ーの中に入っていた博士と彼女の着替え用の洋服がばらまかれていた。彼女の洋服はたしか にぜんぶピンクだった。濃いピンクから淡いピンクまでの見事なグラデーションだった。 「ひどいわね」と彼女は首を振って言った。「たぶん地下の方から上ってきたんだわ」 「やみくろがやったのかな ? しえ、違うわ。やみくろはこんな地上までまず上ってこないし、もしやってきたとして ン も臭いがのこっているはずだもの」 ダ ン どろ ワ 「魚のような泥のような、嫌な臭い。やみくろの仕業じゃないわ。あなたの部屋を荒したの ルと同じ人たちじゃないかしら。やりくちも似ているし」 と私は言って、あたりをもう一度ぐるりと見まわした。ひっくりかえ ポ「そうかもしれない けい一一うと・つ ・クリップが一箱ぶんちらばって蛍光灯の光にきらきらと光って 一された机の前に ( と、た。私は以前からペ ・クリップのことが何かしら気になっていたので、床をしらべ のるふりをしてそれをひとっかみズボンのポケットにつつこんだ。 世「ここには何か重要なものは置いてあったの ? 」 え」と娘は言った。「ここにあるものはみんなほとんど意味のないものばかりよ。帳 簿とか領収書とかあまり重要じゃない研究資料とか、そういうものだけ。盗まれて困るよう なものは殆んど何もないわ」 「やみくろよけの発信装置というのは無事だったのかな ? 」 332
279 くで太鼓を叩いているような鈍くばんやりとした痛みが傷口からわき腹の方に向けて走った が、それさえやりすごしてしまえば、あとは傷のことを思いださずに時を送ることができた。 時計は七時一一十分を指していたが、あいかわらず食欲はない。朝の五時半にやくざなサンド ウィッチをミルクで流しこみ、そのあとキッチンでポテト・サラダを食べて以来何も口にし ていないのだが、 食べ物のことを考えただけで胃が身を固くするのが感じられた。私は疲れ ン ていて寝不足で、その上に腹まで裂かれ、部屋の中は小人のエ兵隊に爆破でもされたみたい に混乱しているのだ。食欲の入りこんでくる余地もない。 ン 私は何年か前に世界が不要物で埋まって廃墟と化してしまう近未来の小説を読んだこ ワ とがあるが、私の部屋の光景がまさにそれだった。床にはありとあらゆる種類の不要物が散 レ乱している。切り裂かれたスリーピース・スーツから壊れたヴィデオ・デッキ、 e > 、割れ た花瓶、首の部分が折れたライト・スタンド、踏みつけられたレコ 1 ド、溶けたトマト・ソ ース、ひきちぎられたスピーカー ・一面にばらまかれたシャツや下着の多くは土 足で踏みつけられたり、インクがかかったり、葡萄のしみがついたりで、ほとんど使いもの さら にならなくなっていた。私は三日前に食べかけていた葡萄の皿をそのままべッドサイド・テ ープルに置きっ放しにしていて、それが床にばらまかれて踏みつけられてしまったのだ。ジ ョセフ・コンラッドとトマス・ ーディーのひそかなコレクションは花瓶の汚れた水をたっ ぶりとかぶっていた。グラジオラスの切り花は戦死者にささげられた弔花のように淡いべー ジュのカシミアのセーターの胸の上に落ちていた。セーターの袖のところにはペリカンのロ ふどう そで
259 いく様を眺めていた。上ったものは必ず下り、形のあるものは必ず崩れさるものなのだ。瓶 の割れる音にまじって、大男が発する耳ざわりな口笛が聴こえた。それはロ笛というよりは、 ふそろ 空気の裂けめの不揃いな線を歯を掃除するためのフロス糸でこすっているような音に聴こえ た。曲名はわからない というか、メロディーそのものがないのだ。フロス糸が裂けめの 上の方をこすったり、まん中あたりをこすったり、下の方をこすったりしているだけだ。聴 ンいているだけで神経が擦り減ってしまいそうだった。私は首をぐるぐるとまわしてから、ビ のど ールを喉の奥に流しこんだ。胃は外まわりの銀行員の皮かばんみたいに固くなっている。 ン男は意味のない破壊をつづけた。もちろんそれは彼らにとっては何かしらの意味があるの ワ だろうが、私にとっては意味なんてない。大男はべッドをひっくりかえし、マットレスをナ イフで裂き、洋服だんすの中のものをぜんぶ外に放りだし、机のひきだしを洗いざらい床に ぶちまけ、エアコンのパネルをむしりとり、ごみ箱をひっくりかえし、押入れの中身を一掃 てぎわ ←して要に応じていろんなものを叩き壊した。作業は素速く、手際がよかった。 はいきょ べッドルームと居間が廃墟と化してしまうと、男はこんどはキッチンにとりかかった。私 と小男は居間に移り、背中をずたずたに裂かれてひっくりかえされたままのソファーをもと どおりにして、そこに腰かけ、大男がキッチンを破壊していく様子を眺めていた。ソファ 1 の表面が殆んど傷つけられなかったのは実に不幸中の幸いだった。とても座り心地の良い上 等のソファーで、私はそれを知りあいのカメラマンから安く買うことができた。そのカメラ マンは広告写真専門の腕ききだったのだがどこか神経がおかしくなって長野県の山奥にとじ
