226 はいざら 私は冷蔵庫の上を探してずっと前に酒屋でもらったバドワイザーのマーク入りの灰皿をみ つけ、ほこりを指で拭いて男の前に置いた。男は短かく歯切れの良い音を立てて煙草に火を つけ、目を細めて煙を宙に吐きだした。彼の体の小ささにはどことなく奇妙なところがあっ た。顔も手も脚もまんべんなく小さいのだ。それはまるで普通の人間の体をそのまま縮小コ ン ピーしたような体型だった。おかげでべンソン & ヘッジスは新品の色鉛筆くらいの大きさに 見えた。 ン ワ ちびは一言も口をきかずに、煙草の先端が燃えていくのをじっと見つめていた。ジャン・ ルリュック・ゴダールの映画ならここで「彼は煙草が燃えていくのを眺める」という字幕が入 ・リュック・ゴダールの映画はすっかり時代遅れになって ポるところだが、 幸か不幸かジャン たた 一しまっていた。煙草の先端が十分な量の灰と化してしまうと、彼は指でとんとんとそれを叩 といてテープルの上に落とした。灰皿には見向きもしなかった。 の「ドアのことだけど」とよくとおるピッチの高い声でちびは言った。「あれは壊す必要があ 世ったんだ。だから壊した。おとなしく鍵をあけようとすればあけることもできたんだけれど、 そういうわけだからまあ悪く思わんでほしい」 「うちの中には何もないよ。探せばわかると思うけど」と私は言った。 「探す ? と小男はびつくりしたように言った。「探す ? 彼は煙草を口にくわえたまま手 のひらをほりほりと掻いた。「探すって、何を探すの ? 」
169 に北アメリカ大陸に存在したとされる二種の反芻動物 「これは中新世ーー約一一千万年前 なの。右側がシンテトケラスで、左側がクラニオケラス。どちらも三角だけれど、独立した 一角を持っていることはたしかね 私は本を受けとって、そこにある図版を見た。シンテトケラスは小型の馬と鹿を一緒にし たような動物で、額に牛のような二本の角を持ち、鼻先に >* 字形に先端がわかれた長い角を 持っていた。クラニオケラスはシンテトケラスに比べるとやや丸顔で、額に二本の鹿のよう ンな角を持ち、それとはべつにうしろに向けて突きだして、そのまま上に湾曲した長く鋭い一 ワ 本の角を持っていた。どちらの動物もどことなくグロテスクな感じがあった。 「でもこういった奇数角の動物たちは結局ほとんど全部が姿を消してしまったの」と彼女は 言って、私の手から本を取った。 まれ 「哺乳類という分野に限っていうと、単角あるいは奇数角を有する動物はきわめて稀な存在 であり、進化の流れにてらしあわせてみると、それは一種の奇形であり、言い方をかえれば 進化上の孤児といっても ) しいくらいなの。哺乳類に限らなくても、たとえば恐竜のことを考 えても、三つの角を持った巨大恐竜がいたけれど、それはまったくの例外的な存在だったわ けね。というのは角というのはきわめて集中的な武器であって、三本というのは必要ないわ け。たとえばフォークのことを考えればよくわかるんだけれど、三本の角があるとそれだけ 抵抗が増えて突きさすのに手間がかかるのね。それからそのうちの一本が何か固いものにぶ はんすう
っとして僕には理解できない。そして質問することができる相手はあなた一人しかいないん です」 はあく 「私だってものごとのなりたちを何から何まで把握しておるというわけではない」と老人は 静かに言った。「またロでは説明できないこともあるし、説明してはならん筋合のこともあ る。しかし君は何も心配することはない。街はある意味では公平だ。君にとって必要なもの、 君の知らねばならんものを、街はこれからひとつひとっ君の前に提示していくはずだ。君は それをやはりひとつひとつ自分の手で学びとっていかねばならんのだ。いいかね、ここは完 全な街なのだ。完全というのは何もかもがあるということだ。しかしそれを有効に理解でき 終 のなければ、そこには何もない。完全な無だ。そのことをよく覚えておきなさい。