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検索対象: ニキ・ド・サンファル展 NIKI DE SAINT PHALLE
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1. ニキ・ド・サンファル展 NIKI DE SAINT PHALLE

1998 5 月 15 日、タロット・カーテンがオープンする。工ルサレムで 22 の大きな動物の 彫刻からなる遊ひ場「ノアの箱船」を完成させる。これらの仕事は 80 年代から 彼女のアシスタントを勤めていたマルチェロ・ジテッリの支援によって完成。 くプラック・ヒーローズ〉のシリーズを手がける。これはマイルス・テイウイス、ル イ・アームストロングショセフィン・べイカーなと傑出したアフリカ系アメリカ人 へのオマージュであった。このシリーズは、アフロアメリカ人として生まれた彼 女の孫たちへ捧けられた。 サンティエゴの国際民芸美術館で大きな回顧展が開催される。この展覧会は 二キの友人であったマーサ・ロングネッカーが企画した。 10 月、初来日、京都と那須に滞在する。 自伝『跡』を執筆。 1999 5 月、スイス、フリプールの「スペース、ジャン・ティンゲリーとニキ・ド・サンファル」 でニキの展覧会開催。 9 月、ウルムのウルマー美術館ほかドイツ国内で大回顧展「ニキ・ド・サンファル ーー愛、抗議、ファンタジー」開催 ( ルートヴィヒスハーフェンのヴィルヘルム・ハ ック美術館、クンストハレ・エムテンに巡回 ) 。 サンティエゴとロサンジェルスのタセンド・ギャラリーでも展覧会開催。 サンティエゴに 5 メートルの高さの、外側がモサイクで飾られた骸骨をつくる。 中は鏡張りの瞑想室になっている。 南カリフォルニアのエスコンテイドの公園に直径 125 メートルのモ二ュメントを テサインする。「蛇の壁」で縁取られたもので、これはカリフォルニアの伝説的 な女王カリフィアを表わしたもの。 ハノーファーのヘッレスハウセン庭園の洞窟の内装を依頼される。このプロジ ェクトはピエール・マリー・ルジュヌとケイリー・カークが一緒に働く。 IO 月、「高松宮殿下記念世界文化賞」受賞。 2000 新しい花瓶のシリーズを手がける。 4 とともに、 2000 年 をたたえる子ともたち 名誉市民となったニキ 」ティーグとナナの前で、 ベルト・シュマールス ハノーファー市長へル 142 11 月、ハノーファーのシュプレンケル美術館に 400 点近くの作品を寄贈する。 同時に「祭典ニキ・ド・サンファルからのプレセント」展開催。ハノーファー市 で、女性で最初の名誉市民になる。 贈する。 2001 9 月、ハーゼルのティンケリー美術館で「ニキ・ド・サンファル : 1952 年から 2001 主要な作品を二一ス市と二一ス近現代美術館、そしてパリの装飾美術館に寄 行なわれる。これは二キにとってアメリカで最初のカーテンであり、同時に 10 月 26 日、「クイーン・カリフィアのマジック・サークル」が公開され、除幕式が の芸術、 1960 年代」展開催 ( クンストハウス・ウィーンに巡回 ) 。 8 月、ハノ - ファーのシュプレンケル美術館で「ナナの誕生 : ニキ・ド・サンファル 覧会が開催される。 6 月、パリのノヾレ・ロワイヤルの庭でニキ・ド・サンファルの大きなトーテムの展 が野外展示される。 5 月、東京のカレッタ汐留のカレッタブラサで、ニキ美術館所蔵の巨大立体作品 シャワの国立現代美術館、クラコフの国立美術館に巡回 ) 。 3 月、プダベストのエルンスト美術館で回顧展「二キ・ド・サンファル」開催 ( ワル 3 月、ハノーファーの庭園へツレスハウゼンの「ニキの洞窟」がオープンする。 2003 サンファ丿レヘ」展開催。 12 月、ハノーファーのシュプレンケル美術館で「ニキ・マシューズからニキ・ド・ 仕事を続け、完成させる。 ツリなとのチームがニキ・ド・サンファルのエスコンテイドやハノーファーでの ニキの孫ブルーム・カルテナス、そしてニキの助手でもあったマルチェロ・ジテ 5 月 21 日、カリフォルニアで 71 歳の生涯を閉じる。 3 月、ニース近現代美術館で「二キ・ド・サンファル : 寄贈」展開催。 2002 催。 年まで、シュプレンケル美術館にニキ・ド・サンファルが寄贈した作品より」展開 2005 センターに巡回 ) 。 美術館のコレクションから」展開催 ( オランダアーメルスフォールトの近代美術 IO 月、ニュルンベルクのクンストハレで「初期の作品と版画一一 な作品のアッサンプラージュ」展開催。 6 月、フランスのアンジェ市立美術館で「ニキ・ド・サンファルーーモニュメンタル 2004 「ニキ芸術財団」がカリフォルニアで組織される。 キが手がけた最後の仕事となった。 ース近現代 2 月、ハノーファーのシュプレンケル美術館で「タロット・ガーテン彫刻、設計図、 性」展開催。 5 月、ドイツのノイハルテンベルク城で「ナナ・パワーニキ・ド・サンファルの女 テッサン」展開催。 開催。 6 月、フランス、ル・トアーのポッピー庭園で野外展覧会「ニキ・ド・サンファル」

