220 出鱈目な年の、出鱈目な月の、出鱈目な一日だった。 ワタナベ・ノボル、お前はどこにいるのだ ? と僕は思った。ねじまき鳥はお前のねじを巻 かなかったのか ? まるで詩の文句だな。 ワタナベ・ノボル お前はどこにいるのだ ? ねじまき鳥はお前のねじを 巻かなかったのか ? ビールを半分ばかり飲んだところで電話のベルが鳴りはじめた。 「出てくれよ」と僕は居間の暗闇に向ってどなった。 「嫌よ。あなたが出てよ」と妻が言った。 「出たくない」と僕は言った。 答えるもののないままに電話のベルは鳴りつづけた。ベルは暗闇の中に浮かんだちりを鈍く かきまわしていた。僕も妻もそのあいだ一言も口をきかなかった。僕はビールを飲み、妻は声
ようど歯みがきのペーストがチュープの中で固まるみたいに、中で何かがコチコチになってる んじゃないかしら ? そう思わない ? しいのよ、返事しないで。まわりがぐにやぐに やとしていて、それが内部に向うほどだんだん硬くなっていくの。だから私はます外の皮を切 り開いて、中のぐにやぐにやしたものをとりだし、メスとへらのようなものを使ってそのぐに やぐにやをとりわけていくの。そうすると中の方でだんだんそのぐにやぐにやが硬くなってい ってね、小さな芯みたいになってるの。ポールべアリングのポールみたいに小さくて、すごく 硬いのよ。そんな気しない ? 」 せき 娘は二、三度小さな咳をした。 「最近いつもそのこと考えるのよ。きっと毎日暇なせいね。本当にそう思うわ。暇だと考えが ちどんどんどんどん遠くまで行っちゃうのよ。考えが遠くまで行きすぎて、うまくそのあとが辿 れなくなるの」 曜そして娘は僕の手首につけた指を離し、グラスをとってコーラの残りを飲んだ。氷の音でグ ラスが空になったことがわかった。 「大丈夫よ、ちゃんと猫のことは見張ってるから。心配しないで。ワタナベ・ノボルの姿が見 ねえたらちゃんと教えてあげるわ。だからそのままじっと目を閉じててね。ワタナベ・ノボルは 今頃きっとこのあたりを歩いているはずよ。だって猫ってみんな同じところを歩くんだもの。
に重く感じられた。 そんな暗闇の中で、僕はワタナベ・ノボルの四本の脚だけを思い浮かべた。足のうらにゴム のようなやわらかいふくらみがついた四本の静かな茶色の脚だ。そんな足が音もなくどこかの 地面を踏みしめていた。 どこの地面だ ? でもそれは僕にはわからなかった。 あなたの頭の中のどこかに致命的な死角があるとは思わないの ? と女は静かに言った。 目が覚めたとき、僕はひとりだった。わきにびたりとっきつけられたデッキ・チェアの上に ち娘の姿はなかった。タオルと煙草と雑誌はそのままだったが、コーラのグラスとラジオ・カセ 女 ットは消えていた。 の 曜日は西に傾いて、松の木の枝の影がくるぶしのあたりまで僕の体をすつばりと包んでいた。 時計の針は三時四十分を指している。僕は空き缶を振るような感じで何度か頭を振り、椅子か まら立ちあがってあたりを見まわした。まわりの風景は最初に見たときとまったく同じだった。 ね広い芝生、干あがった池、垣根、石像の鳥、セイタカアワダチソウ、 > アンテナ。猫の姿は ない。そして娘の姿も。
