彼女 - みる会図書館


検索対象: 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 下巻
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1. 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 下巻

してまた床の上の服を眺めた。彼女の淡いプルーのストッキングの上に私のシャツの袖が載 っていた。ヴェルヴェットのワンピースはウエストの部分で身をくねらせるように折れまが り、薄い生地のスリップが垂れた旗のようにそのわきに置かれていた。ネックレスと腕時計 すみ ーバッグは部屋の隅のコーヒーテープルの はソファーの上に放りだされ、黒い皮のショルダ 上に横向けになっている。 脱ぎ捨てられた彼女の服は彼女自身より彼女らしく見えた。あるいは私の服だって私自身 ン 一より私らしく見えるのかもしれない。 ン 「どうして図書館につとめたの ? 」と私は訊いてみた。 ワ 「図書館が好きだったからよ」と彼女は言った。「静かで、本がいつばいあって、知識が詰 まってるわ。銀行や貿易会社には勤めたくなかったし、先生になるのも嫌だったし」 ポ 私は煙草の煙を天井に向けて吐き、その行方をしばらく眺めていた。 「私のことを知りたいの ? 」と彼女が訊いた。「どこで生まれたとかどんな少女時代だった とかどこの大学に行ったとかいっ処女を失っただとか好きな色だとか、そういうことを 「いや」と私は言った。「今はいい。少しずつ知りたい」 「あなたのことも少しずつ知りたいわ 「海の近くで生まれたんだ」と私は言った。「台風が去った次の朝に海岸に行くと、浜辺に いろんなものが落ちていた。波で打ちあげられたんだ。想像もっかないようなものが、いっ ばい見つかる。瓶やら下駄やら帽子やら眼鏡ケ 1 スから椅子・机に至るまでなんだって落ち

2. 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 下巻

その贈悪は私がそれまでに体験したどのような種類の贈悪とも違っていた。彼らの贈悪は 地獄の穴から吹きあがってくる激しい風のように我々を押しつぶし、ばらばらにしようと試 みていた。地底の闇をひとつにあつめて凝縮したような暗い思いと、光と目を失った世界で 歪められ汚された時の流れが、巨大なかたまりとなって、我々の上にのしかかっているよう に感じられた。私はそれまで憎悪がこれほどの重みを持っことを知らなかった。 「足を止めないで ! ーと彼女が私の耳に向けてどなった。彼女の声はからからに乾いていた 一が、震えてはいなかった。彼女にどなられてはじめて、私は自分の足が止まっていることに ン気づいた。 ワ 彼女は腰と腰を結びあわせたロ 1 プを思いきりひつばった。「止まっちゃ駄目。止まった ルらおしまいよ。闇の中にひきずりこまれちゃうわ イ しかし私の足は動かなかった。彼らの贈しみが、私の足をしつかりと地面に押さえつけて いるのだ。時間がそのおぞましい太古の記億に向って逆戻りしているような気がした。私は 9 もうどこにも行けないのだ。 彼女の手が暗闇の中で思いきり私の頬を打った。一瞬耳が遠くなってしまうほどの激しさ 」っ , 」 0 「右よ ! 」と彼女のどなる声が聞こえた。「右よ ! わかる ? 右足を出すのよ。右だった とんま ら、この頓馬ー 私はがくがくと音を立てる右足をようやく前に出すことができた。彼らの声にかすかな落 159 ゆが ほお

3. 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 下巻

のことはよくわからないんです」 「他にあなたのように森に住みついている人はいるんですか ? 」と彼女が訊ねた。 管理人はしばらく考えこんでいたが、やがて小さく何度か肯いた。 「何人かは知っています。もっとずっと奥の方ですが、何人かはいます。彼らは石炭を掘っ たり、森を拓いて畑を作ったりしています。でも私の会ったことのあるのはほんの数人だし、 それもほんの少ししか口をきいていません。私は彼らに受け入れられていないからです。彼 らは森に住みついていますが、私はここで暮しているだけですからね。奥の方にはもっとた くさんそういう人たちかいるんでしようが、それ以上のことは私にもわかりません。私は森 終 のの奥には行かないし、彼らは入口の方までは殆んど出てはこないんです」 界 「女の人を見かけたことはありませんか ? 」と彼女が質問した。「三十一か二くらいの女の 世 人」 しいえ、女の人は一人も見かけませんでしたね。私の出会ったの 管理人は首を振った。「ゝ は男ばかりです 僕は彼女の顔を見たが、彼女はそれ以上はロをきかなかった。 121

