が描かれ , サント・トメの壁画の天上界の先駆をなすものであろう . それより更に奇妙なのは , このく聖マウリシオ の殉教》の一年前に描かれたとされるくフェリーベ二世の夢》 ( 図 16 ) で , これは , 天空に現われたイエス・キリストの御 名を周囲に群がり参じる天使の大群が拝し , 下界では , 前景に教皇ピウス五世 , フェリーベ二世 , ォーストリアのド ン・ファン提督 , ヴェネッィア総督らが中心となって , 背後に連なる無数の大衆と一緒にいっせいに跪いて , 天空に 現われたイエス・キリストの御名を仰いで拝する . 奇妙な構図で , すばらしい想像力の所産だと驚嘆する . フェリー 二世たちの一群のすぐ右側の背後では , 地獄の怪魚レヴァイアサンの巨大な口が開かれて , そのなかで多数の裸の 人体がうごめき , なかにはまだ骸骨が肉体で覆い尽されていない人体もある . 最後の審判に先立って死んだ人々全体 の復活の場面で , 天使たちの吹くラッパの音に墓石をあげて死んだ人々が蘇生してくるマタイ伝に拠るラテン教会系 統の復活に対して , これはヨハネ黙示録に拠るギリシア教会系統の復活の図像の一要素で , 「海はその中にある死人 よみへデース を出し , 死も陰府〔地獄〕もその中にある死人を出したれば , 各自その行為に随ひて審かれたり . かくて死も陰府も火 いのちふみ の池に投げ入れられたり . この火の池は第二の死なり . すべて生命の書に記されぬ者はみな火の池に投げ入れたり . 」 と黙示録第 20 章の終りに記されている怖ろしい光景が展開している . 地獄の中から人々が蘇生してくる光景の背後は 真赤に燃える火の湖で , すでに小さく黒く幾人かの人が投げ込まれている . その傍 , 中ごろに「死」があって , そこで 多勢の群衆がひしめきあい , それに隣接する左側の遠方は「海」で , そこから丘辺の彼方に無数の群衆が続々と蘇生し くフェリーベニ世の夢》 部分 て来る . 中景では , もう近くに集まってきた群衆が一緒になって , 天空に現われた御名を仰ぎ拝している . 光はこの 御名から放射され , 発散して , 天空の天使の大群を照らし , 暗闇の地獄や地上世界まで神秘の光にほの暗く照らし出 されている . キリストの御名は , 最後の審判の預言として天空に現われる . プラント教授が指摘しているように , 1571 年のレバントの海戦の勝利を記念し , 勝利の指揮官オーストリアのドン・ファン提督の死 ( 1578 年 ) を悼んで描か れた図とすれば , ドン・ファン提督の私審判図であるが , 何れにせよビザンティンの「最後の審判」図像に従って構成 された極めて幻想的な画面である . 天上界や , 地獄・煉獄・海・火の湖といった現実を超えた世界に , フェリー 世や教皇ピウス五世たちまで喚び入れられ , まさにフェリーベ二世の夢幻である . 《オルガス伯の埋葬》の天上界は , まぐ 10 年足らず以前に描いたこのくフェリーベ二世の夢》の天空の場面から発しているものであろう . ともに審判図に関係 するものである . グレコは , かの言い伝え通りなら , ミケランジェロの描いたシスティーナ礼拝堂のく最後の審判 > の 大壁画に非常な感銘をうけ , この圧迫感に反挑する心の奧底の秘かな反抗心が暴発して , あの不遜な言葉となって現 われたのであろうが , 中世以来の図像伝統の上に , 彼なりに「最後の審判」図の構想をば秘かに練っていたに相違な い . それが , スペインに来て , このような作品となって現われたので , ここでも以前のイタリア時代からの考えが初 めて実を結んだことになる . ミケランジェロの《最後の審判》でも , 階級式に , 天使の群れ , 審判のキリスト , その両 側に並ぶ使徒たち , 次の階に審判を待つ蘇生した善悪の男女の群れ , さらに天国と地獄と配置される中世以来のラテ ン教会の図像配置の反映を残している . いくつかの群れに分けて , 中央の高所に立って審判を行なうキリストの周囲 に , 下から左右二列に積み重ね , 高所で連結する方式をとっている . ミケランジ = ロは , ルネサンスの合理的な遠近 図法による方式と彫刻家らしい群像および高浮彫りの方式とを併用してこの大構図を組み立てたのであるが , 画家グ レコは , 専ら , 線的遠近図法の方式と明暗調による空気遠近法の方式とをもって , この伝統的な多層 , 多区劃の構図 を近世的な統一あるヴィジョンに溶解しようと工夫している . 