254 におけるプラジルの成功からだった ( 一九六〇年代ころまでは、ワールドカップが世界のサ ッカーの戦術に与える影響は非常に大きかった ) 。だが、一九六〇年代に人ると、中盤を厚 くするために 4 ー 3 ー 3 が主流となり、さらに一九七〇年代には 4 ー 4 ー 2 のフォーメ ションが流行していた。 4 ー 3 ー 3 だと、相手方の三人のに対して三人のが マークに付き、残りの一人がスイー。ハ ( リべロ ) となることで、攻守の・ハランスは均 衡していたが、双方が 4 ー 4 ー 2 ということになると、ディフェンダーが二人余ってし まうことになった。これでは。ハ一フンスが悪い。相手のフォワードが二人しかいないのな らば、ディフェンダーを四人配する必要はないではないかという考えから生まれたのが、 3 ー 5 ー 2 なのである。 3 ー 5 ー 2 での攻撃のポイントとなるのが、ウイングパックの攻撃参加である。これ がうまくいけば、あるいは両軍で十人の選手がひしめく中盤から前方のスペースにうま くボールを持ち出すことさえできれば、 3 , ー 5 ー 2 は攻撃的なシステムと言うことがで きるのだ。だが、逆に、こういったことがうまくできなければ、人数を増やした中盤で の潰し合いが延々と続くだけの、守備的なシステムということになる。相手の二人のス トライカーを二人のストツ。、 ノーがマンマークし、一人がリべロとなり、また中盤にも五 人の選手を配置することで、 3 ー 5 ー 2 は守備が強化されたシステムでもあるのだ。っ まり、 3 ー 5 ー 2 は攻撃的にも守備的にも使える両刃の剣のようなシステムなのである。
ら、サポーターはじつに陽気で、楽しそうなのだ。イングランドといえばフーリガンが 有名で、チームが負けたと言っては、あるいは勝ったと言っては、いつも騒ぎを起こし て、スタジアムの設備を壊したり、路上の自動車を焼き討ちしたりといった愚行、蛮行 を繰り返す。スコットランド人も、例のスカートのようなキルトと呼ばれる民族衣装を いれすみ 身に纏い、あるいは上半身裸で刺青をあらわにした大男たちが数千人単位の団体で押し 掛けてくる。スコットランドの試合当日の中央駅は、いつも大騒ぎだ。そして、ご自慢 のスコッチウイスキーを浴びるほど飲んで、大声を上げて観戦している。いかにも、ひ と騒動起こりそうな騒然とした雰囲気になる。だが、スコットランド人は、試合に勝っ た時はもちろん、負けた時でも、これもお国自慢のバグ。ハイプに合わせて、大合唱しな がら、じつに陽気に引き上げていくのだ。 スコットランド人というのは、寒く貧しい土地に見切りをつけて、移民として世界中 に散らばっていった人たちも多いが、じつに結束が固い民族だ。世界のあちこちで、そ の地に住むスコットランド人たちが自分たちだけの運動会を開いては、「棒投げ」のよ うな昔ながらの競技を楽しんでいる。北アメリカに渡ったスコットランド人がやってい た、そうした素朴な競技のいくつかは、アメリカの陸上競技ひいては現在の陸上競技の 種目にかなりの影響を与えているらしい。そういった、世界中のスコットランド人が一 堂に会し、民族の団結心を新たにし、また世界中の人たちに、スコットランド民族の存
