73 フルハウス 池をつくろうとしているにちがいない。 「じゃあ、ひとりで行ってこようかしら、素美さん、ね、お金貸してくれる」 父はこのホームレスの一家をいつまで養うつもりなのだろうか、と薄ぼんやり考えっ っソフアに置きつばなしにしてあるバッグから財布をとり出した。私は他人にあっかま しく要求されたときに断ったためしが一度もない。一万円札をテープルのすみに乗せる でんたく と、女は電卓のように電話のブッシュボタンを押し、「今日予約できるかしら、 と白髪染め、何時でもいいんですけど」爪で机をたたいてリズムをとりながら相手の返 事を待っていたがふいに受話器を手で覆って、「お湯沸かしてちょうだいな」顔を台所 のほうにふった。 そば ふっとう 女の側に戻りたくないので沸騰するまで台所にいることにした。レンジの炎のせいで 眼球がずきずきうずいてくる。二、三回まばたきをして勝手口の曇りガラスを見ると、 黒いひと影が立っている、父だ。父はくすり指でこんこんと扉をたたいてから、ふらり と台所に人ってきた。そして見えないガラスでも拭くように目の前で右手をひらひらさ せた。きたことを知らせるなという意味だろうか。「なに ? 」声を殺して訊きなおすと、 まゆ 父は薄い眉を弓状に曲げひび割れた唇をすぼめ、息だけのロ笛に似た声でなにかしゃべ ったのだが、女の声にかき消されてまったく聞こえない。父は台所を見まわして洗って しらがぞ おお
176 「靴箱のなかにもあるからお願い」 腰をあげようとした母親を制して男は部屋から出ていった。そしてもやしを持ってく ぎしき げんしゆくおもも ると、それがなにかの儀式ででもあるかのごとく厳粛な面持ちでもやしを切った。 妻が台所から飛び出してきた。手には包丁とコカ・コーラの空缶を握っている。床に 空缶を置き、右手で包丁の柄を握り、左手を刃の背に押し当て全体重をかけると、缶は まつぶたつに切れた。妻は二度鼻で息を吸い、「広瀬くんもやし持ってきて」というと 包丁を握ったまま台所に駆け込んだ。男はもやしを台所に運んだきり戻ってこない。下 ごしらえや皿洗いを手伝わされているのだろう。 「幸次の父は外科医としては業界で五指に人る腕だったんですの。最近あたくしは仏壇 の主人の写真に顔を合わせられないんですよ。幸次が、他人さまにうしろ指さされるこ とになったら、あたくしどうすればいいのか」 妻のけたたましい笑いで中断される。 いしやりよう 「慰謝料どうやって支払ってくれるの」いつのまにか客間に現れた妻は、質問だけぶつ ふびん けて私の返事を待たずにきびすをかえした。母親は、「嫁も不憫でああやってはしゃぐ しゅうと のも」とうつむいたがホームドラマの姑役のようには涙を出せない。 「あなたとのこと、あちこちでうわさになってるそうじゃありませんか。あなたが幸次
「それでもわたしはね問いつめたりはしなかったよ。ぐっとがまんした。許せなかった のは、きみが、夜、店に電話かけてきたろう、羊子が熱出したって。わたしはどうして も抜けられなかったから、あいつのところに電話したんだ。そしたら、今日は休んでま ぐどん すといわれたよ」父は愚鈍な牛のようにしっとりとうるんだ目を私に向け、「それから おくめん 臆面もなく何人もの男とできて、そしてあの男ーーー」と手をばちんとたたき、「出逢っ たというわけだ。あの色男、高校時代の同級生に」と話を結んだ。 ながねんしゅうちゃく きず 父は永年執着しつづけた自分の疵が自慢なのだ。怒りと痛みがきれいに洗われたそ ばあ しず の疵のなかに深々と沈みこんでいる。「いまでもだ、きみのお母さんとお祖母さんは、 店に金をせびりにくるよ」 「え ? 」 「だいたい十万、多いときには二十万」 「どうして」 「林の血が流れる子どもを産んでくれたという事実は変わらない。その女を産んだのが ・はあ あの婆さんだ。見合い写真のなかからわたしを選んだのもね」 せいひょうき 氷が砕ける音がした。父と私はびくっと台所を見た。冷蔵庫の製氷機だ。台所は陽を こば 拒んで深い陰につつまれている。 くだ であ