他人から教 界 えられたことはそこで終ってしまうが、自分の手で学びとったものは君の身につく。そして 世 君を助ける。目を開き、耳を澄まし、頭を働かせ、街の提示するものの意味を読みとるんだ よ。心があるのなら、心があるうちにそれを働かせなさい。私が君に教えることができるの はそれくらいしかない やみ 彼女が住む職工地区がかっての輝きを闇の中に失った場所であるとするなら、街の南西部 にひろがる官舎地区は、乾いた光の中でたえまなくその色を失いつづける場所だ。春がもた うるお らした潤いを夏が溶かし、冬の季節風が風化させてしまったのだ。「西の丘」と呼ばれる緩 やかな広い斜面に沿って、二階建ての白い官舎がずらりと立ち並んでいる。もともとひとっ 147
ごこち てられた銅像みたいで奇妙に居心地の悪いものだった。 デスクの上には彼女の読みかけの文庫本が眠りこんだ小型ウサギみたいな格好でつつぶし ていた。「時の旅人』という・・ウエルズの伝記の下の方だった。それは図書館の本では なく、彼女自身の本であるようだった。そのとなりには鉛筆が三本きれいに削られて並んで いた。それからペー ・クリップが七個か八個ちらばっていた。どうしてこんなにいたる ・クリップがあるのか、私には理解できなかった。 ところにペー ン ・クリップが世の中にはびこりだしたのかもしれ あるいは何かの加減でとっぜんべー ンない。あるいはそれは単なる偶然で、私の方が必要以上に気にしすぎているのかもしれない。 ワ でも、それは何かしら不自然で、おさまりが悪かった。クリップはまるできちんと計画され たみたいし こ、私の行く先々に、目につきやすいようにちらばっているのだ。何かが私の頭に イ ポひっかかっていた。ここのところ、いろんなものが頭にひっかかりすぎる。獣の頭骨やペー ・クリップや、そういうものだ。そこにはある種のつなかりかあるように感じられたが、 それでは獣の頭骨とペー ・クリップのあいだにどういう関連性があるかということにな ると、私にも皆目見当がっかなかった。 やがて髪の長い女の子が三冊の本を抱えて戻ってきた。彼女は私に本をわたしてそのかわ りに私からアイスクリームをうけとり、表から見えないよ、つにカウンターの中で下を向いて きれい 食べはじめた。上からのぞきこむと、彼女の首筋は無防備でとても綺麗だった。 「どうもありがとう」と彼女は言った。 131
ま 6 く・う し、枕もとのライトを消して目を閉じた。目を閉じると待ちかまえていたように黒い巨大な 網のような眠りが空から降りかかってきた。眠りにおちながら、何がどうなろうと知るもの かと私は田 5 った。 目覚めたとき、あたりは薄暗かった。時計は六時十五分をさしていたが、それが朝なのか ン 夕方なのか私には判断できなかった。私はズボンをはいてドアの外に出て、となりの部屋の ダ ドアの前を見てみた。ドアの前には朝刊が置いてあったので、朝だということがわかった。 ワ 新聞をとっていると、こういうときにとても便利である。私も新聞をとるべきなのかもしれ イ ポ 結局十時間ほど眠ったわけだった。体はまだ休息を求めていたし、どうせ今日一日するこ 一とは何もなかったから、そのままもうひと眠りしてもよかったのだけれど、やはり思いなお して起きることにした。新しい手つかずの太陽とともに目覚めることの心地良さは何ものに ひげそ のもかえがたい。私はシャワーを浴びて丁寧に体を洗い髭を剃った。そして約二十分いつもど 世おりの体操をしてから、ありあわせの朝食をとった。冷蔵庫の中身はあらかた空つほになっ ていたので、補充する必要があった。私は台所のテープルに座って、オレンジ・ジュースを 飲みながら、鉛筆でメモ用紙に買物のリストを書きあげた。リストは一枚では足りなくて、 一一枚になった。いずれにしてもまだスー ーマーケットは開いていないから、昼食をとりに 外出するついでに買物をすることにした。 118
