家中の鍵を点検してまわる。二階の窓を確かめているとき、階下で音がした。父、そ んなはずはない。多分気のせいだ。しばらく様子を窺ってから部屋に人うた。和室で仰 向けになり、目を閉じてぶっ切れになった眠りの糸の端を手繰り寄せようとしたそのと き、ある記憶が漂い出てきた。 六歳か七歳の夏。父は店、母は妹を連れて歯科に行っていて、西区の家には誰もいな かった。私は扇風機を自分のほうに向けてうつぶせになり、父が古本屋で買ってきた本 のひらがなを拾っていた。そのまま少し徴睡んだのだと思う。 おかん 物音がして目を醒ました。高熱の前にくる悪寒に似たふるえが襲ってきた。隠れなけ れば 、息を殺して玄関のほうに目を凝らしながらあとずさった。廊下に積んである ガ一フクタに身を隠すことに成功した。見つかりませんようにーーー。気のせいだった、そ う思った瞬間、ロを覆われ腕をつかまれ、私の力は男の手に奪われてしまった。男の息 づかいと自分の心臓の鼓動が聞こえた。恐怖が胃のなかで固まって吐きそうだった。私 はあらがわず力を抜いて、目を閉じた。男は下着のなかに手を人れ、木の先端のような ス 指をぐっと私のなかに押し込んだ。脚のあいだに疼痛が走ったが、私ののどは穴のあい おな フた風船のような音をたてただけだった。男はそのときふるえていた。溺れかかっている 人間が流木をつかもうとするかのように男は私にしがみついてきた。 おお まどろ とうつう
押しつけた。テープルに置いてある眼鏡をかけてその方向に視線を向けると、黒い猫が 隣家の屋根の上からこちらをうかがっている。私は母がいれてくれた濃すぎる茶を口に した。 「台風がくるって新聞に書いてあったけど、どうなったかしら。午前中は雨がふりそう な空模様だったんだけど、いまカンカン照りでしよ」 母はリモコンでテレビのスイッチを人れ、チャンネルを変えていった。充ち足りた姿 たい 態で静かに横たわっている猫を見ていたゆきとは、名を呼ばれたとでも思ったのか振り ちゅうし 向き、画面に目をやった。母と老女は顔を背け合い、テレビの画面を注視し、長々と沈 つぎ椴 黙をつづけている。話の接穂を捜して焦っているのだろう。チャンネルが止まったのは、 ハリウッドで量産された級西部劇だった。音量が低いので吹き替えの台詞がよく聞こ えない。私はぼんやり画面に目を向け、冷めた茶を飲んだ。湯呑みを置こうとしたその とき、ゆきとが両のてのひらでまぶたを覆った。老女は我にかえり、ゆきとの手を握っ て短く叫んだ。 「テレビ消してください」 どうてん 母は動転してリモコンを捜した。画面ではふたりの男が激しく殴りあっている。ゆき とは逃げ出そうとして玄関に目を向けた。老女はゆきとの手を握ったまま抱きかかえ、 もよう し
172 しにもあるんです。十年前に他界した幸次の父はとても厳しいひとだったんですけれど ね、その分あたくしが甘やかしてしまって、」 母親は話し合いの匙加減でも思案しているのか、慎重に焼酎とウーロン茶を配合した。 まさか私を酔わせてあとに用意しているリンチに備えているわけではあるまい。私は黙 ってグラスに口をつけた。そのとき妻が牛乳の。ハックを持って台所から現れ、につと歯 。ハータオルの を見せると、カーベットに牛乳を一リットルぜんぶこぼし、その上にペー ようなものをかぶせて手で押さえた。 「これがスー。ハ ーシャビークロスよ、すごい威力でしよ。ためしたかったらそこいらの お酒をこぼしてやってみてもいいのよ」 窓の外にクロスを突き出し両手で白い液体をしぼり出し、ソフアの横に〈スー。ハー ャビークロス〉を置くと、急に笑顔を消して台所に戻っていった。 「あたくしは高樹さんのお仕事拝見していないんですけれど、すごいのねえその若さで、 二十六歳でしたつけ ? 」母親は不快そうにせきこんで、ハンカチを口もとにあてた。 私とこの女との関係はいったいなんなのか、考えてみないわけにはいかない。三十分 わな 前に路上ですれちがったとしてもなんの意識も持ちょうがなかった女に、見え透いた罠 を仕かけられ、追いこまれようとしている。電話一本でこの家にきたのは、妻の狂気じ いりよく
