なり、灌木にまじって何種類かの丈の高い樹木もあらわれるようになった。ときおり小さな 鳥が啼きながら枝から枝へと移るほかには物音ひとっ聞こえなかった。 たど きぎ 細い踏みわけ道を辿っていくと、樹々の生え具合はだんだん密になり、頭上が高い枝に覆 さえぎ われるようになった。そしてそれにつれて視界が遮られ、壁の姿を追いつづけることができ こみち なくなっていった。仕方なく、僕は南に折れる小径をたどって街に出て、旧橋をわたって家 に戻った。 ばくせん 結局、秋がやってきても、僕にはきわめて漠然とした街の輪郭しか描くことはできなかっ た。おおよそのところを一言うと、地形は東西に長く、北の林と南の丘の部分がふつくらと南 北に突きだしている。南の丘の東側の斜面はごっごっとした岩場になり、それが壁に沿って 長くつづいている。街の東側には北の林に比べるとずっと荒々しく陰気な森が川をはさんで 広がっていて、ここには道さえほとんどっいていない。わずかこ Ⅱこ告って東の門まで歩く ことのできる道があり、周辺の壁の様子を見ることができた。東の門は門番の言ったように たれ セメントのようなものでぶ厚く塗りこめられ、誰もそこから出入りできないようになってい 東の尾根を勢いよく下ってきた川は東門のわきから壁の下をくぐって我々の前に姿をあら なかす わし、街の中央を西に向けて一直線に流れ、旧橋のあたりに美しい中洲をいくつか作りだし ている。川には三本の橋がかかっていた。東橋と旧橋と西橋だ。旧橋がいちばん古くて大き く、そして美しし 、。川は西橋をくぐり抜けたあたりで急に南に折れまがり、少し東に戻るよ 12 世界の終り
「柤父は何をやっても一流なの」と娘は言った。 エレベーターは以前に乗ったときと同じように上昇しているのか下降しているのかよくわ からないくらいのスピードで進んでいた。あいかわらずひどく長い時間がかかったし、その あいだずっと > カメラでモニターされていることを思うと、私はどうも落ちつかなかった。 「一流になるためには学校教育は効率が悪すぎるって祖父が言ってたけど、どう思う ? 」と ン ラ彼女が私に訊ねた。 ダ ン 「そうだね、たぶんそうだろうな」と私は言った。「僕は十六年学校に通ったけど、それが ワ とくに何かの役に立ったとも思えないから。語学もできないし、楽器もできないし、株のこ ルとも知らないし、馬にも乗れないし」 ポ「じゃあどうして学校をやめなかったの ? やめようと思えばいつでもやめられたんでし 「まあ、そりやね」と私は言って、そのことについて少し考えてみた。たしかにやめようと の思えばいつだってやめられたのだ。「でもそのときはそんなこと思いっかなかったんだ。僕 世の家は君のところと違ってとても平凡であたり前の家庭だったし、自分が何かの面で一流に なれるかもしれないなんて考えもしなかったしさ」 「それは間違ってるわよ」と娘は言った。「人間は誰でも何かひとっくらいは一流になれる 素質があるの。それをうまく引き出すことができないだけの話。引き出し方のわからない人 間が寄ってたかってそれをつぶしてしまうから、多くの人々は一流になれないのよ。そして 326
で川の表面が旗のようにばたばたと揺れながら流れているのが見えた。流れはかなり速そう だったが、 Ⅱの深さや水の色まではわからなかった。私にわかったのは水が左から右へと流 れていることだけだった。 私は足もとをしつかりと照らしながら岩盤づたいに川の上流へと向った。ときどき体の近 くを何かが徘徊しているような気配を感じてさっと光をあててみたが、目につくものは何も なかった。川の両側のまっすぐに切りたった壁と水の流れが見えるだけだった。おそらく暗 ン ラ闇に囲まれているせいで神経が過敏になっているのだ。 ン五、六分歩くと天井がぐっと低くなったらしいことが水音の響きかたでわかった。