238 かりのルンメニゲが決めて 1 点差。ピエールというフランス人のような名と、リトバル スキーというポーランド系の姓を持ったこのドイツ人は、他のドイツの選手とは、ちょ っと変わったポール扱いをする。名前の通り、フランス的なテクニックと、東欧的な。ハ スのセンスを持っている。西ドイツは、延長後半に人ってすぐ、ホルスト・フルべッシ ュの折り返しをクラウス・フィッシャーがオー ヘッドシュートを決めて、なんと同 点に追い付いたのだ。 ワールドカップ史上初の戦では、西ドイツの三人目、ウリ・シュティーリケ主将 がキー。ハーのエトリにストップされてドラマの幕を開けた。フィールドの上に泣き崩れ たシュティーリケの姿は、この戦という勝負の苛酷さを世界中にアピールした。そ の後、フランスのディディエ・シクスがはずし、戦も五人が終わったところで 4 ー 4 の同点。サドンデス段階に突人したフランスの六人目、マキシム・ポシスがはずし、 フランスは、準決勝で敗退となった。 この西ドイツ対フランスの試合は、一九七〇年メキシコ大会の同じく準決勝、西ドイ ッ対イタリアと並ぶ、ワールドカップの歴史に残る延長戦の死闘だった。ところが残念 ながら、フランス・ワールドカップからは、ゴールデンゴール方式の延長戦が採用され てしまったから、これからはこういう延長の死闘が見られなくなってしまうのだ。 分間は無得点でつまらなかった試合が、延長に人ったとたんに点の取り合いになる
253 第 9 章 PK 戦悪魔のルシアン・ルーレット ワールドカップの PK 戦 1982 年大会 準決勝西ドイツ 1986 年大会 準々決勝フランス 西ドイツ ベルギ PK : 5 ー 4 3 ー 3 フランス CO イ 1 4 ・ ルコン ジシイ 一フキ。へ プメス 1 ・ 0- 1 人 1 人 0 一 1 人 ア 、ビ アラン ニスアラ マゴリグ ルュ , イ , 「 0 ・ 0 一 1 人 1 人 0- 0 1 人イ 1 ドンン ンチチ ランンツ ルゼゼイ アアア西 大勝 年戦決勝 回々決 四一準準 っ 0 CO ワ 3 ン ラアダ グリン ンタラ イイオ ワ】 0- 1 人 71 っ朝 0- 11 っ朝 0 一 ワ〕 0- 11 ン ン チ ンスル ガエジ ルラ一フ ルウラ プスプ アフプ 大勝 大勝 年戦決勝年戦決勝 回々決 回々 一準準 一準決 1 -4 “ワ】 CO 一 0 CO ア キ一タ ノ
一九七〇年大会の準決勝で、やはりイタリアに 0 ー 1 でリードされていたのを、 後半のロスタイムに追いついて延長に持ち込み、華々しい点の取り合いを繰り広げて、 3 ー 4 で敗れたり。さらに、一九八二年スペイン大会の準決勝では、延長に人ってから 1 ー 3 となってから粘って追いついて、戦を制して決 フ一フンスに 2 占 ~ を取られて、 ドイツの勝負強さのエピソードは枚挙のいとまもない。 勝に進出したり : 一方、オランダ人にとっては「いいサッカー」をすることが大事なのだ。ドイツ人に 戦とっては「いいサッカー」とは勝っことだが、オランダ人にとってはきれいな。ハスのつ 1 ながる試合だ。そういうゲームなら負けてもいい。もちろん、オ一フンダ人だって勝ちた いとは思っているのだが、しかし、「どうしても勝ちたい」とは思っていない。たとえ 一ば、親善試合や三位決定戦などでは、オ一フンダ人はさほど勝利への執着は見せない。そ 勝して、勝ちにこだわりつづけるドイツ人のことを半ばは呆れ、半ばは馬鹿にしているの すである。 そして、オランダのアヤックス・アムステルダムが一九七一年から一九七三年までヨ 豪 ーロツ。ハ・チャンピオンズカップ ( 現・チャンピオンズリーグ ) で三連覇すると、一九七 強 ・ミュンヒエンが三連覇を達成。当時は、アヤックス 章四年からは西ドイツのバイエルン ・カップの黄金カードだった。ナショナルチーム同士では、 第対パイエルンが、ヨーロツ。ハ そのバイエルンの時代が始まったばかりの一九七四年西ドイツ大会で、オランダが決勝
