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検索対象: ニキ・ド・サンファル展 NIKI DE SAINT PHALLE
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1. ニキ・ド・サンファル展 NIKI DE SAINT PHALLE

第 6 よ月駅第釦 B い , 0 いノ税 イ。発材 、 5 6 唾。。い / 巧。んおな 4 49 ティア・ダイアリー黒は特別 1993 年 スクリーンプリント 80X 120.5 cm ニキ美術館 Dear Diary Black Different 1993 Screenprint 80X 120.5 cm Edition no. 80 / 100 Niki Museum, Nasu 私は今日浜辺で太 0 た女の人を見ました彼女は私に偉大な異教 徒の女神を思い起こさせました / テア・タイアリー / 黒は特別 / 私 はたくさんの黒人像を作。丿ました / 黒いヴィーナス、黒し、マドンナ / 黒い男、黒いナナ / 黒は私にと 0 てとても大切な色でした / 今日、ヒ・ ーチを歩いていて、私は 5 歳か 6 歳の小さな黒人の子が父親と遊ん でいるのを見ていました / 本当にかわいか 0 た / そしてこれが私に 啓示を与えました / 私の曾孫のジャールとともに、今では私力、黒 人ですこれは 0 い最近の = とて、私はそのことに満足してし、ま す / ジャールにはフラン = 、アメリカ、ヴ , トナム、ギリシアルギ 、アイルランド、インクランド、アフリカ、スコットランド、ロシスイ タリス 0 ダヤ、キー = アメリカ人の血が流れてし、ます / 黒人は、 今では私のことです 72

2. ニキ・ド・サンファル展 NIKI DE SAINT PHALLE

1998 5 月 15 日、タロット・カーテンがオープンする。工ルサレムで 22 の大きな動物の 彫刻からなる遊ひ場「ノアの箱船」を完成させる。これらの仕事は 80 年代から 彼女のアシスタントを勤めていたマルチェロ・ジテッリの支援によって完成。 くプラック・ヒーローズ〉のシリーズを手がける。これはマイルス・テイウイス、ル イ・アームストロングショセフィン・べイカーなと傑出したアフリカ系アメリカ人 へのオマージュであった。このシリーズは、アフロアメリカ人として生まれた彼 女の孫たちへ捧けられた。 サンティエゴの国際民芸美術館で大きな回顧展が開催される。この展覧会は 二キの友人であったマーサ・ロングネッカーが企画した。 10 月、初来日、京都と那須に滞在する。 自伝『跡』を執筆。 1999 5 月、スイス、フリプールの「スペース、ジャン・ティンゲリーとニキ・ド・サンファル」 でニキの展覧会開催。 9 月、ウルムのウルマー美術館ほかドイツ国内で大回顧展「ニキ・ド・サンファル ーー愛、抗議、ファンタジー」開催 ( ルートヴィヒスハーフェンのヴィルヘルム・ハ ック美術館、クンストハレ・エムテンに巡回 ) 。 サンティエゴとロサンジェルスのタセンド・ギャラリーでも展覧会開催。 サンティエゴに 5 メートルの高さの、外側がモサイクで飾られた骸骨をつくる。 中は鏡張りの瞑想室になっている。 南カリフォルニアのエスコンテイドの公園に直径 125 メートルのモ二ュメントを テサインする。「蛇の壁」で縁取られたもので、これはカリフォルニアの伝説的 な女王カリフィアを表わしたもの。 ハノーファーのヘッレスハウセン庭園の洞窟の内装を依頼される。このプロジ ェクトはピエール・マリー・ルジュヌとケイリー・カークが一緒に働く。 IO 月、「高松宮殿下記念世界文化賞」受賞。 2000 新しい花瓶のシリーズを手がける。 4 とともに、 2000 年 をたたえる子ともたち 名誉市民となったニキ 」ティーグとナナの前で、 ベルト・シュマールス ハノーファー市長へル 142 11 月、ハノーファーのシュプレンケル美術館に 400 点近くの作品を寄贈する。 同時に「祭典ニキ・ド・サンファルからのプレセント」展開催。ハノーファー市 で、女性で最初の名誉市民になる。 贈する。 2001 9 月、ハーゼルのティンケリー美術館で「ニキ・ド・サンファル : 1952 年から 2001 主要な作品を二一ス市と二一ス近現代美術館、そしてパリの装飾美術館に寄 行なわれる。これは二キにとってアメリカで最初のカーテンであり、同時に 10 月 26 日、「クイーン・カリフィアのマジック・サークル」が公開され、除幕式が の芸術、 1960 年代」展開催 ( クンストハウス・ウィーンに巡回 ) 。 8 月、ハノ - ファーのシュプレンケル美術館で「ナナの誕生 : ニキ・ド・サンファル 覧会が開催される。 6 月、パリのノヾレ・ロワイヤルの庭でニキ・ド・サンファルの大きなトーテムの展 が野外展示される。 5 月、東京のカレッタ汐留のカレッタブラサで、ニキ美術館所蔵の巨大立体作品 シャワの国立現代美術館、クラコフの国立美術館に巡回 ) 。 3 月、プダベストのエルンスト美術館で回顧展「二キ・ド・サンファル」開催 ( ワル 3 月、ハノーファーの庭園へツレスハウゼンの「ニキの洞窟」がオープンする。 2003 サンファ丿レヘ」展開催。 12 月、ハノーファーのシュプレンケル美術館で「ニキ・マシューズからニキ・ド・ 仕事を続け、完成させる。 ツリなとのチームがニキ・ド・サンファルのエスコンテイドやハノーファーでの ニキの孫ブルーム・カルテナス、そしてニキの助手でもあったマルチェロ・ジテ 5 月 21 日、カリフォルニアで 71 歳の生涯を閉じる。 3 月、ニース近現代美術館で「二キ・ド・サンファル : 寄贈」展開催。 2002 催。 年まで、シュプレンケル美術館にニキ・ド・サンファルが寄贈した作品より」展開 2005 センターに巡回 ) 。 美術館のコレクションから」展開催 ( オランダアーメルスフォールトの近代美術 IO 月、ニュルンベルクのクンストハレで「初期の作品と版画一一 な作品のアッサンプラージュ」展開催。 6 月、フランスのアンジェ市立美術館で「ニキ・ド・サンファルーーモニュメンタル 2004 「ニキ芸術財団」がカリフォルニアで組織される。 キが手がけた最後の仕事となった。 ース近現代 2 月、ハノーファーのシュプレンケル美術館で「タロット・ガーテン彫刻、設計図、 性」展開催。 5 月、ドイツのノイハルテンベルク城で「ナナ・パワーニキ・ド・サンファルの女 テッサン」展開催。 開催。 6 月、フランス、ル・トアーのポッピー庭園で野外展覧会「ニキ・ド・サンファル」