2. ニキ・ド・サンファル展 NIKI DE SAINT PHALLE

ニングハムが芸術監督をしていた。このパフォーマンスで、ニキはミロのヴィ ーナスを射撃するパフォーマンスを披露する。 ヨーロッパに戻り、ノヾリのギャルリー・リヴ・ドロワでく射撃絵画〉とく祭壇〉シリー ズを展示する。アレクサンドル・イオラがこの展覧会を見て、 10 月のニューヨー クでの個展を申し出る。この後イオラは、ニキの作品を扱う画廊となり、財政 的にニキを支援し、多くの展覧会を企画、さらに良き助言者となった。ニキは 彼を通してシュルレアリスムの画家ヴィクトル・プラウナー、マックス・エルンス ト、ルネ・マグリットらと出会う。 6 月 6 日、イヴ・クラインが突然死する。 8 月 30 日から 9 月 30 日まで、ニキはアムステルタム市立美術館でのインスタレー ション「ダイラヒー ダイナミック・ラビリンス」に、ラウシェンノヾーグマルシャ ル・レイス、スペーリ、ティンケリー、ベル・オロフ・ウルトウェットらとともに参 加する。 10 月 15 日、ニューヨークのアレクサンドル・イオラ・ギャラリーで個展を開催 ( 11 月 3 日まで ) 。この展覧会でニキはオマージュ作品《シュヴァル郵便配達 夫》を発表し、観客も射撃することができるようにした。 マルセル・テュシャンがニキとティンケリーをサルノヾドール・ダリのところへ連 れて行く。 8 月、スペイン旅行の途中、ダリはニキとティンゲリーをフィゲラスの 闘牛のための「火の牛」を作るために招待する。ニキとティンケリーは紙と石 膏で、花火が中に詰まった等身大の儀式的な牛を制作。伝統に則って、闘牛が 行なわれた後、その牛は華麗に爆発した。 IO 月、ニューヨーク近代美術館で開催された「アッサンプラージュ芸術」展に出 品 ( その後、ダラス現代美術館、サンフランシスコ美術館に巡回 ) 。 6 月から 9 月 にかけて国際的な新聞や雑誌で 50 以上の記事がニキの作品について言及し 秋にはラリー・リヴァースとその妻クラリスがロンサン袋小路にスタジオを構 え、二キとティンゲリーはすぐにこのふたりと親しく交流するようになる。 1962 2 月、ニキとティンゲリーは、カリフォルニアに行き、ロサンジェルスの近くのサ イモン・ロティアス・ワッツ・タワーを訪ねる。 CBS テレヒの撮影隊がネノヾダ砂 漠で行なわれたティンゲリーのハプニンク・パフォーマンス「世界の終わりのた めの習作ナンノヾー 2 」を撮影。二キはこのプロジェクトを手伝う。 ロサンジェルスに帰る途中、ニキはアメリカにおける最初の「射撃」を行なった。 最初は 3 月 4 日にマリプの浜辺で行なわれ ( ギャラリスト、ウアージニア・ドウ 工インがスポンサー ) 、 2 回目はマリプの丘の上で行なわれた ( 工ド・キーンホル ツがスポンサー ) 。このイヴェントの後、ニキとティンゲリーはメキシコを旅行 する。 5 月 4 日、ニキとティンケリーほか、さまさまなアーティスト ( ラウシェンノヾーグや フランク・ステラら ) がニューヨークのメイドマン・プレイハウスでケネス・コッホ によるパフォーマンスに参加。このメイドマン・プレイハウスは、当時マース・カ 1963 5 月、ヴァージニア・ドウェインがロサンジェルスの自らの画廊での射撃セッショ ンを企画。ニキはここで、記念碑的な大作《キング・コング》を制作した。このイ ヴェントの後、この作品はストックホルム近代美術館に購入された。 ニキとティンゲリーは、ノヾリ郊外のソワジー・シュル・エコールのかってはホテ ルとして使われていた建物「白い馬」に住居を構える。ニキは、社会的な役割 を象徴しているような女性像の作品シリーズ ( 子どもを産む母親、花嫁、魔女、 娼婦なと ) の制作を始める。 4 ティンゲリーと二キ、住居兼アトリエの「白い馬」の中庭にて、 1963 年 メイドマン・プレイハウスでのパフォーマンス、右からへンリー・ゲルツアーラー、ティンゲリー ニキ、ラウシェンノヾーグ ( ストリート・ランプのコスチューム ) 、マキシーヌ・グロフスキー、ケネ ス・コッホほか、 1962 年 5 月 4 日 1 1964 この夏、ローサンヌの近くのリュトリーで過ごし、布や紙粘土で、さまさまな大き さの頭像や《聖ジョージとドラゴン》を制作する。 9 月、ロンドンのハノーノヾー・キャラリーで個展「ニキ・ド・サンファル : あなたは私 のドラゴン」開催。 136