4. 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 下巻

が言ったようにこのあたりが千駄ヶ谷で、そこから右に折れて神宮球場の方に行くんじゃな いかしら」 私は地上の風景を頭に思い浮かべてみた。もし彼女の言うとおりだとしたら、この上あた かわで りに二軒並んだラーメン屋と河出書房とビクタ 1 ・スタジオがあるはずだった。私の通って いる床屋もその近くにある。私はもう十年もその床屋に通っているのだ。 「この近くに行きつけの床屋があるんだ」と私は言った。 ン 「そう ? 」と彼女は興味なさそうに言った。 ン世界が終ってしまう前に床屋に行って髪を切るというのも悪くない考えであるような気が ワ した。どうせ二十四時間かそこらで何かたいしたことができるわけでもないのだ。風呂に入 ルってさつばりとした服に着替え、床屋に行くくらいが関の山かもしれない。 垰「気をつけてね」と彼女が言った。「そろそろやみくろの巣に近いらしいわ。声が聞こえる ←し、嫌な臭いもするわ。私から離れないようにびったりくつついていてね」 私は耳を澄まし、臭いを嗅いでみたが、それらしい音も臭いも感知できなかった。ひゆる ひゆるという奇妙な音波が聴こえたような気もしたが、はっきりとそれを知覚することはで きなかった。 やっ 「奴らは僕たちが近づいていることを知っているのかな ? 」 「もちろんよ」と彼女は言った。「ここはやみくろたちの国よ。彼らが知らないことはない わ。それでみんな腹を立てているのよ。私たちが彼らの聖域をとおり抜けて巣に近づいてい 157 せんだ

5. 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 下巻

鳴り程度のものになっていた。最悪の部分を乗り切ったのだ。彼女がライトを上にあげると、 その光は再び岩壁を照らしだした。我々は壁にもたれて深いため息をつき、手の甲で顔にべ っとりとついた冷たい汗を拭った。 彼女も私も長いあいだ口をきかなかった。やみくろたちの遠い声もやがて消え、再び静寂 うつ があたりを包んだ。どこかで水滴が地面を打つ小さな音だけが虚ろに響いていた。 たず ラ「彼らは何をあれほどに贈んでいるんだろう ? と私は彼女に訊ねてみた。 「光のある世界とそこに住む者をよ」と彼女は言った。 「記号士たちが奴らと手を組むなんて信じられないな。たとえどんなメリットがあるにせよ ポ彼女はそれには答えなかった。そしてそのかわりに私の手首をもう一度ぎゅっと握りしめ 「ねえ、私が今何を考えているかわかる ? 」 の「わからないと私は言った。 世「あなたがこれから行くことになる世界に私もついていくことができたらどんなに素敵だろ うって思っているのよ」 「この世界を捨てて ? 「ええ、そうよと彼女は言った。「つまらない世界だわ。あなたの意識の中で暮す方がず っと楽しそう」