3. ニキ・ド・サンファル展 NIKI DE SAINT PHALLE

年譜 /Chronology 1930 10 月 29 日 6 時 40 分、カトリーヌ・マリー・アニエス・ド・サンファルは、フランス系ア メリカ人の母親ジャンヌ・ジャックリーヌ ( 結婚前の姓はハー / ヾー ) とフランス人 の父親アンドレ・マリー・ファル・ド・サンファルとのあいたの、 5 人兄弟 ( 2 歳年上 の兄ジョン 6 歳年下の妹クレス 8 歳年下の妹工リサベス、 13 歳年下の弟リチャ ード ) の 2 番目の子ともとして、ノヾリ郊外のヌイイ = シュル = セーヌに生まれる。 さそり座。父親は 7 人兄弟で、家族で銀行を経営していたが、 1929 年に起こっ た世界恐慌の影響で破産したため、両親はアメリカに移住。マリー・アニエスは 兄ジョンとともに父方の祖父母のいるフランス中部のニエーヴルに送られ、 3 歳までフランスで過ごす 1944 プレアリー・スクールの敷地内に置かれていたギリシャ彫刻の局部を隠すため のいちしくの葉の部分を赤い絵具で塗り潰す校長はニキに学校をやめるか、 精神科の治療を受けるかとちらかを選ぶように迫り、両親はニキを二ューヨー クの別の修道院付属学校に入れる。 1947 ー 49 メリーランドのオールドフィールド高等学校を卒業する。 モテルの仕事を始める。『ヴォーグ』誌や『ハーノヾース・ / ヾサー』誌、そして『ラ イフ』誌の表紙なとを飾る。 1949 年、 18 歳の時、 1 歳年上のハリー・マシューズと駆落ちし、 6 月 6 日にニュー ヨークで結婚する。 第曲 S HOW T0 MAKE 0UT OF 0 「ライフ』誌の表紙を飾る二キ、 1949 年 カトリーヌ・マリー・アニエス・ド・サンファル、 1930 年頃 1933 アメリカ、コネチカット州のグリニッチの両親のもとに戻る。夏休みには母方の 祖父のシャトー・ド・フィラヴァルで過ごす 1950 2 月、ニキの母親の強い希望で、ニキとハリーはニューヨークにあるフランス教 会で結婚式を挙け、その後、マサチューセッツのケンプリッジに引っ越すハリ ーはハーヴァード大学で音楽を勉弓蛍し、ニキは最初の油絵やクワッシュの作品 を制作する。 1937 家族とともに二ューヨークの東 88 番通りに引っ越すマリー・アニエスはニキと 名付けられ、東 91 番通リにある聖心修道院付属学校に通う。 1941 修道院付属学校を放校になり、母方の祖父母と暮らすため、二ュージャー のプリンストンに送られる。母方の祖父母は第二次大戦勃発のため、フランス からアメリカに渡っていた。ニキは地元の公立学校に通う。 1 951 4 月 23 日、ホストンで娘ローラが生まれる。 1942 ニューヨークの両親のもとに戻り、プレアリー・スクールに通う。ニキは読書を 愛し、特にエドカー・アラン・ポーの小説、シェークスピアの戯曲やギリシャ悲劇 に魅せられていた。また、学校で演劇のコースに参加し、彼女にとって最初の 戯曲であり、詩でもある「ベスト」を書く。 1952 ニキとハリーとローラはホストンを離れ、ノヾリのジャン・ドレン街に転居。ハリ ー・マシューズは指揮者になることを夢見て、エコール・ノルマルで勉強を続け る。ニキは演劇学校に入学する。ふたりの結婚生活は当時としては進歩的で 家事や子育てを積極的に分担していた。家族で南フランス、スペインイタリア 134