200 らーーーたぶんのぞきこんでいたのだと思う 「ノボル」と僕は答えた。「ワタナベ・ノボル」 「猫にしちやすいぶん立派な名前ね」 「女房の兄貴の名前なんだ。感じが似てるんで冗談でつけたんだよ」 「どんな風に似てるの ? 」 「動作が似てるんだ。歩き方とか、眠そうなときの目つきとか、そういうのがね」 娘ははじめてにつこりと笑った。表清が崩れると、彼女は最初の印象よりすっと子供つばく 見えた。わずかにめくれあがった上唇が不思議な角度に宙につきだしていた。 撫でて、という声が聞こえたような気がした。でもそれはあの電話の女の声だった。この娘 の声ではない。僕は手の甲で額の汗を拭った。 「茶色の縞猫で、尻尾の先が少し折れ曲っているのね」と娘は確認するようにくりかえした。 「首輪とかそういうのは ? 」 「のみとり用の黒いのがついてる」と僕は言った。 娘は片手を木戸の上に置いたまま、十秒か十五秒くらい考えこんでいた。それから短かくな った煙草を僕の足もとの地面にひょいと落とした。 「それ踏んどいてくれる ? 私、裸足なのよ」 一一一口った。
白衣を着ると余計に目立った。まるでアルベルト・シュヴァイツアーの助手みたいだ。 彼女は僕の事務所で働いている女の子と同じ年だったので、暇があるとときどきこちらに遊 びに来て二人で話をしていたし、うちの女の子が休みのときには留守中の電話をとって用件を 聞いておいたりもしてくれた。ベルが鳴るととなりからやってきて受話器をとって用件を聞い てくれるのだ。だから我々は事務所を留守にするときにはいつもドアをあけつばなしにしてお いた。泥棒が入ったって盗まれるものなんて何もないからだ。 「ワタナベさんは薬を買いに行くって言って出ていったわよ」と彼女は言った。渡辺昇という のが僕の共同経営者の名前だった。僕と彼はその頃二人で小さな翻訳事務所を経営していた。 「薬 ? 」と僕はちょっとびつくりして訊きかえした。「何の薬 ? 」 「奥さんの薬よ。胃の具合が悪くて、なんだかとくべつの漢方薬がいるんだって。それで五反 田の漢方薬局まで行ったの。ちょっと遅くなるかもしれないから先に帰っていてくれって」 陸「ふうん」と僕は言った。 だ「それからあなたたちのいないあいだにかかってきた電話はそこにメモしてあるわよ」と言っ ーを指さした。 」」て彼女は電話機の下にはさまれた白いレターベー 子 双「ありがとう」と僕は言った。「君がいてくれて助かるよ」 「留守番応答装置を買ったらどうかってうちの先生が言ってたわよ」
214 きっと現われるわよ。想像しながら待つのよ。ワタナベ・ノボルは今ここに近づいているって ね。草のあいだを通って、屏の下をくぐり抜けて、どこかでたちどまって花の匂いをかいだり しながら、彼は少しずつこちらに近づいているのよ。そんな姿を思い浮かべて」 僕は一一一口われたとおり猫の姿を頭に思い浮かべようとしたが、 実際に僕が思い浮かべることが できるのは、逆光を浴びた写真のようなひどく漠然とした猫の像にすぎなかった。強い太陽の 光が瞼をとおり抜けて僕の暗闇を不安定に拡散させていたし、それに僕はどれだけ努力しても 猫の姿を正確に思いだすことができなかったのだ。僕が思い浮かべることのできるワタナ・ヘ ノボルの姿はまるで失敗した似顔絵のようにどことなくいびつで不自然だった。特徴だけは似 ているのだが、 肝心な部分がすつばりと欠落している。彼がどのような歩き方をしたのかさえ、 僕にはもう思いだせないのだ。 娘は僕の手首にもう一度指を置いて、今度はそっとその上に模様のようなものを描いた。形 の定まらない奇妙な図形だった。彼女が僕の手首にその図形を描くと、まるでそれに呼応する ように、これまであったものとはべつの種類の暗闇が僕の意識の中にもぐりこもうとしている ように感じられた。おそらく僕は眠ろうとしているのだろう、と僕は思った。眠りたくはなか ったけれど、もう何をもってしてもそれを押しとどめることは不可能であるように僕には思え た。なだらかなカープを描くキャンバス地のデッキ・チェアの上で、僕の体は不格好なくらい