ボタンを押す、もしもし、女の声が聞こえる、もしもし、すこし鋭過ぎるいやな声、も しもしもしもし、ロをびったり送話口に押し当てていたが、息ひとっ洩らさなかった。 電話が切れる音。またでたらめに押す、お客さまがおかけになった電話番号は現在使わ れておりません、番号をおたしかめになってもう一度おかけなおしください、テープの 声は耳の痛みのように頭に響く。もう一度阿川の番号を押す。呼出し音、私は電話にし がみつく。心臓からなにかが引き千切れ、こころがふるえおののき、大声で叫びたかっ た。私はてのひらの音にただ耳を澄ましている。電話は切れ、小銭は落ちたが、受話器 は手から離れない。だれもいない、だれがいるのか、私だ。私しかいない。もしもし、 口を衝いて出た、もしもし、もしもし、もしもし ? っ
「どうしてもきてもらわなければならないことが起きたんだ」 私が黙っていると、父は「待ってるからね」といって切ってしまった。 「ちょっとごめんなさい、妹に電話かけます」 「じゃあシャワー浴びてるよ」川島は押し人れのビニール袋のなかから自分の下着を取 り出して、ユニット・ハスに人った。 「もしもし、羊子 ? 」 「なに」不機嫌な声だった。 「お父さんに呼ばれちゃったんだけど、明日いっしょに行ってよ」 「あたし、あさってオーディションなの」 「じゃあ大丈夫でしよ」 「だめ、お父さんに逢うとっかれるから。顔がっかれるとね、落ちちゃうんだよ」 おもんどう 押し問答をしたあげくあきらめて受話器を置いた。明日ひとりであの家に行かなけれ ばならない。烏龍茶を飲み干したとき、「おい、人らないか」浴室から川島の声が聞こ ス ウえた。 ル プラウスのボタンをはずしたところで、ピアスをしていることに気づいて止め金をは ずした。ピアスが落ち、床に膝をついて捜しているとまた電話が鳴った。 ふきげん
鍵を差し込んで左右に動かしたがひらかない。何度差し込んでも同じだ。 「貸してみなさい」妻は一回で開け、ふりかえって徴笑んだ。そして先に人り、脱いだ 靴をそろえると、私の靴までそろえた。 「わたし一本電話人れなきゃならないの。貸してくれる ? 」といい部屋の奥へ人ってい っ ( 。 「どうぞ、いまつなげます」 「だめよ、電話切ったりしちゃ。この仕事は信用だいいちなんですから」妻は電話のコ ードを差し人れてブッシュボタンを押した。 「広瀬と申しますけど、津田先生いらっしゃいます ? 何時ごろお戻りですか ? じゃ あですねえ、一時間ちょっとおくれますとご伝言ください」 電話を切ると、妻は立ちあがって冷蔵庫を開けた。 「あらあ、なんにもないのねえ」 「ないんです」 「わたし、買ってくるわ」 わたしが、といって玄関のほうへ歩き出すと、指が食い込むほど強いカで肩をつかま れた。
Ⅷかそうと田 5 ったがだめだった。 「どうしてここにいるの」とくりかえし、女は靴を脱いでなかに人ってきた。妻だ。 「広瀬さんは二階です」 妻は内線ボタンを押し私から目を逸らさずに男が出るのを待ち、布団の下の全裸を見 透かしたように薄笑いを浮かべた。どうしてはだかで眠ったりしたのだろう、つかれて いたせいだ。 「広瀬くん ? 洗濯物、宅急便で送ってっていったのに送ってくれないから、わたし取 りにきたのよ」 私に聞かせるために受話器をとらず、オンフックにしている。 「どうしたの」 といって男はせき込んだ。 「どうして洗濯物、宅急便で送ってくれないのよ」 「くるときは電話してよ」 「送るって約束したものは送りなさい。それがいやなら洗濯物を持って週に一度は帰っ てきなさい」妻はびしやりといった。 私は布団のなかで音を立てないように下着を身につけ、服を着るタイミングを計ろう
