181 もやし る 妻はどしんと椅子に腰を落とし、頭をのけ反らせ、両腕をだらんと垂らした。男と母 親も戻ってきて席に着いた。 「清野さんにはほんとうに悪いと思うけれどぼくとしては離婚する方向で考えます」男 は大きく息を吸った。 妻と母親が同時に怒鳴り出し、あまりに大声だったのでひと言も聞きとれなかった。 母親が息を継いだすきを衝いて、妻は男の顔の中心に向かって直接一一一一口葉を浴びせた。 「広瀬くん、不倫した側からの離婚の申し立てはできないのよ。どっちみちわたしが一 いしやりよう 生絵を描いて暮らせる分の慰謝料をくれない限り判は押さない。目を醒ましなさい。あ なたは棄てられるのよ、このひとに。どうしてわからないの、このひとはあなたのこと なんてこれつぼっちも考えてません、頭にあるのは自分のことだけです」 「慰謝料はできるだけのことをする。ぼくは高樹さんに対して責任をとるのが筋だと思 はえ 「責任なんかいらない」舌がふくれあがり、頭のなかで蠅のうなり声に似た音がしてい 「それは別れるということですね」間髪人れず母親が口をはさんできた。 せりふ あなたのお陰でこの男と別れられて感謝してます、こんな棄て台詞がほとばしりかけ
女は父の顔をのぞきこんで笑った。父はコップを持って立ちあがり、台所から汲んで きた水を一気に飲み干した。 「庭に池を掘るのは縁起が悪いんじゃなかったかな」父の声には哀願しているような響 きがあった。 「こりゃあ驚いた、そんな話は初耳ですよ。庭に池を掘るのが縁起悪いなんて聞いたこ えんりよ とありませんな」男は遠慮がちに笑い出し、頭をふって、「そんなばかな、いや失礼 そのうなんですよ、どういえばいいのかな、そうだ、そうそう、縁起もなにも公園に砂 がりようてんせい 場をつくるようなもんで、それがなければ画竜点睛を欠くってやつですよ、なあ」と少 年の頭をつかんだ。 「さあ、どうなんでしようね、公園に砂場がなければへんでしようけど、でも林さんに は林さんの考えもおありでしようからねえ。それに砂場のない公園だってありますよ」 女は、おやめなさいとばかりに男をにらみつけた。 「砂場のない公園があるかい、どこに、え ? 」男は薄笑いを浮かべた。 「なにをいい出すのやら、このひとは」女は笑いで時間を稼ぎ、ようやく答えを見つけ て、「日比谷公園に砂場がありましたか、それこそ池ならあったような気もしますけど ね」と男のわき腹をつねるようにいった。 いっき えんぎ かせ
「台風がくるんだってよ、テレビでいってた」 ライトアップされた池に何匹もの鯉が跳ねあがる光景が頭に浮かんだ。 ふ 「あたし、夜までには帰らなくっちゃ」妹は鼻の下に噴き出た一連の汗の玉を手の甲で ぬぐった。 「じゃあなんのためにきたの、お父さんと話すためじゃなかったの」 妹はそれには答えず撫でるような視線をよこした。 「お姉ちゃんはずっとここで暮らすつもりなの ? 」 ふち 私は窓を開けた。少女が池の縁に立ち、両手をまだほっそりした臀部にあてがってこ ちらを見あげていた。男は少年の頭を池の水につつこんだりあげたりしていた。ふざけ せつかん ているのか折檻しているのかわからない。 階下におりると妹は縁側に立ち、好奇心に満ちた眼差しを水浴びをしている彼らに向 けた。怒りと好奇心のどちらが強いのだろうと思いながら私はサンダルを履いて縁側に 腰をおろした。暑さにとり囲まれて息をするのもやっとだった。少女は庭の雑草のなか ス にひそむ虫たちの絶えまない鳴き声に耳を澄ましている。水にもぐったのか、濡れてい ル てもなお茶色く見える髪が頬や首にへばりついている。 と、突然少女は立ちあがってくさむらにしやがみ、両手をお椀の形にして草の上にか わん でんぶ