たんそく その話をしたとき、一歳の子どもが三年間も母親から引き離された 、と阿川は嘆息 した。 四歳からの私の写真は何冊ものアルバムのなかにおさめられている。しかし一二歳まで の写真は文字通り空白だ。アルバムの写真の数は充ち足りた生活に比例するわけでもな いだろうに、父と母が離婚した七歳から高校を中退した十六歳までのアルバムは一冊し おびや かない。その空白が私を不安にさせ、脅かしつづける。不安が憎悪に変わり、さらに不 ぞうふく 安に切り替わって増幅してゆく。伯母の腕に抱かれた私は、肩ごしの空虚に憎悪の眼差 しを向けていたのだろうか。私の記憶のアルバムには憎悪の仮面をかぶった自分の顔ば かりが貼りついている。アルバムに貼られた顔は歳をとらないわけではない。見るたび に年老いてゆくのだ。 ふいに蒸し風呂の老人の声が聞こえてきた。静かにしろ、じっとしていればいい、じ っとしていろ。 ゆきとは突然手を離したかと思うと立ち止まり、周囲の風景を引き寄せた。私たちの や頭上を雲の影が流れてゆく。風が樹の葉をゆすり、石ころの上の陽だまりが炎のように 光った。道のにおい、雑草のにおい。それらは私にあるたしかな予感を抱かせた。ゆき Ⅷとは私が行ったことのないところに誘ってくれる。ゆきとはまっすぐに私の顔を見た。
「それでもわたしはね問いつめたりはしなかったよ。ぐっとがまんした。許せなかった のは、きみが、夜、店に電話かけてきたろう、羊子が熱出したって。わたしはどうして も抜けられなかったから、あいつのところに電話したんだ。そしたら、今日は休んでま ぐどん すといわれたよ」父は愚鈍な牛のようにしっとりとうるんだ目を私に向け、「それから おくめん 臆面もなく何人もの男とできて、そしてあの男ーーー」と手をばちんとたたき、「出逢っ たというわけだ。あの色男、高校時代の同級生に」と話を結んだ。 ながねんしゅうちゃく きず 父は永年執着しつづけた自分の疵が自慢なのだ。怒りと痛みがきれいに洗われたそ ばあ しず の疵のなかに深々と沈みこんでいる。「いまでもだ、きみのお母さんとお祖母さんは、 店に金をせびりにくるよ」 「え ? 」 「だいたい十万、多いときには二十万」 「どうして」 「林の血が流れる子どもを産んでくれたという事実は変わらない。その女を産んだのが ・はあ あの婆さんだ。見合い写真のなかからわたしを選んだのもね」 せいひょうき 氷が砕ける音がした。父と私はびくっと台所を見た。冷蔵庫の製氷機だ。台所は陽を こば 拒んで深い陰につつまれている。 くだ であ
じせき がけをしている父の姿が浮かび自責の念に囚われたが、もしかしたら母がきたのかもし れないという疑いのほうが強かった。台所もきれいになり、テープルクロスが敷かれ生 あみど 活臭さえただよっている。応接間とダイニングのガラス戸を開けて網戸にしたあと、ジ ーンズから抜いた足をソフアの上に投げ出した。生暖かい風が前髪を舞いあげ額の汗を 乾かしてくれる。少しうつらうつらしたのかもしれない。網戸が開く音がしたので驚い かたくりこ てそちらを向くと、濡れた髪を日本手ぬぐいでつつんだ片栗粉のような白い顔をした中 とりうちなう 年の女が私を見ていた。女の肩越しから鳥打帽を被った男が首を突き出して、「だれ」 鋭い声で訊いてきた。 たず 「ここの家の者です」私は視線を宙に浮かせた。だれ、と訊ねたいのは私のほうだ。 女が男の耳になにかささやいた。 「奥さん、なの ? 」女は私の顔をのぞきこんだ。 「娘ですけど」と答えると、女はだしぬけにくつくっと笑い出し、靴を脱いで家のなか にあがってきた。 ス 「あなたが素美さん」女はまばたきもせず穴のあくほど私を眺めて、馴れ馴れしく肩に 手をまわした。 「主人とふたりでプールで泳いできたのよ。サウナもあって気持ちよかったわよね」女 とら
父は居間から出ていった。しばらくすると洗濯機のまわる音が聞こえてきた。扉を開 けると、風呂場にしやがみこみたらいのなかでなにかを揉み洗いしている父の姿が目に 人った。父は黒いストッキングがウナギのようにからまっている左手をたらいから出し、 包帯が濡れるのを気にせずに両手でストッキングをしぼって指先のしずくをはらうと、 向き直って私にうなずき、「その日に出た汚れものはその日のうちにきれいにしなけれ ばならない」とふたたびたらいを湯で満たした。父は少年のシャツについた黒々とした 油染みに洗剤をかけながら「この世のなかには落ちない染みはない」と軽石でこすった。 父は席につくなり無造作にカレ 1 を食べはじめた。父のとなりに座った少年は、ロへ 持っていこうとしたスプーンを肉のかけらごと床に落としてしまい、それを手で拾うと、 手についたカレーをテープルクロスで拭いた。父はまずテープルクロスを見て、男の子 の顔に目を移し、最後に自分の皿に視線を落とした。テレビを観ながらカレーを食べて いた男がふいにスプーンを置いて、庭のほうにからだを向け腰を浮かした。 ス 「庭にはやはり池をこしらえたほうがいい。庭の真ん中に池を掘ってですね、錦鯉を飼 フうんです。でね、二階のべランダにライトを吊って、台風の日にライトアップすると、 鯉が跳ねるのが見えて、そりや、けっこうなものですよ」 にしきごい
