「それを俺が邪魔しちゃったわけだからね 「でもそれは知るべきことだったんだ」と僕は言った。 うなず 影は肯いた。それから顔を上げ、りんご林の方向から立ちのぼる灰色の煙に目をやった。 「あのぶんじゃ門番が獣を焼き尽すのにはまだかなりの時間がかかりそうだね , と彼は言っ た。「それにもう少しで俺たちの上りは終る。そうすればあとは南の丘のうしろをまわりこ ン んでいくだけだし、そこまで行ってしまえば一安、いさ。門番はもう俺たちに追いつけない ン 影はそう言って手でやわらかな雪をすくい ばらばらと地面に落とした。 ワ 「俺がこの街に必す隠された出口があると思ったのははじめは直感だった。でもそのうちに それは確信になった。なぜならこの街は完全な街だからだ。完全さというものは必ずあらゆ イ もっと朮 ポる可能性を含んでいるものなんだ。そういう意味ではここは街とさえもいえない。 ←動的で総体的なものだ。あらゆる可能性を提示しながら絶えずその形を変え、そしてその完 咾全性を維持している。つまりここは決して固定して完結した世界ではないんだ。動きながら の完結している世界なんだ。だからもし俺が脱出口を望むなら、脱出口はあるんだよ。君には 世俺の言ってることがわかるかい ? 」 「よくわかるよ」と僕は言った。「僕もそのことに昨日気づいたばかりだ。ここは可能性の 世界だってね。ここには何もかもかあるし、何もかもかない」 影は雪の中に腰を下ろしたまましばらく僕の顔を見つめていた。それから黙って何度か肯 いた。雪は少しずっその勢いを増していた。新たな大雪が街に近づいているようだった。 320
ては私は彼らに感謝しないわけにはいかなかった。もし鉄格子がはまったままだったとした ら我々は外界を目の前にしながら身動きできなくなるところだったのだ。 丸い出口の外に信号灯と器具の収納庫のような四角い木の箱のようなものが見えた。線路 と線路を隔てるコンクリートの黒ずんだ支柱が杭のように等間隔に並んでいた。支柱につい たランプが構内をほんやりと照らしだしていたが、その光は私の目には必要以上に眩しく感 ン ラじられた。長いあいだ光のない地底にもぐっていたせいで目がすっかり暗闇に同化してしま ったのだ。 ン ワ 「少しここで待って、目を光に慣れさせましよう」と彼女は言った。「十分か十五分でこれ ルくらいの光に置れるわ。それに慣れたら少しまた先に進むのよ。そしてまたそこでもっと強 ポい光に目をらすの。でないと目が見えなくなっちゃうの。それまでは電車が通っても絶対 一に見ちゃ駄目よ。わかった ? 」 A 」 「わかった」と私は言った。 彼女は私の腕をとって、コンクリートの乾いた部分に私を座らせ、そのとなりに並んで腰 世を下ろした。そして体を支えるように私の右腕の肘の少し上あたりを両手で握った。 まぶた 電車の音が近づいてきたので、我々は下を向いてしつかりと目を閉じた。瞼の外側で黄色 ごうおん いギラギラとした光がしばらく点滅し、やがて耳か痛くなるような轟音とともに消えていっ そでほお た。眩しさのせいで、目から大粒の涙がいくつもこほれた。私はシャツの袖で頬に落ちた涙 を拭った。 174 まふ