女の声は裏がえってゆく。私は勝手口から玄関にまわり、ポーチの電気をつけて父を見 送った。さらにけたたましくなった犬の声が車のエンジン音に噛みついて、あたり一帯 に響きわたった。 トイレの窓のプラインドからのぞくと、子どもたちの乗った自転車が何台も通り過ぎ ていった。 用を足してボタンを押すと、車のなかで放心したように火のついていない煙草をくわ うず ぎわ えていた父の姿が渦に吸い込まれて小さくなった。いつのまにか引き抜いた額の生え際 の毛を、静かになった便器に棄てた。 トイレから出た途端、セットしたおぼえのない目覚し時計が鳴り響いた。どこで鳴っ ているのか、応接間、台所、廊下、玄関、音が遠くなる、トイレ、浴室、また台所、駆 けまわったあげく、私はふたつの炊飯器のあいだに置いてある目覚し時計を発見して音 を切った。 ぎようぎ 冷蔵庫のなかには父が買ってきた食料が行儀よく並んでいる。私が食べなければみん な腐ってしまうだろう。血がにじんだステーキ用の肉はサランラップで密封されている。 父が新たに買ってきた食料を詰め込むと冷蔵庫はいつばいになり、これ以上は苺の。ハッ クひとっさえ人らない。
172 しにもあるんです。十年前に他界した幸次の父はとても厳しいひとだったんですけれど ね、その分あたくしが甘やかしてしまって、」 母親は話し合いの匙加減でも思案しているのか、慎重に焼酎とウーロン茶を配合した。 まさか私を酔わせてあとに用意しているリンチに備えているわけではあるまい。私は黙 ってグラスに口をつけた。そのとき妻が牛乳の。ハックを持って台所から現れ、につと歯 。ハータオルの を見せると、カーベットに牛乳を一リットルぜんぶこぼし、その上にペー ようなものをかぶせて手で押さえた。 「これがスー。ハ ーシャビークロスよ、すごい威力でしよ。ためしたかったらそこいらの お酒をこぼしてやってみてもいいのよ」 窓の外にクロスを突き出し両手で白い液体をしぼり出し、ソフアの横に〈スー。ハー ャビークロス〉を置くと、急に笑顔を消して台所に戻っていった。 「あたくしは高樹さんのお仕事拝見していないんですけれど、すごいのねえその若さで、 二十六歳でしたつけ ? 」母親は不快そうにせきこんで、ハンカチを口もとにあてた。 私とこの女との関係はいったいなんなのか、考えてみないわけにはいかない。三十分 わな 前に路上ですれちがったとしてもなんの意識も持ちょうがなかった女に、見え透いた罠 を仕かけられ、追いこまれようとしている。電話一本でこの家にきたのは、妻の狂気じ いりよく
「幸次、押し人れってどこなの」母親は腰をあげた。 男は片足で立ちあがって壁に手をついてとりに行こうとした。 「広瀬くんはハサミとザル ! 」怒鳴り声とともに妻はぶら下がり器から落ち、息を切ら して、「広瀬くんビニール袋持ってきて」とうめき、男が持ってきたビニール袋を口に あて、吸ったり吐いたりして見せて目だけは私を見て笑っている。ビニール袋を外して、 「押し人れはとなりの部屋です、お義母さん」そういって、義母が「はいはい」といっ て立ちあがりとなりの部屋に行くのを見とどけると、袋をふくらませて思いきりたたい はれつ たが、破裂はしなかった。そして、「お義母さんわかりますか」と声をかけて台所に消 よめしゅうとめ えた。ふたりの女は共通の敵である私がいることでかろうじて仲むつまじい嫁姑を演 じている。 母親がもやしのタッ。ハ ーウェアを、男がザルとハサミを手に戻ってくるタイミングを 計って、 「切ってザルに人れて ! 」台所の妻の声がはじけた。 や男は育ちすぎて本葉が出ているもやしを付け根から切った。妻は夫をもやしに見立て しこうこつけい ちょうしよう て、私の、そして自分の嗜好の滑稽さを嘲笑し、私たちもまた、光を遮らなければ育た ないもやしだと思っているのだろうか。もやしはザルのなかに山盛りになってゆく。
