展覧会 - みる会図書館


検索対象: ニキ・ド・サンファル展 NIKI DE SAINT PHALLE
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1. ニキ・ド・サンファル展 NIKI DE SAINT PHALLE

1998 5 月 15 日、タロット・カーテンがオープンする。工ルサレムで 22 の大きな動物の 彫刻からなる遊ひ場「ノアの箱船」を完成させる。これらの仕事は 80 年代から 彼女のアシスタントを勤めていたマルチェロ・ジテッリの支援によって完成。 くプラック・ヒーローズ〉のシリーズを手がける。これはマイルス・テイウイス、ル イ・アームストロングショセフィン・べイカーなと傑出したアフリカ系アメリカ人 へのオマージュであった。このシリーズは、アフロアメリカ人として生まれた彼 女の孫たちへ捧けられた。 サンティエゴの国際民芸美術館で大きな回顧展が開催される。この展覧会は 二キの友人であったマーサ・ロングネッカーが企画した。 10 月、初来日、京都と那須に滞在する。 自伝『跡』を執筆。 1999 5 月、スイス、フリプールの「スペース、ジャン・ティンゲリーとニキ・ド・サンファル」 でニキの展覧会開催。 9 月、ウルムのウルマー美術館ほかドイツ国内で大回顧展「ニキ・ド・サンファル ーー愛、抗議、ファンタジー」開催 ( ルートヴィヒスハーフェンのヴィルヘルム・ハ ック美術館、クンストハレ・エムテンに巡回 ) 。 サンティエゴとロサンジェルスのタセンド・ギャラリーでも展覧会開催。 サンティエゴに 5 メートルの高さの、外側がモサイクで飾られた骸骨をつくる。 中は鏡張りの瞑想室になっている。 南カリフォルニアのエスコンテイドの公園に直径 125 メートルのモ二ュメントを テサインする。「蛇の壁」で縁取られたもので、これはカリフォルニアの伝説的 な女王カリフィアを表わしたもの。 ハノーファーのヘッレスハウセン庭園の洞窟の内装を依頼される。このプロジ ェクトはピエール・マリー・ルジュヌとケイリー・カークが一緒に働く。 IO 月、「高松宮殿下記念世界文化賞」受賞。 2000 新しい花瓶のシリーズを手がける。 4 とともに、 2000 年 をたたえる子ともたち 名誉市民となったニキ 」ティーグとナナの前で、 ベルト・シュマールス ハノーファー市長へル 142 11 月、ハノーファーのシュプレンケル美術館に 400 点近くの作品を寄贈する。 同時に「祭典ニキ・ド・サンファルからのプレセント」展開催。ハノーファー市 で、女性で最初の名誉市民になる。 贈する。 2001 9 月、ハーゼルのティンケリー美術館で「ニキ・ド・サンファル : 1952 年から 2001 主要な作品を二一ス市と二一ス近現代美術館、そしてパリの装飾美術館に寄 行なわれる。これは二キにとってアメリカで最初のカーテンであり、同時に 10 月 26 日、「クイーン・カリフィアのマジック・サークル」が公開され、除幕式が の芸術、 1960 年代」展開催 ( クンストハウス・ウィーンに巡回 ) 。 8 月、ハノ - ファーのシュプレンケル美術館で「ナナの誕生 : ニキ・ド・サンファル 覧会が開催される。 6 月、パリのノヾレ・ロワイヤルの庭でニキ・ド・サンファルの大きなトーテムの展 が野外展示される。 5 月、東京のカレッタ汐留のカレッタブラサで、ニキ美術館所蔵の巨大立体作品 シャワの国立現代美術館、クラコフの国立美術館に巡回 ) 。 3 月、プダベストのエルンスト美術館で回顧展「二キ・ド・サンファル」開催 ( ワル 3 月、ハノーファーの庭園へツレスハウゼンの「ニキの洞窟」がオープンする。 2003 サンファ丿レヘ」展開催。 12 月、ハノーファーのシュプレンケル美術館で「ニキ・マシューズからニキ・ド・ 仕事を続け、完成させる。 ツリなとのチームがニキ・ド・サンファルのエスコンテイドやハノーファーでの ニキの孫ブルーム・カルテナス、そしてニキの助手でもあったマルチェロ・ジテ 5 月 21 日、カリフォルニアで 71 歳の生涯を閉じる。 3 月、ニース近現代美術館で「二キ・ド・サンファル : 寄贈」展開催。 2002 催。 年まで、シュプレンケル美術館にニキ・ド・サンファルが寄贈した作品より」展開 2005 センターに巡回 ) 。 美術館のコレクションから」展開催 ( オランダアーメルスフォールトの近代美術 IO 月、ニュルンベルクのクンストハレで「初期の作品と版画一一 な作品のアッサンプラージュ」展開催。 6 月、フランスのアンジェ市立美術館で「ニキ・ド・サンファルーーモニュメンタル 2004 「ニキ芸術財団」がカリフォルニアで組織される。 キが手がけた最後の仕事となった。 ース近現代 2 月、ハノーファーのシュプレンケル美術館で「タロット・ガーテン彫刻、設計図、 性」展開催。 5 月、ドイツのノイハルテンベルク城で「ナナ・パワーニキ・ド・サンファルの女 テッサン」展開催。 開催。 6 月、フランス、ル・トアーのポッピー庭園で野外展覧会「ニキ・ド・サンファル」