6. 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 下巻

「私が何かあなたにしてあげられることはあるかしら ? 」と彼女はふと顔を上げて言った。 「君はとてもよくしてくれているよ」と僕は言った。 彼女は頭骨を拭いていた手を休めて椅子に座り、正面から僕の顔を見た。「私が言ってい るのはそういうことじゃないの。もっととくべつなこと。たとえばあなたのべッドに入ると か、そんなことね」 僕は首を振った。「いや、君と寝たいわけじゃないんだ。そう言ってくれるのは嬉しいけ どね」 「どうして ? あなたは私を求めているんでしよう ? 」 終 の「求めているさ。でも少くとも今は君と寝るわナこま、 しし ( しかないんだ。それは求めるとか求め 界 ないというのとはまたべつの問題なんだ」 世 彼女は少し考えこんでいたが、やがて再びゆっくりと頭骨を磨きはじめた。僕はそのあい だ首を上にあげて、高い天井とそこに吊された黄色い電灯を見ていた。たとえどれだけ僕の 心がこわばりつこうと、たとえどれだけ冬が僕をしめつけようと、今ここで彼女と寝るわけ に ( いかないのだ。そんなことをすれば僕の心は今よりずっと混乱してしまうし、僕の喪失 感はもっと深まっていくことだろう。おそらく街は僕が彼女と寝ることを望んでいるのだろ うという気がした。彼らにとってはその方がずっと僕の心を手に入れやすくなるのだ。 彼女か磨き終えた頭骨を僕の前に置いたが、僕はそれには手を触れずに、テープルの上に ある彼女の手の指を見た。僕はその指から何かの意味を読みとろうとしてみたが、それは不 つる

7. 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 下巻

胆が混じるのが感じられた。 「左 ! ーと彼女がどなり、私は左足を前に進めた。 「そうよ、その調子よ。ゆっくり一歩ずつ足を前に出すのよ。大丈夫 ? 」 大丈夫、と私は言ったが、それが本当に声になったのかどうかは自分でもわからなかった。 ド私にわかるのは、彼女が一言うようにやみくろたちが我々をその濃密な闇の中にひきずりこみ とりこも、つとしていることだった。彼らは恐布を我々の耳から体にもぐりこませてまず足を ダ とめさせ、それからゆっくりと手もとにたぐり寄せようとしているのだ。 ワ 一度足が動きはじめると、私は今度は逆に走りだしたいという衝動に駆られた。一刻も早 ルくこのおぞましい場所から脱出したかったのだ。 しかし彼女は私のそんな気持を察したかのように、手をのばして私の手首をしつかりと握 一りしめた。 「足もとを照らして」と彼女は言った。「壁に背中をつけて、一歩ずつ横に歩くの。わかっ のた ? 」 世「わかった」と私は言った。 「絶対に光を上にあげちゃ駄目よ」 「どうして ? 「やみくろがそこにいるからよ。すぐそこよ」と彼女は囁くように言った。「やみくろの姿 を絶対に見ちゃ駄目。見るとも、つ歩けなくなってしま、つから ささや

8. 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 下巻

我々は懐中電灯の光で足場をたしかめながら、一歩一歩横に歩いた。ときおり冷たく頬を 撫でる風が死んだ魚のような嫌な臭いをはこんできて、そのたびに私は息が詰まりそうにな った。内臓がはみだして虫のわいた巨大な魚の体内にはまりこんでしまったような気分だっ た。やみくろの声はまだつづいていた。それはまるで音の存在するはずのないところから無 理矢理音をしほりだしているような不快な音だった。私の鼓膜はねじまげられたままの形で だえき こわばり、ロの中にすえた臭いのする唾液が次から次へとたまった。 ン それでも私の足は反射的に横に進んでいた。私は右足と左足を交互に運ぶことにだけ神経 ンを集中した。ときどき彼女が私に何か声をかけたが、私の耳は彼女の言っていることをうま ワ く聴きとることはできなかった。生きている限り彼らのこの声を記憶から消し去ることはで ルきないだろうと私は思った。彼らの声はいっか再び深い闇とともに私に襲いかかってくるだ とら ろうと。そしていっか必ず、彼らのぬるぬるとした手が私の足首をしつかりと捉えるだろ 、つ この悪夢のような世界に入りこんでからどれくらいの時間が経過したのか、私にはもうわ からなくなってしまっていた。彼女が手にしたやみくろよけの装置はまだ作動中の青いラン プをつけていたから、それほどの長い時間は経っていないはずだったが、私にはそれが二時 間にも三時間にも感じられた。 しかしそのうちに空気の流れがふっと変るのが感じられた。腐臭がやわらぎ、耳にかかっ た圧力が潮が引くように弱まり、音の響き方も変化した。気がつくとやみくろの声も遠い海