3. ニキ・ド・サンファル展 NIKI DE SAINT PHALLE

1985 年 アクリル塗料・アルミ箔、ポリエステル 70 X 32 X 23 cm 二キ美術館 La lune 1985 AcryIic paint and aluminum leaf on polyeste 「 70 X 32 X 23 cm Edition no. 1 / 1 0 Niki Museum, Nasu 100 月の女神 1997 年 リトグラフ、コラージュ 75 X 56.5 cm ニキ美術館 Moon Goddess 1997 l-ithograph and collage 75 X 56.5 cm Edition no. 1 8 / 25 (). A. ) Niki Museum, Nasu 月は創造的なイマジネーションのカードであり、またネカ テイウな幻影のカードてもあります。月は神秘的で謎めい た秘密のカードです。 月は潮の満干、女性の生理、出産、そのほか水の動きに 関係のあるあらゆる事柄に影響を及ばします。月のカード は危険にもなり得るし、また偉大なイマジネーションのノヾ ワーをも提供してくれます。 1 13

4. ニキ・ド・サンファル展 NIKI DE SAINT PHALLE

ティンケリーと一緒に、パリのポンピドウー・センターに隣接するストラヴィンス キー広場に 15 個のパーツからなる噴水の制作をする。ピエール・マリー・ルジ ュヌがニキのアシスタントとして働く。 二ューヨークの画廊ギンベル & ウィーツェンホーファーとロンドンのギンベル・ フィス・キャラリーで、二キのくスキニーズ〉を紹介する「ニキ・ド・サンファル新 作展私のスキニーズ」を開催。 タロット・ガーテンでの仕事も順調に進む。ティンゲリーから引き継いでオラン タの芸術家ドック・ヴィンゼンが彫刻の金属の枠を手がけるようになる。この 年の終わりにはセメントを流し込む。 11 月、東京のスペースニキで「ニキ・ド・サンファル展」開催。 ラフィックの展覧会「ニキ・ド・サンファル : グラフィック作品 1968 ー 1980 」が開催 される。 7 月 2 日、パリのポンピドウー・センターでニキの回顧展「ニキ・ド・サンファル : 回 顧 1954 ー 1980 」が開催される。この展覧会はヨーロッパ中の美術館を巡回する ( テュースプルクのウイルヘルム・レームプルック美術館、リンツのノイエギャ ラリー、クンストハレ・ニュルンベルクハウス・アム・ヴァルトゼー・ベルリン、 ノ \ ノーファーのシュプレンケル美術館、ストックホルム近代美術館に巡回 ) 。 7 月 3 日、最初のリューマチの発作に襲われる。 YOK 〇増田静江が東京にギャラリー「スペースニキ」を開廊し、「ナナ・ / ヾワー」 展を開催する。 ポリエステルで蛇をモティーフにした肘掛椅子、花瓶、ランプを制作。 1981 タロット・ガーテンの近くに小さな家を借りる。ガラヴィッキオに住む多くの 若者たちが、タロット・ガーテン建設のためにニキを援助する。ティンケリーと その仲間による「オールスター・スイス・チーム」のもと、タロット・カーテンは次 第に形を成してくる。 春、アムステルダムにある財団の依頼で大西洋横断競争のための飛行機のテ サインを手がける。 4 月、東京のスペースニキで「ノヾート 2 ポスターと映画ダティー展」、 6 月、「 / ヾー ト 3 版画《わたし》など」展、 8 月、「パート 4 ベスト新作展」、 10 月、「ノヾート 5 ポートレートと映画ダティー」展、 11 月、「パート 6 彫刻展」開催。 1983 日目 ナナに寄りかかるニキ、 1981 年 1982 1 月、東京のギャラリーワタリで「二キ・ド・サンファルナ大オプジェ」展開催。 アメリカの会社ジャックリーン・コックランがニキに新しい香水の制作を依頼。 この収益によってニキはタロット・カーテンの建設を続行することができ、結果 的にタロット・カーテン制作の 3 分の 1 の資金をまかなうこととなった。 139