2. ニキ・ド・サンファル展 NIKI DE SAINT PHALLE

ニキ・マシューズからニキ・ド・サンファルへ ウルリッヒ・クレンベル 1950 年代の絵画作品 ニキが惜しまれる死を遂けて以来、彼女の芸術がとのような出発点から始まったのかを検証す る動きが活発になっている。彼女の初期の仕事について、われわれは多くを知らないからである。た が、ありがたいことに芸術家自身がハノーファーのシュプレンケル美術館に作品を寄貝曽してくれてい たことと、そこにさらに遺族や友人たち、コレクターらから作品を寄託されたお陰で、ここに初めて彼 女の初期作品を概観する機会が調った。 * それにもかかわらずニキの 1950 年代の仕事の全体像を提示することは今日では不可能である。 ニキのカタログ・レゾネを見てみれはわかるとおり、その多くの作品がすでに失われていたり、現在 の所蔵者がわからなくなってしまっている。また、 1950 年代には、彼女の作品が展覧会に出品された ことがほとんどなかったため、この時代の作品が衆目に触れすにきたのた。ニキ・マシューズは 1950 年代半はに一度、サンクト・カレンで展覧会を開催したが、 1950 年代のそれ以外の展覧会には招待さ れなかった。 1960 年代初頭には、ヌーヴォー・レアリスムの仲問たちとともにノヾリの美術界で遅いテ ビューを果たしたが、その時には、すでに結婚前の姓に戻っていた。 ニキ・マシューズは旧姓をド・サンファ丿レという。若い時分に夫のハリー・マシューズとともにニュー ヨークを離れて、ヨーロッパ、そしてパリへとやって来て、そこで夫とのあいだにふたりの子どもをもう け、写真モテル、女優、芸術家として奮闘した。同様に夫は、音楽家、指揮者、文筆家として身を立て ようと必死たった。本論で後述引用するいくつかの文章からもわかるとおり、彼らふたりはおよそ 10 年のあいた、非常に緊密な関係にあった。しかし、ニキ・ド・サンファルの芸術展開にさまさまな立場 の人々からの影響が複雑に現われ始めると、若い夫婦の牧歌的な関係にも亀裂が生し始めた。 1950 年代半はのある偶然の出会いが、 1960 年以降、彼女の人生を左右し、生涯にわたるパートナー へ発展するからである。すなわち、ジャン・ティンケリーとの出会いである。ニキとハリー・マシュー ズは、 1950 年代半はにジャン・ティンケリーと当時彼の妻たったエヴァ・エベリと知り合う。この出会 いとその後の彼らの生活について、ニキ・ド・サンファルは自身の言葉で感動的に語っている。そして、 それは 1992 年にホンで開催された展覧会のカタロクに、ジャン・ティンゲリーへの架空の手紙として 掲載された。 本論では、彼女の 1950 年代の経歴にそって、 1950 年代前半のニキ・マシューズとしての創作活動 および、後半のニキ・ド・サンファルとしての創作活動との両者を取り扱う。つまり、ニキの初期作品 を巡るわれわれの小さな旅の目的地は、初期の私小説的な絵画に見られるような、独自の画風で自 己探求を集中的に試みていた時代と、 1955 年以降に現われるような、多様なアッサンプラージュの 連作によって独自のメルヘン世界を構築していく時代との両者にある。 1950 年代 「私は怒れる若者たったけと、そのような若い男女は大勢いた。でも誰も芸術家にはならなかった。 私か芸術家になったのは、ほかに選択肢がなかったから。たから、決心なんて必要なかった。運命だ った。時代が違っていたら、精神病院に監禁されていたかもしれない。というのも、短い期間たった けと、精神科医の厳格な監視下に置かれて、電気ショックを 10 回も与えられたことがあったから。自 分を助けるために、そして生きていくのに必要たったから、両手で芸術を抱きかかえることにしたの ニキは 1947 年に高校を卒業後、数年にわたって写真のモテルとして働いた。彼女の写真は、『ヴ ォーグ』誌や『ハーパース・ノヾサー』誌のほカ \ 『ライフ』誌の表紙にも掲載された。 1949 年 6 月、 18 歳 のニキはハリー・マシューズと駆け落ちし、家を出る。そして、 6 月 6 日にニューヨークの家庭裁判所で 婚姻手続きを行なった。ハリー・マシューズは当時アメリカ海軍に所属し、 1 歳年上だった。両親との 激しい議論の末に、ニキの母親の希望で、ふたりはニューヨークにあるフランス教会で 1950 年 2 月に ようやく挙式した。その後、マサチューセッツ州のケンプリッジに居を定め、ハリーはハーウアード大 学で音楽を学ぶようになる。この時期に、ニキ・マシューズの最初の油彩画とグワッシュ作品が制作 8

