マラドーナの、まったく予測不可能な動きには、驚かされることが往々にしてある。 一九八六年ワールドカップでのイタリア戦では、。ハスのコースから突然離れて、逆サイ ドのス。ヘースに走り込んでフリーになってみせた。一九九〇年ワールドカップの準決勝 では、左のオラルティコエチェアに。ハスを出してから、なにげない動作でイタリア守備 陣に向かってゆっくり歩いていった。そうすることによって、絶えずマラドーナの位置 に気を配っていたバレージの動きを一瞬止めて、カニージャが同点ゴールを決めるのを ノレージとマラドーナは、互いに二、三十メートル離れていても、絶えず 助けたのだ。ヾ ハレージもそれに合わせて お互いを意識し、マラドーナが位置を一メートル変えると、 ポジションを修正し、まるで数十メートルも離れたままマークしあっているように動い 時 ていたのだが、この時のマラドーナは、左に。ハスを出した後、ゆっくりとペナルティエ ハレージはこのマラドーナの 覚リア内にいるバレージの方向に近づいていった。すると、 ら か動きに幻惑されて、ポールが左 C ( レージ側から見て右 ) に展開し、そこからクロスが人 り、カニージャが飛び込んでヘッドで同点ゴールを決める間、ほとんどプレーに参加で 決きなくなってしまったのだ。 章こういう、マラドーナの何手も先を読んだ動き ( それによって、相手の選手の動きを規制 第してしまう ) を見ていると、マラドーナの頭の中にある画面に映っているのは、現在の 敵、味方の状況を上空から映し出したものであると同時に、マラドーナはその画面を、
たのだ。 マラドーナ再三の「お騒がせ」 それにしても、アルゼンチンとマラドーナは、「お騒がせ」が好きだ。じつは、四年 前のイタリア大会の決勝トーナメントでも、アルゼンチンはプラジルといきなり当たっ て、そのブラジルを、たった一回のカウンター攻撃で沈めてしまうという「事件」を起 戦こしていたのだ。 一九八六年大会で圧倒的な強さを見せて優勝を飾っていたアルゼンチンのカルロス・ ビラルド監督は、四年後もほとんど同じようなマラドーナを中心としたチームで、イタ 一リアに乗り込んできた。だが、選手の多くは負傷を抱えており、とくにマラドーナが合 宿に合流した時には、彼は両足首やヒザの故障などで、満足に歩くこともできないよう すな状態だった。イタリアリーグで、 O ナポリを優勝に導く、長く厳しいシーズンが 激終わったばかりでは、やむを得なかった。 豪アルゼンチンは、前回優勝国として開幕戦でカメルーンと対戦し、マラドーナにスク 章デット ( イタリア一部リーグ「セリエ」の優勝盾 ) を奪われたばかりのミラノの観衆の強 第烈なプーイングを浴びながら、カメルーンに敗れ去ってしまう。 アルゼンチンは、第二戦でマラドーナの本拠地ナポリに戻り、ソ連と対戦した。ソ連
になるのは第二次世界大戦後になるのだが、二十世紀も末の一九八六年になると、選手 の発一言力はテレビの持っ資本のカの前には、まったく無力だった。 だが、この巨大なカ ( テレビⅡメキシコのサッカー連盟の実力者、ギジェルモ・カニエード は、中南米を支配する一大テレビネットワーク「テレビサ」のポスであり、また—の会長、 世界サッカー界のドン、ジョアン・アヴェ一フンジェの腹心でもあった ) に立ち向かう勇気ある 男が現れたのである。それが、アルゼンチンのディエゴ・マラドーナだった。マラドー ナは、ス。ヘインでずっと活躍し、インテリとして知られているフォワードのホルへ ルダーノ ( フィールド上では、マラドーナの忠実な副官 ) と組んで、正午キックオフという —の決定に歯向かおうとしていた。マラドーナは、大会開幕直前に、わざわざイ タリアチームが合宿しているホテルを訪れ、この問題について、イタリアの主力選手と 語り合っている。 しかし、もちろん、。ハルダーノとマラドーナの抵抗が実を結ぶわけもなく、後に残っ たのはアヴェランジェとマラドーナという、世界のサッカーの超実力者同士の確執だけ だった。その後、十年にもわたって、アヴェランジェとマラドーナの対立が世界のサッ カーに暗雲を投げかけ続けることになるのである。 気候風土の問題による疲労の蓄積を避けるためには、いかに省力化して、つまり手抜 きして一次リーグを乗り切るかが勝負となるし、また、大会中の移動をいかに避けるか