4. ニキ・ド・サンファル展 NIKI DE SAINT PHALLE

射撃スーツ 1962 年 145 X 74 X 1 5 cm シュプレンゲル美術館 ( ニキ・ド・サンファル氏寄贈 ) Shooting Suit 1962 Cloth 145 X 74 X 1 5 cm SprengeI Museum Hannover, Schenkung Niki de Saint PhaIIe この射撃スーツは、実際に射撃のパフォーマンスでニ キか着用したものである。ライフル銃は、 22 口径の もので、本物の銃弾を込めて使用された。当時のニ キは駆け出しの芸術家で十分なお金がなかったた め、最初の射撃セッションで使ったものは借り物であ ったという。また、 1962 年にアメリカのマリプで行な われた射撃セッションでは、エド・キーンホルツの援 助で 12 丁のライフル銃が使われた。 ノートルダム寺院を背に射撃スーツ姿でポーズするニキ ( ハリー・シャンクによるフォトモンタージュ ) ニキが使用していたライフル銃

5. ニキ・ド・サンファル展 NIKI DE SAINT PHALLE

などを旅行し、その途中でさまさまな美術館や大聖堂などを見て回る。この経 験は二キにインスピレーションを与え、のちの作品に影響を与えることに なる。 介する。フルテンはこの後、ニキを重要な展覧会に招待し、作品を美術館の収 蔵品として買い上け、生涯にわたって二キの活動を支援することとなる。 1961 2 月、「比較 : 絵画一彫刻」展 ( パリ市近代美術館 ) に、《聖セノヾスチャンあるいは 私の愛人のポートレート》 ( cat. n07 ) を出品する。 2 月 12 日、最初の射撃セッションを企画する。石膏で作ったレリーフにさまさま なオプジェを埋め込んたものを制作。これらのオプジェには、絵具が詰まった 容器が埋め込まれていて、弾丸がこの容器に当たれは、絵具が飛び散るしかけ になっていた。このセッションはのちに「射撃絵画」として有名になる。 最初の射撃絵画の開催には、フランスで活動していたヌーヴォー・レアリスムの 作家らが訪れた。この運動の旗手で、また批評家としても主導的な位置にあっ たピエール・レスタニーはニキの射撃絵画に感銘し、すぐに彼女をグループに 誘う。ヌーヴォー・レアリスムの参加者は、アルマンセサール、クリスト、ジェラ ール・テユシャンフランソワ・テュフレーヌ、レイモン・レイス、ミンモ・ロテッラ、 ダニエル・スペーリ、ティンゲリー、ジャック・テュ・ラ・ヴィルグレなど男性はか りであった。 3 月、ポンテュス・フルテンによって企画された展覧会「動いた、動く」 ( アムステ ルダム市立美術館、ストックホルム近代美術館、テンマークのルイジアナ美術 館に巡回 ) に出品。 6 月 20 日、ジャス / ヾー・ジョーンズ、ロノヾート・ラウシェンノヾーグそしてニキとティ ンゲリーは / ヾリのアメリカ大使館で開催された、ジョン・ケージによる企画コン サート・ハプニング「ヴァリエーションⅡ」に参加。このパフォーマンスは、ティヴ イッド・チューダーがジョン・ケージの音楽をピアノで演奏し、そのあいた、ほか の芸術家たちか舞台上でそれそれの作品を制作するといったものであった。 