122 はいがん カメラマンの名前は亀田ではない。それに男が肺癌であるはずがない。この女は私を 地 2 うそう からかっているのか、それとも嫉妬による妄想で精神に変調をきたしているのだろうか。 男の仕事場の番号を途中まで押し、電話を切った。妻からの手紙は考えないようにし よう、そして頭のなかの整理箱をひっくりかえしてほかの問題を捜そう、しまいこんだ ぎたい ホスターのイラストはどうしよう、やはり擬態の手法 む配ごとなら山ほどあるはずだ。。、 を使うべきだろうか。なにかひとつほかのだれもやっていない手法を見つけたら、生涯 その手法を使いつづけなければならないと教えてくれたのは阿川だ。たとえばカモフラ ージュ、と深海魚が珊瑚に擬態している絵を描いてみせた。落葉のなかに鹿が二頭いる 図柄をイメージしてみる。やはり、阿川に電話してみようと受話器に手をかけたとき、 ファクシミリの受信ランプが点滅しはじめた。用紙が出てくる。〈 O O & O O 〉の編集部からだ。〈今度は。ハッチシです。近々飲みましよう〉。〈復活 ! プルー ばんしよう めんかばたけ ス〉の特集で、黒人が綿花畑で祈っているミレーの〈晩鐘〉の。ハロディを描いたらポッ になり、しかたなくギターを弾く黒人の腕だけを描いて差し替えた、その返事だ。最近 なっとく 自分が納得できたものと編集部がいいというものの差が大きくなっているような気がす る。気をつけなければ、しかしなにをどう気をつけるのか、一度書き直しを拒否してみ よう、そうすることが先決だ。このイ一フストだってほんとうは、くりぬかれた片目をの しっと
越した直後、母にそそのかされて買ったこの百坪の土地に、「家を建てる」というのが 父のロぐせだった。私と妹は母が家族を棄てて家を出た十六年前からその計画を聞かせ ちせつ られつづけた。そして父が鉛筆で描いた稚拙な設計図は去年の春ごろから現実味を帯び、 それでも建つことはあるまいと高をくくっていた私たちを尻目に、つい一カ月ほど前に じちんさい 完成したのだ。水つぼい憐れむような感情がふいに沸き立ち、地鎮祭でたったひとり首 をたれている父の姿が浮かんだ。 とりよう 扉を閉めると、なにも見えない。暗さのせいというより、目を刺す塗料のせいだ。妹 は鼻腔をふさいでいたハンカチで目を拭いた。私は腰が抜けたように玄関の敷物に座り、 靴のかかとをおや指とひとさし指でつかんだ。靴を脱いで立ちあがろうとしたとき、妹 と私は頭をたがいの頭にしたたかに打ちつけた。廊下のなかほどにいた父はなかなか人 ばら しび ってこない私たちに痺れを切らして、黒地に赤薔薇が浮きあがったスリツ。ハ二組を敷物 の上に並べた。 きかんし 「電気つけて」私は気管支を詰まらせている塗料のにおいに堪えられず、またせき込ん 。こ 0 父は私の一一口葉にはたかれたように顔を背けた。 「ガスは ? 」味が目をこすりながらつつけんどんに訊いた。 びこう あわ ふ そむ しりめ
えられ、手足が布団から出ないよううつぶせになって布団の端を握りしめた。背筋がう こきざ ずく。はずむ息を小刻みに吐き出しながらあおむけになった。眠りのなかに逃げこめる ゆる よう呼吸のリズムを緩やかにしてゆく。目を瞑る。 びどう 息づかいを感じて薄目をあけると、父が私の足もとに立っていた。徴動だにせず私を 見おろしている。しばらくそうしていたが、ふいに枕元にまわりこみ私の両わきをかか えてぐいとひつばりあげ、私の頭を持ちあげて枕にのせた。 つむ そうしてからもじっと見詰めている気配が、目を瞑り息を殺している私を押しつぶし てゆく。あやうく叫び出しそうになったとき、畳をこする音がして部屋から出て行った。 くちびる 妹の唇から洩れる小大のような熱くくさい息が頬にあたる。そのにおいを吸い込むとゆ るゆるとこわばりがほどけていった。玄関の扉が閉まる音。車のエンジンがふるえる音。 父はどこへ行くのだろうという考えが頭のなかで澱んだ瞬間、自分の肉体が感じられな くなった。 はんせいはんすい 白。障子。朝。半醒半睡の状態が、私を眠りに堕ちるまえに引き摺り戻した。私は熟 いちべっ 睡している妺の半ば開いた唇を一暼し、セットしておいた目覚し時計のスイッチを切っ た。立ち去ってゆく車のエンジンの音がもう一度聞こえたような気がして、あたりを見 すい つむ よど お じゅく