圏「玄関の鍵はない」父はいたずらっぽい笑みで唇をゆがめて、「工事が終わったときに 支払うと約束したんだが、まだ払ってないんだ。だから土地はわたしのものでも、家は まだわたしのものじゃないみたいだね。ほんとうは電気やガスを通すのもだめだし、棲 どけんや むのもだめなんだ。なんとかごまかして勝手口の鍵はもらったが、土建屋のヤツ、玄関 のはどういっても渡してくれない」と他人事のように説明した。 「きみたちに迷惑はかけないさ。いざとなれば借金は生命保険でチャラにするから」と 軽やかな調子でいい、「ちょっと、電話かけてみろ」その調子を崩さずにあごを突き出 した。 「どこに ? 」 「どこにつて、きみのお母さんのところに」父は椅子のひじかけに右手を置いてコッコ ッとテープルを指でたたいた。 私は仕方なく受話器を握り、母が留守であることを祈りながらブッシュボタンを押し た。十回コールしても出ないので受話器を置いた。 「羊子にはここにくる前に電話したが、出なかった。どこをほっつきまわってるのかね。 留守番電話に、今日にでも帰ってくるようにと吹き込んでおいてくれ」父の声から明る さが徐々に消えていった。
は解錠ボタンを押した。 「どうしてわたしがその知恵遅れの四十男と結婚しなきゃならないのよ、ママになんの 得になるのよ、結婚したらビルのひとつでももらうってわけ」 ひょうてき うつぶん 私は朝からつづいていた怒りの標的を見つけた。のどのあたりにつかえていた鬱憤が、 心臓のドクッドクッというリズムに乗ってからだ中を駆けめぐる。 「あんた失礼ね。ママのことそんなふうに思ってるの、だったらなかったことにしても いいのよ」 玄関のブザーが鳴った。 「ちょっと待って、ママ、」切らないでよ、と念を押して玄関の扉を開けた。郵便配達 いちべっ はなにかを調べるような一暼を投げてよこした。受けとった茶封筒の差出人は妻だった。 私は心臓が二度大きく鼓動するのを聞いてから受話器を耳に当てた。 「とにかくママにもいいたいことあるから、行くよ、いつがいいの」 怒りはどこかに消え、私の声は力を失ってしまった。 し や「今週の金曜日に決めていいのね ? ほんとね、だったらかならず十一一時半までにきて もちょうだい、すつぼかしたりして、ママ恥かくのはごめんよ。金曜日の朝電話するから、 いい、わかった ? 」
136 むぎ 地下鉄神保町の出口のエスカレーターに乗ると、地上から吹き込んできた風が私の麦 わらなうし 藁帽子を飛ばした。上りエスカレーターを二、三段駆けおりたとき、サラリーマン風の 男が帽子をつかんで渡してくれた。 どう 外は夕暮れになっていたが舗道の熱は冷めていなかった。男の事務所のビルは目の前 なのだが、私は百メートルほど離れたコンビニエンスストアまで歩き、人口の公衆電話 にテレホンカ 1 ドを差し込んだ。 「チューンアップです」アシスタントが会社の名をいった。 「高樹ですけど、広瀬さんいらっしゃいますか」 保留の音楽が聞こえているあいだ、シャツの袖で額の汗をぬぐった。 「替わりました」 「今、神保町だけど、六階の鍵開けといて下さい。何か、」 「それでお願いします。じゃあ、よろしく」男は私の言葉を押しのけて電話を切った。 コンビニエンスストアで買い物をして事務所のビルへ行き、駐車場に停めてある車の サイドミラーで前髪をなおしてから玄関に人った。ボタンを押してもエレベーターは最 上階で停止したままおりてこない。私はしびれを切らして階段を駆けあがった。