3. ニキ・ド・サンファル展 NIKI DE SAINT PHALLE

ニングハムが芸術監督をしていた。このパフォーマンスで、ニキはミロのヴィ ーナスを射撃するパフォーマンスを披露する。 ヨーロッパに戻り、ノヾリのギャルリー・リヴ・ドロワでく射撃絵画〉とく祭壇〉シリー ズを展示する。アレクサンドル・イオラがこの展覧会を見て、 10 月のニューヨー クでの個展を申し出る。この後イオラは、ニキの作品を扱う画廊となり、財政 的にニキを支援し、多くの展覧会を企画、さらに良き助言者となった。ニキは 彼を通してシュルレアリスムの画家ヴィクトル・プラウナー、マックス・エルンス ト、ルネ・マグリットらと出会う。 6 月 6 日、イヴ・クラインが突然死する。 8 月 30 日から 9 月 30 日まで、ニキはアムステルタム市立美術館でのインスタレー ション「ダイラヒー ダイナミック・ラビリンス」に、ラウシェンノヾーグマルシャ ル・レイス、スペーリ、ティンケリー、ベル・オロフ・ウルトウェットらとともに参 加する。 10 月 15 日、ニューヨークのアレクサンドル・イオラ・ギャラリーで個展を開催 ( 11 月 3 日まで ) 。この展覧会でニキはオマージュ作品《シュヴァル郵便配達 夫》を発表し、観客も射撃することができるようにした。 マルセル・テュシャンがニキとティンケリーをサルノヾドール・ダリのところへ連 れて行く。 8 月、スペイン旅行の途中、ダリはニキとティンゲリーをフィゲラスの 闘牛のための「火の牛」を作るために招待する。ニキとティンケリーは紙と石 膏で、花火が中に詰まった等身大の儀式的な牛を制作。伝統に則って、闘牛が 行なわれた後、その牛は華麗に爆発した。 IO 月、ニューヨーク近代美術館で開催された「アッサンプラージュ芸術」展に出 品 ( その後、ダラス現代美術館、サンフランシスコ美術館に巡回 ) 。 6 月から 9 月 にかけて国際的な新聞や雑誌で 50 以上の記事がニキの作品について言及し 秋にはラリー・リヴァースとその妻クラリスがロンサン袋小路にスタジオを構 え、二キとティンゲリーはすぐにこのふたりと親しく交流するようになる。 1962 2 月、ニキとティンゲリーは、カリフォルニアに行き、ロサンジェルスの近くのサ イモン・ロティアス・ワッツ・タワーを訪ねる。 CBS テレヒの撮影隊がネノヾダ砂 漠で行なわれたティンゲリーのハプニンク・パフォーマンス「世界の終わりのた めの習作ナンノヾー 2 」を撮影。二キはこのプロジェクトを手伝う。 ロサンジェルスに帰る途中、ニキはアメリカにおける最初の「射撃」を行なった。 最初は 3 月 4 日にマリプの浜辺で行なわれ ( ギャラリスト、ウアージニア・ドウ 工インがスポンサー ) 、 2 回目はマリプの丘の上で行なわれた ( 工ド・キーンホル ツがスポンサー ) 。このイヴェントの後、ニキとティンゲリーはメキシコを旅行 する。 5 月 4 日、ニキとティンケリーほか、さまさまなアーティスト ( ラウシェンノヾーグや フランク・ステラら ) がニューヨークのメイドマン・プレイハウスでケネス・コッホ によるパフォーマンスに参加。このメイドマン・プレイハウスは、当時マース・カ 1963 5 月、ヴァージニア・ドウェインがロサンジェルスの自らの画廊での射撃セッショ ンを企画。ニキはここで、記念碑的な大作《キング・コング》を制作した。このイ ヴェントの後、この作品はストックホルム近代美術館に購入された。 ニキとティンゲリーは、ノヾリ郊外のソワジー・シュル・エコールのかってはホテ ルとして使われていた建物「白い馬」に住居を構える。ニキは、社会的な役割 を象徴しているような女性像の作品シリーズ ( 子どもを産む母親、花嫁、魔女、 娼婦なと ) の制作を始める。 4 ティンゲリーと二キ、住居兼アトリエの「白い馬」の中庭にて、 1963 年 メイドマン・プレイハウスでのパフォーマンス、右からへンリー・ゲルツアーラー、ティンゲリー ニキ、ラウシェンノヾーグ ( ストリート・ランプのコスチューム ) 、マキシーヌ・グロフスキー、ケネ ス・コッホほか、 1962 年 5 月 4 日 1 1964 この夏、ローサンヌの近くのリュトリーで過ごし、布や紙粘土で、さまさまな大き さの頭像や《聖ジョージとドラゴン》を制作する。 9 月、ロンドンのハノーノヾー・キャラリーで個展「ニキ・ド・サンファル : あなたは私 のドラゴン」開催。 136