かやっていたのが懐かしい。現在の事務局長でプラッターと同じスイス人のゼン・ルフ ィネンは、ちょっとまじめ過ぎて面白さに欠ける。やはり、抽選会はプラッターのはま り役だったようである。 もっとも、この組分け「抽選」は完全にオープンな抽選でなく、まず事前に過去の実 第四シ 第一二シード、 績を勘案してシード国を決め、以下チームカの順に、第二シード、 ードと、参加国を実力的に四つの段階のグループに分けて行われる。実際の抽選会では、 国名が記人された紙片の人った小さなプラスチックのポールが、それぞれのシード別に、 一四つのガラスのボウルの中に人れられ、ゲストが出てきて、そのボウルの中から国名の ツ人ったプラスチックポールを一つずつ選ぶことで、一次リーグの組分けを決めていく。 その結果、各グループには、第一シードから第四シードまで、四つのシードグループか はら一カ国ずつ人った、すなわちチームの力に偏りのない四チームずつの組が出来上がり、 に 罠一九九四年大会までなら六組、フランス大会からは八組のグループに分かれるのだ。二 〇〇二年大会の組分けもこうして行われる。 次 ただし、その抽選を行う際に、一次リーグの間は南米同士とかアジア同士が顔を合わ せないように、つまりヨーロツ。ハ大陸以外の大陸からのチームが、同一の組に人らない 章 羶ように考慮されるから、抽選の進行は、かなり複雑になってしまう。それで、 が抽選を操作しているのではないか ( つまり、あの抽選はインチキではないか ) と、いつも
在をアピールする場。彼らは、ワールドカップをそんなふうに捉えているようなのであ る。勝っことよりも、世界中に散らばったスコットランド人が集まること自体に、より 大きな意味があるのだ。だから、勝っても負けても、試合の結果はさほど重要なことで はない。スコットランド人は、お互いの親睦を深め、また世界にスコット一フンド人の気 概を示すことができるだけで、十分に幸せなのだ。しかも、もともと優勝を狙えるほど の実力はもっていないから、気楽なものである。これが、スコットランドの応援の楽し さの秘密である。 これは、アイルランド人の応援団 ( アイルランド共和国も北アイルランドも共通して ) の 陽気さとも通じるところがある。スコットランドとアイルランドは、大昔から交流が多 時く、たとえばスコットランドという国の名前も、元々現在のアイル一フンドに住んでいて、 覚その後プリテン島北部つまり現在のスコットランドの地に移住してきた「スコット人」 が語源になっているほどだ。アイルランド人も、やはり貧しい本国から世界中に移住し 者 ていった。文化も、境遇も似ている。応援が似てくるのも当然なのかもしれない。もっ 戦とも、スコットランドは五回連続で一次リーグ敗退という憂き目にあっているのに対し、 アイルランド共和国は初めてのワールドカップ出場となった一九九〇年イタリア大会で、 章 いくら四引き分けで得点がたったの 2 点とはいえ、いきなり準々決勝に進出してしまっ ゴアイルランドも、 たのだから、勝負強さではアイル一フンドの方が上のようだが :
は作為はない。イタリアは単に運がよかっただけなのだと信じてもよいのではないだろ これまでのワールドカップを振り返ってみると、大会二日目か三日目に緒戦を迎える 組に人っていたチームが優勝することが多い。一九九〇年の西ドイツは組だったが緒 戦は大会三日目、一九九四年大会のプラジルは組で、組の最初の試合はやはり三日 目 ( プラジル自身の緒戦は大会四日目だったが ) 。一九九八年のフランスは o 組だが、これ も大会一二日目が緒戦という日程だった。つまり、たとえば ch 組とか組に人って、大会 開幕後何日も経ってから緒戦という日程だと、一次リーグの最終戦から決勝トーナメン 一回戦、準々決勝あたりで日程がきつく、中二日で試合といったことが起きてしまう からである。 一九九八年フ一フンス・ワールドカップで日本と同じ組に人っていたアルゼンチンは、 一次リーグの最終日にクロアチアと対戦 ( さいわい、この時は双方とも二勝した後で消化試 合だったのだが、アルゼンチンの。