レスタニーは彼の妻ジャンニーヌ・ゴールドシュミットが経営する画廊ギャラ リー J でニキの個展を企画する。ニキは展覧会タイトルに「好きなたけ撃て ! 」 と付ける。レオ・キャステリ、ラウシェンノヾーグジョーンズ、そしてヌーヴォー レアリスムのメンハーが 6 月 30 日のオープニングに参加。ラウシェンノヾークが 《射撃絵画》 1 点を購入する。 レスタニーはニースのギャルリー・ムラトールでヌーヴォー・レアリスムのフェス ティヴァルを開催。 7 月 13 日の夕方、オープニングでニキの射撃が計画される。 ニキはロスラン大修道院でそれを実行し、ヌーヴォー・レアリスムのメンノヾーも 参加する。 1953 深刻な神経衰弱に陥り、ニースで入院、治療を受ける。ここで絵画が治療に有 効であることがわかり、演劇の道に進むことを諦め、芸術家を志す同し頃、ハ リー・マシューズも音楽を諦め、小説を書き始める。 1954 3 月、ニキとハリーはニースで車を買い、ローラを連れてパリに戻る。アメリカ人 のジャズ・ミュージシャンで作曲家でもあるアンソニー・ホナーと同居。ニキは アメリカ人の画家ヒュー・ワイスと知り合う。彼はその後 5 年問ニキの絵画制作 における指導者となり、自由なスタイルで美術を続けるよう勧める。 9 月、一家は地中海に浮かぶマヨルカ島のテヤに転居。 1955 5 月 1 日、息子フィリップが生まれる。マドリードとハルセロナに行き、カウティの 建築に出会う。この旅行では、特にグエル公園が彼女に影響を与え、のちに彫 刻公園を作るというインスピレーションを与えた。 フランス南東部のオートリーウにある、ジョゼフ・フェルティナン・シュヴァルの 理想宮殿を訪れる。 この年、芸術家ジャン・ティンゲリーと、その妻でやはり芸術家のエヴァ・エベリ と出会う。のちにニキが最初の立体作品をつくる時に、ティンケリーに鉄の土 台を作ってもらい、それに石膏を加えて制作した。 1956-58 家族でフランス・アルプスのラン・サン・ウェルコールで過ごす油彩作品のシリ ーズを制作し、スイスのサンクト・カレンで最初の展覧会「ニキ・マシューズー ノヾリー絵画」を開催。 8 月、家族とともにノヾリに戻り、アルフレッド・テュラン = クレイ街の小さなアパー トに引っ越すハリーとニキはルーヴルをはしめ、 / ヾリのさまさまな美術館を訪 れ、クレー、マティス、ピカ、スアンリ・ルソーらの作品を知る。作家活動を続け るハリーを通し、ニキはジョン・アシュべリーやケネス・コッホなどの同時代作家 と知り合う。 日 月 年 ョ シ 撃 射 の の 路 袋 ン サ ン ロ 1959 ノヾリ市近代美術館でアメリカの芸術家、ジャスパー・ジョーンズ、ウイレム・テ・ク ニングジャクソン・ポロックロハート・ラウシェンノヾーグなどの作品を知る。 1960 ハリーと離婚する。ハリーはふたりの子どもとともにヴァレンヌ街に引っ越 ニキはそのままアルフレッド・テュラン = クレイ街に留まる。彼女は芸術上の実 験を続け、石膏のアッサンプラージュや「ターゲット・ピクチャー ( 標的絵画 ) 」を 制作する。 この年の末、ニキとティンケリーは、多くの芸術家たちがいたロンサン袋小路 に引っ越し、ふたりで共有のスタジオをもつ。 ティンケリーはニキをストックホルム近代美術館長ポンテュス・フルテンに紹 135