4. ニキ・ド・サンファル展 NIKI DE SAINT PHALLE

あいさつ 色鮮やかな立体作品くナナ〉シリーズなどの作者として知られているニキ・ド・サンファル ( 1930-2002 ) 。喜ひ溢 れるおおらかでのひのひとした女性像や、神話や精神世界をモティーフにした、どこかユーモラスな作品は、野外 彫刻としても世界各地で見ることができます フランスで生まれ、アメリカで育ったニキが現代美術のアーティストとして認められたのは、 1961 年の「射撃絵 画」の制作でした。絵具の袋を埋め込んた石膏レリーフを本物のライフルで撃ち、絵具を飛び散らせて仕上ける というノヾフォーマンスによる作品で、ニキはヌーウ、オー・レアリスム ( 新写実主義 ) のアーティストとして一躍有名 になりますまた、当時の美術の動向がポップ・アートと深く結びついていたため、原色を派手に使っていることや その作品傾向から、ニキはポップ・アーティストのひとりとして取り上けられてきました。また、女性像にいわゆる 「女らしさ」から逸脱した自由さが感しられること、女性としての自己を作品制作によって解放しようとする制作 態度なとから、彼女の作品は、しはしはフェミニズム的な視点からも論議されてきました。 しかし近年、初期の油彩作品から、晩年の「タロット・ガーテン」に代表される建築的作品に至るまで、さまさま に変遷していく多面的な制作活動が再評価され始めています《ホーン》のような巨大なインスタレーションや 映像制作なとは現代美術の先駆的活動とも言え、 20 世紀美術におけるその重要性が改めて認識されていま魂 今回の展覧会は、栃木県那須のニキ美術館およびドイツ・ハノーファー市のシュプレンケ丿レ美術館の全面的な ご協力により実現したものですニキ美術館は世界でたたひとつ、ニキの名前を冠し、日本にニキ・ド・サンファル の名前と作品を広く知らしめた美術館ですまた二キが晩年、自分のコレクション約 400 点を寄贈したシュプレン ゲル美術館は、早い時期からニキを評価し、没後もニキの芸術活動をさまさまな角度から検証し続けていま魂 ニキの日本で初めての回顧展となる本展では、彼女にとってたいへん重要なふたつの美術館の所蔵作品を 中心に、立体作品、初期の油彩、水彩、版画、コラージュ、アッサンプラージュ、資料類を含め約 100 点でその全豸皃 に迫りま魂作品の魅力とともに、自身の内面に肉薄した作品をつくり続けたひとりの女性作家の、繊細かっ / ヾワフルな表現を楽しんでいたたけることでしよう。 最後になりましたが、ニキ美術館館長でニキの長年の友人でもあり、本展覧会実現のために惜しみないご協 力をいたたいた増田静江氏、また展覧会構成に数々のご助言をいたたいたシュプレンケル美術館館長のウル リッヒ・クレンベル氏、ニキ芸術財団理事長でニキの孫娘にあたられるプルーム・カルテナス氏をはしめ、本展覧 会実現のためにご協力を賜りました関係各位に心からお礼申し上けます 主催者

5. ニキ・ド・サンファル展 NIKI DE SAINT PHALLE

パラダイスのよう・・・・・・。地獄へ下りて行って、地獄を見てみたい ! もしかしたら、そこで過去のとて も辛かった思い出に遭遇することになるかもしれません。でも、私は地獄に留まりたいのではなくて、 その深みに下りて行ってみたいのです 時々私は、ハリーとともに一生懸命に築き上けたこの完璧な生活から逃け出したくなりました」。註 8 ) ニキ・ド・サンファルはハリー・マシューズとの共著による回想録の第 2 巻において、 50 年代の彼らの 危機やその芸術について記している。だが、残念なことに、これらのテキストは現在また刊行されて いない。したがって、以下に引用するニキ・ド・サンファルとハリー・マシューズの言葉が、当時の様子 を明らかにしてくれよう。 「私はハリーと話し合いを始め、彼から 1 、 2 年のあいた離れてひとりで暮らし、自分の芸術家として の能力を限界まで試してみたいと申し出ました。私には孤独が必要だと感じたのです・・・・・・そして、 ひとり暮らしを始めました。寛大なハリーは私の絵を購入してくれたので、質素ながらも自活するこ とが可能になりました。一日中、芸術家としての仕事に向き合うことができ、アルバイトをする必要も ありませんでした。子どもたちがハリーのもとに残ったのは、ごく当然のことたったと思いますなせ なら、私には彼らの面倒を見るだけの経済的な余裕がなかったからです私は彼ら 3 人に頻繁に会い に出かけました」。註 9 ) 「ニキの意志の強さは、 11 年間の共同生活の中では非常に大きな力となりました。彼女の人生や 将来に対する信念は確固たるもので、人生の出来事に対し、常に好奇心をもって臨んでいました。彼 女のこのような意志の強さは、子どもをもつべきたと主張する私の母とのあいだで猛烈な喧嘩をし た時にも、発揮されました。また、 1953 年の夏に、夫婦問の危機を断固として乗り越えようとした時 にも。そして、彼女が自身の芸術家としての『プリミティヴな』天分を正しいと信していた時にも。彼 女が甲状腺機能亢進症により健康を害した後で、自己のアイテンティティ ( と自分の生活 ) を頑なに 守ろうとした時にも。さらに、彼女自身が病気なのにもかからす重症の小児病を患った息子のフィリ ップを粘り強く看病した時にも。私の書いたものをめったに批判しないほどに、私の仕事に対して、ま た彼女自身の仕事に対して、紳士的な信頼を置いていた時にも。それから、つらいと同時に仕方の ないことでもありましたが、最終的には私たちの夫婦関係をあっという間に解消した時にも、ですそ れは、彼女はもう結婚生活に将来性を見出せなくなっており、苦悩を避けて夫婦生活を続けることは、 私たち両方への裏切り行為でしかないと考えたからでした。 彼女の判断は正しかったのです」。註 IO ) ( 独文和訳 : 木村理恵子 ) 《食器の破片》 1958 年、シュプレンゲル美術館 ( ニキ・ド・サンフ アル氏寄贈 ) Broken Plates, 1958 , 55X65X9Cm , SprengeI Museum Hannover, Schenkung Niki de Saint PhaIIe 《夜の実験》 1959 年、シュプレンゲル美術館 ( ニキ・ド・サンファ ル氏寄貝曽 ) Ⅳ 0 厩 Experiment, 1959 , 130X 196X 13cm, Sprengel Museum Hannover, Schenkung Niki de Saint Phalle 0 * この論文は展覧会カタログ「二キ・マシューズからニキ・ド・サンファルへ 1950 年代の絵画作品」 UIrich Krempel, Von Niki Mathews zu Niki de Sant Pha ″ e ー Gemälde der 7950e 「 Jahre, Sprengel Museum Hannover, 2003 に掲載 されたものを翻訳・再録したものである。 註 1 ) Niki de saint PhaIIe, Niki de Saint Pha ″ e, Bi/der ー Figuren ー Phantastische Gärten, München, 1987 ( 展覧会カタ ログ , p. 46. 2 ) Niki de saint PhaIIe, Retrospeküve 7954-80 , Duisburg, Linz, Nürnberg, Berlin, Hannover ( 展覧会カタログ ) , P. 15. 3 ) Harry Mathews, u わわ / ög 「 ap わ / é , Augsburg, 1995 , p. 7 以下。 4 ) わ / a. , p. 110. 5 ) Janice Parente, in Niki de Saint Pha/le Monographie, Lausanne, 2001 , p. 73. 6 ) Niki de Saint PhaIIe 、註 2 前掲、 p. 25 。 7 ) ニキ・ド・サンファルからジャン・ティンゲリー宛書簡、 Nik / de saint Phall, Bonn, 1992 ( 展覧会カタログ ) 所収 , p. 153 以下。 8 ) わ / d. 9 ) / わ / d. (0)Harry Mathews 、註 3 前掲、 p. 86 以下。

