「いろんなことが起るですよ」と彼は少しあとで言った。「実にいろんなことが起るです。 これは私の口から申しあげることはできんですが、ちょっとあんたに想像もっかんようなこ とが起るです」 「音抜きもそのひとつですね」と私は質問した。 老人はまたふおつほっほと楽しそうに笑った。「そう、そのとおり。人間の頭蓋骨の固有 の信号にあわせて、音を抜いたり増やしたりすることができるです。人それぞれに頭蓋骨の ダ形は違うから完全には抜けんが、かなり小さくすることはできるです。簡単に言えば音と反 ワ 音の振動をあわせて共鳴させるわけですな。音抜きは研究成果の中ではもっとも害のないも ののひとつです」 ポあれで害がないというのなら、あとは推して知るべしである。私は世の中の人々がめいめ い好き勝手に音を消したり増やしたりしている様を想像して、ちょっとうんざりした。 「音抜きは発声と聴覚の両方向から可能です」と老人は言った。「つまりさっきのように水 の音だけを聴覚から消去することもできるし、あるいはまた発声を消去してしまうこともでき 世るです。発声の場合は個人的なものだから百。ハーセント消去することも可能ですな」 「これは世間に発表なさる・つもりなんですか ? 」 「まさか」と老人は言って手を振った。「こんな面白いことを他人に知らせるつもりはない ですな。私は個人的な楽しみでこれをやっとるですー そう言って老人はまたふおつほっほと笑った。私も笑った。
ンの具合もちょうど良い。私は計算に出向く先々で休憩時間になるとそこにあるソファーに 寝かせてもらうのだが、寝心地の良いソファーというのはまずない。大抵はいきあたりばっ たりで買ってきたような雑なっくりのソファーだし、見映えの良い一見高級そうなソファー でも実際に寝転んでみるとがっかりしてしまう場合がほとんどなのだ。人々がどうしてそん ドなにソファー選びに手を抜くのかよくわからない 私はつねづねソファー選びにはその人間の品位がにじみ出るものだとーー・またこれはたぶ ンん偏見だと思うかーーー確信している。ソファーというものは犯すことのできない確固とした ワ ひとつの世界なのだ。しかしこれは良いソファ 1 に座って育った人間にしかわからない。良 い本を読んで育ったり、良い音楽を聴いて育ったりするのと同じだ。ひとつの良いソファー イ ポはもうひとつの良いソファーを生み、悪いソファーはもうひとつの悪いソファーを生む。そ 一ういうものなのだ。 と 私は高級車を乗りまわしながら家には二級か三級のソファーしか置いていない人間を何人 終、知っている。こういう人間を私はあまり信用しない。高い車にはたしかにそれだけの価値 だれ 世はあるのだろうが、それはただ単に高い車というだけのことである。金さえ払えば誰にだっ て買える。しかし良いソファーを買うにはそれなりの見識と経験と哲学が必要なのだ。金は かかるが、金を出せばいいとい、つものではない。ソファーとは何かという確固としたイメー ジなしには優れたソファーを手に入れることは不可能なのだ。 そのとき私が寝転んだソファーは間違いなく一級品だった。それで私は老人に対して好感
を持っことができた。私はソファーに寝転んで目を閉じ、その奇妙なしゃべり方と奇妙な笑 い方をする老人についていろいろと考えを巡らせてみた。あの音抜きのことを思いかえして みると、老人が科学者として最高の部類に属するというのはまず間違いないところだった。 並の学者には音を勝手に抜いたり入れたりなんていうことはできない。並の学者ならそんな ことができるなんてまず思いっきもしないだろう。それから彼が相当に偏屈な人間であるこ ひとぎら ともまたたしかだ。科学者が変人であったり人嫌いであったりするのはよくある例だが、人 目を避けて地下深くの滝の裏に秘密の研究室を作るところまではなかなかいかない。 まくたい ダ 音抜き・音入れの技術を商品化すれば莫大な額の金が入りこんでくるに違いないと私は想 ワ 像してみた。まずコンサート・ホールから装置がぜんぶ消えてしまう。巨大な機械類を ル使って音を増幅する必要なんてなくなってしまうからだ。それから逆に騒音を消してしまう こともできる。飛行機に音抜き装置をとりつければ、空港近辺に住む人々はとても助かるだ ろう。しかしそれと同時に音抜き・音入れは様々なかたちで軍事産業や犯罪にとりいれられ ていくに違いない。無音の爆撃機や消音銃、大音量を立てて脳を破壊する爆弾なんていうも のが次々に生まれ、組織的大量殺人をより洗練されたスタイルに作りかえていくであろうこ とは目に見えていた。おそらく老人もそれをよく承知していて、あえてその研究成果を世間 には公表せずに手もとにとどめているのだろう。そのことで私はますます老人に好意を持っ よ、つになった。 私が五回めだか六回めだかの仕事のサイクルに入っているときに老人が戻ってきた。腕に
