たい内省的になりがちなものだから」 「いや、そんなんじゃないんだ」と私は空のグラスを手に持ったまま言った。「内省的にな ってるわけじゃない。ただ世界を構成しているいろんな細かいことが目につくだけなんだ。 かたつむりとか雨だれとか金物店のディスプレイとかさ、そんなものがすごく気になる」 「服をかたづける ? 」 、、 0 あの方が落ちつくんだ。かたづけなくていい」 「いや、あのままてしし 「かたつむりのこと話して」 せんたくや 「洗濯屋の前でかたつむりを見たんだ」と私は言った。「秋にかたつむりがいるなんて知ら ルなかった」 「かたつむりは一年じゅういるわよ」 一「そうだろうね」 から 「ヨーロッパではかたつむりは神話的な意味を持っているのよ」と彼女は言った。「殻は暗 の黒世界を意味し、かたつむりが殻から出ることは陽光の到来を意味するの。だから人々はか 世たつむりを見ると本能的に殻をたたいてかたつむりを外に出そうとするのね。やったことあ る ? 」 「ない」と私は言った。「君はいろんなことを知ってるんだね」 「図書館で働いているといろいろともの知りになるのよ」 私はテープルの上からセプンスターの箱をとって、ビャホ 1 ルのマッチで火をつけた。そ
認識ひとつで世界は変化するものなのです。世界はたしかにここにこうして実在しておる。 しかし現象的なレベルで見れば、世界とは無限の可能性のひとつにすぎんです。細かく言え ばあんたが足を右に出すか左に出すかで世界は変ってしまう。記億が変化することによって 世界が変ってしまっても不思議はない きべん 「それは詭弁のように聞こえますね」と私は言った。「あまりにも観念的にすぎる。あなた ン ラド ラは時間性とい、つものを虹 ~ 視している。そ、つい、つことか実際に問題となるのはタイム・ ックスにおいてのみです」 ワ 「これはある意味ではまさにタイム・パラドックスなのですよ」と博士は言った。「あんた ルは記億を作りだすことによって、あんたの個人的なパラレル・ワールドを作りだしておるん です」 「とすると、僕の体験しているこの世界は本来の僕の世界からは少しずつずれているという わけですね ? 」 たれ の「それは正確にはわからんし、誰に証明することもできんです。ただそういう可能性もない 世ではないということを私は言っておるですよ。もちろん私は本のような極端なパラレ ル・ワールドのことを意味しておるわけではないです。あくまでそれは認識上の問題です。 認識によって捉えられる世界の姿です。それは様々な面で変化しておるだろうと私は思いま すな」 「そしてその変化のあとでジャンクションが切りかわり、まるで別の世界が現われ、僕は とら
「でもそれは間違ってるんだ」と影は円のとなりに意味のない図形を描きながら言った。 「正しいのは俺たちで、間違っているのは彼らなんだ。俺たちが自然で、奴らが不自然なん だ。そう信じるんだね。あらん限りのカで信じるんだ。そうしないと君は自分でも気がっか ないうちにこの街に呑みこまれてしまうし、呑みこまれてからじゃもう手遅れってことにな る」 ラ「しかし何が正しくて何が間違っているというのはあくまで相対的なものだし、だいいち保 ン にはそのふたつを比べてみるにも尺度とするべき記憶というものが奪い去られているんだ」 ワ 影は肯いた。「君か混乱していることはよくわかるよ。しかしこう考えてみてくれ。君は 永久運動というものの存在を信じるかい ? 」 「いや、永久運動は原理的に存在しない」 ←「それと同じさ。この街の安全さ・完結性はその永久運動と同じなんだよ。原理的には完全 な世界なんてどこにも存在しない。しかしここは完全だ。とすれば必ずどこかにからくりが のあるはずなんだ。見た目に永久運動とうつる機械が何らかの目には見えない外的な力を裏側 世で利用しているようにね」 「君はそれをみつけたのかい ? 「いや、まだだ。さっきも君に言ったように俺は仮説を立ててはいるが、まだ細部を補強し なくちゃならないんだ。それにはもう少し時間がかかる」 「その仮説を教えてくれないか。僕にも少しは君のその補強作業を手伝えるかもしれない」
茶を飲むか、これは気分しだいではないのですか ? うなず 「実にまったくと言って博士は深く肯いた。「も、つひとつの問題は人間のその深層心理が 常に変化しておることです。たとえて一言うならば、毎日改訂版の出ておる百科事典のごとき ものですな。人間の思考システムを安定させるためにはこのふたつのトラブルをクリアする 必要がある」 「トラブル ? と私は言った。「それのどこがトラブルなんですか ? 人間のごく当然な行 ン 一為じゃありませんか ? 」 ン「まあまあ」と博士がなだめるように言った。「これを追究していくと、神学上の問題にな ワ るです。決定論というか、そういうことですな。人間の行為というものが神によってあらか すみ ルじめ決定されているか、それとも隅から隅まで自発的なものかということです。近代以降の 科学はもちろんその人間の生理的スポンタニアティーに重点を置いて進められてきた。しか ←しですな、自発性とは何かと訊かれても、誰にもうまく答えられんです。我々の中にある象 工場の秘密を誰も把握してはおらんからです。フロイトやユングが様々な推論を発表したが、 あれはあくまでそれについて語ることができるだけの術語を発明したにすぎんです。便利に はなったが、 それで人間のスポンタニアティーが確立したかというと、そんなことはない。 ふよ 私の目から見れば心理科学にスコラ哲学的色彩を賦与したというにすぎんですな」 そこで博士はまたふおっふおっとひとしきり笑った。私と娘は彼が笑いおわるのをじっと 待った。
