215 図書館奇譚 「お願いだから教えて下さい。家では母が心配してるんです」 「、つん、つまりさ、のこぎりで頭を切られるんだよ。それで脳味噌をちゅ、つ ちゅうと吸われるのさ」 僕はべッドの上で頭を抱えた。いったいどこで何が狂ってしまったんだろ う。僕は何ひとっ悪いことなんかしてないのに。 「大丈夫、大丈夫、ごはんを食べれば元気になるよ」と羊男が言った。 「ねえ羊男さん」と僕は訊ねてみた。「どうして僕が脳味噌をちゅうちゅう吸 われるんですか ? 」 「うん、つまりさ、知識の詰まった脳味噌というのはとても味いんだよ。な んというか、とろりとしててね、それからつぶつぶなんかもあるし : : : 」 「だから一カ月知識を詰めこませてから吸うわけなんですね」 「そういうこったよね」 羊男は衣裳についたポケットからセプンスターを出して、百円ライターで火 3
しすつ重くなっていった。もちろん僕は何度も頭を振って目をぎゅっと閉し、 あるいは目をそらし、そのガス体を消しさろうと努めた。しかしいくら努力し てもそれは消え去らなかった。ガス体はずっとテープルの上に浮かんでいた。 ひどく眠い 僕は眠気を追い払うためにスープ・スプーンを口に運びながら頭の中でコー ン・ボタージュとつづってみた。 corn potage soup 簡単すぎて効果はなかった。 「スペリングのむすかしそうな単語をひとっ言ってみてくれないかな」と僕は 彼女は中学校の英語の先生をしているのだ。 彼女の方を向いてそっと言った。 , 「ミシシッピ」と彼女はまわりに聞こえないように小さな声で言った。 か ( 4 つ、・ 1 か一 4 ・つ、かっ 0 Mississippi と僕は頭の中でつづってみた。 つ。奇妙な単語だ。 「他には ? 」 「黙って食べなさい」と彼女は言った。 「すごく眠いんだ」と僕は言った。 「わかってるけどお願いだから眠らないでね、みんな見てるから」と彼女は
カンガルー日和 てくる。空にはくつきりとした夏の雲が浮かんでいた。 「何か食べる ? 」と僕は彼女に訊ねた。 「ホットドッ グ」と彼女は言った。「それにコーラ」 亠いツー「にーツ グ売りは若い学生アルバイトで、ワゴンの形をした屋台の中に大 型のラジオ・カセットを持ちこんでいた。ホットドッグが焼きあがるまでス ティービー・ワンダーとビリー ・ジョエルが歌を唄ってくれた。 僕がカンガルーの柵に戻ると、彼女は「はら」と言って一匹の雌カンガルー を指さした。 「はら、見て、袋の中に入ったわよ」 たしかに赤ん坊カンガルーは母親の袋の中にもぐりこんでいた。おなかの袋 は大きくふくらんで、小さな尖った耳と尻尾の先端だけがびよこんと上にとび 出していた。 「重くないのかしら ? 」 「カンガルーはカ持ちなんだ」 「本当 ? 」 「だから今まで生き延びてきたんだ」 母親は強い日差しの中で汗ひとっかいてはいなかった。青山通りのスー
カンガルーの赤ん坊はもちろん生きていた。彼 ( あるいは彼女 ) は新聞の写 真で見たよりすっと大きくなっていて、元気に地面を駆けまわっていた。それ はもう赤ん坊というよりは小型のカンガルーだった。その事実が彼女を少し がっかりさせる。 「もう赤ん坊しゃないみたい 赤ん坊みたいなもんだよ、と僕は彼女を慰める。 「もっと早く来るべきだったのよ」 僕が売店まで行ってチョコレート・アイスクリームをふたっ買って戻ってき た時、彼女はまだ柵にもたれてしっとカンガルーを眺めていた。 「もう赤ん坊じゃないのよ」と彼女は繰り返した。 「そう ? と言って僕はアイスクリームをひとっ彼女にわたす。 「だって赤ん坊ならお母さんの袋に入ってるはすよ」 うなす 僕は肯いてアイスクリームをなめる。 「でも入ってないもの」 我々はとりあえず母親カンガルーを探した。父親カンガルーの方はすぐにわ かった。いちばん巨大で、いちばん物静かなのが父親カンガルーだ。彼は才能