9. 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 下巻

「書庫に行ってみよう」と僕は言った。 「書庫 ? 」 「書庫に行って頭骨を見ながら考えてみよう。何かうまい手を思いつけるかもしれない」 僕は彼女の手をとってテープルを立ち、カウンターのうしろにまわって書庫に通じるドア たな ン を開けた。彼女が電灯のスウィッチをつけると、ほの暗い光が棚に並んだ無数の頭骨を照ら いろあ うすやみ ラしだした。頭骨は厚いほこりをかぶったまま、その色褪せた白さを薄闇の中に浮かびあがら がんか ン せていた。彼らは同じような角度に口を開き、そのほっかりと開いた眼窩で同じように前方 ワ の虚空をじっと睨んでいた。彼らの吐きだす冷ややかな沈黙が透明な霧となって書庫に垂れ ルこめていた。我々は壁にもたれて、そんな頭骨の列をしばらく眺めていた。冷気が僕の肌を 刺し、骨を震わせた。 「私の心が本当に読めると思うの ? 」と彼女が僕の顔をみつめながら訊いた。 「僕には君の、いを読むことができると思う」と僕は静かに言った。 の「どんな風にして ? 世「それはまだわからない」と僕は言った。「でもきっとできる。僕にはわかるんだ。きっと うまい方法がある。そして僕はそれをみつける」 「あなたは川の中に落ちた雨粒を選りわけようとしているのよ」 「いい、刀し 心というのは雨粒とは違う。それは空から降ってくるものじゃないし、他のも のと見わけがっかないものじゃないんだ。もし君に僕を信じることができるんなら、僕を信 256

10. 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 下巻

にしみわたり、体の隅々から固くこわばったカが抜けていくのがはっきりと感じられた。久 しぶりに唄を耳にすると、僕の体がどれほど心の底でそれを求めていたかということをひし ひしと感じることができた。僕はあまりにも長いあいた唄を失っていたので、それに対する 飢えさえをも感じとることができなくなってしまっていたのだ。音楽は長い冬が凍りつかせ てしまった僕の筋肉と心をほぐし、僕の目にあたたかいなっかしい光を与えてくれた。 僕はその音楽の中に街そのものの息づかいを感じることができるような気がした。僕はそ の街の中にあり、その街は僕の中にあった。街は僕の体の揺れにあわせて息をし、揺れてい た。壁も動き、うねっていた。その壁はまるで僕自身の皮膚のように感じられた。 終 の僕はずいぶん長いあいだその曲を繰りかえして弾いてから楽器を手から離して床に置き、 界 壁にもたれて目を閉じた。僕は体の揺れをまだ感じることができた。ここにあるすべてのも 世 のが僕自身であるように感じられた。壁も門も獣も森も川も風穴もたまりも、すべてが僕自 身なのだ。彼らはみんな僕の体の中にいた。この長い冬さえ、おそらくは僕自身なのだ。 僕が手風琴をはずしてしまったあとでも、彼女は目を閉じて、僕の腕を両手でじっと握り くちびる ひとみ しめていた。彼女の瞳からは涙が流れていた。僕は彼女の肩に手を置いて、その瞳に唇をつ けた。涙はあたたかく、やわらかな湿り気を彼女に与えていた。ほのかな優しい光が彼女の ほお 頬を照らし、彼女の涙を輝かせていた。しかしその光は書庫の天井に吊された薄暗い電灯の ものではなかった。もっと星の光のように白く、あたたかな光だ。 僕は立ちあがって天井の電灯を消した。そしてその光がどこからやってくるのかをみつけ 287 すみずみ つる