5. ニキ・ド・サンファル展 NIKI DE SAINT PHALLE

. イこ ニューヨークのセントラル・パークで 1 年近く展示された。最終的には常設とし てストックホルム近代美術館の近くに設置された。 8 月、アムステルダム市立美術館で回顧展「ナナ・ノヾワー」開催 ( その後テュッ セルドルフのクンストフェライン・ノルトライン = ヴェストファーレンに巡回 ) 。 この機会にニキは最初の《ナナの夢の家》《ナナの噴水》なとを構想する。これ らの作品は、二キがこの頃使用し始めたポリエステルで制作された。 IO 月、ニューヨークを訪れ、チェルシーホテルに滞在し、制作する。この滞在中、 ニキはハートやドラゴンのシリーズを完成させる。 1965 4 月、アメリカ人芸術家ラリー・リヴァースの妻クラリスの妊娠からインスピレー ションを得て、毛糸と布で最初のくナナ〉のシリーズを制作する。 9 月、ノヾリのアレクサンドル・イオラ・ギャラリーでの個展でくナナ〉のシリーズを 展示。同時に彼女に関する最初の本が出版される ( ニキの手書きの文字を使 用したテキストとナナの構想が掲載される ) 。イオラの提案で、シルクスクリー ンの版画作品を手がけるようになる。 1968 6 月、舞台作品「イッヒ ( わたし ) 」を手がける。これは、ドイツのカッセル市立劇 場で上演され、ライナー・フォン・ティーツが監督した。ニキは原作 ( ティーツと の共著 ) 、舞台美術、衣裳、そしてポスターを手がける。 「ニキ・ド・サンファル : 作品 1962-1968 」展開催 ( テュッセルドルフのクンストフ 工ライン・ノルトライン = ヴェストファーレン、クンストフェライン・ハノーファーに 巡回 ) 。 10 月、ニキはパリのアレクサンドル・イオラ・キャラリーで 18 個のノヾーツからな るレリーフ作品《昨晩夢を見た》 ( cat. no. 67 ) を展示。また、この頃空気を入れ て膨らますことができるナナ・ノヾルーンを構想。これはニューヨークで制作さ れ、販売された。 この年の末、立体作品の材料に使っていたポリエステルの煙や粉麈を吸引し ていたことが原因で、呼吸のトラブルに見舞われる。 モロッコへ旅行する。 1966 レイスとティンケリーとともにローラン・プティのノヾレエ「エロージュ・テュ・ラ・ フォリ」の舞台美術や衣裳の草案を手がける。この / ヾレエは 3 月にシャンゼリ ゼ劇場で上演された。 1969 インドへ旅行する。旅行の後、最初の本格的な建築プロジェクトに着手する。 これは南フランスのライナー・フォン・ティーツの 3 軒の家で 1971 年に完成 する。 ミュンヘンのギャラリー・スタンゲルで「ニキ・ド・サンファルの彫刻、テッサン クラフィック」展が開催される。 ニューヨークのホイットニー美術館が《プラック・ヴィーナス》を購入し、 4 月に 「アメリカ現代彫刻展、セレクション 2 」に出品される。 フォンテーヌプロー近くのミリー・ラ・フォレでティンケリーによって着手された プロジェクト「キュクロプス ( 1 つ目の巨人 ) / 頭」に参加する。ニキ以外にも多 くの芸術家が参加。 完成間近の《ホーン》とともに、ニキとティンゲリー、ウルトウェット、 1966 年 6 月、ティンケリーとウルトウ、ェットとともにフルテンからストックホルム近代美 術館のエントランスホールに大きな作品を設置するよう依頼される。 3 人の芸 術家はこの記念碑的作品、「横になって休んでいるナナ」 ( 長さ 28 メートル、幅 9 メートル、高さ 6 メートル ) を、《ホーン》 ( スウェーテン語で彼女 ) と名付ける。 スイス人の若い芸術家リコ・ウェーノヾーがこのプロジェクトに参加し、ニキとテ インゲリーのノヾートナーあるいはアシスタントとして一緒に仕事をするように なる。この関係はその後長く続いた ーノし 0 IO 月、ドイツのカッセル市立劇場で行なわれたアリストフアネスの喜劇をもとに したライナー・フォン・ティーツの舞台「リジストラータ」 ( 『女の平和』 ) の舞台美 術と衣裳を手がける。 1970 11 月 29 日、ミラノのギャラリア・ヴィットリオ・エマヌエーレで開催されたヌーウ、 オー・レアリスム IO 周年記念フェスティヴァルのオープニングで、祭壇の形をし たアッサンフ、ラージュに射撃を行なう。このフェスティヴァルはピエール・レス タニーとグイド・ル・ノチによって企画された。 くナナ・パワー〉と名付けられた 17 のシルクスクリーンのシリーズをパリで制作 (cat. nos. 39-45) 。 ニキはティンケリーに同行してエジプトへ旅行する。 1971 6 月 13 日、ソワジーでニキ・ド・サンファルとジャン・ティンゲリーが結婚。その後 ふたりはモロッコへ旅行する。 8 月 IO 日、インドネシアのハリ島でニキの最初の孫プルーム誕生。長女ローラ とロラーン・コンドミナスのあいたに生まれた。 最初のジュエリーをテサインする。 この年の末、エルサレムのラヒノウィッチ公園に設置する子ともたちのための 1967 ニキとティンケリーは、フランス政府より依頼された、モントリオール万博のフ ランス館のための《ファンタスティック / ヾラダイス》を制作する。それは、二キ の 9 体の彩色されたナナと、ティンケリーの 6 つの動く機械の彫刻からなるもの だった。万博の後、ますパッファローのオルプライト = ノックス美術館で、ついで 137