地面がこころもとなげにゆれはじめ、そのゆれは爪先からすねに、すねから腰にと広が った。妹と店員が背を向けると、私はあたりに視線を投げ、白いワンピースを素早くハ ンガーから外して丸め、あらかじめチャックをあけておいた。ハッグに押し込んだ。黒い ワンピースを身につけて試着室から出てきた妹は、どお、と私の目をのぞきこんだ。 「四時か」私はそこに時計があるかのようにレジの上の壁を見やり、「急がないと間に 合わないよ」とわざとらしい低い声で呟いた。 「明日買いにくるからとっておいてくれます ? 」妹は店員を見てにつこり笑ってから試 着室に人って着換えた。 私たちはそうやって店をはしごしてつぎつぎと服や靴や下着を盗み、最後の店で色と りどりの靴下をたがいのポケットに突っ込んで出口に向かった。外に出た瞬間、「お客 さま」背後から肩をたたかれた。ふり向きもせず駆け出そうとすると「どろぼう ! 」と 叫んで私の髪をにぎりしめ、妹が女の背中に飛び蹴りを食らわせた。どうやら女は客を よそおった警備員らしく倒れながらも私の手から。ハッグを奪い取った。逃げおおせたあ と、バッグに財布と妺の定期券が人っていることに気づいて交番に出頭した。未成年だ ったため、警察官は父に電話した。 すばや
114 じゅこう たイラストレーションのクラスを受講したのがきっかけだ。二度目の授業の帰り、阿川 の家に泊まり、寝た。そしてカルチャーセンターをやめて週に一、二度個人レッスンを 受けるようになった。阿川は、この仕事の向き不向きはなにも描かれていない紙とここ ろを見詰めつづける苦痛に堪えられるかどうかでしかない、そのうちコンテが勝手に動 き出さなきや向いてないってことだな、と私にテーマを与えて部屋を出た。 阿川は私の家族、友人、教師、幼稚園から高校までのできごとをなにもかも知りたが さ った。私の記憶を呼び醒まそうとする以外は伝記作家のように口をはさまず、ただ聞い ていた。二年間で私はすべてを語り尽くし、話すべき過去がなくなってしまったのが理 由だとでもいうように、別れた。別れたあとも逢うたびに、その間の出来事をつつみ隠 さず話した。私にまとわりつく妻のことを話せば、私がどうすべきか、どんなセ一フピス てきかく トよりも的確に教えてくれるだろう。自分デワカッティルダロウ、阿川の撫でるような 声。君ハ男ヲグルットイチジュンシテ最後ニハ僕ノトコロニ帰ッテクル、別れるときの 一一一口葉が私のこころに染みこんだ。 底無しの空白、いつまで経っても真っ白なままの画用紙を破り棄て、もう一度新しい 画用紙を机の上に置いた。やはり妻が杉本の名を出したことが気になっているのだ。日 本企画に渡すポスターのイラストをあとまわしにし、週刊誌の連載を先に描くことにし た た
67 フルハウス ひざ 設定されていた。ボタンを押して設定温度をあげてから湯船に人った。そして膝をかか たいくっ えて湯のなかで白くゆらめいている少女のからだを盗み見た。少女は退屈そうに自分の 指先に目をやっていたが、だんだんと熱くなる湯の表面を右手で撫でるようにして波を 立てた。 すなお 背を向けて湯船の縁に腰かけたので、「背中洗おうか」と訊くと、素直に洗い椅子に きやしやけんこうこっ 座った。私はタオルにせつけんをこすりつけて少女の背中を洗った。華奢な肩甲骨、背 中から腰にかけてのなめらかな曲線。少女はからだをひねり、私と向き合った。少女の 顔はそれ自体かすかな光を放っている。私はその顔から目を逸らし、もう一度タオルに せつけんをつけた。湿気と弾力のある暖かい空気。心臓は激しい動悸をくりかえしてい ・も - も っちふ つまさき る。少女の右脚を腿にのせ、少し黄ばんだ土踏まず、爪先を洗う。脇腹と腰に薄紫色の あざがあるのを見つけ、眠りのなかでしゃべったり笑ったりするひとのように、「どこ にぶつけたんだろ、かおるちゃんはおてんばなんだね」などと愚にもっかないことを口 すね 走りながらそのあざを指先で押してみた。せつけんの泡をつけたてのひらで少女の臑を うぶげ さかだ 軽くさすると、産毛がほんのかすかに逆立つのが感じられる。二の腕、肘、手、首。少 みみたぶ 女の耳朶についたせつけんの泡を指でぬぐい、「髪洗う ? 」と訊くと、少女は首を横に さこっ かんなっ ふった。せつけんの泡は少女の鎖骨のくぼみにたまっている。陥没した柔らかい乳首、 どうき わき