6. ニキ・ド・サンファル展 NIKI DE SAINT PHALLE

I 初期の作品 若い時、私はあらゆるものに恕りを感していました。 もちろん、そういった怒りを抱えた若い男性や女性で、芸術家にならない人 はたくさんいます。 でも、私は芸術家になりました。私にはほかに選択肢がなかったからです。 たから、私は決心する必要はなかったのです。 それは、運命でした。 もし、別の時代たったとしたら、私は精神病院に閉し込められたままたった でしよう。私が、 IO 回の電気ショックなと、精神病の厳しい治療を受けたの は短期間たけでした。でも、それは私にとってはとても長く感しられました。 私は芸術を抱きしめました。私の救済として、そして私にとって必要不可欠 なものとして。 1930 年、フランスで生まれたニキ・ド・サンファルは、 3 歳の時、父親の仕事の関 係でアメリカに移住し、 18 歳でモテルの仕事を始めた。『ライフ』や『ウォーク』 など一流誌の表紙を飾るほど活躍したが、 18 歳でのちに作家となる幼馴染のハ リー・マシューズと駆落ちし、結婚する。 1950 年頃から油彩やクワッシュで絵を 描き始めていたが、 1952 年に当時音楽を専攻する学生たったマシューズととも にパリに移り、ニキは役者を目指して、俳優学校に通うようになる。子ともにも 恵まれ、結婚生活は順調であったが、 1953 年、重い神経症に罹り、ニースの病院 に入院する。そこでニキは再ひ絵を描き始める。絵を描くことは彼女の治療に 大きな効果をもたらした。ニキは芸術によって救われたと感し、女優になること をやめ、芸術家になる決心をする。初期の油彩画は、ニキが子どもの頃大好き であったという童話のようなファンタジーや自身のさまさまな思い出なとが主題 となっているが、それらの自伝的な要素は、晩年の作品に至るまで共通して見 られる二キの作品の特徴である。 ニキは、専門的な美術教育を受けたことはなかった。それは唯一ニキの芸術 における指導者であったアメリカ人画家ヒュー・ワイスのアドノヾイスによるもの でもあった。また 1955 年に知り合い、のちにニキの人生と芸術における運命の 相手となったジャン・ティンゲリーにも「技術は重要ではない。夢がすべてだ」と 励まされる。ニキは世界中の美術館や画廊、教会などでさまさまな作品を見て、 感銘を受けたものから自由にインスピレーションを受けていった。ルソーの素朴 で詩的な表現、ピカソの次々と画風を展開する自由さ、クレーやマティスの装飾 性、そして生涯をかけても完成しきれないほとの壮大なプロジェクトを手がけた 建築家ガウティと、アウトサイダーアーティストとして知られる郵便配達夫シュ ヴァルが建てた「理想宮殿」からは多大な衝撃を受け、自身の幻想の宮殿を作 ることを夢見るようになる。その夢はのちに多くの建築的作品、そしてタロッ ト・ガーテンという集大成として実現されることになるのたが、 1955 年に訪ねた ノヾルセロナにあるカウティの「クエル公園」とフランス南東部オートリーウにあ るシュヴァルの理想宮殿での体験後、ニキは油彩やグワッシュの作品から、次 第に陶器の破片や身の回りのものをコラージュした作品を制作するようにな る。そして、その手法はさらに 1959 年にノヾリ市近代美術館で見た当時のアメリ 力の新しい芸術、ジャスパー・ジョーンズやロハート・ラウシェンバーグそして ウイレム・テ・クーニングなどの作品から受けた衝撃により、日用品などのオプ ジェを使ったアッサンプラージュの手法へと変化していく。ちょうどこの頃、ティ ンゲリーを通じてノヾリやニューヨークの前衛芸術家たちと知己を得、彼らとの交 流を通して、ニキは次第に前衛芸術家としての道を歩み始めるのである。

7. ニキ・ド・サンファル展 NIKI DE SAINT PHALLE

22 ピッグレティー 1968-95 年 テフロンアクリル塗料・サテンテフロンニス、 ポリエステル、鉄の土台 250 X 157 X 80 cm ニキ美術館 B ig Lady 1968 ー 95 Teflon acrylic paint and satin teflon varnish on polyester, iron base 250 X 157 X 80 cm Niki Museum, Nasu 二キのナナ像には、黒人の姿のものが非常に多い。 は、彼らの人間性の解放という意昧も込められてい それらは、ニキが子とも時代に親しんていた陽気な る。ニキは常にすべての人間の平等を願っていた。 料理人の思い出につながっている。彼女はふつくら また伝統的な既成の価値観になしめず社会と闘い した体型で、とても美しく暖かい人柄で、ケーキを焼く 続けてきたニキは、社会におけるマイノリティの存在 のが上手で、彼女のそはにいるだけでニキは、愛と安 に関して常に意識的に彼らの側に立っていた。二キ 心を感しることができたという。 は黒人のナナに自身を同一視させているが、のちに 「ナナ」はニキにとって、自由と解放の象徴である。 生まれた彼女の曾孫がアフロアメリカ人とのハーフ ニキが青春時代を過ごした当時のアメリカでは、黒人 であったこともあり、さらなるシンパシーを感し、その の社会的な立場が低かったこともあり、黒人のナナに 意識は強まった。 52