ハサレラ監督はそれほどメン・ハーを落とさずに戦った ) 、決勝 トーナメントに人ると、中一二日でイングランドと対戦した。イングランドと延長戦を戦 ったアルゼンチンは、再び中一二日の準々決勝でオランダと対戦し、ここで敗れてしまう ( ここで勝っていたら、中二日でプラジルとの準決勝を迎えることになっていた ) 。大会の早めに 緒戦があるグループに人っていた国の方が、決勝トーナメントに人ってからの日程が多
連なるアジア航路の寄港地として、また、もう少し後の二十世紀前半には、航続距離の 短かった当時の航空機の給油地として勢力圏に収めていったのである。つまり、こと近 代に限って言えば、アラビア湾は英国の勢力圏だった。そして、世界の多くの地域と同 じように、英国人は、こうした寄港地にフットボールを携えてやってきたのだ。 ハやドウバイのような都市はあま もっとも、石油収人で潤うようになるまでは、ドー りにも貧しく、湾岸諸国にサッカー協会ができて活動を始めるのは、石油収人が人り始 め、そして独立を達成した一九六〇年代、一九七〇年代になってからだった ( 協会創立 はサウジアラビアが一九五九年、カタールが一九六〇年、が一九七一年 ) 。こうした国々 は、一九七〇年代以降、各国の王族が競ってプラジルのコ 1 チを雇い人れて、プラジル 流のサッカーを追求し、アラブ人独特のポールテクニックとプラジルサッカーが結び付 いた中東のフットボールが出来上がった。これに対して、古い歴史を持つイラクは、協 会設立も一九四八年と早く、十九世紀以来の英国の影響もそのまま残っていた。さらに、 王制を転覆した一九五八年の革命の後、革命政府はサッカーの強化に熱心だったが、革 命政府が政治的にソ連と親しかったこともあって、東ヨーロツ。ハのコーチにも教えを受 け、ヨーロツ。ハスタイルのサッカーが根付いていたのだ。 イラクのサッカーのスタイルは都市的なイラク人の国民性を反映していると言うこと もできる。もともと、イス一フムというのは都市の商人の宗教だと言われているが、アラ
二次リーグの勝者が、準決勝、三位決定戦、決勝を戦って、順位を決めた。したがって、 延長・ o-æ戦が行われる可能性のある試合は、準決勝以降のたった四試合しかなかった のだが、その四試合のうち、二試合目、つまりセビージャで行われた西ドイツ対フラン スの準決勝が、いきなり戦となったのである。 ー 1 の同点から延長に人った。前半分にフランスの、ジャンⅡ この試合は、 ミシェル・プラティニ ルック・エ トリのミスで西ドイツが先制すると、その 9 分後に、 ので、フランスが追い付き、それ以後、両軍無得点のまま分が終了したのだ。延 長に人ってすぐにゲームが大きく動き出す。開始わずか 2 分、西ドイツの。へナルティエ リアのすぐ外のフリーキックをアラン・ジレスが蹴り、マリウス・トレゾールが豪快に ンポレーでたたき込んで、フランスが 2 ー 1 とリード。さらに分にはアラン・ジレスが ア シベナルティエリアの外から技巧的なシュートを決めて、フランスが 2 点リードをしたの だ。普通だったら、延長に人ってから 2 点差がついたら、もう試合は終わりである。た しかに西ドイツは、どんな場合でも勝利を諦めたりはしない。それは、これまでにも何 回も目にしてきた光景だったが、しかし、それでも延長に人ってから 2 点取られたので 章は、もう終わりだろうと誰もが思った。しかし、ユップ・デアバル監督は、体調のよく 第ないカールⅡ、 ノインツ・ルンメニゲを投人、フランスの 3 点目からわずか 4 分で、ピエ ール・リト。ハルスキーがいかにも彼らしい、技ありのセンタリングを人れ、出場したば