彼はミケランジェロよりも , もっと視覚的なイメージ としての統一を求めたのである . たしかに , 幾つものグループが繋ぎ合わされているぎこちなさはあるが , 天空は御 名を中心に半円形に大きく天使の大群が見事な遠近法をもって配列されて統一を作り , 下界の分立する光景を覆っ リムネー くフェリーベニ世の夢 > 部分
12 ー く福音書記者聖ヨハネぐ。磔刑 " のための下絵デッサン ) 》 福音書記者聖ヨハネ ( “磔刑”のための下絵デッサン ) 1600 年頃 ( 図 I ) ニューヨーク個人蔵 ウェゼイのカタログによれば ( Ⅱ , p. 151 ) , グレコは 250 点にのぼる素描を残したが , 今 日まで伝えられるものは僅か数点で , そのうちウェゼイは , ミュンヘンにあるく昼 > の寓意 像のデッサン ( 1570 ~ 74 年頃 ) , マドリード国立図書館のく福音書記者聖ヨハネ > ( 1577 年頃 ) , およびここに掲げるヴィルデンスタイン・コレクションのく福音書記者聖ヨハネ》の 3 点を 確実にグレコのものと認めている . ハインドが , これをプラド美術館にあるく磔刑のキリ スト》 ( 図 49 ) のための準備デッサンとしているのは正しいと言っている . お告げ ( モデナ , 工ステンセ美術館の小形三連祭壇画 ) 1567 年頃 ( 図Ⅱ ) モデナェステンセ美術館蔵 これはモデナのエステンセ美術館の収蔵品の中から 1937 年に発見され , ロドルフォ・パ ルッキニがグレコの初期の作品として発表してセンセーションを巻き起こしたものであ る . この年 , パリのガゼット・デ・ポーザール誌のグレコ特別展に陳列され , スペイン絵 画の専門家アウグスト・マイヤーによって広く美術愛好家 , 学者間に紹介され , 大多数の 美術史家の賛成を得てきた . しかし , ウェゼイは署名の点から , また画風の点からも , こ れをグレコの作と認めることを拒否している . リツツォーリ版のグレコも , これを真作か ら除外している . この小形三連祭壇画 ( 参図 1 ) は , 内側中央に細かく表わした最後の審判図のなかでく騎士 に冠を授けるキリスト》を描き , 左右両翼内面にく牧者礼拝 > とくキリストの洗礼 > を表わし , 外側は中央裏面にくシナイ山 > , 左右両翼の外面はくアダムとエバ》およびここに示すくお告 げ > である . 全体として , 画題や図像伝統から見ても , 画風から見ても , 16 世紀後期の作 であることは容易に認められるが , 東方ビザンティン的要素が西欧ヴェネッィアまたはロ ーマ的要素のうちに混っているのが認められる . くシナイ山》は , 東洋水墨画軸の山嶽形状 を想わせるような三つの高峰を聳え立たせ , 麓に小さく舟行する人々 , 路ゆく巡礼者たち を表わして , ビザンティン画像の伝統を想わせ , また後年のグレコのトレド風景の幻想的 な処理を想わせる明暗の対照が激しい . く騎士に冠を授けるキリスト》の場面も , ミケラン ジェロの最後の審判と無関係ではないし , 他方 , くオルガス伯の埋葬》 ( 図 27 ) の上半部を想 わせ , ことに下方の地獄や群衆の場面はアトス画派の伝統に従い , かっ後のグレコのくフ ェリーベ二世の夢 > ( 図 16 ) やく聖マウリシオの殉教》 ( 図 17 ) の構図を想わせる . くシナイ山 > の画面の左上に「ドメニコスの手によって ( x Ⅲ p DOMHNIXOY) 」と署名がある . これら の点から , グレコの初期の作 , 1567 年頃の作と推定するのである . ここでは翼画外面に描かれたくお告げ > を掲げたが , これはくアダムとエバ > や両翼内面の く牧者礼拝 > , くキリストの洗礼》とともに 16 世紀後半のヴェネッィア画派の亜流の作風を示 すが , 次に示すグレコの 1570 ~ 75 年頃のくお告げ》 ( 図Ⅲ ) と比べると , すこぶる類似した配 置をとっている . ともに 1537 年に描かれたティッィアーノのくお告げ》画を手本としている と推測されている . 