「退化にむすびつくことはすべて禁止されてるの」 「なるほど」と私は感心して言った。さすがにやることが徹底している。 「あなたいくっ ? 」と娘がたずねた。 「三十五」と私は言った。「君は ? 」 「十七」と女は言った。「計算士に会ったのって、私はじめてよ。記号士に会ったこともな ン ラいけれど」 「ほんとうに十七 ? 」と私は驚いて訊いた。 ワ 「ええ、そうよ。嘘なんかっかないわ。ほんとうに十七よ。でも十七に見えないでしょ ? はたち 「見えない」と私は正直に言った。「どう見ても二十歳以上だな」 「十七になんて見えてほしくないのよ」と彼女は言った。 「学校には行ってないの ? 」 「学校のことは話したくないの。少くとも今はね。こんど会ったときにちゃんと教えてあげ のるわ」 世「ふうん」と私は言った。きっと何か事情があるのだろう。 「ねえ、計算士ってどんな生活をしているのかしら ? 「計算士にしたって記号士にしたって、仕事をしていないときは世間のみんなと同じごく普 通のまともな人間さ」 「世間のみんなはごく普通かもしれないけれど、まともじゃないわ」
ようになるわよ。話し声といっても音波に近いものだけどね。コウモリと同じよ。もっとも コウモリとは違って一部の音波は人間の可聴範囲とかさなっているし、彼らどうしはちゃん そっう と意思疎通がはかれるんだけど」 「じゃあ記号士たちはどういう風にして彼らとコンタクトしたんだろう ? しゃべれなけれ ばコンタクトしよ、つかないじゃないかワ・」 「そういう機械は造ろうと田 5 えば造れるわ。彼らの音波を人間の音声に転換し、人間の一一一一口語 ン を彼らの音波に転換するの。たぶん記号士たちはそういう機械を造ったんでしようね。祖父 ンだってそれを造ろうと思えば簡単に造れたんだけれど、結局造らなかったの」 ワ 「どうして ? 」 ル「彼らと話したくなかったからよ。彼らは邪悪な生きもので、彼らの語ることばは邪悪なの。 彼らは腐肉や腐ったゴミしか食べないし、腐った水しか飲まないの。昔から墓場の下に住ん で死んで埋められた人の肉を食べてたの。火葬になる前の時代まではね」 「じゃあ生きた人間は食べないんだね ? 」 「生きた人間をつかまえると何日も水に漬けて、腐りはじめた部分から順番に食べていく のー しいから、このまま帰りた 「やれやれ」と私は言ってため息をついた。「何がどうなっても、 くなったよ」 それでも我々は流れに沿って前進した。彼女が先に立ち、私があとにつづいた。私がライ 351
「ときどき自分でもそう思います」と私は正直に言った。 「我々科学者はそういう状況を進化の過程と呼ぶです。遅かれ早かれあんたにもそれがわか るじやろうが、進化というのは厳しいものです。進化のいちばんの厳しさとはいったい何だ と思われるですかな ? 」 「わかりません。教えて下さい」と私は言った。 「それは選り好みできんということですな。誰にも進化を選り好みすることはできん。それ ン なたれ こうすい は洪水とか雪崩とか地震とかに類することです。やってくるまではわからんし、やってきて あらが ンからでは抗いようかない」 ワ 「ふうん」と私は言った。「その進化というのは、さっきおっしやった音声にかかわること ですか ? つまり私がしゃべれなくなってしまうとか ? 「正確にはそうじゃないです。しゃべれるとかしゃべれないとかは、本質的にはたいした問 題じゃないです。それはひとつのステップにすぎんです」 よくわからない 、と私は言った。私はだいたいが正直な人間である。わかったときにはち ゃんとわかったと言うし、わからないときにはちゃんとわからないと言う。曖味な言い方は しない 。トラブルの大部分は曖昧なものの言い方に起因していると私は思う。世の中の多く の人々が曖昧なものの言い方をするのは、彼らが心の底で無意識にトラブルを求めているか らなのだと私はイ 言じている。そうとしか私には考えられないのだ。 「しかしまあ、こういう話はここまでにするです」と老人は言って、またふおつほっほと、
くちびる 大男は次にそののつべりとした金属片を両手の指でつまみ、唇をほんのわずかに歪めただ けで、きれいに縦に裂いてしまった。電話帳をふたつに裂くのは一度見たことがあるけれど、 べしゃんこになったコーラの缶を裂くのを目にするのははじめてだった。試してみたことは ないからよくわからないけれど、たぶん大変なことなのだろう。 「百円硬貨だって曲げることができるんだ。そんなことができる人間はあまりいない」と小 ン 男は言った。 うなず ダ 私は肯いて同意した。 ワ 「耳だってちぎりとれる」 私は肯いて同意した。 ポ「三年前まではプロレスラーだったんだ」とちびは言った。「なかなか良い選手だったね。 ドひざ ←膝を痛めなきやチャンピオン・クラスまではいっただろうね。若いし、実力もあったし、見 とかけのわりに足も速かった。しかし膝を痛めちゃもうだめだ。レスリングはスピードがなく のちややっていけないものな」 世男がそこで私の顔を見たので、私は肯いて同意した。 「それ以来俺が面倒みてるんだ。なにしろ俺の従弟なもんでね 「あまり中間的な体型を産出しない家系なのかな ? 」と私は言った。 「も、つ一度言ってみろ」とちびが言って、私の目をじっとのぞきこんだ。 「なんでもないよーと私は言った。 228 おれ ゆが