7 ハードボイルド・ワンダーランド 129 2 ズセッ・ホニュウルイ 3 ホニュウルイノコッカク 4 ホニュウルイノレキシ 5 ホニュウルイトシテノワタシ 6 ホニュウルイノカイボウ 7 ホニュウルイノノウ 8 ドウブッノコッカク 9 ホ、不ハカタル とあった。 私のカードでは三冊まで借りることができる。私は 2 ・ 3 ・ 8 を選んだ。『哺乳類として おもしろ の私』とか『骨は語る』というのも面白そうではあったが、今回の問題には直接的な関係は なさそうなので、それを借りるのはまたの機会にゆずることにした。 「申しわけありませんが『図説・哺乳類』は禁帯出ですので貸出しはできません」と彼女は ポールペンでこめかみを掻きながら言った。 「ねえ」と私は言った。「これはすごく大事なことなんだ。必ず明日の午前中に返しにくる し、君には迷惑はかけないから、なんとか一日だけ貸してもらえないかな ? 」 「でも図説シリ ーズは人気があるし、禁帯出の本を貸したのがわかったら、上の人に私がす
すな」 「過渡的手段 ? 」 「そうです」と老人は言ってまた肯いた。「よろしいですかな、あなただけに教えてさしあ げるが、この先必ずや世界は無音になる」 「無音 ? と思わず私は訊きかえした。 なぜ 「そう。まったくの無音になるです。何故なら人間の進化にとって音声は不要であるばかり 「か、有害だからです。だから早晩音声は消滅する」 ン「ふうん」と私は言った。「ということは鳥の声とか川の音とか音楽とか、そういうものも ワ まったくなくなってしまうわけですか ? 」 「もちろん」 「しかしそれは何かさびしいような気がしますね」 「進化というものはそういうものです。進化は常につらく、そしてさびしい。楽しい進化と 5 いうものはありえんです」老人はそういうと立ちあがって机の前に行き、ひきだしから小さ つめき な爪切りをとりだしてソファーに戻り、右手の親指から始めて、左手の小指まで十個の爪を そろ 順番に切り揃えた。「まだ研究の途上であり、詳しいことは申しあげられんですが、大筋と しては、ま、そういうことですな。しかしこのことは外部には口外せんでほしい。記号士の 耳に届いた日には、大変なことになるですからな」 「御心配なく。我々計算士は秘密の厳守ということについては誰にも負けませんから」
なる。あんたなら誰の力を借りるね ? 「「組織』」と私は言った。 「ほら見ろ」とちびはまた大男に言った。「頭が切れるって言ったよな」それから彼はまた 私の顔を見た。「しかしそれには餌がいる。餌がなきや誰も食いついてこない。あんたを餌 にする」 「あまり気がすすまないな」と私は言った。 「気が進む進まないの問題じゃない」と男は言った。「俺たちだって必死なんだ。そこで今 ワ 度はこちらからひとっ質問があるんだが この部屋の中で、あんたがいちばん大事にして ルいるものは何だろ、つ ? ポ「何もないよ」と私は言った。「大事なものなんか何もない。みんな安物だしね 一「それはよくわかる。しかし何かひとっくらい壊してほしくないってものはあるだろう ? といくら安物だといっても、あんたはここで生活しているわけだしさ」 の「壊す ? 」と私はびつくりして訊いた。「壊すって、どういうこと ? ちょう 世「壊すって : : : ただ単に壊すんだよ。あのドアみたいにさ」と言って小男はねじまがって蝶 つがい 番の吹きとんだ入口のドアを指さした。「破壊のための破壊だよ。みんなぐしゃぐしやに潰 しちゃうんだ」 「何のために ? 」 「ひとくちでは説明できないし、それに説明したってしなくったって、壊すことには変りな ンステム
「大丈夫です。それについては我々はかなりきちんとした訓練を受けています。計算済みの データをみすみす奪われるようなことはしません」 私はズボンの内側につけた特別なポケットから重要書類を入れるためのやわらかな金属で できた札入れのようなものをとりだして、そこに数値リストを入れてロックした。 「このロックは私以外にあけることはできないんです。私以外の人間がこのロックを外そう とすると、中の書類は消滅します」 「なかなかよくできておるですな」と老人は言った。 ダ 私はその書類入れをズボンの内ポケットに戻した。 ワ 「ところでサンドウィッチをもう少し召しあがらんですか ? まだ少し残っておるし、私は 研究しておる最中はほとんど食事をせんものだから、残しておくのもどうももったいない」 まだ腹が減っていたので、私は勧められるままに残りのサンドウィッチをぜんぶたいらげ た。老人が集中して食べたせいでキュウリはもう一切れもなく、残っているのはハムとチー ズばかりだったが、私はとりたててキュウリが好きというわけでもなかったから、べつにそ れはそれでかまわない。老人は新しくコーヒーをカップに注いでくれた。 あまがつば 私はまた雨合羽を着こみ、ゴーグルをつけ、懐中電灯を片手に地下道を戻った。今回は老 人はついてこなかった。 「やみくろはもう音波をだして追い払ったし、当分はこちらに侵入しては来んから大丈夫で