らかに人為的に手を加えられたなめらかな円形である。壁はつるつるとしていて、くほみも でつばりもない。地面の中心に直径一メートルばかりの底の浅い穴があって、穴の中にはわ けのわからないぬるぬるとしたものがたまっていた。きわだった臭いというほどのものはな いか、ロの中に酸味があふれてくるような嫌な感触が空気の中に漂っていた。 「ここが聖域の入口らしいわ」と娘は言った。「これで一応はたすかったようね。やみくろ ラたちはその先には入りこめないもの 「やみくろが入りこめないのは、 しいけど、我々が抜けだすことはできるのかな ? 」 ワ 「それは柤父にまかせればいいわ。柤父ならきっとなんとかしてくれるもの。それにふたっ の発信機をくみあわせれば、やみくろをずっとよせつけないようにできるでしょ ? つまり ポひとつの発信機を動かしているあいだ、もう一方のを充電させておくの。そうすればもう布 いものはないわ。時間のことを心配する必要もなくなるし」 「なるほどーと私は言った。 の「少しは勇気が湧いてきた ? 世「少しね」と私は言った。 聖域に入る入口の両わきには、精密なレリーフが施されていた。巨大な魚が二匹で互いの しつほ ロと尻尾をつなぎあわせて円球を囲んでいる図柄だった。それは見るからに不可思議な魚だ った。頭はまるで爆撃機の前部風防のようにほっかりとふくれあがり、目はなく、そのかわ りに二本の長く太い触角が植物のつるのようにねじまがりながらそこから突き出ていた。ロ 370 すがら
らね」 太った娘は僕の顔をじっと見て、それから肩をすくめた。「でも祖父はどちらが善でどち らが悪かなんて、あまり問題にしてなかったみたいよ。善と悪というのは人間の根本的な資 質のレベルでの属性であって、所有権の帰属する方向とは別の問題だって言ってたわ」 「うん、まあそうかも知れない」と私は言った。 ン 「それから柤父はあらゆる種類の権力というものを信用していなかったの。たしかに祖父は ンステム ダ ン 『組織』に一時期属していたけれど、それは豊富なデータや実験材料や大がかりなシミュレ ワ ーション・マシーンを自由に使わせてもらうための方便だったの。だから複雑なシャフリン グ・システムを完成させてしまったあとでは、自分一人で研究を進めた方がずっと楽だし有 イ 効だって言ってたわ。一度シャフリング・システムにこぎつけてしまえば、そのあとは設備 を必要としないいわば思念的な作業しかないんだって」 システム 「ふうん」と私は言った。「君のおじいさんは『組織』を辞めるときに、僕の個人的なデー のタをコピーして持ちだしたりはしなかった ? 」 世「わからないわ、と彼女は言った。「でも、そういうことをしようと思えばできたんじゃな システム いかしら。だって祖父は『組織』の研究所の所長として、データの保持と利用に対してあら ゆる権限を持っていたから」 たぶん私の想像どおりだろう、と私は思った。博士は私の個人データを持ちだして、それ を自分のプライヴェートな研究に利用し、私をメイン・サンプルとしてシャフリング理論を
「羽が赤くて頭の黒い鳥がいたわ。い つもつがいで行動しているの。それに比べるとむくど りはまるで銀行員みたいに地味な格好をしているの。でもみんな、雨がやむと同じように木 の枝にやってきて鳴いたわ。 そのとき私はこう思ったの。世界って、なんて不思議なものだろうってね。世界には何百 億、何千億っていう数のくすの木がはえていてーーもちろんくすの木である必要はないんだ ン ラけどーーーそこに日が照ったり雨が降ったりして、それにつれて何百億、何千億という数のい ン ろんな鳥がそこにとまったりそこから飛び立ったりしているのね。そういう光景を想像して ワ いると、私はなんだかとても悲しいような気持になったわ」 「どうして ? 」 「たぶん世界が数えきれないほどの木と数えきれないほどの鳥と数えきれないほどの雨ふり 一に充ちているからよ。それなのに私にはたった一本のくすの木とたったひとつの雨ふりさえ 理解することができないような気がしたの。