6. ニキ・ド・サンファル展 NIKI DE SAINT PHALLE

ニキ・ド・サンファル展 2006 年 3 月 29 日一 4 月 9 日 大丸ミュージアム・梅田 主催 : NHK 大阪放送局、 NHK きんきメティアプラン、産経新聞社 後援 : フランス大使館、ドイツ大使館 名古屋市美術館 2006 年 6 月 17 日一 8 月 15 日 後援 : NHK 、フランス大使館、ドイツ大使館 主催 : 東京新聞、 NHK プロモー 大丸ミュージアム・東京 2006 年 5 月 1 1 日一 5 月 22 日 ション 福井市美術館 2006 年 8 月 22 日一 9 月 24 日 後援 : NHK 名古屋放送局、フランス大使館、ドイツ大使館 主催 : 名古屋市美術館、中日新聞社 協力 : ルフトハンザドイツ航空会社、ルフトハンザカーゴ AG 協賣 : トヨタ自動車、損保ジャパン、ヤマトロジスティクス 特別協力 : ニキ芸術財団、ニキ美術館、シュプレンゲル美術館 ( ハノーファー ) 後援 : フランス大使館、ドイツ大使館 NHK 福井放送局、 NHK 中部プレーンズ 主催 : 福井市美術館、中日新聞社、日刊県民福井、 Niki de Saint Phalle: a retrospective March 29 ー April 9 , 2006 Daimaru Museum Umeda Organized by: NHK Osaka Station, NHK Media PIan, The Sankei Shimbun With the Cooperation of: Lufthansa German Airlines, Lufthansa Cargo AG SOMPO JAPAN INSURANCE C. , Yamato Logistics, Co. Ltd. With the Sponsorship of: TOYOTA MOTOR CORPORATION, Niki Museum, Nasu (Japan), SprengeI Museum Hannover (Germany) With the Special Support of: Niki CharitabIe Art Foundation, With the Assistance of: The Embassy of France in Japan, The Embassy of Germany in Japan Nikkan Kenmin Fukui, NHK Fukui Station, NHK Chubu Brains Organized by: Fukui City Art Museum, The Chunichi Shimbun, Fukui City Art Museum August 22 ー September 24 , 2006 The Embassy of Germany in Japan With the Assistance of: NHK Nagoya Station,The Embassy of France in Japan, Organized by: Nagoya City Art Museum, The Chunichi Shimbun Nagoya City Art Museum June 17 ー August 15 , 2006 With the Assistance of: NHK, The Embassy of France in Japan, The Embassy of Germany in Japan Organized by: The TOkyo Shimbun, NHK Promotions Daimaru Museum Tokyo May 11 ー May 22 , 2006 With the Assistance of: The Embassy of France in Japan, The Embassy of Germany in Japan

