たい。会いに来てくれるね ? 」 うなす 僕は肯いて影の肩に手を置き、それから門番のところに行った。門番は僕と影が話してい るあいだ、広場に落ちている石を拾ってあつめ、邪魔にならない場所に放りなげていた。 すそぬぐ 僕がそばによると門番は手についた白い土をシャツの裾で拭いおとし、大きな手を僕の背 中においた。それが親密さの表現なのかあるいはその大きな力強い手を僕に認識させるため なのか、僕にはどちらとも決めかねた。 「あんたの影は俺がちゃんと大事に預っといてやるよ」と門番は言った。「食事も三度三度 ちゃんと与えるし、一日一度は外に出して散歩もさせる。だから安心しな。あんたが心配す 終 のるよ、つなことは何もないよ」 界 「ときどき会うことはできますか ? 世 「そうだな」と門番は言った。「いつでも自由にというわけにはいかんが、会えんわけじゃ ない。時期が合い、事情が許し、俺の気が向けば会える」 「じゃあもし僕が影を返してもらいたいと思ったときはどうすればいいんですか ? 「あんたはどうもまだここの仕組がよくわかっていないようだな」と門番は僕の背中に手を たれ あてたまま言った。「この街では誰も影を持っことはできないし、一度この街に入ったもの は二度と外にでることはできない。したがってあんたの今の質問はまったく意味をなさない とい、つことになる」 そのようにして僕は自分の影を失ったのだ。 111
「夜の八時だ」 僕はべッドから起きあがろうとしたが、 体がまだ少しよろけた。 たず 「どこに行くんだ ? 」と老人が訊ねた。 「図書館です。夢読みをしなくちゃいけない と僕は言った。 「馬鹿言っちゃいかん。今の体じゃ君は五メートルも歩けんよ」 ン 「でも休むわナこよ ) 、よいんです」 ン 老人は首を振った。「古い夢は待ってくれるさ。それに門番も娘も君が当分ここを動けん ワ ことは知っている。図書館だって開いちゃいまい」 もど 老人はため息をついてストーヴの前に行き、カップに茶を注いで戻ってきた。風が一定の ポ間隔をおいて窓を叩いていた。 ←「察するところ君はどうやらあの娘のことが好きなようだな」と老人は言った。「聞くつも りはなかったんだが、聞かないわけにはいかなかった。ずっとそばについていたものでね。 たれ 終熱にうなされると人はうわごとを言うものだ。、、 へつに恥かしがることはない。若い人間は誰 世でも恋をするものだ。そうだろう ? 」 僕は黙って肯いた。 「良い娘だよ。それに君のことをとても心配していた」と言って老人は茶をすすった。「し かし君が彼女に恋をすることは事態の進行にとってあまり適当なことではないだろうね。こ んなことはあまり言いたくないのだが、 このあたりでいくらかは君に教えておかなくてはな 286
っと深く、もっと強いものだ。そしてもっと矛盾したものだ」 僕は目を閉じて、様々な方向にちらばった思いをひとつひとっ拾いあつめた。 「僕はこう思うんです」と僕は言った。「人々が心を失うのはその影が死んでしまったから じゃないかってね。違いますか ? 」 「そのとおりだよ」 ラ「彼女の影はもう死んでしまっていて、その心をとり戻すことはできないというわけなんで ダ すね ? 」 ワ 老人は肯いた。「私は役所に行って、彼女の影の記録を調べてみたんだ。だから間違いな 、 0 あの子が十七のときに影は死んでいる。その影はきまりどおりりんご林の中に埋められ ポた。その埋葬記録も残っておる。それ以上のくわしいことは直接彼女に訊いてみなさい。そ 一の方が私の口から聞かされるより君も納得がいくだろう。しかしもうひとつだけ言い加える なら、あの子は物心つく前にその影をひき離されておる。だからかって自分の中に心という のものが存在したことすら覚えてはおらんはずだ。私のように年老いてから自分の意志で影を 世捨てた人間とは違う。私にはそれでも君の心の動きというものを推察することができるが、 あの娘にはできん 「しかし彼女は母親のことをよく覚えています。彼女が言うには彼女の母親には心が残って いたらしいんです。影を死なせてしまったあとにもね。どうしてそうなったのかはわからな いけれど、それは何かの助けにはなりませんか ? 彼女もそんな心のいくらかを引きついで