だれ 叩に充たないので、その職業的寿命がどの程度のものなのかは誰にもわからない。十年と言う ものもいるし、一一十年と言うものもいる。死ぬまでできると主張するものもいる。早晩廃人 になるという説もある。しかしそれはぜんぶ推測にすぎない。私にできるのは二十六個の筋 肉をきちんとほぐしておくことだけだ。推測は推測に適した人間にまかせておけばいいのだ。 私は筋肉をほぐしおわるとソファーに座って目を閉じ、左の脳と右の脳をゆっくりとひと つにまとめた。それで作業の一切は完了した。正確にマニュアルどおりだ。 ダ 老人は机の上に大型大のようなかたちの頭骨を置いてノギスで細部のサイズをはかって、 ワ 頭骨の写真コピーにその寸法を鉛筆で記入していた。 「終ったですか」と老人は言った。 ポ「終りました」と私は言った。 「いやいや、長いあいだ御苦労でしたな」と彼は言った。 うちもど 「今日はこれから家に戻って眠ります。そして明日かあさって自宅でシャフリングにかけ、 のしあさっての正午までに必ずまたここにお持ちします。それでよろしいですね ? 」 うなず 世「結構結構」と老人は言って肯いた。「しかし時間厳守ですぞ。正午より遅れては困るです。 大変なことになる」 「よくわかりました」と私は言った。 「それからそのリストを誰かに奪われんようにくれぐれも気をつけてな。それを奪われると 私も困るし、あんたも困るです」
「人間がやったんだ」と私は言った。「記号士だかなんだかがやみくろと結託してここにや ってきて扉を開け、人間だけがここの中に入って部屋の中をひっかきまわしたんだ。彼らは あとで自分たちがここを使うために たぶんここで博士の研究をつづけさせるためだと思 うんだけれどーーー大事な機械類はそのままにしておいた。そしてやみくろに荒されないよう にまた扉の鍵をかけておいたのさ」 「でも彼らは大事なものを手に入れることはできなかったわけね」 ン 「たぶんね」と私は言って部屋の中をぐるりと見まわした。「しかし彼らはとにかく君のお ワ じいさんを手に入れた。大事といえばそれがいちばん大事なものだろう。おかげで僕の方は ル博士が僕の中に何をしかけたのか知るすべもなくなってしまった。もう手の打ちょうもな え」と太った娘は言った。「祖父はつかまったりしてはいないわ。安心して。ここに はひとっ秘密の抜け道があるの。祖父はきっとそこから逃げ出したはずよ。私たちと同じゃ のみくろよけの発信機を使ってね 世「どうしてそれがわかるんだい ? 「確証はないけれど、私にはわかるのよ。祖父はとても用心深い人だし、簡単につかまった りはしないわ。誰かが扉の鍵をこじあけて中に入ろうとしていたら、必ずそこから逃げ出す はずだもの 「じゃあ博士は今ごろはもう地上に脱出しているわけだ」 358
歩きにくいのだ。 「つまりその発信機はやみくろの嫌がる音波を出しているんだね」と私は話題を変えてみた。 「ええそうよ。この音波を発信している限り、連中は私たちからおおよそ十五メートル以内 には近づけないの。だからあなたも私から十五メートル以上離れないようにしてね。でない と、彼らにつかまって巣につれていかれて井戸に吊されて、腐ったところからかじられるわ ン よ。あなたの場合はおなかの傷から先に腐っていくわね、きっと。彼らの歯と爪はすごく鋭 きり いの。まるで太い錐をずらりと並べたみたいにね」 ワ 私はそれを聞いてあわてて彼女のすぐうしろまで寄った。 たず 「おなかの傷はまだ痛む ? 」と娘が訊ねた。 「薬のせいで少しはマシになったみたいだな。激しく体を動かすとすきずきするけれど、普 一通にしているぶんにはそれほど痛くはない と私は答えた。 「もし祖父に会うことができたら、彼が痛みを取り去ってくれると思うわ」 の「おじいさんが ? どうして ? 」 世「簡単よ。私も何度かやってもらったことあるわ。頭痛なんかがひどいときにね。意識の中 に痛みを忘れさせる信号をインブットするの。本当は痛みというのは体にとっては重要なメ ソセージだから、あまりそういうことしちゃいけないんだけど、今回は非常事態だからかま わないんじゃないかしら ? 「そうしてもらえるとすごくたすかるな」と私は言った。 354 つる