7. ニキ・ド・サンファル展 NIKI DE SAINT PHALLE

主要参考文献 /Selected Bibliography 野村太郎「ニキ・ド・サンファールく万有の母〉館の女主人」『みづゑ』 810 号、 1972 年 7 月号、 pp. 62-77 「特集古今女性作家名鑑」『美術手帖』 407 号、 1976 年 5 月号、 p. 98 「 80 年代の女くノヾリのアーチスト〉ニキ・ド・サンファル詩人の白石かすこが彼女 の創造ライフに肉迫接近」『芸術生活』 1980 年 4 月号、 pp. 89-98 松岡和子「ニキ・ド・サンファルの人形 - ーまるいかたちのナナたち」『美術手帖』 494 号、 1982 年 3 月号、 pp. 188-191 「ニキ・ド・サンファールく特集・ WOMEN ARTISTS 〉」『美術手帖』 515 号、 1983 年 9 月 巧、 pp. 50-51 富士栄厚「ニキ・ド・サンファールく現代フランス女性アーチスト I 〉」『三彩』 437 号、 1984 年 2 月号、 pp. 70-71 「特集素朴派ハンサイ」『芸術新潮』 1986 年 3 月号、 p. 24 大月浩子「展覧会ニキ・ド・サンファール永遠の母」『美術手帖』 560 号、 1986 年 4 月 号、 pp. 126-133 白石かすこ「ニキ・ド・サンファールの「ダティ」」『夜想』 24 号、 1989 年、 pp. 62 ー 71 「特集美女と芸術」『芸術新潮』 486 号、 1990 年 6 月号、 p. 48 ヒロ子・マルス「ニキ・ド・サンファールと現代の女神」『女性空間』 13 号、 1996 年、 p. 41 ー 45 高橋謙輔「サンティエゴ国際民芸館のニキ・ド・サンファル展」『美術手帖』 761 号、 1998 年 9 月号、 pp. 160 ー 161 「女性アーチストの記録 [ ニキ・ド・サンファルーー美しい獣 ] 」『美術手帖』 761 号、 1998 年 9 月号、 p. 175 松本路子「く写真〉ニキ・ド・サンファールの世界」『母の友』 539 号、 1998 年 4 月号、 pp. 3 ー 14 白石かすこ「二キとの一期ー会」『芸術新潮』 588 号、 1999 年 12 月号、 pp. 88 ー 89 「二キ美術館を訪れたニキ・ド・サンファル」『美術手帖』 766 号、 1999 年 1 月号、 pp. 137 ー 140 上野千鶴子「ニキ・ド・サンファルのふたつの『自伝』から」『アティクションと家族』 第 21 巻 3 号、 2004 年 1 1 月号、 pp. 271-278 斉藤学「特集にあたって -- - ニキ・ド・サンファルと自傷」『アティクションと家族』第 21 巻 3 号、 2004 年 1 1 月号、 pp. 248 ー 251 ■日本語文献 [ 単行書 ] 『 Niki de Saint PhaIle in Daddy 』スペースニキ、 1986 年 松本路子写真、ピエール・レスタニー詩、白石かすこ訳『ニキ・ド・サンファール』 PARCO 出版局、 1986 年 和多利志津子『アイラプアート現代美術の旗手 12 人』日本放送出版協会、 1989 年 『二キ・ド・サン・ファール』 ( 現代美術 16 ) 、講談社、 1994 年 二キ美術館編『ニキ・ド・サンファル映画《タティ》を見てニキを語る』彩樹社、 1997 年 増田 YOKO 静江『ニキ・ド・サンファル』美術出版社、 1998 年 上野千鶴子『発情装置工ロスのシナリオ』筑摩書房、 1998 年 ひと 『ニキ・ド・サンファルーー美しい獣ーー』 ( プロクラム ) ノヾンドラ、 1998 年 堀尾眞紀子『鏡の中の女たち』文化出版局、 2000 年 今西彩子『ミソジニー精神分析 ( 女嫌いからの自己治癒 ) 』理論社、 2003 年 岡部あおみ『アートと女性と映像グローカル・ウーマン』彩樹社、 2003 年 [ 展覧会カタログ グループ展 『芸術凧』大阪ドイツ文化センター、 1988 年 『人のかたち美の形』福島県立美術館、 1990 年 『からたのイメージ、西洋と日本の人体表現 - ー - 近世から現代へ』静岡県立美術館、 1991 年 『 ARTIN OUR TIME 』西武百貨店、 1991 年 『立体表現にみるヒューマン・リアリズム展』伊勢月美術館 / 大丸ミュージアム梅 田 / 広島市現代美術館、 1992 年 『開館 10 周年記念展アダムとイプ』埼玉県立近代美術館、 1992 年 『 20 世紀美術とアウトサイダー・アートノヾラレル・ヴィジョン』 ( 日本語版 ) ロサンゼ ルス・カウンティ・ミュージアム / レイナ・ソフィア国立美術館 / ノヾーゼル・クンストハ レ / 世田谷美術館、淡交社、 1993 年 『フランスの肖像』渋谷区立松濤美術館 / 刈谷市美術館 / 尾道市美術館 / 秋田県立 美術館、 1994 年 『ニキ & ティンゲリー ~ ネレンス・コレクションを中心に』川村記念美術館、 1996 年 『身体と表現 1920 ー 1980 ポンピドウーセンター所蔵作品から』東京国立近代美術 館 / 京都国立近代美術館、 1996 年 『コレクション 10 年のあゆみ芸術と素朴』世田谷美術館、 1996 年 『アクション行為がアートになるとき 1949-1979 』 ( 日本語版 ) 東京都現代美術館 / ロサンゼルス現代美術館、 1999 年 個展 ひと 献 文 国 外 [ 単行書 ] Pierre Boulez, Pontus HuIten, Franz Meyer, Stephanie POley, Jean Tingue/y, Niki de Saint PhaI/e. Strawinsky-Brunnen, BenteIi VerIag, Bern, 1983 Niki de Saint PhaIIe, Aids ー You can't catch it わ 0 / d 旧 g your hands, München, 1986 ( ニキ・ド・サンファル著、大宅映子訳『エイズー一手をつないた位では感染し ない』グラフィック社、 1987 年 ) Leonard Bezzola, Niki de Saint Phalle, The B わ ofa Monster, Zürich, 1991 Niki de Saint PhaIIe, Laurent Condominas, Méchant Méchant, La Différence, 1993 Niki de Saint Phalle, Mon Secret, Paris, 1994 Ma77anti Anna, Niki de Saint Pha ″ e. 〃 Giardino dei Tarocchi, Edizioni Charta, Milano, 1997 Niki de Saint PhaIIe, Traces. An ut 〇わ / og 「 a 〃わ y 日刀 em わ e 加 g 7930 ー 7949 , Lausanne, 1999 Monika Becker, Starke Weiblichkeit entfesse/n. Niki de Saint Pha 〃 e, List Taschenbuch VerIag, München, 1999 Niki de Saint PhaIIe, The Garden the アä「 Ot , BenteIi VerIag, Bern, 1999 Niki de Saint Pha ″ e. Monographie ・ Monograph: Cata/ogue Raisonné VOlum ー - 止 Ma/erei, 万「 s , Assemblages, Re/iefs, 7949-2000 , Lausanne, 2001 『 Niki de saint Phalle 』ギャラリーワタリ、 1979 年 『 Niki de saint Phalle Exhibition 』スペースニキ、 1986 年 [ 逐次刊行物 ] P ・レスタニ、日向あき子訳「ノヾリとニューヨークのアウアンギャルド」『美術手帖』 213 号、 1962 年 12 月号、 p. 23 東野芳明「世界画壇のトップ・レティニキ・ド・サンファール」『美術手帖』 281 号、 1967 年 4 月号、 pp. 64-70 「芸術の変貌明日の芸術を理解するために」『美術手帖』 307 号、 1969 年 1 月号、 pp. 90-91 144