私は懐 ワ 中電灯の光を頭上にあててみたが、あまりにも闇が濃すぎて天井を認めることはできなかっ レ た。次に娘が注意してくれたように、両側の壁にわき道らしきものが見受けられるようにな イ った。もっともそれはわき道というよりは岩の裂けめとでも表現すべきもので、その下の方 からは水がちょろちょろと流れだして細い水流となって川に注いでいた。私はためしにそん 3 な裂けめのひとつに寄って懐中電灯で中を照らしてみたが、何も見えなかった。入口に比べ て奥の方が意外に広々としているらしいことがわかっただけだった。中に入ってみたいとい 、つような気は毛ほども起きなかった。 私は懐中電灯をしつかりと右手に握りしめ、進化途上にある魚のような気分で暗闇の中を 上流へと向った。岩盤は水に濡れてすべりやすくなっていたので、一歩一歩注意しながら足 を前に踏みださねばならなかった。こんなまっ暗闇の中で足をすべらせて川にでも落ちるか
え」と娘は言った。「そんなに簡単な話じゃないの。その脱出口は迷路のようになっ ていて、やみくろの巣の中心へとつながっているし、どんなに急いでもそこから抜け出すの に五時間はかかるのよ。やみくろよけの発信機は三十分しかもたないから、柤父はまだその 中にいるはずだわ 「あるいはやみくろに捕えられたかね 「その心配はないわ。祖父は万一の場合に備えて地底の中でも絶対にやみくろの近寄れない 安全な避難場所をひとっ確保していたの。祖父はたぶんそこに潜んで、私たちが来るのをじ ンっと待っているんじゃないかしら」 ワ 「たしかに用心深そうな人だな」と私は言った。「君にはその場所がわかる ? 「ええ、わかると思うわ。祖父は私にもそこに着くまでの道筋をくわしく教えてくれたから。 それにこの手帳にも簡単な地図が描いてあるの。いろんな注意するべき危険なポイントとか ね」 「たとえばどんな危険 ? 「たぶんそれはあなたは知らない方がいいんじゃないかと思うんだけどと娘は言った。 「そういうのを聞いちゃうと必要以上にナーヴァスになる人っているみたいだから」 私はため息をついて、この先自分の身にふりかかってくるはずの危険についてそれ以上の 質問をすることをあきらめた。私は今だって相当ナーヴァスになっているのだ。 「そのやみくろの近づけない場所に着くにはどれくらい時間がかかるんだい ? 359
ぐに伸ばし、それで爪の甘皮をつついた。左手の人さし指の爪の甘皮だった。甘皮をひとし はいざら きりつつき終ると、彼はまっすぐに伸びたペー ・クリップを灰皿に捨てた。私はこの次 なにかに生まれかわることができるとしても、ペー ・クリップにだけはなりたくないと 思った。わけのわからない老人の爪の甘皮を押し戻してそのまま灰皿に捨てられてしまうな んて、あまりぞっとしない。 ン 「私の情報によれば、やみくろと記号士は手を握っておるですよ」と老人は言った。「しか ダ ン しもちろんそれで奴らがしつかり結束したというわけじゃない。やみくろは用心深いし、記 ワ 号士はさきばしりすぎる。だから奴らの結びつきはまだごく一部にすぎないです。でもこり きざ ルやあ良くない兆しです。ここまで来るはずのないやみくろがこのあたりをちょろちょろしだ イ ポしたというのもいかにもまずいですしな。このままでいけば、早晩このあたりもやみくろだ 一らけになっちまうかもしれん。そうなると私もとても困るです」 「たしかにね」と私は言った。やみくろがいったいどういうものなのか私には見当もっかな のいが、記号士たちがもし何かの勢力と手をつないだのだとしたら、それは私にとっても非常 世に具合の悪いことになるはずである。というのは我々と記号士たちはただでさえきわめてデ きっこう リケートなバランスをとって拮抗しているから、ちょっとした作用で何もかもがひっくりか えってしまうということだってあり得るのだ。だいいち私がやみくろのことを知らないのに 連中が知っているというだけで、既にバランスは狂ってしまっているわけだ。もっとも私が やみくろのことを知らないのは私が下級の現場独立職だからなのであって、上の方の連中は つめ