328 ールの靴音を響かせながら急ぎ足で廊下を進み、私はそのあとに従った。私の目の前で気持 の良い形をしたお尻が揺れ、金のイヤリングがきらきらと光った。 「でも仮にそうなったとしても」と私は彼女の背中に向って声をかけた。「君が僕にいろん なものを与えてくれるばかりで、僕の方は君に何も与えることができないし、そういうのは すごく不公平で不自然なような気がするんだ」 ラ彼女は歩をゆるめて私の横に並び、一緒に歩いた。 ダ 「本当にそう思うの ? ワ 「そう思う」と私は言った。「不自然だし、それに不公平だ」 「あなたが私に与えることができるものはきっとあると思うわと彼女は言った。 たず 「たとえば ? 」と私は訊ねた。 「たとえばーーあなたの感情的な殻。私はそれがとても知りたいの。それがどんな風に作ら れていて、どんな風に機能しているとか、そういうことね。私はこれまでそういうものに触 終 れたことがあまりないから、すごく興味があるの」 の 世「それほどおおげさなものじゃないよ」と私は言った。「誰だって多少の差こそあれ感情に 殻をまとっているものだし、みつけようとすればいくらでもみつけられる。君は世間に出た ことがないせいで、平凡な人間の平凡な心のありようというものが理解できないだけのこと なんだよ」 「あなたって本当に何も知らないのね」と太った娘は言った。「あなたはシャフリング能力
327 そのまま擦り減ってしまうの」 「僕のようにねと私は言った。 「あなたは違うわ。あなたには何か特別なものがあるような気がするの。あなたの場合は感 情的な殻がとても固いから、その中でいろんなものが無傷のまま残っているのよ」 「感情的な殻 ? 」 「ええ、そうよ」と娘は言った。「だから今からでも遅くないの。ねえ、これが終ったら私 ン と一緒に暮さない ? 結婚とかそういうのじゃなくて、ただ一緒に暮すの。ギリシャだかル ン ーマニアだかフィンランドだか、そういうのんびりしたところに行って、二人で馬に乗った ワ り唄を唄ったりして過すの。お金ならいくらでもあるし、そのあいだにあなたは一流の人間 に生まれかわるの 「ふうん、と私は言った。悪くない話だった。計算士としての私の生活もこの事件のせいで 一微妙な局面にさしかかっているし、外国でのんびり暮すというのは魅力的だった。しかし自 分が本当に一流の人間になれるという確信が私にはどうしても持てなかった。一流の人間と いうのは普通、自分は一流の人間になれるという強い確信のもとに一流になるものなのだ。 自分はたぶん一流にはなれないだろうと思いながら事のなりゆきで一流になってしまった人 間なんてそんなにはいな、 私がほんやりとそんなことを考えているあいだにエレベーターのドアが開いた。彼女が外 に出て、私もそのあとを追った。最初に会ったときと同じように、彼女はコッコッとハイヒ
「柤父は何をやっても一流なの」と娘は言った。 エレベーターは以前に乗ったときと同じように上昇しているのか下降しているのかよくわ からないくらいのスピードで進んでいた。あいかわらずひどく長い時間がかかったし、その あいだずっと > カメラでモニターされていることを思うと、私はどうも落ちつかなかった。 「一流になるためには学校教育は効率が悪すぎるって祖父が言ってたけど、どう思う ? 」と ン ラ彼女が私に訊ねた。 ダ ン 「そうだね、たぶんそうだろうな」と私は言った。「僕は十六年学校に通ったけど、それが ワ とくに何かの役に立ったとも思えないから。語学もできないし、楽器もできないし、株のこ ルとも知らないし、馬にも乗れないし」 ポ「じゃあどうして学校をやめなかったの ? やめようと思えばいつでもやめられたんでし 「まあ、そりやね」と私は言って、そのことについて少し考えてみた。たしかにやめようと の思えばいつだってやめられたのだ。「でもそのときはそんなこと思いっかなかったんだ。僕 世の家は君のところと違ってとても平凡であたり前の家庭だったし、自分が何かの面で一流に なれるかもしれないなんて考えもしなかったしさ」 「それは間違ってるわよ」と娘は言った。「人間は誰でも何かひとっくらいは一流になれる 素質があるの。それをうまく引き出すことができないだけの話。引き出し方のわからない人 間が寄ってたかってそれをつぶしてしまうから、多くの人々は一流になれないのよ。そして 326