6. ニキ・ド・サンファル展 NIKI DE SAINT PHALLE

などを旅行し、その途中でさまさまな美術館や大聖堂などを見て回る。この経 験は二キにインスピレーションを与え、のちの作品に影響を与えることに なる。 介する。フルテンはこの後、ニキを重要な展覧会に招待し、作品を美術館の収 蔵品として買い上け、生涯にわたって二キの活動を支援することとなる。 1961 2 月、「比較 : 絵画一彫刻」展 ( パリ市近代美術館 ) に、《聖セノヾスチャンあるいは 私の愛人のポートレート》 ( cat. n07 ) を出品する。 2 月 12 日、最初の射撃セッションを企画する。石膏で作ったレリーフにさまさま なオプジェを埋め込んたものを制作。これらのオプジェには、絵具が詰まった 容器が埋め込まれていて、弾丸がこの容器に当たれは、絵具が飛び散るしかけ になっていた。このセッションはのちに「射撃絵画」として有名になる。 最初の射撃絵画の開催には、フランスで活動していたヌーヴォー・レアリスムの 作家らが訪れた。この運動の旗手で、また批評家としても主導的な位置にあっ たピエール・レスタニーはニキの射撃絵画に感銘し、すぐに彼女をグループに 誘う。ヌーヴォー・レアリスムの参加者は、アルマンセサール、クリスト、ジェラ ール・テユシャンフランソワ・テュフレーヌ、レイモン・レイス、ミンモ・ロテッラ、 ダニエル・スペーリ、ティンゲリー、ジャック・テュ・ラ・ヴィルグレなど男性はか りであった。 3 月、ポンテュス・フルテンによって企画された展覧会「動いた、動く」 ( アムステ ルダム市立美術館、ストックホルム近代美術館、テンマークのルイジアナ美術 館に巡回 ) に出品。 6 月 20 日、ジャス / ヾー・ジョーンズ、ロノヾート・ラウシェンノヾーグそしてニキとティ ンゲリーは / ヾリのアメリカ大使館で開催された、ジョン・ケージによる企画コン サート・ハプニング「ヴァリエーションⅡ」に参加。このパフォーマンスは、ティヴ イッド・チューダーがジョン・ケージの音楽をピアノで演奏し、そのあいた、ほか の芸術家たちか舞台上でそれそれの作品を制作するといったものであった。 レスタニーは彼の妻ジャンニーヌ・ゴールドシュミットが経営する画廊ギャラ リー J でニキの個展を企画する。ニキは展覧会タイトルに「好きなたけ撃て ! 」 と付ける。レオ・キャステリ、ラウシェンノヾーグジョーンズ、そしてヌーヴォー レアリスムのメンハーが 6 月 30 日のオープニングに参加。ラウシェンノヾークが 《射撃絵画》 1 点を購入する。 レスタニーはニースのギャルリー・ムラトールでヌーヴォー・レアリスムのフェス ティヴァルを開催。 7 月 13 日の夕方、オープニングでニキの射撃が計画される。 ニキはロスラン大修道院でそれを実行し、ヌーヴォー・レアリスムのメンノヾーも 参加する。 1953 深刻な神経衰弱に陥り、ニースで入院、治療を受ける。ここで絵画が治療に有 効であることがわかり、演劇の道に進むことを諦め、芸術家を志す同し頃、ハ リー・マシューズも音楽を諦め、小説を書き始める。 1954 3 月、ニキとハリーはニースで車を買い、ローラを連れてパリに戻る。アメリカ人 のジャズ・ミュージシャンで作曲家でもあるアンソニー・ホナーと同居。ニキは アメリカ人の画家ヒュー・ワイスと知り合う。彼はその後 5 年問ニキの絵画制作 における指導者となり、自由なスタイルで美術を続けるよう勧める。 9 月、一家は地中海に浮かぶマヨルカ島のテヤに転居。 1955 5 月 1 日、息子フィリップが生まれる。マドリードとハルセロナに行き、カウティの 建築に出会う。この旅行では、特にグエル公園が彼女に影響を与え、のちに彫 刻公園を作るというインスピレーションを与えた。 フランス南東部のオートリーウにある、ジョゼフ・フェルティナン・シュヴァルの 理想宮殿を訪れる。 この年、芸術家ジャン・ティンゲリーと、その妻でやはり芸術家のエヴァ・エベリ と出会う。のちにニキが最初の立体作品をつくる時に、ティンケリーに鉄の土 台を作ってもらい、それに石膏を加えて制作した。 