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検索対象: ワールドカップの世紀
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1. ワールドカップの世紀

「好き」なんていう言葉では、言い表せないぐらいなもの、そう、「惚れ込んでいる」よ うなものなのだ。 いったい、なぜサッカーは、あるいはワールドカップは、人々にこれほどあらゆる悪 事を働かせ、人々の憎しみを掻きたてるのだろう。そして、ある程度物の分かっている ファンであるならば、そのことを多少は知っているはずなのに、なぜサッカーのことを あんなに魅力的に思うことができるのだろう。奇麗事ではないということを知れば知る ほど、それを憎む人もいるのだろうが、筆者は逆に「リアリズム」の視点を知ってから、 余計にワールドカップに惹き付けられていったのだ。 「世界最高の試合」の見方 時 覚遠い昔の大会は別として、これまでの最高のワールドカップは、一九七〇年と一九八 六年の、ともにメキシコで開かれた二つの大会だった。なぜかと言えば、一九七〇年の 夢 戦大会では七試合全勝というすばらしい成績を収めた、攻撃的なブラジルチームが優勝し 決たからだ。そこにはカルロス・アルベルト、ジャイルジーニョ、トスタン、ロベルト・ 章リべリーノといった、本来であれば、一人一人が大会のスー。ハースターになりえたよう 第な選手がそろい、さらにその上に「サッカーの神様」ペレが、円熟の境地を見せて君臨 していたからだ。そして、一九八六年大会が面白かったのは、ペレと並ぶワールドカッ

2. ワールドカップの世紀

岡田それにプラスして、目玉になる選手が一人二人必ずいるということ。 後藤今の代表チームはいかがですか。 岡田アジア地域ではトップレベルをこれから数年はキープできるでしよう。 トルシェの練習方法に関してはいろいろ言われていますよね。 後藤 岡田彼が対敵を人れないで練習している ( 攻撃練習のときにをつけないで練習する ) ことについて、どう思われますかと聞かれるんです。ああ、こういうやり方もあるんだ、 対敵を使わずにどこまでいけるんだろうって、いつも見ています。ある意味、彼に実験 してもらってるんです。だから、否定するつもりはありません。逆に、どうなるんだろ うと楽しみです。 僕が思うのは、選手と監督の戦い方というのはマッチしなければいけないということ 」です。例えば、トルシェが指導していた前の世代の代表選手のときは、全然チームが機 能しなかった。今の、シドニー五輪世代の選手中心になって機能してきた。選手のクオ 経リティと監督の戦術がマッチしているんです。選手のレベルに合わせた練習方法、戦術 を でやっていかなくちゃいけない。トルシェはそれをやっています。ただ、やっている事 ドが正しいかどうかなんて、誰にもわからないことであって、その結果は彼が責任をとる ル べきことです。彼に任せればいいんです。サッカーに正解はないんですから。監督は実 験して、その結果に責任を取るだけです。 後藤今のところ、その実験はうまくいってますね。

3. ワールドカップの世紀

らなかった。もっとも、イランも人種的に言えば、ヨーロツ。 ( に近いアーリア系の。 ~ ル シャ人の国だ。初めてのアラブの代表が一九八二年のクウェート ( この大会からは二カ国 出場となったが、もう一つは白人国家のニージーランド ) 、そして北朝鮮以来の東アジアの 代表は一九八六年の韓国まで待たなければならない。東アジアでワールドカップに出た ことがあるのは、韓国 ( 五回 ) と北朝鮮、そして日本だけなのである。 こうして、ヨーロツ。ハ、南米の枠を減らさずに、アジア、アフリカの出場枠を増やす てために、出場国数は十六カ国から二十四カ国、そしてさらに一九九八年大会からは三十 そ二カ国へと増えてきたのだ。 米 ライバルはオリンピック 標 ジョアン・アヴェランジェの—会長就任と時を同じくして、国際オリンピック 委員会 (— 0 0 ) 会長にはスペイン ( カタルーニヤ ) 人のジョアン・アントニ・サマラン のチ、国際アマチュア ( ! ) 陸上競技連盟 (— ) 会長にはイタリア人のフアビオ・ネ ビオロが就任した。世界のスポーツ界で最も権威と権力のある三つの団体にともにラテ 章ン系出身の富豪が就任し、これを機に、世界のスポーツ界は一気に商業主義化の方向に 第傾いていくのである。 そもそも、現在われわれが親しんでいる近代スポーツというもののほとんどは、もと