「脳を再現したわけですか ? 」 「いや、違うです。脳はとても再現できんです。私のやったことはあんたの意識のシステム を現象レベルで固定したにすぎんです。それも定まった時間性の中でです。時間性というも のに対して脳が発揮するフレキシビリティーに対しては我々はまったくのお手上げです。し かし私のやったことはそれだけではありません。私はそのプラックポックスを映像化するこ とに成功したのです」 ン 博士はそう言って、私と太った孫娘の顔をかわりばんこに見た。 たれ ン「意識の核の映像化です。そんなことはこれまでに誰もやったことがない。不可能だったか ワ らです。私が可能にした。どうやったと思います ? 」 「わかりませんね」 「被験者に何かの物体を見せ、その視覚によって生じる脳の電気的反応を分析し、それを数 字に置きかえ、それからまたドットに置きかえます。最初はごく単純な図形しか浮かびあが ってこないが、何度も補整し、細部をつけ加えていくうちに、それは被験者が見たとおりの 映像をコンピューター・スクリ 1 ンに描きだす。ロで言うほど簡単な作業ではないし、とて つもない手間と時間がかかるですが、簡単に言っちまえばそうなります。そして何度も何度 もそれをかさねていくうちに、コンピュータ 1 は。ハターンをのみこんで脳の電気的反応から 自動的に映像を映し出すようになってくるわけです。コンピューターというのは実に可愛い ものですな。こちらが一貫した指示を出す限り、必ず一貫した仕事をやるですよ。 かわ
です。脳に電気的刺激を与えるしかない。 つまり脳のサーキットの流れを人為的に変えてし まうわけです。これは何もとくに珍しいことではない。精神性てんかん患者に対して現在も 行われておる定位脳手術をいくらか応用したにすぎんです。脳のねじれから生ずる放電をそ そうさい れによって相殺するわけですが : : : 専門的なことは省いてもよろしいですかな ? 「省いて下さい」と私は言った。「要点だけでい、。 してす」 ン 「要するに脳波の流れにジャンクションを設置するわけです。分岐点ですな。そのわきに電 ン極と小型電池を埋めこむ。そして特定の信号でかちんかちんとそのジャンクションが切りか ワ わるようにしておく」 「とすると僕の頭の中にもその電池と電極が埋めこまれていることになりますね ? 「もちろん」 一「やれやれ」と私は言った。 「いや、それはあんたが考えるほど布いことでも特殊なことでもないです。大きさだって あずきっふ 終 の / ⅲ不ら木ー ト豆立呈度のものだし、それくらいのものを体に入れて歩きまわっておる人は世間にいつば 世いおるです。それからもうひとっ申しあげておかねばならんことはオリジナル思考システム、 つまりとまった時計の方の回路はプラインド回路であるということですな。その回路に入る と、あんたは自分の思考の流れを一切認識することができんということです。つまりそのあ いだあんたは自分が何を考えて何をしておるのか、まるでわからんのです。そうしておかな いと、あんたが自分でその思考システムを改変してしまうおそれがあるからです」
「いや、実に助かったですよ」と博士は私に言った。「いつもはここに非常用の食糧を二、 三日困らんくらいのぶんは用意しておくんですが、今回はたまたま油断して補充しとらんか ったのですな。我ながら情ないことです。安逸な日々に慣れるとどうしても警戒心が散漫に なる。良い教訓ですよ。晴れた日に傘を貼って雨の日に備えよ。昔の人はなかなかうまいこ とを言、つですな」 ン ラ博士はしばらく一人でふおっふおっと笑っていた。 ダ ン 「これで食事も済んだことだし」と私は言った。「そろそろ本題に入りましよう。まず最初 ワ から順番に話してくれませんか。いったいあなたは何をしようとしていたのか ? 何をした のか ? その結果どうなるのか ? 僕は何をすればいいのか ? ぜんぶです」 ポ「かなり専門的な話になると思うですが」と博士は疑わしそうに言った。 一「専門的なところは噛み砕いて簡単に済ませて下さい。だいたいのアウトラインと具体的な 方策がわかればそれでいいんです」 の「せんぶ話しちまうと、あんたはたぶん私に対して腹を立てるんじゃないかと思いまして、 世それかどうも : 「腹は立てない」と私は言った。今さら腹を立てても何かの役に立っというものではない。 「まず最初に私はあんたに謝まらねばならんでしような」と博士は言った。「いかに研究の ためとはいえ、あんたをだまして利用し、ひいてはあんたをのつびきならん状況に追いこん でしまった。これについては私も深く反省をしておるです。口先だけではなく、心から申し