署名について , 学者はこの作品の外 , 2 , 3 の 16 世紀後半に帰せられる , 同様にヴェネッ ィア画風にビザンティン的要素が多かれ少なかれ混入していると認められる作品のうち に , 「ドメニコスの手によって」の署名のあるものを指摘し , 後のトレド時代初期のグレコ の作品にも , この「ドメニコスの手によって」という署名の仕方が見出される . しかし , 書 体が同一かどうかについて間題が残る . また , 別にアテネのべナキ美術館のく東方三博士 の礼拝》はそのうちでもクレタ派の特徴が強いとして , グレコ初期の作からは除外するの ぐ昼”の寓意像のためのデッサン》 、ユン′、ン く福音書記老聖ヨハネのデッサン > マドリード国立図書館蔵 くお告げ ( モデナ , 工ステンセ美術館の小形三連祭壇画ル く東方三博士の礼拝 > べナキ美術館蔵 アテネ
た同じく最初のくお告げ》 ( 図Ⅲ ) はティッィアーノの《お告げ》の一つが手本になっているといわれるが , く神殿追放》の 奥行を強調する建築物の遠近法や人物たちの誇張気味の姿勢はむしろティントレットを想わせるし , く火を吹く若者》 ( 図 10 参照 ) のような民衆タイプのリアリズムの導入のみならず , 輝きと陰影の振動を狙う効果もバッサーノの画風を 想わせる . けれども師匠ティッィアーノからは何をおいても豊かな自然主義の画風と堂々たる古典様式を学んだはず ドミンゴ・エル・アンティグオの大制作 である . しかもティッィアーノの影響は , スペイン時代に入って , サント・ をするようになって , 再び , 否むしろ初めて本格的に現われたといってもよい . 祭壇の形式そのものはヴ = ネッィア のそれに倣ったといわれ , 中心画題であるく聖母被昇天 > ( 図 6 ) は , ティッィアーノの名作 , サンタ・マリア・ディ・ フラリ聖堂の主祭壇画に全体的構想を負っていることはよく知られているところである . また < 手を胸にあてた貴族 の肖像 > ( 図 14 ) というスペイン時代初期の名高い肖像画でも , 素直に師匠の画風を考えながら描きあげた作品である・ グレコは青年時代を過ぎてから , 落ち着いて師匠の芸術を追想している感がある . しかも , 晩年のティッィアーノ の , 筆触の激しいバロック気味な作風ではなく , 溯って若い頃のティッィアーノの形の整った丁寧な画風の作品を参 考にしているし , 彼自身 , いわゆるマ = ェリスモ的な滑らかな膚の肉体や優美な姿態をもって最初のスペイン時代の 聖画像を描いているから , く悔悟のマグダラのマリア》 ( 参図 5 ) とかく聖セバスティアヌスの殉教》 ( 図 13 ) のうちに , テ ィッィアーノの若い頃の麗筆の反映が認められるのも当然であろう . しかし , この大画家が暖かい色調で人物も自然 も悠然と自然な姿そっくりに描き出しながら , 豊かな芸術の様式美を具現しているところは , グレコにすっかり理解 された訳ではない . グレコは自己流から脱しきれなかったらしい . この点についてはまた後に論じよう . ミケランジェロとコルレッジオの影響 く三位一体 > 部分 .. ~ ローマに移ったグレコは , ミケランジ = ロの芸術に感心した . ティントレットを通じて , 人体のさまざまに強調さ れた動勢や誇張された姿態の表現に興味を惹かれ , 自らもいろいろと試みていた . ミケランジ = ロの壁画や彫像に接 して , 堂々たる人体像の表現力を本当に知り , このような人体像が理念の担い手としての役割をしていることはよく ームの天 心得て , 構図を組み立てるようになる . プラド美術館の初期のくお告げ》 ( 図Ⅲ ) の画では , 堂々たるヴォリ = 使がお告げの役目を権威をもって果たしている . 