1956-58 家族でフランス・アルプスのラン・サン・ウェルコールで過ごす油彩作品のシリ ーズを制作し、スイスのサンクト・カレンで最初の展覧会「ニキ・マシューズー ノヾリー絵画」を開催。 8 月、家族とともにノヾリに戻り、アルフレッド・テュラン = クレイ街の小さなアパー トに引っ越すハリーとニキはルーヴルをはしめ、 / ヾリのさまさまな美術館を訪 れ、クレー、マティス、ピカ、スアンリ・ルソーらの作品を知る。作家活動を続け るハリーを通し、ニキはジョン・アシュべリーやケネス・コッホなどの同時代作家 と知り合う。 日 月 年 ョ シ 撃 射 の の 路 袋 ン サ ン ロ 1959 ノヾリ市近代美術館でアメリカの芸術家、ジャスパー・ジョーンズ、ウイレム・テ・ク ニングジャクソン・ポロックロハート・ラウシェンノヾーグなどの作品を知る。 1960 ハリーと離婚する。ハリーはふたりの子どもとともにヴァレンヌ街に引っ越 ニキはそのままアルフレッド・テュラン = クレイ街に留まる。彼女は芸術上の実 験を続け、石膏のアッサンプラージュや「ターゲット・ピクチャー ( 標的絵画 ) 」を 制作する。 この年の末、ニキとティンケリーは、多くの芸術家たちがいたロンサン袋小路 に引っ越し、ふたりで共有のスタジオをもつ。 ティンケリーはニキをストックホルム近代美術館長ポンテュス・フルテンに紹 135

7. ニキ・ド・サンファル展 NIKI DE SAINT PHALLE

ティンケリーと一緒に、パリのポンピドウー・センターに隣接するストラヴィンス キー広場に 15 個のパーツからなる噴水の制作をする。ピエール・マリー・ルジ ュヌがニキのアシスタントとして働く。 二ューヨークの画廊ギンベル & ウィーツェンホーファーとロンドンのギンベル・ フィス・キャラリーで、二キのくスキニーズ〉を紹介する「ニキ・ド・サンファル新 作展私のスキニーズ」を開催。 タロット・ガーテンでの仕事も順調に進む。ティンゲリーから引き継いでオラン タの芸術家ドック・ヴィンゼンが彫刻の金属の枠を手がけるようになる。この 年の終わりにはセメントを流し込む。 11 月、東京のスペースニキで「ニキ・ド・サンファル展」開催。 ラフィックの展覧会「ニキ・ド・サンファル : グラフィック作品 1968 ー 1980 」が開催 される。 7 月 2 日、パリのポンピドウー・センターでニキの回顧展「ニキ・ド・サンファル : 回 顧 1954 ー 1980 」が開催される。この展覧会はヨーロッパ中の美術館を巡回する ( テュースプルクのウイルヘルム・レームプルック美術館、リンツのノイエギャ ラリー、クンストハレ・ニュルンベルクハウス・アム・ヴァルトゼー・ベルリン、 ノ \ ノーファーのシュプレンケル美術館、ストックホルム近代美術館に巡回 ) 。 7 月 3 日、最初のリューマチの発作に襲われる。 YOK 〇増田静江が東京にギャラリー「スペースニキ」を開廊し、「ナナ・ / ヾワー」 展を開催する。 ポリエステルで蛇をモティーフにした肘掛椅子、花瓶、ランプを制作。 1981 タロット・ガーテンの近くに小さな家を借りる。ガラヴィッキオに住む多くの 若者たちが、タロット・ガーテン建設のためにニキを援助する。ティンケリーと その仲間による「オールスター・スイス・チーム」のもと、タロット・カーテンは次 第に形を成してくる。 春、アムステルダムにある財団の依頼で大西洋横断競争のための飛行機のテ サインを手がける。 4 月、東京のスペースニキで「ノヾート 2 ポスターと映画ダティー展」、 6 月、「 / ヾー ト 3 版画《わたし》など」展、 8 月、「パート 4 ベスト新作展」、 10 月、「ノヾート 5 ポートレートと映画ダティー」展、 11 月、「パート 6 彫刻展」開催。 1983 日目 ナナに寄りかかるニキ、 1981 年 1982 1 月、東京のギャラリーワタリで「二キ・ド・サンファルナ大オプジェ」展開催。 アメリカの会社ジャックリーン・コックランがニキに新しい香水の制作を依頼。 この収益によってニキはタロット・カーテンの建設を続行することができ、結果 的にタロット・カーテン制作の 3 分の 1 の資金をまかなうこととなった。 139

