も子供がいるし、日焼けは肌を傷めるのだ。ま A 」い、つ、」 だそこそこに綺麗かもしれないけれど、一一十年前はど若くはない とだ。 しかしレコード の中では彼女はもちろん齢をとらない。 スタン・ゲッツの ヴェルヴェットのごときテナー・サクソフォンの上では、彼女はいつも十八 で、クールでやさしいイハネマ娘だ。僕がターン・テープルにレコードを載 せ、針を落とせば彼女はすぐに姿を現わす。 、こ、′ん・こ亠ノ、れど一 「好きだと言しオしオー ートをあげたいんだけれど : 僕のハ この曲を聴くたびに僕は高校の廊下を思い出す。暗くて、少し湿った、高校 の廊下だ。天井は高く、コンクリートの床を歩いていくとコッコッと音が反響 る。北側には幾つか窓があるのだが、すぐそばまで山がせまっているものだ から、廊下はいつも暗い。そして大抵はしんとしている。少なくとも僕の記憶

5. カンガルー日和

5 月の海岸線 115 「いや、ここでいいよ、ありがとう」 彼はメーターを起こし、僕の差し出す小銭を受け取る。 海岸道路を歩くと、顔にうっすらと汗がにしんでくる。五分ばかり道路を歩 いてから防波堤に上り、幅五十センチはどのコンクリートの壁の上を歩き始め る。新しい運動靴のゴム底が軋む。見捨てられた防波堤の上で、僕は何人かの 子供たちとすれ違う。 十一一時三十分。 おそろしく静かだ。 ねえ、もう一一十年も昔になるかな、夏になると僕は毎日この海で泳いでいた はだし んだよ。海水パンツをはいたまま、家の庭先から海岸まで裸足で歩いて通った んだぜ。太陽に焼かれたアスファルトの道はおそろしく熱くってね、びよん びよん跳びながら歩いたもんさ。タ立ちもあったよ。焼けたアスファルトの路 面に吸い込まれていくタ立ちの匂いがたまらなく好きだった。 家に帰ると、井戸の中に西瓜が冷えていた。もちろん冷蔵庫もあったけど、 井戸で冷やした西瓜くらい美味いものはないんだ。風呂に入って体についた塩 水を落としてから、縁側に座って西瓜を囓るんだよ。一度だけ西瓜を吊るして おいた紐がはすれちまったことがあってね、すくい上げられないまま、何カ月 すいか

6. カンガルー日和

ポールをしたりしてたよ。夜中に学校で一人 体育館で一人でバスケット・ きりというのは悪くなかったね。いや、ちっとも布くなんてないさ。だって十 、十九なんて怖いもの知らすだもんね。 君たちは中学校の夜警なんてしたことないだろうから手順を一応説明してお くと、見回りは九時と三時に一回すつやるんだ。そういう風に決められてい る。校舎は結構新しいコンクリートの三階建てで、教室の数は十八から一一十。 そんなに大きな学校しゃないんだ。それに音楽室とか実験室とか裁縫室とか美 術室、それに職員室やら校長室なんかがある。校舎以外には給食室とプールと 体育館と講堂がある。それだけをざっと見回るわけさ。 見回るチェック・ポイントは二十くらいあって、歩いてひとつひとっそれを 確かめ、ポールペンでサインを用紙に書き込むんだ。職員室ーー、実 験室ーー、てぐあいにね。もちろん用務員室に寝転んだまま、っ て書いちゃうこともできる。でもそこまで手は抜かなかったよ。というのは見 回ったってまあたいした手間ではないし、それに変なのがしのびこんでたりし たら、寝込みを襲われるのはこちらだものね。 で、九時と三時に僕は大型の懐中電灯と木刀を持って学校をまわる。左手に 懐中電灯、右手に木刀だよ。僕は高校時代剣道をやっていたから腕には自信が

7. カンガルー日和

118 高層住宅の群れはどこまでも続いていた。まるで巨大な火葬場のようだ。人 の姿はない。生活の匂いもない。のつべりとした道路を時折自動車が通り過ぎ 僕は預言する。 五月の太陽の下を、両手に運動靴をら下げ、古い防波堤の上を歩きながら 僕は預言する。君たちは崩れ去るだろう、と。 何年先か、何十年先か、何百年先か、僕にはわからない。でも、君たちはい つか確実に崩れ去る。山を崩し、海を埋め、井戸を埋め、死者の魂の上に君た ちが打ち建てたものはいったい何だ ? コンクリートと雑草と火葬場の煙突、 それだけしゃないか。 行く手に川の流れが見えるようになり、堤防も高層住宅もそこで終わってい た。僕は川原に下り、澄んだ水の流れに足を浸す。なっかしい冷ややかさだ。 海が汚れ始めた時代にも、川の水はいつも澄んでいた。山から砂地の川床を一 直線に流れてきた水だ。流砂止めの滝をつも持ったこの川には魚も殆ど住ん ではいない 僕は浅い川筋を辿り、やっと見えてきた波打ち際へと向う。波の音、潮の匂 、海鳥、沖合に碇をおろした貨物船の影 : : : 、両脇を埋めたて地にはさみこ