8. ニキ・ド・サンファル展 NIKI DE SAINT PHALLE

建築プロジェクト《ゴレム》に取りかかる。翌年に完成。 1972 長く続けられるが、のちにハリゴンの息子ジェラルドが後を継ぐ。 鋳造家ロバート・ハリゴンとともに巨大彫刻の制作を開始。彼との共同制作は ジェノヴァのギャルリー・ホニエールで「ニキ・ド・サンファル : ナナ以前」展が開 ハンマー・シネマで封切られる。 ー・ホワイトヘッドとの共作により映画「ダティー」を撮影する。 11 月、ロンドンの 7 月、南フランスのクラースの近くにシャトー・テュ・モンを借り、そこでピータ 催され、初期の作品が出品される。 ギリシャを訪れる。 1973 ニキとティンゲリー、年代不詳 ベルギーの町クノッケ・ル・ズでファヒアンヌとロジャー・ネレンス夫妻のため サン・トロべのジョルジュ・プルヴィエールのスイミングプールをテサインする。 ヴァ丿レのポスターも手がける。 ク・フィルム・フェスティヴァルで上映される。ニキはこのフィルム・フェスティ マルティンらが参加。 4 月、リンカーンセンターで封切られ、第 11 回ニューヨー リジナルキャストに加え、クラリス・リヴァース、ライナー・フォン・ティーツ、ミア・ 1 月、「ダティー」の改訂版をソワジーとニューヨークで撮影する。改訂版にはオ 1974 に、子ともの遊び小屋《ドラゴン》を制作する。 138 催され、ニキの代表作品が紹介される。 テルで「二キ・ド・サンファル : 彫刻、素描、グラフィックナナ・ノヾルーン」展か開 6 月、ドイツのバーテンハーテンのギャラリー・ドクター・エルンスト・ハウスヴェ キ・ド・サンファル : 建築プロジェクト」展開催。 2 月、 / ヾリのアレクサンドル・イオラ・ギャラリーで建築モテルを紹介する「ニ ー」が付けられた。 意を表して、これら 3 つのナナに女王の名前「カロリーヌ」「シャーロッテ」「ソフィ ハノーファーに 3 つの巨大なナナ像を設置。ハノーファー市の歴代の女王に敬 長くボリエステルという素材で作品を作っていたことが原因で肺を悪くし、 スイスの病院に入院、療養する。数週間後、アリゾナを旅行し、その後スイス のサン・モリツツに行く。そこで、 1950 年代にニューヨークで友人関係にあった マレッラ・カラッチョロに再会する。二キはマレッラに彼女の夢である彫刻公 園の構想を話し、その話に感銘を受けたマレッラとその兄弟のカルロとニコ ラ・カラッチョロ夫妻は、ニキがその夢を実現できるように自分たちのトスカー ナの土地の一部を自由に使わせた。 1975 映画「夜よりも長い夢」を制作。この作品には多くの友人が関わり、二キは脚本、 美術装置を担当。ブリュッセルのノヾレ・テ・ホサールで開催された「フェスティ ウアル・ユーロノヾリア・フランス 1975 」で、映画のセットが正面に使われた。 1976 この年丸 1 年間、スイスのアルプスで過ごし、将来の彫刻公園の構想を練る。 ロッテルダムのポイマンス美術館で個展が開催され、建築プロジェクトが紹介 される。 オルボルクのノルテイラン美術館 ( テンマーク ) で「ニキ・ド・サンファルの彫刻」 展が開催される。 ジェノウアのギャルリー・ホニエールで「ニキ・ド・サンファル : 近作」展が開催さ れる。 1977 コンスタンタン・ムルグラープとともにハンス・クリスチャン・アンテルセンの 小説に基づく映画「旅なかま」の舞台装置を手がける。 メキシコやアメリカのニューメキシコを旅行する。 リカルド・メノンが彼女のアシスタントとなり、その後 IO 年間アシスタントを続 ける。 1978 トスカーナの小さな町カラヴィッキオにあるカラッチョロ兄弟所有の土地で 「タロット・ガーテン」の建設に着手する。タロット・カードのモティーフに基づい て 20 体の記念碑的な彫刻作品が二キの解釈に基づいて構想される。 ニューヨークのギャラリー・ギンベル & ウィーツェンホーファーで彫刻マケット 3 月、東京のギャラリーワタリで、日本で初めての個展開催。 やす この年のほとんとの時間をトスカーナで過こし、タロット・ガーテンの建設に費 1979 この機会に 5 月から 7 月にかけて大学ギャラリー ( ウ丿レマー美術館 ) で二キのグ ドイツのウルム大学のキャン / ヾスで、彫刻作品《詩人とミューズ》が除幕される。 かる。 4 月、タロット・カーテンの最初のふたつの彫刻《魔術師》と《女教皇》に取りか 1980 新たな彫刻のシリーズくスキニーズ ( やせつばち ) 〉を構想する。 の後コロンノヾス美術館をはしめとするアメリカ国内の 4 つの美術館に巡回 ) 。 や写真を紹介する「モニュメンタル・プロジェクト、マケットと写真」展開催 ( そ