8. ニキ・ド・サンファル展 NIKI DE SAINT PHALLE

その後、 1983 年にポンピドウー・センター横の「ストラヴィンスキーの噴水」が 完成した時にパリに行ったり、タロット・ガーテンの建設現場を訪ねたり、ヨー ロッパやアメリカなと、ニキがいるところに何度も会いに行きました。ホテル でニキから連絡が来るのを待って、電話がきたらアトリエに出かけて行きま でも最初は「この人はとうして来るのかしら ? 」と思っていたみたい。ギャラ リーをやっているといっても作品は直接買いもしないし、ヒジネスというわけ でもなく、なんとなくフランス語の通訳をつれてやってくると。私は気のきい たことも言えないし。ニキは人見知りをするので、あとで私に「怯えた」と言い ましたが、こちらも怯えていました。なかなか打解けた感じにならないので。 ある時、ニキの娘のローラが一計を案して、二キの前で歌え、と勧めてくれ ました。「あなたが意地悪をするなら、私も意地悪するよ」という内容の、イギ リスの古い子ともの歌です。歌いました。ローラがノヾックコーラスを務めてく れて。ニキは笑って、それ以来心を開いてくれ、プライベートなこともさっくは らんに話してくれるようになりました。 1986 年に東京と大津で個展を開催した時、作品を売らないですっと持って いたのを喜んでくれて、それも私を認めてくれる要因となったようです 前世から知り合いだったという話は、最初ノヾーセル ( スイス ) でひょんなことか ら出てきたんで魂二キの展覧会のオープニングに手違いで入れなくて、私が 怒っているのにニキがあまりにもノホホンとしているので憎たらしくなり、「あ なたは前世で魔女たった。私が裁判官であなたを審判にかけ、火あぶりにし たのよ」。ヨーロッパでは魔女というのはもちろんよい意昧ではないのですが、 ニキは逆にんで「どうりですっと火あぶりにされている気分たったわ」と。 キはそういう前世の話や占いや手相なとが大好きで、この話をたいへん気に 入り、あとで手紙にも書いてくれました。私もタロット・カードのコレクションを していたこともあり、二キのタロット・カーテンの計画を最初に聞いた時には 因縁を感しました。 ニキは非常に勉強家で、努力家でした。タロット・ガーテンをつくるためにイタ リア語を習ったり。またその資金を得るために作品をたくさんつくって売った り、香水の瓶のテサインなともしていました。また気難しいけれど面倒見がい ニキ美術館展示室 ニキ美術館外観 いところもありました。当時パリでは工イズが流行り始めて、ニキの親しい人 で同性愛者の男性が何人か亡くなりました。そのうちのひとり、リカルドという アシスタントのためにニキはネコの形のお墓をつくり、モンマルトルにある墓 地に私を連れて行ってくれました。また、『エイズー一手をつないた位では感染 しない』 [ 註 : 大宅映子訳、グラフィック社、 1987 年 ] という本やテレヒ映画を作 って工イズ啓蒙活動をしていました。 Y 〇 K 〇というべンネームはニキのために名付けました。私の本名「静江 ( しす え ) 」が発音しにくかったようで。漢字では「洋子」。ニ樹という名字で「ニ樹洋 子」という名前でとうかと言ったら、ニキが照れてしまって、私も照れて。でも 「静かな入り江 ( 静江 ) より、前途洋々 ( 洋子 ) の方がすっといいわ」と言ってくれ ました。 ニキ美術館とコレクション スペースニキを始めた頃からニキの美術館の建設を夢みていました。ニキは 非常に多才な人なので、画廊よりも美術館という形態でさまさまな角度からニ 0 ( L ~ 至 簽 ( ( " ( せ示 【物 ( を展 123