妻は私に向かってあごを突き出し、雌鳥そっくりの首すじが浮きあがった。絵の下に 白い紙が貼ってあり、ひとつずつタイトルがついていることに気づいた。男はあらぬ方 角に視線をただよわせている。時間は沈黙のあいだを這いずりながら過ぎてゆく。 「そっちの〈記憶喪失〉は自分の脳に手を突っ込み、記憶をかきむしっているイメージ しようちょう です。赤は血、黄色は太陽、青は海を象徴しています。つぎの絵は〈足長おじさんの 嘘〉、容子が子どものころ、いちばん好きだった物語なんだけど、そんなひとなんてこ の世にいないわ、だから満員電車のサラリーマンの短い足を何本も描いたの。上半身が だんがい 見えないところが構図としてはユニークでしよう。この〈欲望の断崖〉は、髪は脂ぎつ てフケだらけ、煙草くさい息をはあはあさせた男が、かばんを持った手を容子のお尻に 押しつけてるの。そういう感じ、とってもよく出てるでしょ ? 」 男がすっとんきような笑い声をたてた。しだいに笑いは大きくなり、肩をふるわせ、 からだを折り、頭をふって、部屋のすみのピアノでからだを支えながら男は笑った。笑 い茸を食べたらこんなふうになるのかもしれない。無表情でその様子を眺めていた妻は、 し や頭を何度も上下にふったかと思うと、だしぬけに笑い出した。妻の笑い声は部屋中を駆 けめぐり、男の笑い声はしぼんでいった。妻はスキップしはじめ、加速してゆき、信じ 0 られないスピードで円を描いた。手をひろげ、笑い、目だけは男にすえて駆けまわった。 だけ めんどり
「ご主人とは何年になりますかねえ、離婚して」 「もうじき二十年ですね」 「お元気なのかしらねえ」 「さあ : : : 」 母は腰をあげ、台所に行ってャカンを火にかけた。 「コーヒー、紅茶、日本茶、冷たい麦茶もありますけど」 「じゃあお茶いただこうかしら。ゆきとは麦茶をいただかせてもらいましよう。そうそ うゆきとといいます。ちゃんとごあいさつなさい」老女は桃の繊維が人れ歯にはさまっ たのか歯を吸った。 ゆきと、どんな字を書くのか聞きそびれたのは、息子がいきなり正座し深々と頭を下 げたからだ。 「ゆきとです。ごきげんよう」 「あなたのお名前は、なんといいましたかねえ」 や老女は私に視線を向け、そらさない。 「鏡子です」 ほぼひとりで桃を食べ終えたゆきとは、座ったまま椅子を引きずっていき、窓に額を きようこ せんい
ボタンを押す、もしもし、女の声が聞こえる、もしもし、すこし鋭過ぎるいやな声、も しもしもしもし、ロをびったり送話口に押し当てていたが、息ひとっ洩らさなかった。 電話が切れる音。またでたらめに押す、お客さまがおかけになった電話番号は現在使わ れておりません、番号をおたしかめになってもう一度おかけなおしください、テープの 声は耳の痛みのように頭に響く。もう一度阿川の番号を押す。呼出し音、私は電話にし がみつく。心臓からなにかが引き千切れ、こころがふるえおののき、大声で叫びたかっ た。私はてのひらの音にただ耳を澄ましている。電話は切れ、小銭は落ちたが、受話器 は手から離れない。だれもいない、だれがいるのか、私だ。私しかいない。もしもし、 口を衝いて出た、もしもし、もしもし、もしもし ? っ
Ⅷ一睡もしていないのとかぜのせいで目が真っ赤に充血している。 「菊池がきて、わたしがいたらどうだっていうの。わたしにものをいうときは左脳を使 いなさい、右脳じゃなくてよ。それができないのなら、せめて話をレイアウトしてから 口にお出しなさい。わたしは彼女に絵をお見せしてから帰ります」 「絵なんてどこにあるんだ ? 彼女をうちに連れて行くのはやめてよ」男の声はもはや 悲鳴に近かった。 「興奮するのはやめなさい。そこの区民センターの視聴覚室を三時間だけ借りてあるん です。絵を展示してからここにきたんです」 妻は背筋を伸ばして私に向きなおり、女学生のような笑みを浮かべた。 「オフィスのみなさんにアドバイスしていただきたいと思ったんだけど、ここにプロが いらっしやるなんてついてるわ。観てくださるわよね。ただし、わたしはイラストじゃ なくて油絵だけど、でも絵の勉強はなさったんでしようから」 「高樹さんポスターの色校の件はあとでファックスするから、もう帰っていいよ」 男は机の上の。ハッグを私に渡そうとしたが、妻はすばやく飛びついて奪いとり、 グで男の頭を殴りつけた。 「お黙りなさい ! 」