8. ニキ・ド・サンファル展 NIKI DE SAINT PHALLE

建築プロジェクト《ゴレム》に取りかかる。翌年に完成。 1972 長く続けられるが、のちにハリゴンの息子ジェラルドが後を継ぐ。 鋳造家ロバート・ハリゴンとともに巨大彫刻の制作を開始。彼との共同制作は ジェノヴァのギャルリー・ホニエールで「ニキ・ド・サンファル : ナナ以前」展が開 ハンマー・シネマで封切られる。 ー・ホワイトヘッドとの共作により映画「ダティー」を撮影する。 11 月、ロンドンの 7 月、南フランスのクラースの近くにシャトー・テュ・モンを借り、そこでピータ 催され、初期の作品が出品される。 ギリシャを訪れる。 1973 ニキとティンゲリー、年代不詳 ベルギーの町クノッケ・ル・ズでファヒアンヌとロジャー・ネレンス夫妻のため サン・トロべのジョルジュ・プルヴィエールのスイミングプールをテサインする。 ヴァ丿レのポスターも手がける。 ク・フィルム・フェスティヴァルで上映される。ニキはこのフィルム・フェスティ マルティンらが参加。 4 月、リンカーンセンターで封切られ、第 11 回ニューヨー リジナルキャストに加え、クラリス・リヴァース、ライナー・フォン・ティーツ、ミア・ 1 月、「ダティー」の改訂版をソワジーとニューヨークで撮影する。改訂版にはオ 1974 に、子ともの遊び小屋《ドラゴン》を制作する。 138 催され、ニキの代表作品が紹介される。 テルで「二キ・ド・サンファル : 彫刻、素描、グラフィックナナ・ノヾルーン」展か開 6 月、ドイツのバーテンハーテンのギャラリー・ドクター・エルンスト・ハウスヴェ キ・ド・サンファル : 建築プロジェクト」展開催。 2 月、 / ヾリのアレクサンドル・イオラ・ギャラリーで建築モテルを紹介する「ニ ー」が付けられた。 意を表して、これら 3 つのナナに女王の名前「カロリーヌ」「シャーロッテ」「ソフィ ハノーファーに 3 つの巨大なナナ像を設置。ハノーファー市の歴代の女王に敬 長くボリエステルという素材で作品を作っていたことが原因で肺を悪くし、 スイスの病院に入院、療養する。数週間後、アリゾナを旅行し、その後スイス のサン・モリツツに行く。そこで、 1950 年代にニューヨークで友人関係にあった マレッラ・カラッチョロに再会する。二キはマレッラに彼女の夢である彫刻公 園の構想を話し、その話に感銘を受けたマレッラとその兄弟のカルロとニコ ラ・カラッチョロ夫妻は、ニキがその夢を実現できるように自分たちのトスカー ナの土地の一部を自由に使わせた。 1975 映画「夜よりも長い夢」を制作。この作品には多くの友人が関わり、二キは脚本、 美術装置を担当。ブリュッセルのノヾレ・テ・ホサールで開催された「フェスティ ウアル・ユーロノヾリア・フランス 1975 」で、映画のセットが正面に使われた。 1976 この年丸 1 年間、スイスのアルプスで過ごし、将来の彫刻公園の構想を練る。 ロッテルダムのポイマンス美術館で個展が開催され、建築プロジェクトが紹介 される。 オルボルクのノルテイラン美術館 ( テンマーク ) で「ニキ・ド・サンファルの彫刻」 展が開催される。 ジェノウアのギャルリー・ホニエールで「ニキ・ド・サンファル : 近作」展が開催さ れる。 1977 コンスタンタン・ムルグラープとともにハンス・クリスチャン・アンテルセンの 小説に基づく映画「旅なかま」の舞台装置を手がける。 メキシコやアメリカのニューメキシコを旅行する。 リカルド・メノンが彼女のアシスタントとなり、その後 IO 年間アシスタントを続 ける。 1978 トスカーナの小さな町カラヴィッキオにあるカラッチョロ兄弟所有の土地で 「タロット・ガーテン」の建設に着手する。タロット・カードのモティーフに基づい て 20 体の記念碑的な彫刻作品が二キの解釈に基づいて構想される。 ニューヨークのギャラリー・ギンベル & ウィーツェンホーファーで彫刻マケット 3 月、東京のギャラリーワタリで、日本で初めての個展開催。 やす この年のほとんとの時間をトスカーナで過こし、タロット・ガーテンの建設に費 1979 この機会に 5 月から 7 月にかけて大学ギャラリー ( ウ丿レマー美術館 ) で二キのグ ドイツのウルム大学のキャン / ヾスで、彫刻作品《詩人とミューズ》が除幕される。 かる。 4 月、タロット・カーテンの最初のふたつの彫刻《魔術師》と《女教皇》に取りか 1980 新たな彫刻のシリーズくスキニーズ ( やせつばち ) 〉を構想する。 の後コロンノヾス美術館をはしめとするアメリカ国内の 4 つの美術館に巡回 ) 。 や写真を紹介する「モニュメンタル・プロジェクト、マケットと写真」展開催 ( そ