9. ニキ・ド・サンファル展 NIKI DE SAINT PHALLE

謝辞 山品まり 平芳幸浩 木村理恵子 石井幸彦 飯田陽子 白羽明美 ヤナ・シェンフィールド ュスタス・ド・サンファル プリキッテ・ナンティンクナ ウルリッヒ・クレンベル ブルーム・カルテナス 株式会社スペース二キ 室野井陽子 菊池ゆきこ 黒石雅心 増田通ニ 増田静江 世田谷美術館 国立国際美術館 シュプレンケル美術館 ニキ美術館 二キ芸術財団 関係各位に、深く感謝の意を表します ( 順不同・敬称略 ) この展覧会を開催するにあたり、格別のご尽力を賜りました Acknowledgements We would like tO express ou 「 deep appreciation to those individuals and organizations that contributed their e 幵 0 s to the realization Of this exhibition. Niki CharitabIe Art Foundation Niki Museum, Nasu, Japan SprengeI Museum Hannover, Germany The National Museum of Art, Osaka Setagaya Art M useum YOkO S. Masuda Tsuuji Masuda Masashi Kuroiwa Yukiko Kikuchi Yoko Muronoi SPACE NIKI Co. , Ltd. Bloum Cardenas Ulrich Krempel Brigitte Nandingna Eustace de Saint Phalle Jana Shenefield Akemi Shiraha Yoko lida Yukihiko lshii Rieko Kimura Yukihiro Hirayoshi Mari Yamashina

10. ニキ・ド・サンファル展 NIKI DE SAINT PHALLE

Ⅱ 射撃絵画 1961 年、一私はダディーを撃った " そしてすべての男たちを / 小さな男た ち / 大きな男たち / 権力をもった男たち / 太った男たち / 男たち / 私の兄弟 / 社会 / 教会 / 修道院 / 学校 / 私の家族 / 私の / すべての男たち / タティーノ そして私自身を / 男たちを / 撃った ( 私は撃った。それは楽しくてすはらしい感しだったから ( ノ私は撃った。絵 が血を流して、死ぬのを見るのにうっとりしたから。イ私はこの魔法のような 工クスタシーの瞬間のために撃った ( それはさそりの一撃のような真実 の瞬間 / 純白の犠牲者 / 射撃用意 ! 狙え ! 撃て ! / 赤、黄色、青ーー / 絵が泣 いて / 絵が死ぬ / 私は絵を殺した / それは蘇り / そして犠牲者のいない戦争 二キは 1961 年にノヾリ市近代美術館で開催された「比較 : 絵画一彫刻」展に「標的 絵画」を出品した。これは、当時彼女がつきあっていた男性と精神的に離れる ために思いついたアイディアをもとに制作された作品で、ワイシャッとネクタイ によって象徴された男性像の頭の部分が標的となっており、観客がその標的に 向かってダーツを投けるという参加型の作品であった ( cat. no. 7 ) 。こキは会場 て観客が「標的絵画」にダーツを投ける姿と近くに展示されていたプラン、ホガ ールの白い石物レリーフを見ていて、射撃絵画のアイディアが生まれた。 白い石膏レリーフの中に、絵具が入った缶やビニール袋、初期のものにはス パゲッテイや卵なども埋め込まれていた ( これを、本物のライフルで撃つので ある ( 真っ白な絵から血が流れるように絵具が飛ひ散り、滴る。絵を撃っとい うことは絵を殺すことでもある。それは絵画という伝統的な美術の手法を破壊 する行為であったが、射撃のパフォーマンスは同時に、爆発音とともに劇的に色 がつけられ、絵画を生まれ変わらせる再生の儀式ともなるのである。 1961 年 2 月 12 日、ロンサン袋小路にあったティンゲリーのアトリエの裏庭で行 なわれた最初の射撃セッションには、美術評論家のビエール・レスタ一をはし め、ヌーヴォー・レアリスムの作家たちが参加した ( レスタニーは、これをきっか けに一キをヌーヴォールアリスムのクループに迎え入れ。ーキは正式に前衛 芸術家の仲間入リをしたのである。さらに同年 6 月、レスタニーのノヾートナー ジャン一一ヌ・ド・ゴールドシュミットの画廊「ギャラリー J 」で個展「好きなたけ撃 て ! 」を開催。この展覧会ては観客も「射撃」をすることがてきた。オープニノグ ャステリら、当時のアメリカ美術の新しい動きを担っていた人々が参加した ( そ して、この後 : キの射撃絵画は一大センセーンヨンを巻き起こしたのである。射 撃によって絵具が飛び散る絵は、抽象表現主義に対する皮肉、あるいはアクシ ョンを伴う / ヾフォ・ - マンス芸術の非常に早い例として高く評価されたのである。 同時に - キのもっさまさまな要素、女性であることやその美貌、そして員族 の出身であることなどもメティアが彼女をポップスター的に扱うには打って付 けの条件であった . つランスでは「モンノヾルナスの狩猟の女神ダイアナ第イタ リアでは「吸血鬼」、そしてスイスでは「信念をもった女性権利主義者」と報しら れるなど、さまさまなメティアで時にスキャンタラスな存在として取り上けられ、 ーキは新しい時代の芸術の寵児となったのである。 射撃絵画はニキにとって、自分自身を解放することでもあった、白いレリーフ を撃っことは不平等な社会とそこにいる自身を葬り去り、生まれ変わらせる儀 式でもあったとーキはのちに語っている ( 白は処女の無垢を表わす色でもあ る。ーキは女性として自分を縛る社会へ怒リをぶつけたのだ。芸術のテロリス トとして、犠牲者を出すことなく、