朧リアの手から奪い取ったというので、イタリア全土、とくに北部ではマラドーナは激し い憎しみの対象となってしまい、結局、麻薬疑惑でイタリアを追放されることとなった。 その、因縁の対決が、遠く大西洋を渡ったポストンで再現されようとしているのだ。 早く見たいという期待感が人り交じる。 だが、ストーリーはもっと複雑に展開した。 翌日には、組の三位はベルギーと決まった。つまり、アルゼンチン対プルガリアの 試合の結果は、組の当事国だけでなく、ロシアにとっても、ベルギーにとっても、イ タリアにとっても、重要な意味を持っことになったのだ。もっとも、この時点では、ま さかルーマニアにとっても意味があろうとは、思ってもいなかったのではあるが : ところが、アルゼンチンの最終戦の前日になって、ナイジェリア戦後のドーピング検 査の結果、マラドーナの尿から禁止薬物が検出されていたことが明らかになった。本人 は疑惑を否定したものの、アルゼンチン・サッカー協会はマラドーナにチームを離れる ことを命じた。 アメリカ・ワールドカップの一次リーグ最終日の夜。それも、組の二試合の、後半 もロスタイムに人ったところで、次々とどんでん返しが起こった。マラドーナを欠いた アルゼンチンは、ダラスでの試合で、プルガリアに苦戦していた。次世代の中盤の指揮 「それにしても、一回戦でアルゼンチン対イタリアとはもったいない」という気持ちと、
だろうか マラドーナの。フレーを見ていると不思議に思うことがある。われわれがスタンドの上 から見ている時には、敵、味方の配置がよく分かるから、右へ出せ、左へ出せと叫ぶこ とができる。だが、選手の視点は、フィールドの芝生の上、約一・五メートルの所にあ る。おまけに、高速で走りながら、そして相手の強烈なファウルに絶えず見舞われ続け ているのだ。そうした中で、逆サイドの敵、味方の位置を瞬時に読み取って、。ハスを送 らなければならない。 どうしてあんな位置の味方の走り込みを予想したのか、どうして相手のディフェンダ ーの動きまで手に取るように分かっているのだろうか。マラドーナの。ハスの多彩さを見 時 ていると、まるで彼の頭の中には別の画面があって、そこには目で見たままの状態では 覚なくて、上空から見た敵、味方の動きが映っているのではないかと思わせる。彼は、ま - るで、われわれがスタンドから見ているような角度でゲームを見ているのだ。もちろん、 戦マラドーナは偵察衛星を実際に持っているわけではない。彼の、たぐいまれな空間把握 決能力が、そうさせるのだろう。 嶂そうした空間把握能力は、もちろんマラドーナのような中盤での。ハス構成だけでなく、 第サッカーのプレーのすべてにわたって必要になってくる。 たとえば、一九七四年大会の西ドイツのゴールゲッター、ゲルハルト・ミュラーの
さて、メキシコでアヴェランジェとの対立の種を蒔いてしまったマラドーナだが、こ 戦のメキシコ・ワールドカップは、マラドーナによる、マラドーナのための大会だった。 、バルダーノとのすばらしい着想によるワンツーからのゴール。イング イタリア戦での ジャンⅡマリー ランド戦での「神の手」ゴールと , ハ人抜きのゴール。名キー。ハー 一フの体勢を、フェイント一発で崩してしまったベルギー戦の二ゴール、決勝でのホル 勝へ・プルチャガへの決勝ゴールの。ハス。アルゼンチンの優勝は、まさにマラドーナの独 す創的なアイディアと個人技が生んだものだった。だが、同時にアルゼンチンが最も移動 の少ないチームだったことが優勝の原因の一つであるのも間違いない。 豪アルゼンチンは、一次リーグは、メキシコシティおよび、そこから。ハスで三時間ほど 章のプエプラ市で戦った。そして、決勝トーナメントに人ると、一回戦はプエプラでウル 第グアイと当たり、準々決勝 ( 対イングランド ) 以後は、ずっとメキシコシティのアステカ・ スタジアムで戦った。 も問題になる。 大会中の移動は、しかし、組分け抽選の段階で、かなりの部分が決まってしまう。要 するに、これもまた運・不運の問題になってしまうのである。 「移動の悪夢」につぶされた強豪
うな人物が、一般社会に比べてはるかに多い。 アマチュア的な、レクリエーションのレベルの競技ならば、スポーツの試合に参加す ることは楽しみであり、また健康のためにもなるだろう。だが、今日の競技スポーツと もなれば、そこに参加することは、楽しいことであるのと同程度に苦しみであり、競技 スポーツは多くの場合、選手の健康をむしばむ。要するに、選手たちにとって、競技ス ポーツに専念することは、多くの犠牲を伴うものである。とすれば、選手たちが物質的、 あるいは精神的な報酬 ( 金と名声 ) を要求するのも当然のことである。選手は、金のた め、名誉のため、相手を打ち負かす快感のため、あるいは自己顕示欲のために戦うのだ。 スポーツは純真で、純粋で、さわやかだ。 そんなありきたりの神話を信じなけれ ばスポーツを面白いと思えないのは、それはスポーツの本当の面白さをまだ分かってい ないからに違いない。スポーツの面白さが分かっているなら、スポーツが純粋だなどと いう虚構を維持しないでもスポーツを楽しめるはずだ。一般社会と同じだ。きれいな者 もいれば、汚い者もいる。競技者としての優秀さと、倫理性はまったく別のことなのだ。 麻薬をやっていたディエゴ・マラドーナは、社会人としては欠格者であるのは間違いな い。だが、麻薬中毒であろうと、なかろうと、彼がサッカーというスポーツの百数十年 の歴史の中で最高のプレーヤーの一人であることに変わりはないのだ。マラドーナとい う個人の人生なんて知っていても面白くもないが、マラドーナの繰り出す一本の。ハスの