もった音に変化していた。水位は確実に上昇しているのだ。足もとが見えないせいで、水面 がどのあたりまで来ているのかはわからなかったが、今この瞬間にひやりとした水が私の足 首を洗ったとしても何の不思議もないような気がした。 何から何までが悪い気分のときに見る悪い気分のする夢に似ていた。何かが私を追いかけ ているのだが、私の足はうまく前に進まず、その何かは私のすぐうしろにまで迫っていて、 ン ラ私の足首をぬるぬるとした手でつかもうとしているのだ。夢としても救いようのない夢なの ノに、それがまるつきりの現実となれば事情はもっとひどかった。私はステップを無視して両 ワ 手でしつかりと岩をつかみ、それにぶらさがるような要領で体を前へと進めた。 いっそのこと水につかって水面を泳ぎながら上までのほったらどうだろう、と私はふと思 ポった。その方が楽だし、。こ、、 オししち落下する心配もない。しばらく頭の中でその思いっきを検 一討してみたが、私の思いつく考えにしては質はそれほど悪くなさそうに田 5 えた。 しかし私がその考えを伝えると、彼女は即座に「それは無理よ」と言った。「水面の下に 終 はかなり強い水流が渦巻いているし、そんなのに巻きこまれたら泳ぐどころじゃないわよ。 の 世一一度と浮かびあがってはこられないし、もしうまく浮かびあがれたとしても、こんなまっ暗 闇の中じやどこにも泳ぎつけないわ」 要するにどれだけもどかしくとも一歩一歩のばりつめていくしか手はないのだ。水音はモ ーターが少しずつ減速していくように刻一刻とその音程を低め、音の響きは鈍いうめきのよ うなものへと変化していった。水位は休むことなく上昇しつづけているのだ。まともな光さ やみ
294 に白い光の膜に覆われた。 「何かを感じるわ」と彼女は言った。「それが何かはわからないけれど、どこかで昔感じた ことのあるもの。空気とか光とか音とか、そういうものよ。説明できないけれど」 のど 「僕にも説明できない」と私は言った。「喉が乾いたな」 丿力いいのかしら、それとも水 ? 」 「ビーレゞ ン 「ビーレゞ ). 力いい」と私は言った。 彼女が冷蔵庫からビールを出してグラスと一緒に居間にはこんでくるあいだ、私はソファ ン ワ ] のうしろに転がっていた腕時計を拾って時刻を見た。四時十六分だった。あと一時間と少 ルしで夜が明けはじめる。私は電話機をとって自分の部屋の番号をまわしてみた。自分の部屋 ボに電話をかけたことなんて一度もなかったので、番号を思いだすのに少し時間がかかった。 ←誰も出なかった。私はベルを十五回鳴らしてから受話器を置き、またダイヤルをまわしてべ 咾ルを十五回鳴らしてみた。結果は同じだった。誰も出ない。 のあの太った娘はもう地底で待っ柤父のもとへ帰っていったのだろうか ? それとも彼女は ンステム 世私の部屋にやってきた記号士か『組織』の人間につかまってどこかにつれさられてしまった と私は田っ のだろうか ? しかしいずれにせよ彼女はきっとうまくやっているに違いない た。彼女は何があってもおそらく私の十倍くらいうまくそれに対処していけるはずだった。 それも私の半分の歳でだ。たいしたものだ。私は受話器を置いてから、もう二度とあの娘に さび 会えないことを思って少し淋しい気持になった。まるで閉館するホテルからソファーやシャ
は見当もっかない。 「もし君の言うとおりだとしたら、ひどく儲かる商売になるだろうね」と私は言った。「両 方を競りあわせることによって、値段をいくらでもつりあげていくことができる。力を伯仲 させておけば値崩れする心配もない」 「柤父は『組織』の中で研究を進めているうちにそのことに気づいたのよ。結局のところ システム ハ『組織』は国家をまきこんだ私企業にすぎないのよ。私企業の目的は営利の追求よ。営利の 追求のためにはなんだってやるわ。『組織』は情報所有権の保護を表向きの看板にしている ンけれど、そんなのは口先だけのことよ。柤父はもし自分がこのまま研究をつづけたら事態は ワ もっとひどいことになるだろうと予測したの。脳を好き放題に改造し改変する技術がどんど ルん進んでいったら、世界の状況や人間存在はむちゃくちゃになってしまうだろうってね。そ イ ファクトリー こには抑制と歯止めがなくちゃいけないのよ。