4. ワールドカップの世紀

一九五八年スウェーデン大会で準々決勝、一九八二年スペイン大会で二次リーグにまで 進んでいる。 その点、強い国のサポーターは大変だ。勝てなかったら満足できない。たとえば、プ ラジル人だったら、プラジルらしい攻撃的なサッカーをして、その上優勝しなければ満 足できないのだ。ちょっとでも試合内容が悪いと監督を批判し、内容はよくても優勝で きないと失望のどん底にたたき込まれる。イタリア人もそうだ。イタリア的美意識に基 づいて、うまく相手をあしらっての完勝でないといけないのだ。頑張って、体力ずくで 勝ってもだめ。負けたりしたら、帰国したチームには腐ったトマトや卵が投げ付けられ る。 そういうサポーターの意識が、チームにも、試合にも反映される。プラジルやイタリ アは、どんなに苦しい状況でも、あるいはどんなに疲れていても、がんばれば勝てそう な時には、勝っために全力を尽くし、粘る。ただし、イタリアも、プラジルもそれぞれ の美意識に従って、従順に敗者としての運命を甘受することがある。そこがドイツ人と の違いだ。ドイツの場合だったら、どんな内容の試合でも、最後まで勝利という結果を 追求する。だが、スコットランドは、サポーターの要求も、勝利よりもスコットランド 民族の祭りなのだから、応援団にも勝利という結果への渇望が感じられず、それがフィ ールドの方にも反映されて、選手もなんとなく粘りがない試合をしてしまい、結局そこ

5. ワールドカップの世紀

肥かれたベルリン・オリンピックの時のメインスタジアムは一九七四年当時でもドイツで 最大のスタジアムだったが、このスタジアムは西ベルリン側にあったのだ ( 二〇〇六年 のドイツ大会でも、このスタジアムがメイン会場として使われるらしい ) 。もちろん、東側は西 ベルリンでワールドカップの試合を行うことに反対していた。アメリカのリチャード・ ニクソン大統領とドイツ生まれで熱狂的なサッカーファンでもあるヘンリー・キッシン ジャー国務長官の手で、ソ連との緊張緩和「デタント」が進んでいたとはいえ、まだま だ、冷戦時代だった。 サッカーの神様の悪戯好きは、どうやらフィールドの中だけのことではなかったらし い。問題の西ベルリンは、一次リーグ第一組の会場とされており、この組に西ドイッチ ームが人り、西のチームが西ベルリンで試合をすることは最初から決まっていた。政治 的な象徴の意味が込められていたのだ。だが、まさかその第一組に、西ベルリンでの開 催に反対していた当の東ドイツが人ってくるなどとは、誰も子想していなかった。組分 け抽選の結果、第一組で西ドイツと対戦するのは、東ドイツ、チリ、オーストラリアと なったのだ。そして、東ドイツは第二戦、チリとの試合を問題の西ベルリンで戦うこと になった。 東ドイツは、一九七〇年代に人るとオリンピックなどで驚異的な強さを見せて、スポ ーツ大国として知られるようになっていた。陸上競技、水泳、バレーポールなどが有名