ない」 「そのあとマスターベーションした ? 」 「しない」と私は言った。そのあと私はとても仕事がにしくて、今日までクリーニングに出 したままの大事な上着をとりに行く暇もなかったのだ。マスターベーションなんてするわけ かない。 うなず 私がそう言うと彼女は納得がいったように肯いた。「きっとそのせいよ」と彼女が言った。 「マスターベーションしなかったせいで ? 」 ワ 「まさか、好鹿ねえ」と彼女は言った。「仕事のせいよ。仕事がすごく忙しかったんでし ポ「そうだな、おとといは二十六時間くらい眠れなかった」 「どんな仕事 ? 「コンピューター関係」と私は答えた。仕事を訊かれたとき、私はいつもそう答えることに うそ している。だいたいのラインとしては嘘じゃないし、世間の大抵の人はコンピューター・ビ 世ジネスについてそれほど深い専門知識を持っているわけではないので、それ以上っつこんだ 質問をされずに済む。 「きっと長時間頭脳労働したせいで、すごくストレスがたまって、それで一時的に駄目にな っちゃったのね。よくあることよ」 「ふうん」と私は言った。たぶんそうなのかもしれない。疲れているうえに、この二日ばか
ふめいりよう 水音の反響のせいで私には何も聞きとれなかったし、暗いのとロの開きかたが不明瞭なせい とで、唇の動きを読みとることもできなかった。 と男は言って 「 : ・・ : でなから : ・・ : せいです。あんたのすまと・ : ・ : わるいから、これと : ともかく危険はなさそう いるように見えたが、 これでは何のことやらさつばりわからない。 だったので、私は懐中電灯をつけてその光で自分の顔を横から照らし、指で耳をつついて何 も聞きとれないとい、つことを相手に一小した。 ン うなず 一男は納得したように何度か肯いてからカンテラを下におろし、雨合羽のポケットの中に両 ン手をつつこんでもそもそとしていたが、そのうちにまるで潮が急激に引いていくように私の ごうおん み ワ まわりに充ちていた轟音がどんどん弱まっていった。私はてつきり自分が失神しかけている のだと思った。意識が薄れて、そのために頭の中から音が消えていくのだ、と。それで私は イ 転倒にそな どうして自分が失神しなくてはならないのかよくわからなかったけれど えて体の各部の筋肉をひきしめた。 しかし何秒かたっても私は倒れなかったし、気分もごくまともだった。ただまわりの音が 小さくなっただけだった。 「迎えにきたです」と男は言った。今度ははっきりと男の声が聞こえた。 私は頭を振って懐中電灯をわきにはさみ、ナイフの刃を収めてポケットにしまった。とん でもない一日になりそうな予感がした。 「音はどうしたんですか ? 」と私は男にたずねてみた。
267 した。一瞬間を置いてずきんという鈍い痛みがやってきた。小男がティッシュ・ペー 刃についた血を拭きとってから刃を収めると、大男は私の体を離した。血が私の白いジョッ キー・ショーツを赤く染めていくのが見えた。大男がバスルームから新しいタオルを持って きてくれたので、私はそれで傷口をおさえた。 「七針でなおるよ」と小男の方が言った。「まあ少しは傷は残るけど、そこならたいして人 ン 目にもっかんだろう。気の毒だとは思うが、これも浮き世のなりゆきでね、我漫してもらう しかないな」 ン 私はタオルを傷口から離して、切られたあとを眺めた。傷口はそれほど深くはないが、そ ワ れでも淡いピンク色の肉が血にまじって見えた。 ンステム 「俺たちがここを出たら『組織』の連中が来るからその傷を見せるんだ。そして頭骨のあり イ 垰かを言わなかったらもっと下を切るとおどかされたって言うんだ。しかしあんたは本当にそ のありかを知らなかったので教えようがなかった。それで俺たちはあきらめて帰っていった。 ごうもん これが拷問だ。俺たちが真剣になるともっとすごいのをやるけどね。でもまあ今はこの程度 で十分だ。またいっかチャンスがあったらもっとすごいのをじっくり見せてやるよ」 うなす 私は下腹部をタオルでおさえたまま、黙って肯いた。理由はうまく言えないけれど、彼ら の言うとおりにした方か良いような気がした。 「ところであのかわいそうなガス屋は本当は君たちが雇ったんだろう ? 」と私は訊いてみた。 「それで、わざと失敗するようにして、僕が用心して頭骨とデータをどこかに隠すように仕
226 はいざら 私は冷蔵庫の上を探してずっと前に酒屋でもらったバドワイザーのマーク入りの灰皿をみ つけ、ほこりを指で拭いて男の前に置いた。男は短かく歯切れの良い音を立てて煙草に火を つけ、目を細めて煙を宙に吐きだした。彼の体の小ささにはどことなく奇妙なところがあっ た。顔も手も脚もまんべんなく小さいのだ。それはまるで普通の人間の体をそのまま縮小コ ン ピーしたような体型だった。おかげでべンソン & ヘッジスは新品の色鉛筆くらいの大きさに 見えた。 ン ワ ちびは一言も口をきかずに、煙草の先端が燃えていくのをじっと見つめていた。ジャン・ ルリュック・ゴダールの映画ならここで「彼は煙草が燃えていくのを眺める」という字幕が入 ・リュック・ゴダールの映画はすっかり時代遅れになって ポるところだが、 幸か不幸かジャン たた 一しまっていた。煙草の先端が十分な量の灰と化してしまうと、彼は指でとんとんとそれを叩 といてテープルの上に落とした。灰皿には見向きもしなかった。 の「ドアのことだけど」とよくとおるピッチの高い声でちびは言った。「あれは壊す必要があ 世ったんだ。だから壊した。おとなしく鍵をあけようとすればあけることもできたんだけれど、 そういうわけだからまあ悪く思わんでほしい」 「うちの中には何もないよ。探せばわかると思うけど」と私は言った。 「探す ? と小男はびつくりしたように言った。「探す ? 彼は煙草を口にくわえたまま手 のひらをほりほりと掻いた。「探すって、何を探すの ? 」