245 図書館奇譚 館の地下室だった。電球が天井からぶらさがり、その下にテープルがあり、 テープルには老人が座ってこちらをじっと見ていた。老人のわきには大きな黒 い大が座っていた。 宝石入りの首輪をつけた緑の目の大だった。足は太く、爪 が六本もある。耳の先がふたつに割れて、鼻は茶色だった。昔、僕を噛んだ大 大は血みどろになったむくどりを歯のあいだにしつかりとくわえていた。 僕は思わす悲鳴をあげた。羊男が手をのばして僕の体を支えてくれた。 「すっとお前らを待っておったよ」と老人は言った。「ずいぶん遅かったしゃ ないか」 「先生、これにはいろいろとわけが」と羊男が言った。 「ええい うるさいわ」と老人が大声でどなった。そして腰から柳の枝をひき ぬき、テープルをびしりと打った。大が耳を立てた。羊男は黙った。あたりが しんとした。 「さてと」と老人は言った。「お前をどうしてくれようかな」 「眠っていたんしゃなかったんですか ? 」と僕は言った。 こざか 「ふふん」と老人がせせら笑った。「小賢しい子よなあ。誰に教わったのかは しらんが、わしはそれはど甘くはない。お前らの考えとるくらいのことはお見 とおしじやわい
73 鏡 うん、さっきからすっとみんなの体験談を聞いてるとさ、そういったタイプ の話にはいくつかのハターンがあるんじゃないかって気がするんだよ。ますひ とつはこちらに生の世界があって、あちらに死の世界があって、それがクロス するっていうタイプの話だわ。たとえば幽霊とか、そういうの。それからもう ひとつは三次元的な常識を超えたある種の現象や能力が存在するってことだ ね。つまり予知とか虫の知らせとかね。大きくわけるとそのふたつに分類でき ると田 5 うんだ。 で、そういったのを綜合してみるとさ、みんなどちらか一方の分野だけを集 中して経験しているような気がするんだな。つまりさ、幽霊を見ている人はし ばしば幽霊は見るんだけど、虫の知らせを感しることはますないみたいだし、 虫の知らせをよく体験する人は幽霊って見ないんだね。どうしてだかはよくわ かんないけれど、そういうのに対する向き不向きというのは、どうもあるみた いたね。業はそうう。 それから、もちろんどちらの分野にも適さないって人もいる。例えば僕がそ
221 図書館奇譚 ( 本当はもっとすっと長い名前だ ) 、半月刀を腰に、税を集めるべくバグダッ の通りを歩きまわった。通りにはにわとりの匂いや、煙草やらコーヒーの匂い が淀んだ川のようにたちこめていた。果物売りは見たこともないような果物を 売っていた。 ハシュールは物静かな人間で、三人の妻と五人の子供がいた。彼はインコを インコはむくどりに劣らす可愛かった。ハシュールである 二羽飼っていたが、 僕は三人の妻たちと何度か愛の営みを持った。こういうのって、なんだかすご 九時半に羊男がコーヒーとクッキーを持ってやってきた。 「おやおや、感心だねえ。もうお勉強してんのかい ? 」 「ええ、羊男さん」と僕は言った。「とても面白いです」 「そりやよかった。でも一服してコーヒーでも飲みなよ。はしめから根をつめ ると、あとが大変だからさ」 僕は羊男と一緒にコーヒーを飲み、クッキーを食べた。ばりはり。 「ねえ、羊男さん」と僕は訊ねてみた。「脳味噌を吸われるのってどんな感し なんですか ? 「うん、そうだね、思っているほど悪くはないもんだよ。ちょうどね、頭の中