9. ニキ・ド・サンファル展 NIKI DE SAINT PHALLE

. イこ ニューヨークのセントラル・パークで 1 年近く展示された。最終的には常設とし てストックホルム近代美術館の近くに設置された。 8 月、アムステルダム市立美術館で回顧展「ナナ・ノヾワー」開催 ( その後テュッ セルドルフのクンストフェライン・ノルトライン = ヴェストファーレンに巡回 ) 。 この機会にニキは最初の《ナナの夢の家》《ナナの噴水》なとを構想する。これ らの作品は、二キがこの頃使用し始めたポリエステルで制作された。 IO 月、ニューヨークを訪れ、チェルシーホテルに滞在し、制作する。この滞在中、 ニキはハートやドラゴンのシリーズを完成させる。 1965 4 月、アメリカ人芸術家ラリー・リヴァースの妻クラリスの妊娠からインスピレー ションを得て、毛糸と布で最初のくナナ〉のシリーズを制作する。 9 月、ノヾリのアレクサンドル・イオラ・ギャラリーでの個展でくナナ〉のシリーズを 展示。同時に彼女に関する最初の本が出版される ( ニキの手書きの文字を使 用したテキストとナナの構想が掲載される ) 。イオラの提案で、シルクスクリー ンの版画作品を手がけるようになる。 1968 6 月、舞台作品「イッヒ ( わたし ) 」を手がける。これは、ドイツのカッセル市立劇 場で上演され、ライナー・フォン・ティーツが監督した。ニキは原作 ( ティーツと の共著 ) 、舞台美術、衣裳、そしてポスターを手がける。 「ニキ・ド・サンファル : 作品 1962-1968 」展開催 ( テュッセルドルフのクンストフ 工ライン・ノルトライン = ヴェストファーレン、クンストフェライン・ハノーファーに 巡回 ) 。 10 月、ニキはパリのアレクサンドル・イオラ・キャラリーで 18 個のノヾーツからな るレリーフ作品《昨晩夢を見た》 ( cat. no. 67 ) を展示。また、この頃空気を入れ て膨らますことができるナナ・ノヾルーンを構想。これはニューヨークで制作さ れ、販売された。 この年の末、立体作品の材料に使っていたポリエステルの煙や粉麈を吸引し ていたことが原因で、呼吸のトラブルに見舞われる。 モロッコへ旅行する。 1966 レイスとティンケリーとともにローラン・プティのノヾレエ「エロージュ・テュ・ラ・ フォリ」の舞台美術や衣裳の草案を手がける。この / ヾレエは 3 月にシャンゼリ ゼ劇場で上演された。 1969 インドへ旅行する。旅行の後、最初の本格的な建築プロジェクトに着手する。 これは南フランスのライナー・フォン・ティーツの 3 軒の家で 1971 年に完成 する。 ミュンヘンのギャラリー・スタンゲルで「ニキ・ド・サンファルの彫刻、テッサン クラフィック」展が開催される。 ニューヨークのホイットニー美術館が《プラック・ヴィーナス》を購入し、 4 月に 「アメリカ現代彫刻展、セレクション 2 」に出品される。 フォンテーヌプロー近くのミリー・ラ・フォレでティンケリーによって着手された プロジェクト「キュクロプス ( 1 つ目の巨人 ) / 頭」に参加する。ニキ以外にも多 くの芸術家が参加。 完成間近の《ホーン》とともに、ニキとティンゲリー、ウルトウェット、 1966 年 6 月、ティンケリーとウルトウ、ェットとともにフルテンからストックホルム近代美 術館のエントランスホールに大きな作品を設置するよう依頼される。 3 人の芸 術家はこの記念碑的作品、「横になって休んでいるナナ」 ( 長さ 28 メートル、幅 9 メートル、高さ 6 メートル ) を、《ホーン》 ( スウェーテン語で彼女 ) と名付ける。 スイス人の若い芸術家リコ・ウェーノヾーがこのプロジェクトに参加し、ニキとテ インゲリーのノヾートナーあるいはアシスタントとして一緒に仕事をするように なる。この関係はその後長く続いた ーノし 0 IO 月、ドイツのカッセル市立劇場で行なわれたアリストフアネスの喜劇をもとに したライナー・フォン・ティーツの舞台「リジストラータ」 ( 『女の平和』 ) の舞台美 術と衣裳を手がける。 1970 11 月 29 日、ミラノのギャラリア・ヴィットリオ・エマヌエーレで開催されたヌーウ、 オー・レアリスム IO 周年記念フェスティヴァルのオープニングで、祭壇の形をし たアッサンフ、ラージュに射撃を行なう。このフェスティヴァルはピエール・レス タニーとグイド・ル・ノチによって企画された。 くナナ・パワー〉と名付けられた 17 のシルクスクリーンのシリーズをパリで制作 (cat. nos. 39-45) 。 ニキはティンケリーに同行してエジプトへ旅行する。 1971 6 月 13 日、ソワジーでニキ・ド・サンファルとジャン・ティンゲリーが結婚。その後 ふたりはモロッコへ旅行する。 8 月 IO 日、インドネシアのハリ島でニキの最初の孫プルーム誕生。長女ローラ とロラーン・コンドミナスのあいたに生まれた。 最初のジュエリーをテサインする。 この年の末、エルサレムのラヒノウィッチ公園に設置する子ともたちのための 1967 ニキとティンケリーは、フランス政府より依頼された、モントリオール万博のフ ランス館のための《ファンタスティック / ヾラダイス》を制作する。それは、二キ の 9 体の彩色されたナナと、ティンケリーの 6 つの動く機械の彫刻からなるもの だった。万博の後、ますパッファローのオルプライト = ノックス美術館で、ついで 137