かどっているみたい」 「いったい頭骨はどれくらいあるんだいワ・ 「すごく沢山よ。千か二千。見てみる ? 彼女は僕をカウンターの奥にある書庫に入れてくれた。書庫は学校の教室のようながらん とした広い部屋で、そこには何列にも棚が並び、棚の上には白い獣の頭骨が見渡す限りに置 かれていた。それは書庫というよりは墓所という方がびたりときそうな眺めだった。死者の 発するひやりとした空気が部屋を静かに覆っていた。 「やれやれ」と僕は言った。「これを全部読むにはいったい何年かかるだろうね ? 終 の「あなたはこれを全部読む必要はないのよ」と彼女は言った。「あなたはあなたの読めるだ 界けの古い夢を読めばいいのよ。もし残ればそれは次に来た夢読みが読むわ。古い夢はそれま で眠りつづけるのよ」 「そして君はその次の夢読みの手伝いもするのかい ? 」 ) え、私が手伝うのはあなただけよ。それは決められていることなの。一人の司書は一 人の夢読みの手伝いしかできないの。だからあなたが夢読みをやめたら、私もこの図書館を 去るのは」 僕は肯いた。理由はわからなかったが、 それは僕にはごくあたりまえのことのように感じ られた。我々はしばらく壁にもたれて棚に並んだ白い頭骨の列を眺めていた。 たす 「君は南のたまりに行ってみたことあるかい ? 」と僕は訊ねてみた。 201 たな
な」 イは黙って肯いた。僕が何かを言って聞くような相手ではないし、いずれにせよ僕はいち おう影と口をきくことができたのだ。あとは門番が与えてくれる機会を気長に待っしかなか つ、」 0 門番は椅子から立ちあがって流しに行き、大きな陶器のカップで水を何杯も飲んだ。 ン 「仕事はうまくいってるかね ? 」 「そうですね。少しずつ慣れてます、と僕は言った。 「そりやい と門番は言った。「仕事をきちんきちんとやるのがいちばんだ。仕事をきち んとできない人間がつまらんことを考えるんだ」 外では僕の影が釘を打ちつける音がまだつづいていた。 「どうだ、少し一緒に散歩しないか ? 」と門番が言った。「面白いものを見せてやるよ」 僕は門番のあとについて外に出た。広場では僕の影が荷車の上に乗って最後の側板を打ち つけているところだった。荷車は支柱と車輪だけを残してすっかり新しくなっていた。 世門番は広場をとおりぬけて、壁の望楼の下あたりに僕をつれていった。むし暑いどんより と曇った午後だった。壁の上空には西からはりだしてきた黒い雲がかかり、いまにも雨が降 りだしそうだった。門番の着たシャツは汗にぐっしよりと濡れて、彼の巨大な体にまつわり つき、嫌な臭いを放っていた。 たた 「これが壁だ」と門番は言って、手のひらで馬を叩くときのように何度か壁を叩いた。「高 おもしろ
っとして僕には理解できない。そして質問することができる相手はあなた一人しかいないん です」 はあく 「私だってものごとのなりたちを何から何まで把握しておるというわけではない」と老人は 静かに言った。「またロでは説明できないこともあるし、説明してはならん筋合のこともあ る。しかし君は何も心配することはない。街はある意味では公平だ。君にとって必要なもの、 君の知らねばならんものを、街はこれからひとつひとっ君の前に提示していくはずだ。君は それをやはりひとつひとつ自分の手で学びとっていかねばならんのだ。いいかね、ここは完 全な街なのだ。完全というのは何もかもがあるということだ。しかしそれを有効に理解でき 終 のなければ、そこには何もない。完全な無だ。そのことをよく覚えておきなさい。他人から教 界 えられたことはそこで終ってしまうが、自分の手で学びとったものは君の身につく。そして 世 君を助ける。目を開き、耳を澄まし、頭を働かせ、街の提示するものの意味を読みとるんだ よ。心があるのなら、心があるうちにそれを働かせなさい。私が君に教えることができるの はそれくらいしかない やみ 彼女が住む職工地区がかっての輝きを闇の中に失った場所であるとするなら、街の南西部 にひろがる官舎地区は、乾いた光の中でたえまなくその色を失いつづける場所だ。春がもた うるお らした潤いを夏が溶かし、冬の季節風が風化させてしまったのだ。「西の丘」と呼ばれる緩 やかな広い斜面に沿って、二階建ての白い官舎がずらりと立ち並んでいる。もともとひとっ 147