ノンクとして保存することにした。そうしておかないことにはも ンを作りあげて、メイン・ しあんた方の身に何かがあったときに身動きがとれんですからな。保険のようなものです」 「そのシミュレーションは完全なのですか ? 」 「いや、完全とはもちろんいかんですが、表層部分が有効に削除されておるぶんトレースは 楽になっておるですから、機能的にはかなり完全に近いものですな。くわしく一言うと三種類 ン の平面座標とホログラフによってこのシミュレーションは構成されておるです。従来のコン ダ ピュ 1 ターではもちろんこんなことは不可能だったが、 今の新しいコンピュ 1 ターはそれ自 ン ワ 体がかなり象工場的機能を含んでおるからそのような意識の複雑な構造に対応していけるの です。要するにマッピングの固定性の問題ですが、これは話が長くなるのでやめましよう。 イ ポごく簡単にわかりやすく説明するとトレースの方法はこういうことです。まずあんたの意識 一の放電パターンをコンピュ 1 ターにいくつもインブットします。。ハターンはその場合場合に よって微妙にずれています。ラインの中のチップが組みかえられ、バンドルの中のラインが 組みかえられているからです。その組みかえの中には計測上無意味なものもあれば、意味の 世あるものもあります。コンピューターがそれを判断します。無意味なものは排除され、意味 のあるものが基本的パタ 1 ンとして刻みこまれていく。それを何度も何度も何度も百万回単 位で繰りかえす。プラスティック・ペー ーをかさねていくみたいにです。そしてこれ以上 ずれが浮かびあがってこないことをたしかめてから、そのパターンをプラックポックスとし てキープするわけです」
ものにならんです。要するに誰でも手術さえ受ければシャフリングができるというわけでは なく、やはり適性というものがあるのだということが明らかになったわけです。 そんなこんなで残ったのは結局一二人でした。その三人はきちんとジャンクションが指定さ れたコールサインで切りかわり、凍結されたオリジナル思考システムを使って有効かっ安定 した機能を果すことができました。そして一カ月彼らを使って実験をかさね、その時点でゴ ・サインが出たんですな」 ン 「その次に我々がシャフリングの処置を受けたわけですね ? 」 ン「そのとおりです。我々は五百人に近い計算士の中からテストと面接をかさね、しつかりと ワ した精神的独自性を有し、しかも自己の行動と感情を規制できるタイプの健康で精神的病歴 のない男性を二十六人選びだしました。これはひどく手間のかかる作業でした。テストや面 イ ンステム 接だけではわからん部分もありますからな。それから『組織』はその二十六人一人ひとりに ついての詳細な資料を作りあげました。生いたち・学校の成績・家族・性生活・飲酒量 : きれい 5 とにかく全ての点についてです。あんたがたは生まれたての赤子のように綺麗に洗いあげら れたわけですな。だから私もあんたについてはわがことのようによく知っておるです」 「ひとつわからない点があります」と私は言った。「僕の聞いた話ではその我々の意識の核、 つまりプラックポックスが『組織』のライプラリーに保管してあるということでした。それ はどのようにして可能になるのですか ? 「我々はあんた方の思考システムを徹底的にトレースしました。そしてそのシミュレーショ ンステム
永遠の生ーーーと私は考えてみた。不死。 私は不死の世界に行こうとしている、と博士は言った。この世の終りは死ではなく、新た なる転換であり、そこで私は私自身となり、かって失い今失いつつあるものと再会すること ができるのだ、と。 そのとおりかもしれない。ゝ しや、たぶんそのとおりなのだろう。あの老人は何もかもを知 っているのだ。彼がその世界が不死であると言うのなら、それは不死なのだ。しかしそれで ン も私にはその博士の言葉は何ひとっとして訴えかけてはこなかった。それはあまりにも抽象 ばくぜん ノ的にすぎるし、あまりにも漠然としすぎていた。私は今のままでも十分に私自身であるよう ワ な気がしたし、不死の人間が自分の不死性についてどう考えるかなんて、私の想像力の狭い ル範囲をはるかに超えた問題だった。一角獣や高い壁が出てくるとなるとなおさらだ。まだ 垰『オズの魔法使い』の方がいくぶん現実的であるような気がする。 いったい私は何を失ったのだろう ? と私は頭を掻きながら考えてみた。たしかに私はい ろんなものを失っていた。細かく書いていけば大学ノ 1 ト 一冊ぶんくらいにはなるかもしれ ない。失くしたときはたいしたことかないように思えたのにあとで辛い思いをしたものもあ れば、逆の場合もあった。様々なものごとや人々や感情を私は失くしつづけてきたようだっ た。私という存在を象徴するコートのポケットには宿命的な穴があいていて、どのような針 と糸もそれを縫いあわせることはできないのだ。そういう意味では誰かが部屋の窓を開けて 首を中につつこみ、「お前の人生はゼロだー と私に向って叫んだとしてもそれを否定でき 233