でも『組織』にも『エ場』にもそれはない ←わ。だから柤父はプロジェクトを降りたの。あなたや他の計算士の人たちには気の毒だけど、 し。 ( しかなかったのよ。そうすれば先に行ってもっと沢山の犠牲 それ以上研究を進めるわナこよゝ 者が出たはずよ」 「ひとっ訊きたいんだけれど、君は最初から最後まで事情をぜんぶ知っていたんだろう ? 」 と私は訊いてみた。 「ええ、知っていたわ」と少し迷ってから彼女は告白した。 「どうして最初にそれをすっかり教えてくれなかったんだ ? そうすればこんな馬鹿気たと 151 システム システム も - っ . ンステム
もど れません。いつになるかはわかりませんが、もしそうなれば私も森を出て街に戻ることがで きます。しかしそれまでは駄目です。森から一歩も外に出ることはできません。ここで三日 ごとにやってくる風を待っているわけですね うなず ま 僕は肯いて茶の残りを飲んだ。風音が始まってからそれほど長い時間は経っていない だ二時間か二時間半くらいはこの音がつづくのだろう。じっと風音を聴いていると、少しず っそちらの方に体がひつばっていかれそうな気がした。森の中のがらんとした発電所で一人 さび でこの風音を聴いているのはきっと淋しいものなのだろうと僕は想像した。 「ところであなたがたは発電所の見学のためだけにここにいらっしやったんではないでしょ 終 のう ? 」とその若者が僕に訊いた。「さっきも申しあげたように街の人はまずここまでは来ま 界 せんからね」 世 「我々は楽器を探しに来たんです」と僕は言った。「あなたのところにうかがえば楽器がど こにあるかわかると教えられたんです」 さら 彼は何度か肯いて、皿の上にかさねるようにして置かれたフォークとナイフをしばらく見 つめていた。 「たしかに楽器ならここにいくつかあります。古いものなので使えるかどうかはわかりませ んが、もし使えるものがあればお持ちになって下さい。どうせ僕には何も弾けません。並べ て眺めているだけです。ごらんになりますか ? 」 「そうさせていただければ」と僕は言った。 137
ン 「地震なんかじゃないわ」と彼女は言った。「地震よりずっとひどいものよ」 ダ ン 「たとえばどんな ? 」 ワ 彼女は何かを言おうとして一瞬息を吸いこんだが、すぐにあきらめて首を振った。 レ 「今はちょっと説明している暇はないわ。とにかく思いきり前に走って。それしか助かる道 はないのよ。おなかの傷は少し痛むかもしれないけど、死ぬよりはましでしょ ? 」 「たぶんね」と私は言った。 みぞ 我々はロープでお互いの体をつなぎあわせたまま、全速力で溝の中を前方にむけて走った。 彼女が手にしたライトが彼女の歩調にあわせて大きく上下に揺れ、溝の両側に切りたったま っすぐな高い壁に折れ線グラフのようなぎざぎざの模様を描いた。私の背中ではナッブザソ かんづめ クの中身ががらがらと音を立てて揺れていた。缶詰や水筒やウイスキーの瓶や、そんないろ いろなものだ。できることなら必要なものだけ残してあとはぜんぶ放りだしてしまいたかっ たが、立ち止まる余裕はとてもなかった。私は腹の傷の痛みについて思いを巡らす暇すらな ワ」ノ ードボイルド・ワンダーランド ひる 穴、蛭、塔 びん