6. ワールドカップの世紀

310 岡田とにかくもう、みんなが。ハニックでした。関係者だけでなく、会場掃除の人まで も ( 笑 ) 。加茂 ( 周 ) 監督がクビになるなら、彼と一緒にやってきた僕もクビになるのは 当たり前だと思っていましたから。それが、ウズベキスタンに行くのに監督がいないか ら、監督をやってくれと ( 日本サッカー協会から ) 頼まれまして。加茂さんに対する思い と、チームに対する思いの間で、非常に複雑な気持ちでしたが、アシスタント・コーチ としての責任をとるつもりで、一試合だけやるつもりでした。 後藤監督になって、タシケントでのウズベキスタン戦で 1 1 で引分けました。 岡田非常に苦しくなりましたね。ただ、あの試合では、人ったシュートをオフサイド 何でだろう にとられたり、逆にポーンと蹴ったポールがゴールに転がり込んだり : と。これはひょっとしたらひょっとするぞ、という、非論理的な漠然としたフィーリン グはありました。あの試合のあと、泣いている選手もいましたけど、ロッカールームで 「おい、これ、ひょっとしたらひょっとするぞ」とみんなに言ったのを覚えています。 後藤記者会見でもそうおっしゃいました。でも、東京に帰ってきて、 < 戦でも勝 てなかった。あの頃はどうでしたか。 岡田カザフスタンの試合のあとから、マスコミはすでに「 ( ワールドカップ出場は ) 絶 望」と書き立てていましてね。ウズベキスタンに引分けたけど、選手の練習や試合への 必死の取り組みを見たのと、あの状況で他の人にチームを渡せないという気持ちから、 監督を続けることに決めました。で、監督になって二試合続けて引分けて、もう、開き

7. ワールドカップの世紀

準決勝はイタリアにとって、一回だけロ 1 マを離れ、ナポリでの試合となる。イタリ ミラノ、トリノ、ナポリの四カ所にあっ・て、 アには、八万人以上人る競技場がローマ、 開幕戦と二つの準決勝、そして決勝をこの四つのスタジアムで一試合ずつ行う日程にな っていた。開幕がミラノ、決勝がローマ。そして、準決勝がトリノとナポリだった。そ のため、準々決勝までずっとミラノで試合をしていた西ドイツがトリノで、準々決勝ま でローマで戦ってきたイタリアがナポリに回ることになったのだ。ところが、そのナポ リでイタリアを待ち受けていたのは、 O ナポリ所属のディエゴ・マラドーナが率い るアルゼンチンだった。 ム このアルゼンチン戦で、ヴィチーニ監督はまったく不可解な選手起用をした。「負傷」 のが癒えたヴィアツリを、あの。へナルティをはずしたアメリカ戦以来の先発で起用し、 偶ッジョをベンチに下げてしまったのだ。スキラッチ、ヴィアツリのツートップである。 まもちろん、ヴィアツリは開幕前の構想ではレギュラーだったはずだが、いったいなぜう まく機能しているバッジョースキラッチのコンビを切り離してしまわなければいけない 造 の のだろう。それでも、わずか分でいつものようにスキラッチが飛び込んで 1 点を先制 神 章したのだが、イタリアはこの 1 点の守りに人ってしまう。これまでの五試合を無失点で 第乗り切ってきたのだから、守備には自信があったのだろうが、これで攻めるしかなくな ったアルゼンチンの方は、この大会で唯一、攻勢をとることになった。

8. ワールドカップの世紀

リカでは、選手人場のトンネルには日本の招致委員会のロゴが人っていたが、フィール ド横の広告看板を見ると、韓国系企業の広告が多く、しかもその韓国企業の広告看板す べてに「 2 0 0 2 0 」のロゴが人っているのだ。しかも、韓国はアジア諸国の 支持も受けている。 一九九五年九月には、日韓両国がに対して、提案書を提出。提案書の内容で 日本の方がはるかに豊富であることは、韓国側関係者までもが認めている。マルチメデ てイア・サー ーやらヴァーチャル・スタジアムまで、いかにもハイテク国家日本らしい そ内容で、二十一世紀最初のワールドカップにふさわしい内容だった。一方、韓国の誘致 米 活動は、いかにも政治的なものだ。韓国の提案書の内容を見れば、それがいかに政治的 なものであったかということが窺い知れる。 それは、韓国がワールドカップの収益金のうち、本来開催国の取り分となるべきもの を、—および各大陸連盟に寄付するというものだった。日本が、ヴァーチャル・ のスタジアムの収益で、—管理の基金を作るという提案を盛り込んだのを見て、急 遽韓国側が盛り込んだ提案だという説もあるが、じつはこの韓国提案こそ、韓国のポイ 章ントだったのだ。ヨーロツ。ハ諸国が— << のアヴェランジェ体制に批判的なことはす 第でに述べた通りだ。アメリカ・ワールドカップでオフサイド・ルールの解釈を変更した り、キ ーに対するバック。ハスを禁止したり、最近—がイニシアテイプをとっ