かいつぶり 177 期休暇。ドアのひとつ、曲がり角のひとっくらいであきらめる手はない。 僕は靴の底で煙草を踏み消してから十円玉を宙に放り上げ、手の甲で受け 表、そして僕は右側の廊下を進んだ。 廊下は一一度右に折れ、一度左に折れ、階段を十段下りて、また右に折れた。 空気はコーヒー・ゼリーみたいにひやりとしていた。僕は金のことを考え、エ ア・コンディショナーのきいた気持の良いオフィスのことを考え、素敵な女の たど 子のことを考えながら歩き続けた。一枚のドアに辿りつきさえすればそんな何 もかもを手にすることができるのだ。 やがて行く手にドアが見えてきた。遠くから見るとそれは使い古しの切手の ように見えたが、近づくにつれて少しすっドアの体裁を帯び始め、ついには一 枚のドアになった。 ドア、なんという素晴らしい響きだ。 せきばら 僕は一度咳払いしてからドアを軽くノックし、一歩下がって返事を待った。 十五秒たっても返事はない。 もう一度、今度は少し強くノックしてまた一歩下 がる。返事はない。 僕のまわりで空気が少しすっ固まり始めた。 不安に駆られて三度めのノックをしようと足を踏みだしかけたところでドア
ることになる。もちろんまっ暗だよ。月が出ていれば少しは明りが入ってくる けど、そうでなきやまるで何も見えない。懐中電灯で少し先を照らしながら歩 ) 0 / ル いていくわけさ。その夜は台風が近いから、もちろん月なんて出てなし の時たま雲が切れても、すぐにまたまっ暗になっちゃう。 ・ポール・シューズ その夜はいつもより急ぎ足で廊下を歩いた。バスケッ のゴム底がリノリウムの上でシャ・キッ、シャキッて音を立てた。緑のリノリウ ムの廊下さ。今でも覚えてるよ。 その廊下のまん中あたりに学校の玄関があるんだけどね、そこを通り過ぎた 時に突然「あれ ! 」って感じがしたんだ。暗闇の中で何かの姿が見えたような 気がしたんだ。わきの下がひやっとした。僕は木刀を握りなおして、そちらの 方向に向きなおった。そしてそちらにばっと製中電灯の光を投げかけた。下駄 箱の横の壁のあたりだ。 そこには僕かいたつまり 鏡さ。なんてことはない、そこに僕の姿がう つっていただけなんだ。昨日まではそんなところに鏡なんてなかったのに、新 しくとりつけられていた。それで僕はびつくりしちゃったわけさ。僕はほっと すると同時に馬鹿馬鹿しくなった。なんだ、くだらない、 と田 5 った。それで鏡 の前に立ったまま懐中電灯を下に置き、ポケットから煙草を出して火をつけ
1963 / 1982 年のイバネマ娘 「やあ」と僕は声をかけてみる。 「こんちは」と彼女は言う。 「ビールでも飲まない ? と僕は誘ってみる。 「いいわわ」と彼女は言う。 そして我々はビーチ・バラソルの下で一緒にビールを飲む。 「たしか 1963 年にも君をみかけたよ。同じ場所 「ところで」と僕は一一一口、つ。 で、同じ時間にわ」 「すいぶん古い話じゃないこと ? 」 「そうだね」 彼女は一息でビールを半分飲み、缶にほっかりと開いた穴を眺める。 「でも会ったかもしれないわね。 19 6 3 年でしょ ? えーと、 19 6 3 年 ・ : : ・うん、会ったかもしれない 「君は年齢をとらないんだね ? 「だって私は形而上学的な女の子なんだものー 「あの頃の君は僕になんて気づきもしなかったよ。いつもいつも海ばかり見て 「あり得るわね」と彼女は言った。そして笑った。「ねえ、ビールもう一本も