朝目覚めたとき、森の中の出来事は何もかも夢の中で起ったことのように感じられた。し かしそれが夢であるはずはなかった。テープルの上には古い手風琴が衰弱した小動物のよう 終 のに身を縮めて小さく横たわっていた。すべては現実に起ったことなのだ。地底から吹きあが 界 る風で回転するファンも、不幸そうな顔をした若い管理人も、その楽器のコレクションも。 世 しかしそれとはべつにの頭の中では妙に非現実的な音がずっとつづいていた。それはま るで僕の頭の中に何かが突きささっているような音だった。音は休みなくつづき、休みなく 、。 ) 貝よし」くまとも 僕の頭の中に何か扁平なものを突きたてていた。頭が痛いわけではなし豆 ( だった。ただ非現実的なだけだった。 僕はべッドの中から部屋を見まわしてみたが、部屋にはとくにかわった点はなかった。天 ゆが 井も四方の壁も少しいびつに歪んだ床も窓のカーテンも、いつもと同じだった。テープルが あり、テープルの上には手風琴があった。壁にはコートとマフラーかかかっていた。コート のポケットからは手袋がのそいていた。 179 へんべい 世界の終り 穴
「人は年をとるんだ」と私は言った。「たとえ冷凍されていてもね」 「元気でね」と彼女は言った。 「君もね」と私は言った。「君と話せてなんだか少し楽になったような気がするよ」 「この世界に戻れる可能性が出てきたから ? でもそれはまだできるかどうかわからないし、 とても 「いや、そうじゃないんだ。もちろんそういう可能性がでてきたことはとてもありがたい。 うれ ンでも僕が一言うのはそういう意味じゃなくて、君と話せたのがとても嬉しかったっていうこと さ。君の声が聞けて、君が今何をしているかというのがわかったことがね、 「もっと長く話す ? 」 ポ「いや、もうこれでいいよ。時間があまりないからね ←「ねえ」と太った娘が言った。「怖がらないでね。あなたがもし永久に失われてしまったと しても、私は死ぬまでずっとあなたのことを覚えているから。私の心の中からはあなたは失 のわれないのよ。そのことだけは忘れないでね」 世「忘れないよ」と私は言った。そして電話を切った。 十一時になると私は近くの便所で小便を済ませ、公園を出た。そして車のエンジンを入れ、 冷凍されることについていろいろと思いを巡らせながら港に向って車を進めた。銀座通りは ビジネス・スーツを着た人々でいつよ、。こっこ。 ( しオオ信号待ちのあいだ私はその中に買物をして いるはずの図書館の女の子の姿を探し求めたが、残念ながら彼女は見あたらなかった。私の 338
雪の積った丘の斜面を下って図書館にでかけた。しかし眩しい光に目を痛めた日には、僕に はいつものように多くの夢を読むことができなかった。ひとっかふたつの頭骨を処理すると、 その古い夢が発する光のせいで僕の眼球はまるで針で刺されたように痛んだ。そして目の奥 のほんやりとした空間が砂でもつめられたように重くなり、それにつれて指先がいつもの微 ド妙な感覚を失っていった。 そんなときには彼女は濡れた冷たいタオルで僕の目をもみほぐし、薄いスープかミルクを ダ ン あたためて飲ませてくれた。スープもミルクも妙にざらざらとして舌ざわりが悪く、味もや ワ わらかみに欠けたが、何度も飲んでいるうちにロが少しずつ慣れ、それなりのうまさを感じ ルることかできるよ、つになった。 うれ イ ほほえ ポ僕がそう言うと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。 一「それはあなたがだんだんこの街に慣れてきているということなのよ」と彼女は言った。 「この街の食べ物は他のところのものとは少し違っているの。私たちはほんの少しの種類の のように見 終材料でいろんなものを作っているのよ。肉のように見えるものは肉じゃない、卵 世えるものは卵じゃないし、コーヒーのように見えるものはコーヒーじゃないの。ぜんぶそれ に似せて作ってあるだけ。そのスープは体にとても良いのよ。どう、体があたたまって少し 頭の中が楽になったでしょ ? 「そうだね」と僕は言った。 もど たしかに僕の体はス 1 プのおかげであたたかみをとり戻し、頭の重みもさっきよりはずつ