9. ニキ・ド・サンファル展 NIKI DE SAINT PHALLE

などを旅行し、その途中でさまさまな美術館や大聖堂などを見て回る。この経 験は二キにインスピレーションを与え、のちの作品に影響を与えることに なる。 介する。フルテンはこの後、ニキを重要な展覧会に招待し、作品を美術館の収 蔵品として買い上け、生涯にわたって二キの活動を支援することとなる。 1961 2 月、「比較 : 絵画一彫刻」展 ( パリ市近代美術館 ) に、《聖セノヾスチャンあるいは 私の愛人のポートレート》 ( cat. n07 ) を出品する。 2 月 12 日、最初の射撃セッションを企画する。石膏で作ったレリーフにさまさま なオプジェを埋め込んたものを制作。これらのオプジェには、絵具が詰まった 容器が埋め込まれていて、弾丸がこの容器に当たれは、絵具が飛び散るしかけ になっていた。このセッションはのちに「射撃絵画」として有名になる。 最初の射撃絵画の開催には、フランスで活動していたヌーヴォー・レアリスムの 作家らが訪れた。この運動の旗手で、また批評家としても主導的な位置にあっ たピエール・レスタニーはニキの射撃絵画に感銘し、すぐに彼女をグループに 誘う。ヌーヴォー・レアリスムの参加者は、アルマンセサール、クリスト、ジェラ ール・テユシャンフランソワ・テュフレーヌ、レイモン・レイス、ミンモ・ロテッラ、 ダニエル・スペーリ、ティンゲリー、ジャック・テュ・ラ・ヴィルグレなど男性はか りであった。 3 月、ポンテュス・フルテンによって企画された展覧会「動いた、動く」 ( アムステ ルダム市立美術館、ストックホルム近代美術館、テンマークのルイジアナ美術 館に巡回 ) に出品。 6 月 20 日、ジャス / ヾー・ジョーンズ、ロノヾート・ラウシェンノヾーグそしてニキとティ ンゲリーは / ヾリのアメリカ大使館で開催された、ジョン・ケージによる企画コン サート・ハプニング「ヴァリエーションⅡ」に参加。このパフォーマンスは、ティヴ イッド・チューダーがジョン・ケージの音楽をピアノで演奏し、そのあいた、ほか の芸術家たちか舞台上でそれそれの作品を制作するといったものであった。 レスタニーは彼の妻ジャンニーヌ・ゴールドシュミットが経営する画廊ギャラ リー J でニキの個展を企画する。ニキは展覧会タイトルに「好きなたけ撃て ! 」 と付ける。レオ・キャステリ、ラウシェンノヾーグジョーンズ、そしてヌーヴォー レアリスムのメンハーが 6 月 30 日のオープニングに参加。ラウシェンノヾークが 《射撃絵画》 1 点を購入する。 レスタニーはニースのギャルリー・ムラトールでヌーヴォー・レアリスムのフェス ティヴァルを開催。 7 月 13 日の夕方、オープニングでニキの射撃が計画される。 ニキはロスラン大修道院でそれを実行し、ヌーヴォー・レアリスムのメンノヾーも 参加する。 1953 深刻な神経衰弱に陥り、ニースで入院、治療を受ける。ここで絵画が治療に有 効であることがわかり、演劇の道に進むことを諦め、芸術家を志す同し頃、ハ リー・マシューズも音楽を諦め、小説を書き始める。 1954 3 月、ニキとハリーはニースで車を買い、ローラを連れてパリに戻る。アメリカ人 のジャズ・ミュージシャンで作曲家でもあるアンソニー・ホナーと同居。ニキは アメリカ人の画家ヒュー・ワイスと知り合う。彼はその後 5 年問ニキの絵画制作 における指導者となり、自由なスタイルで美術を続けるよう勧める。 9 月、一家は地中海に浮かぶマヨルカ島のテヤに転居。 1955 5 月 1 日、息子フィリップが生まれる。マドリードとハルセロナに行き、カウティの 建築に出会う。この旅行では、特にグエル公園が彼女に影響を与え、のちに彫 刻公園を作るというインスピレーションを与えた。 フランス南東部のオートリーウにある、ジョゼフ・フェルティナン・シュヴァルの 理想宮殿を訪れる。 この年、芸術家ジャン・ティンゲリーと、その妻でやはり芸術家のエヴァ・エベリ と出会う。のちにニキが最初の立体作品をつくる時に、ティンケリーに鉄の土 台を作ってもらい、それに石膏を加えて制作した。 1956-58 家族でフランス・アルプスのラン・サン・ウェルコールで過ごす油彩作品のシリ ーズを制作し、スイスのサンクト・カレンで最初の展覧会「ニキ・マシューズー ノヾリー絵画」を開催。 8 月、家族とともにノヾリに戻り、アルフレッド・テュラン = クレイ街の小さなアパー トに引っ越すハリーとニキはルーヴルをはしめ、 / ヾリのさまさまな美術館を訪 れ、クレー、マティス、ピカ、スアンリ・ルソーらの作品を知る。作家活動を続け るハリーを通し、ニキはジョン・アシュべリーやケネス・コッホなどの同時代作家 と知り合う。 日 月 年 ョ シ 撃 射 の の 路 袋 ン サ ン ロ 1959 ノヾリ市近代美術館でアメリカの芸術家、ジャスパー・ジョーンズ、ウイレム・テ・ク ニングジャクソン・ポロックロハート・ラウシェンノヾーグなどの作品を知る。 1960 ハリーと離婚する。ハリーはふたりの子どもとともにヴァレンヌ街に引っ越 ニキはそのままアルフレッド・テュラン = クレイ街に留まる。彼女は芸術上の実 験を続け、石膏のアッサンプラージュや「ターゲット・ピクチャー ( 標的絵画 ) 」を 制作する。 この年の末、ニキとティンケリーは、多くの芸術家たちがいたロンサン袋小路 に引っ越し、ふたりで共有のスタジオをもつ。 ティンケリーはニキをストックホルム近代美術館長ポンテュス・フルテンに紹 135

10. ニキ・ド・サンファル展 NIKI DE SAINT PHALLE

6 月、ノヾーテン・ビュルテンベルク州のハイテンハイム美術館で「ニキ・ド・サン ファルとジャン・ティンゲリー、ポスター、クラウス・フォン・テア・オステン・コレ クション」展開催 ( ハンプルク美術工芸美術館に巡回 ) 。 9 月、ハノーファーのシュプレンケル美術館で「ニキとジャン : 芸術と愛」展開催 ( / ヾーゼルのティンケリー美術館に巡回 ) 。 ( 笠木日南子編 ) * 本年譜作成にあたり、 lvonne Robinson, "A Life / Ein Leben / Une vie" in Niki de saint Pha ″ e: Monographie ・ Monograph, l-ausanne, 2001 を参照しました。 143