「暑いねえ。水風呂が気持ちいいよ」といって私のため息をはらいのけると、父は廊下 ふ の右手にある扉を押してなかに人り、ステップを踏むように歩き出して雨戸を開けた。 「ここが応接間とダイニングキッチン。きみたちの友だちがきてもだいじようぶなよう に大きなテープルを買った」 ようこう おうせつま はんしゃ 鏡の反射に似た七月の陽光が居間を照らし出した。応接間とダイニングを合わせて二 十畳はある。暗い色の木の床、ピンクとプルーのカーテンの柄は母の好みだ。 妹は一二十四インチのテレビに立てかけてあるギターケースにびくりと目をやった。 「羊子、こないだギター習いたいっていってただろ。ここで練習すればいい」笑いをふ こまく みみざわ くんだ父の声が、鼓膜周辺で耳障りな跳躍をしている。 「ふたりでちょっと台所に立ってみろ、使いやすいかどうか」 めくば 私は椅子に深く座って足をはさみのように閉じたり開いたりしている妹に目配せして、 腰をあげさせた。 ちやわんどんぶりゆのみ まないたなべかま 台所の床には新聞紙に包まれている皿や茶碗や丼や湯呑やグラス、俎や鍋釜やタッ しようゆ みりんす ーやステンレスのボウル、醤油やソースや味醂や酢などの調味料が置かれていて足の せいひょうき こめびつ 踏み場もない。製氷機つきの大型冷蔵庫、電子レンジ、米櫃、コーヒーメーカー、かき 氷機、ジューサー、電気炊飯器はふたつもあり、すべて新品だ。 ノ ようこ すいはんき ちょうやく がら
「ご主人とは何年になりますかねえ、離婚して」 「もうじき二十年ですね」 「お元気なのかしらねえ」 「さあ : : : 」 母は腰をあげ、台所に行ってャカンを火にかけた。 「コーヒー、紅茶、日本茶、冷たい麦茶もありますけど」 「じゃあお茶いただこうかしら。ゆきとは麦茶をいただかせてもらいましよう。そうそ うゆきとといいます。ちゃんとごあいさつなさい」老女は桃の繊維が人れ歯にはさまっ たのか歯を吸った。 ゆきと、どんな字を書くのか聞きそびれたのは、息子がいきなり正座し深々と頭を下 げたからだ。 「ゆきとです。ごきげんよう」 「あなたのお名前は、なんといいましたかねえ」 や老女は私に視線を向け、そらさない。 「鏡子です」 ほぼひとりで桃を食べ終えたゆきとは、座ったまま椅子を引きずっていき、窓に額を きようこ せんい
おり 男の視線は動物園の檻の向こうからこちらを見ている動物を思わせる。 「どういうことって、もう逢わないってことだけど」 「さっき、行くとこまで行くって : : : 」男は酸素吸人器でもあてているように息を深く 吸った。 私は自分のバッグを捜した。どこに置いたのか思い出せない。すかさず母親がソファ ーの横に置いてあったバッグを差し出し、「ごめんなさい、ありがとうございます、あ なたほんとうにやさしくていいひとです、どうもありがとう、さようなら」と日本語を おぼえたての外国人のようにいった。私ははじめてまともにその顔を見た。ひとは一瞬 だけミイラになる。 「でも、あの、仕事、高樹さんでってことで決まってるのもあるし、もし逢わないとし てもきちんと話し合って、」 私と男のやりとりを、背筋を真っ直ぐにして、両手を膝に置いて聞いていた妻が立ち あがった。 や「ちょっと待って、高樹さん」 台所から大皿に盛られたもやしの炒め物を持ってきて、すがるような目を私に向けた。 「帰るんなら、これ食べて、エビアンで育てたからとってもおいしいわよ」
124 「その壺、この前沖縄に行ったとき、買ってきたの。ママが死んだら骨壺にしてちょう だい、約束よ」 母は私の顔を見ないでそういうと、桃が盛られた皿をテープルの上に置いた。そうい えばこの家に人ってから一度も視線を合わせていない。 やすとも 「このあいだ、血を吐いて病院にかつぎこまれたのよ。康友がたまたま帰ってこなけれ ば、ママ、死んでたかも」 弟の康友とももう三年ほど顔を合わせていない。 「 0 型肝炎ってことは電話で話したでしよ、去年人院するまえに。あら、あんた昨日お そかったの ? 顔むくんでるわよ。コーヒー飲む ? 」 「いい、水飲むから」 「ほんとうに逢うだけだよ」私はバッグからエビアンのペットボトルをとり出した。 なぜここにくる気になったのか、あの速達のせいだとしか思えない。男の妻が母とそ つくりだったら、と考えて声をたてて笑った。 「あんた、つきあってるひといるんでしよ」 台所にいる母が声をはずませた。