て優勝を遂げたが、この時も、軍事政権のイメージや。ヘルー戦の八百長疑惑があって、 アルゼンチンのイメージは必ずしも、好転してはいなかった。 そのアルゼンチンが、イタリア大会でも、マラドーナの二回目の「神の手」でソ連を 破って、なんとか生き残りに成功すると、守りを固めて、戦に強いキー。ハーのセル ヒオ・ゴイコチェアを活用して、決勝トーナメントを勝ち進んできたのだ。なにしろ、 アルゼンチンの監督は、あのヨーロツ。ハでは評判の悪かった一九六〇年代のエストウデ ーフというポジション ィアンテス・デ・ラブラタの中心選手、それもディフェンシブハ でダーティーワークを担当していたカルロス・ビラルドなのだ。このチームはラブラタ 大学のチームで ( 「エストウディアンテス」とは、スペイン語で「学生」の意 ) 、ビラルド自身 【も当時は医学部の学生で、現在は産婦人科の医者である。ビラルド自身は、コロンビア ア 代表監督を務めて、後のコロンビアの躍進のきっかけを作った優秀なコーチでもあり、 ル 魔非常にまじめな人物であるが、当時のエストウディアンテスの監督で守備的サッカーの 信奉者であるオズバルド・スペルディアの理論を受け継いでおり、やはり守備的なサッ カーをする。一九八六年大会でも基本的には相手の良さを殺す、守備的なチームだった 章のだが、ディエゴ・マラドーナの出来がすばらしかったので、守備的という印象は薄か 第った。しかし、マラドーナが負傷して動けない状態だったイタリア大会では、守って、 戦に持ち込むしか勝ち進む方法はなかったのだ。
走り始める。カニージャにもディフェンダーが一人っいていたのだが、カニージャにつ いて走るうちに、マラドーナについて後退してきた三人のディフェンダーと重なってし まい、しかもマラドーナの動きにつられて、四人のディフェンダーが一カ所に集中して しまった。ディフェンダーが何人いても、こういうふうに一カ所に集められてしまうと、 ディフェンスは無力化されてしまう。カニージャがフリーになって中央に走る。そして、 ジャ マラドーナはプラジルのディフェンダーの股の間を通して、決定的な。ハスをカニ 戦に通す。カニージャは、まったくフリーで抜け出し、キー。ハーのタファレルもかわして、 プラジル・ゴールにポールを流し込んだ。 もし、アルゼンチンがもっと早い時間帯に 1 点リードしていたら、プラジルにも反撃 一の余裕があったろうが、残り川分となってからの失点は致命的だった。アルゼンチンに 勝 とってみれば、狙い通りの時間にカウンターを成功させた、まさにこれしかないという 勝ち方だった。 突 激 もうひとつの「宿命の対決」 豪 強 章そのわずか二時間後、今度はトリノのすぐ隣のミラノのスタディオ・ジュゼッペ・メ 第アツツアで、ヨーロツ。ハの宿敵同士の西ドイツとオランダが対決した。プラジル対アル 南米両大陸の宿敵同士の試合が、 ゼンチン、西ドイツ対オランダという、ヨーロツ。ハ、
マラドーナ自身は、べつにそのようなことを意識しているわけでは、絶対にない。単 にその場で、いわば本能に従ってプレーを選択しているにすぎないのだ。ただ、彼の持 っているイメージの能力がケタ違いに優れているために、それはわれわれが周到に何手 も先まで考えた末に選択するであろう結論に、瞬時のうちに到達することができる ( し かも、ポールを操ってその結論を実行する ) ということなのだろう。 われわれの頭の中にも、非常に稚拙なものながら、ある場面で、。ハスを左に振るか、 右に振るかで、その後の展開がどう変化するのか、なんらかのイメージは持っている。 ただ、われわれの考えるイメージは、甚だ貧弱で、精度の面でも、マラドーナの持って いるイメージには遠く及ばないものだ。しかし、われわれも、そういうイメージを持っ 時 ている以上、その持っているイメージに合致したプレーが実際のフィールド上で展開さ 覚れれば、それを心地好く感じるのであろう。 さあ、本書もこれで終わりだ。決勝が終われば、われわれの心は、すでにもう次のワ 夢 ールドカップの予選に飛んでいるのである。また、振り出しに戻って第一章から、すべ 戦 決てが繰り返される。次の決勝の日まで。 章 第