守り維持するために殻をしつかりと閉ざし、ある種の完結性を帯びはじめていた。彼らにと って冬は他のどんな季節とも違う特殊な季節なのだ。鳥たちの声も短かく鋭くなり、ときお りの彼らの羽ばたきだけがその冷ややかな空白を揺さぶった。 「今年の冬の寒さはおそらく格別のものになるだろうな」と老大佐は言った。「雲のかたち を見ればそれがわかるんだ。ちょっとあれを見てみなさい」 ン まどぎわ 老人は僕を窓際につれていって、北の尾根にかかった厚く暗い雲を指さした。 せつこう しま一・一ろ 「いつも今頃の季節になると、あの北の尾根に冬の雲のさきぶれがやってくる。斥候のよう ン ワ なもんだが、 そのときの雲の形で我々は冬の寒さを予想することができる。のつべりと平た い雲は温暖な冬だ。それがぶ厚くなればなるほど冬は厳しくなる。そしていちばん具合が悪 いのが翼を広げた鳥のような格好をした雲だ。それが来ると、凍りつくような冬がやってく 一る。あの雲だ」 咾僕は目をすほめるようにして北の尾根の上空を見た。ほんやりとではあるが、老人のいう の雲を認めることができた。雲は北の尾根の端から端まで達するほど左右に長く、その中央が 世山のように大きくふくらんでいて、たしかにそれは老人が言うように翼を広げた鳥の形をし ていた。尾根を越えて飛来する不吉な灰色の巨鳥だ。 「五十年か六十年に一度の凍てつく冬だ」大佐は言った。「ところで君はコートを持ってお らんだろう ? 「ええ、持っていませんーと僕は言った。僕の持っているのは街に入ったときに支給された
「どうだろう」と僕は言った。 「じゃああなたは自分がどこで何をしていたかわかるの ? 「思いだせない」と僕は言った。そしてカウンターに行って、そこにばらばらとちらばって ・クリップをひとつ手にとって、それをしばらく眺めた。「でも何かがあった ような気がする。それはたしかなんだ。そして君にもそこで会ったような気がするんだ」 ダ ・クリップ 図書館の天井は高く、部屋はまるで海の底のように静かだった。僕はペー ワ を手にしたまま何を思うともなく、そんな部屋の中をばんやりと見まわした。彼女はテープ ルルの前に座って、一人で静かにコーヒーを飲みつづけていた。 ポ「自分がどうしてここに来たのかも、僕にはよくわからない」と僕は言った。 じっと天井を見ていると、そこから降りかかってくる黄色い電灯の光の粒子が膨んだり縮 んだりしているように見えた。おそらく僕の傷つけられた瞳のせいだろう。僕の目は何かと 終 くべつなものを見るために、門番の手によって作りかえられてしまったのだ。壁にかかった の 世古い大きな柱時計がゆっくりと無音のうちに時を刻んでいた。 「たぶん何か理由があってここに来たんだろうけれど、それも今は思いだせない」と僕は一言 っ , 」 0 「ここはとても静かな街よと彼女は言った。「だからもしあなたが静けさを求めてここに 来たんだとしたら、あなたはきっとここが気に入ると思うわ」
「どうもよくわからないな」と僕は言った。「僕がここから古い夢を読みとるというのはわ かったよ。しかしそれ以上何もしなくていいというのがよくわからないんだ。それじや仕事 の意味が何もないような気がする。仕事には何かしらその目的といったものがあるはすた。 たとえばそれを何かに書きうっすとか、ある順序に従って整理し分類するとかね」 彼女は首を振った。「その意味がどこにあるのかは私にもうまく説明することはできない わ。古い夢を読みつづけていれば、あなたにもその意味が自然にわかってくるんじゃないか しら。でもいずれにせよその意味というのはあなたの仕事そのものにはあまり関係がないの 終 もど の僕は頭骨をテープルの上に戻し、遠くからもう一度眺めてみた。