112 クーラーをつけてから浴衣を着た。あの蒸し風呂の温泉宿から帰るとき、無断でかば んに詰めたのだ。夏のあいだ。ハジャマ代りに使っているのだが、今年ははじめてだった。 それにしても蒸し風呂の老人はなんといったのだろう。老人の顔は、去年女流作家の取 材旅行のおともで月山に行ったときに見た僧侶のミイラにそっくりだった。あなた、ミ イラになれる、作家は唐突に訊いてきた。あなたはなれるんですか、と訊きかえすと、 小柄なミイラの視線をたどって私を眺め、またミイラに視線を戻し、ぜったいにいや、 うろん と答えた。その女学生まがいの質問と答えを胡乱に思ったが、なにかもっと深い意味が あるのかもしれないと考え直した。 クー一フーが私の背中に冷気を吹きつけている。モーターの音がうるさい。私はリモコ ンのボタンを押してクーラーを黙らせた。電話が鳴る。すでにシャツ姿になっていた 男は呆けた表情で、整髪中の髪を手で押さえたまま浴室から飛び出てきた。 「とったら」 私が目を受話器に投げおろすと、何度も首をふって、子どもが重大な秘密を打ち明け るように両膝をついて顔を寄せた。 「出ない方がいいよ」 う がっさん ゆかた
女の声は裏がえってゆく。私は勝手口から玄関にまわり、ポーチの電気をつけて父を見 送った。さらにけたたましくなった犬の声が車のエンジン音に噛みついて、あたり一帯 に響きわたった。 トイレの窓のプラインドからのぞくと、子どもたちの乗った自転車が何台も通り過ぎ ていった。 用を足してボタンを押すと、車のなかで放心したように火のついていない煙草をくわ うず ぎわ えていた父の姿が渦に吸い込まれて小さくなった。いつのまにか引き抜いた額の生え際 の毛を、静かになった便器に棄てた。 トイレから出た途端、セットしたおぼえのない目覚し時計が鳴り響いた。どこで鳴っ ているのか、応接間、台所、廊下、玄関、音が遠くなる、トイレ、浴室、また台所、駆 けまわったあげく、私はふたつの炊飯器のあいだに置いてある目覚し時計を発見して音 を切った。 ぎようぎ 冷蔵庫のなかには父が買ってきた食料が行儀よく並んでいる。私が食べなければみん な腐ってしまうだろう。血がにじんだステーキ用の肉はサランラップで密封されている。 父が新たに買ってきた食料を詰め込むと冷蔵庫はいつばいになり、これ以上は苺の。ハッ クひとっさえ人らない。
脱衣所のシャワードレッサーとキャビネットはオフホワイトで統一されている。全自 すりガラス 動洗濯機はどうやって運び人れたのか見当もっかないほど大きなものだった。擦硝子の 扉を開けると、水が張ってある薄グリーンの湯船には小さいクリーム色の蛾が浮き、風 しよくにん せこう 呂場のタイルは施工した職人のものだろう、手や指のあとで汚れていた。 「外出先からでも電話で風呂を沸かせられる最新式のだ」父はさり気なく蛾を手ですく にぎ す ったが、棄て場に困ってそのまま握りつぶした。 妹が口を固く結んでいるので、私は感嘆の響きが父に伝わるよううわずった声で、 へきめん 「すごいね」と壁面にとりつけられているボタンを押してみた。 「早く死んで保険がおりなきや借金は返せない」 「いくらかかったの」 「五千万」 私たちが驚きの声をあげる前に父は早ロでしゃべりはじめた。 めいわく もとみよう 「きみたちに迷惑はかけない。ちょっと高い墓をつくるつもりで建てたんだ。素美も羊 子もどんないそがしい仕事をしているか知らないが、一年に一度ぐらいしか帰らないじ ゃないか。電話一本よこさない。わたしが家で冷たくなってたってきみたちにはわから ないよ」 わ