9. ワールドカップの世紀

州側にある ) のジャイアンツ・スタジアムは、 ハドソン河を渡ったニュージャ 1 ジー 際には、 スタジアム自身がワールドカップ開催に積極的とは言い難く、改修工事に応じようとし なかったし、構造的にも改修は難しかった。もちろん、ここを使わなくても、開催を希 望しているスタジアムの数は十分すぎるほどあったのだが、ニューヨークで試合が行わ れなくては、アメリカの一般国民にサッカーを認知させることは難しくなる。— ア としては、イメージアップのためにも、どうしてもニューヨークで試合を行いたかった。 て観客席の最前列をつぶして、本来のフィールドより数メートル上のレベルにプラットフ そオームを組み立て、そこに芝生を貼るなど、いろいろの提案はあったが、結局 g-k — 酥は横幅の狭いまま、ジャイアンツ・スタジアムで試合をすることを認めた。やはり、 標—にとっては、競技規則よりもアメリカにおけるサッカーのプロモーションが最 優先だったのだ。 描そして、まさかイタリア大会でアメリカがイタリアのグループに人ったことの恩返し のでもないだろうが、イタリアがニューヨークで試合をすることになった。ニューヨーク は、世界中でローマの次にイタリア人が多い町と言われるように、イタリア系移民の多 章いところだ。また、「抽選」の結果、イタリアのグループにはアイルランドも人ってお 第り、ジャイアンツ・スタジアムで二試合行うことになった。ニューヨークは、ポストン に次いでアイルランド系移民の多い町だ。イタリアとアイルランドがそろい、ヒス。ハニ

10. ワールドカップの世紀

六年大会からは、ベスト以降は決勝トーナメントということになったが、こんどは一 次リーグで二十四チーム中十六チームを選ぶため、グループ三位になった六チームのう ち成績のいい四チームが決勝トーナメントに進むということになり、複雑な勝点と得失 点差の計算が必要になってしまったのだ。そして、三位でも上に進めることになるので、 ますます勝点を計算した守備的な試合が多くなってしまった。 そもそも、参加国数が増えたのは、アヴェランジェ会長の公約が発端だった。ジョア てン・アヴェ一フンジェは、一九七四年の西ドイツ大会の直前にフランクフルトで開かれた そ— < 総会でイングランドのサー・スタンリー・ラウス前会長を投票で破って 米 — << の会長に就任した。アヴェランジェは、ベルギー系プラジル人の大富豪で、か っては水泳、水球の選手としてオリンピックにも出場したことがあり、バス会社、保険 会社などを経営し、政界でも力を持っていた人物だ。政界に進んでいたら大統領になる 略 彊ことも可能だったとも言われているが、アヴェランジェはスポーツビジネスへの進出を の選び、プラジル・スポーツ連盟 (0 、現 0 Ⅱサッカー連盟 ) の会長も務め、そし て— < 会長に就任した。 章そのアヴェランジェが—会長選挙に出馬した時の公約が、第三世界でのサッカ 第ー振興だった。一九〇四年の創立以来、それまでのの六人の会長はすべてヨー ロツ。ハ人だった。歴史的にみれば当然のことだが、— << の運営はヨーロツ。ハ主導で