無を思わせる深い黙が 界頭骨をすつほりと包んでいた。しかしあるいはその沈黙は外部からやってくるものではなく、 頭骨の中から煙のように湧きだしているのかもしれなかった。どちらにしても不思議な種類 の沈黙だった。それはまるで頭骨を地球の中心までしつかりと結びつけているかのように僕 には感じられた。頭骨はじっと黙したまま実体のない視線を虚空の一点に向けていた。 眺めれば眺めるほど、僕にはその頭骨が何かを語りたがっているように思えてならなかっ かな た。まわりにはどことなく哀しげな空気さえ漂っているようだったが、僕にはそこにこめら れた哀しみを自分に対してうまく表現することはできなかった。正確な言葉が失われてしま っているのだ。 「読むことにするよ」と僕は言って、もう一度テープルの上の頭骨を手にとり、手の中で重 103
「だって、なんだか疲れてるみたいだし、でも疲れていることが一種のエネルギーになって いるみたいだしね。そういうのって、私にはよくわからないの。私の知っている人でそうい うタイプの人って一人もいなかったの。祖父も決して疲れたりしない人だし、私もそうだし。 ねえ、ほんとうに疲れてるの ? しいくらいのものだ。 「たしかに疲れてる」と私は言った。一一十回繰りかえして言っても、 たず 「疲れるってどういうことなのかしら ? 」と娘が訊ねた。 ン れんびん 「感情のいろんなセクションが不明確になるんだ。自己に対する隣憫、他者に対する怒り、 ン他者に対する隣憫、自己に対する怒りーーーそういうものがさ」 ワ 「そのどれもよくわからないわ 「最後には何もかもがよくわからなくなるのだ。いろんな色に塗りわけたコマをまわすのと 」イ - こんとん 同じことでね、回転が速くなればなるほど区分が不明確になって、結局は混沌に至る」 「面白そうだわ」と太った娘は言った。「あなたはそういうことにすごくくわしいのね、き 7 っと 「そう」と私は言った。私は人生をむしばむ疲労感について、あるいは人生の中心からふつ わ ふっと湧きおこってくる疲労感について、百とおりくらいの説明をすることができるのだ。 そういうことも学校教育では教えてもらえないもののひとつだ。 「あなたアルト・サックス吹ける ? と彼女が私に訊ねた。 「吹けないーと私は言った。 303
わかった、と僕は言った。「ところでその仕事はいつまでつづくのですか ? 」 「さあ、いつまでつづくかな ? 俺にもよくわからんね。しかるべき時期がくるまでだろう まき な」と門番は言った。そして薪をつんだ中から適当な木ぎれをひつばりだして、またナイフ で削りはじめた。 ン 「ここは貧しい小さな街だからな、ぶらぶらしている人間を養っているような余裕はない。 ン みんなそれぞれの場所でそれぞれに働いている。あんたは図書館で古い夢を読むんだ。まさ ワ かここでのうのうと楽しく遊んで暮せると思ってきたわけじゃないだろうね ? 「働くのは苦痛じゃありません。何もしないよりは何かしていた方が楽です」と僕は言った。 ィー うなず は「それは結構」と門番はナイフの刃先を睨んだまま肯いた。「それじやできるだけ早く仕事 にとりかかってもらうとしよう。あんたはこれから先〈夢読み〉と呼ばれる。あんたにはも う名前はない。〈夢読み〉というのが名前だ。ちょうど俺が〈門番〉であるようにね。わか ったかね ? 世「わかりました」と僕は言った。 「門番がこの街に一人しかいないように、夢読みも一人しかいない。なぜなら夢読みには夢 読みの資格が要るからだ。俺は今からその資格をあんたに与えねばならん」 ひらざら 門番はそう一言うと食器棚から白い小さな平皿を出してテープルの上に置き、そこに油を入 れた。そしてマッチを擦って火をつけた。次に彼は刃物を並べた棚からバターナイフのよう