10. ニキ・ド・サンファル展 NIKI DE SAINT PHALLE

されている。 1951 年 4 月 23 日、ホストンで娘のローラが誕生した。それから一家はニューヨークを離 れ、フランスへ移住した。ハーウアード大学で音楽学学士を取得したハリーは、指揮者となるべくエ コール・ノルマルで勉強を続ける。二キは俳優養成学校に通った。ふたりはともに子育ても分担した。 夏のあいたには南フランスやスペインイタリアへ旅行し、家族で美術館や教会を訪ねて歩いた。そ こでニキは、共同体の理想を実現しようとするカテドラルの思想に非常に感動する。たが、 1953 年 に重度の神経衰弱になり、ニースの病院に入院を余儀なくされた。 この時期に、ニキ・マシューズは再び絵を描き始めている。絵を描くことによって、夫婦間の危機を 乗り越えようとしただけでなく、自己を表現することができ、自らの置かれた状況を客観的に捉える ことができた。その結果、女優への道をあきらめ、芸術家になる決心をするのである。ちょうど同じ 頃、彼女の夫も音楽の勉強をやめ、第 1 作目となる小説の執筆に取り掛かっていた。 こうして、ニキの芸術家としてのキャリアが始まる。初期の絵画は、彼女自身の生活を表現したも のだった。「絵画を始めたのは 22 歳の時、神経衰弱で精神病院にいた時だった。絵画の中に、狂気の 暗黒世界とともに、それが治癒されることをも発見し、自らの感情や不安、暴力性、希望と喜びを表現 し始めたのだった」。註 2 ) 再び前進を始めた若いふたりは、夫婦間の関係も修正しようと試みる。 1954 年 3 月、彼らは初めて 自動車を購入した。そしてパリに戻り、ジャズ奏者で作曲家のアンソニー , ホナーと共同生活を送っ た。パリでニキはアメリカ人の画家ヒュー・ワイスと知り合う。彼はその後何年にもわたってニキの芸 術指導にあたり、彼女が独学で身につけた独自の様式による表現を後押ししたのたった。その後、 9 月には家族でマヨルカ島の芸術家村テヤに移住し、そこで 1955 年 5 月、息子のフィリップが誕生する。 この年、ニキはスペインを旅行し、初めてマドリードとノヾルセロナを訪ねた。そこで、アントニオ・ガ ウティの幻想的な建築に出会う。ガウティ設計のグエル公園は、その表面が陶片や鏡の破片で埋め 尽くされた幻想的な建築群たが、のちの二キの芸術の重要な霊感源となっていった。これらの幻想 的な建築群への私的な興味から、彼女は、いつか自身の彫刻の庭を設計したいという考えを抱くよ うになる。 1956 年、ニキ・マシューズはその最初の個展をサンクト・ガレンで開いたが、これがこの時 期の彼女の唯一の公の場での活動であった。同し年、マシューズー家はフランス・アルプスのラン・ サン・ヴェルコールの一軒家に移り住むが、 8 月にはパリのアルフレッド・テュラン = クレイ街の自宅に 戻った。そこでルーヴル美術館やパリのほかの美術館を訪ね、クレーやマティス、ピカソルソーの作 品を知ることになる。さらに、ジョゼフ・フェルティナン・シュヴァルがその生涯をかけて建てた、オー トリーヴにある幻想的な建築「理想宮殿」も訪ねた。また夫ハリーをとおして、ジョン・アシュべリーや ケネス・コッホといった同時代の作家たちとも知り合った。 1955 年には、ジャン・ティンゲリーとその 妻エヴァ・エベリを知る。ジャン・ティンゲリーとの関係は、こうして芸術家同士の交友として始まった のだが、やがて生涯にわたる関係に発展していくことになる。たが初めは、ニキの最初の彫刻作品の ための鉄製の基礎部分の制作を手伝ったに過ぎない。 1959 年にパリ市美術館で、ニキは初めてジャ スパー・ジョーンズやウイレム・テ・クーニングジャクソン・ポロックロノヾート・ラウシェンハークといっ たアメリカの芸術家たちの作品に触れている。そのうちジョーンズとラウシェンノヾークとは 1960 年代 にパリで実際に知り合い、ニキは彼らと一緒に仕事をするようになるのである。 1960 年、ニキとハリー・マシューズはついに離婚に至る。ハリーは子どもを引き取ってヴァレンヌ街 に引っ越していったが、二キはそのままア丿レフレッド・テュラン = クレイ街に残った。そして、彼女の芸 術上の実験は新たな展開を見せ、幻想的な絵画世界から、抽象的なアッサンブラージュや射撃絵画 による新たな芸術世界へと転換していくのである。 ニキの夫ハリー・マシューズは、生涯にわたって続いたニキとの関係を隠すことなく語っている。 1995 年にアウグスプルクで刊行されたドイツ語の自叙伝の中で、妻と暮らした数年間を次のように 総括して序言とした。「 1 年半の学業が修了した後、私は海軍に仕官し、 1 年間をそこで過ごした。この 時代に、フランス生まれでニューヨーク育ちのニキ・ド・サンファルと結婚したのである。 1952 年 6 月、 9