永遠にね。たった一本のくすの木とたったひと のつの雨ふりさえ理解できないまま、年をとって死んでいくんじゃないかってね。そう思うと、 さび 世私はどうしようもなく淋しくなって、一人で泣いたの。泣きながら、誰かにしつかりと抱き しめてほしいと思ったの。でも抱きしめてくれる人なんて誰もいなかった。それで私はひと りほっちで、べッドの上ですっと泣いていたの。 そのうちに日が暮れて、あたりが暗くなり、鳥たちの姿も見えなくなってしまったわ。だ から私には雨が降っているのかどうか、たしかめることもできなくなってしまったの。その 394
ンの具合もちょうど良い。私は計算に出向く先々で休憩時間になるとそこにあるソファーに 寝かせてもらうのだが、寝心地の良いソファーというのはまずない。大抵はいきあたりばっ たりで買ってきたような雑なっくりのソファーだし、見映えの良い一見高級そうなソファー でも実際に寝転んでみるとがっかりしてしまう場合がほとんどなのだ。人々がどうしてそん ドなにソファー選びに手を抜くのかよくわからない 私はつねづねソファー選びにはその人間の品位がにじみ出るものだとーー・またこれはたぶ ンん偏見だと思うかーーー確信している。ソファーというものは犯すことのできない確固とした ワ ひとつの世界なのだ。しかしこれは良いソファ 1 に座って育った人間にしかわからない。良 い本を読んで育ったり、良い音楽を聴いて育ったりするのと同じだ。ひとつの良いソファー イ ポはもうひとつの良いソファーを生み、悪いソファーはもうひとつの悪いソファーを生む。そ 一ういうものなのだ。 と 私は高級車を乗りまわしながら家には二級か三級のソファーしか置いていない人間を何人 終、知っている。こういう人間を私はあまり信用しない。高い車にはたしかにそれだけの価値 だれ 世はあるのだろうが、それはただ単に高い車というだけのことである。金さえ払えば誰にだっ て買える。しかし良いソファーを買うにはそれなりの見識と経験と哲学が必要なのだ。金は かかるが、金を出せばいいとい、つものではない。ソファーとは何かという確固としたイメー ジなしには優れたソファーを手に入れることは不可能なのだ。 そのとき私が寝転んだソファーは間違いなく一級品だった。それで私は老人に対して好感
を全部中に入れてしまうと、前と同じように門を閉ざし錠を下ろした。 「本当は錠を下ろす必要なんてないんだ」と門番は僕に説明した。「たとえ錠がかかってい なかったとしても、俺以外には誰もあの重い門を開けることはできないだろうからね。たと え何人がかりでもだよ。ただ規則でそうと決まっているからそうしているだけのことさ まゆ 門番はそう一言うと毛糸の帽子を眉のすぐ上までひきずり下ろして、あとは黙りこんだ。門 番は僕がこれまでに見たこともないような大男だった。見るからに肉が厚く、シャツや上着 は彼の筋肉のひとふりで今にもはじけとんでしまいそうに見えた。しかし彼はときどきふと ゅううっしよう 目を閉じて、その巨大な沈黙の中に沈みこんでしまうことがあった。それがある種の憂鬱症 終 ののようなものなのかそれとも体内の機能が何かの作用で分断されただけのことなのか、僕に 界はどちらとも判断することができなかった。しかしいずれにせよ沈黙が彼を覆ってしまうと、 僕はそのままじっと彼の意識が回復するのを待ちつづけなければならなかった。意識が回復 すると彼はゆっくりと目を開き、長いあいだほんやりとした目つきで僕を眺め、僕がそこに ひざ 存在する理由をなんとか理解しようとっとめるように手の指を膝の上で何度もこすりあわせ 「どうしてタ方になると獣を集めて街の外に出し、朝になるとまた中に入れるんですか ? もど たず 門番の意識が戻ったところで僕はそう訊ねてみた。 門番はしばらく何の感情もこもっていない目で僕を見つめていた。 「そう決まっているからさ」と彼は言った。「そう決まっているからそうするんだ。太陽が