受けるマリアも , しつかりした体躯をねじって演劇的な誇張を持っ ているのはやむをえない . かのフィラデルフィアのジョンソン・コレクションのくピエタ》 ( 参図 3 ) では , キリストの 遺骸を抱える三人の群像が , 明らかにミケランジ = ロのフィレンツ = 大聖堂にあるピエタの結合法に倣っているもの で , アリマティアのヨセフの代わりに聖母を描いているが , 若いグレコはヴネッィアでは味わえなかった真の感動 に打たれたに相違ない . 筆触もローマに行ってから , 幅のある筆法に次第に変わっていって , 以前のような縞状の条 を残す筆痕で画面に神経質な皺のよったような様相はなくなっていった . この《ピエタ》にはまだ , ごく初期の時代の 条を残す筆触が認められるので , ミケフンジ = ロの影響を受けた当初の作品であるかと思われる . 前述したローマ時 代に描かれたく神殿追放》 ( 図 3 ) でも , もとファルネーゼ家蔵のパルマ国立美術館のく盲人の治癒》 ( 参図 6 ) でも , 幅のあ る筆触になっている . グレコがミケランジ = ロのく最後の審判 > の大壁画の前で , これを壊したらもっと行儀正しい立
100 ロドリゴ・デ・ラフェンテの肖像 ? ( ある医者の肖像 ) ( 図 15 ) ~ 89 年頃 1585 マドリードプラド美術館蔵 「ある医者の肖像」とよばれてきたこの作品は , グレコの中期の肖像画を代表する一つ で , 補修の筆が加えられた右手を除けば , 保存状態はよい・右側に筆写体のギリシア文字 で署名がある (doménikos theotok6poulis [sic] e'pofei). この医者は , ロドリゴ・デ・ラフェ ンテであると伝えられてきたが , マドリードの国立図書館にあるロドリゴ・デ・ラフェン テの名を記入された肖像との比較によって , この伝承は確認された . ロドリゴ・デ・ラフ ェンテの歿年が 1589 年なので , それ以前の晩年のこの医者の肖像として , 制作年代を推定 している . 科学者の象徴として開いた書物を添え , その上に手を置いて , この医者の学間 的権威を暗示させている . フェリーベニ世の夢 ( イエスの御名の礼拝 ) 1579 年頃 ( 図 16 ) ェル・エスコリアール修道院 この不思議な天空の光景や無気味な地獄の光景の間で人々に取り囲まれて , 黒衣の姿の フェリーベ二世が合掌して跪くという怪奇な画は , いったいなにを表わしたものだろうか . くフェリーベ二世の夢》という題名で私たちは知らされてきたのであるが , これはビセンテ ・ポレロ (VicentePoler6yToledo) が 1 世紀以前に刊行した , ェスコリアールの画の目録の なかで用いたのが最初ではないかということで , パドレ・デ・ロスサントス (padre de os santos) は , パオロの書簡 ( ピリピ書 , 第 2 章 10 , 11 節 . これ天に在るもの , 地に在るも かっ の , 地の下にあるもの , 悉くイエスの御名によりて膝を屈め , 且もろもろの舌の『イエス ・キリストは主なり』と言ひあらはして , 栄光を父なる神に帰せん為なり . ) を引いて , 「イ ェスの御名の礼拝」であると提案した . 天空には栄光のうちに輝くイエス・キリストの頭 字を天使たちの大群が取り囲んで跪きながら礼拝し , 地上は煉獄の光景にて , 無数の群衆 の先頭に , 聖職者の代表たちゃ殉教の勇士たちを前にフェリーベ二世が跪いている . その 背後には , 陰府 ( 地獄 ) の怪魚レヴァイアサンが巨大な洞穴のような真黒な口を大きく開い て , 無数の死者が肉体を復活している光景である . ヨハネ黙示録第 20 章 13 ~ 14 節にある 「海はその中にある死人を出し , 死も陰府もその中にある死人を出したれば , 各自その行 為に随ひて審かれたり . かくて死も陰府も火の池に投げ人れたり・ ・・」によるビザンティ ン図像の「最後の審判」も組み入れられている . これに対して , さらにサー・アンソニイ・プラント教授 (Sir Anthony BIunt) は新しい解 釈を提案し , これは 1571 年のレバントの海戦における , スペインと教皇庁とヴェネッィア の神聖同盟の勝利を記念する意味を表わす寓意画であるとする . 中央の黒衣のフェリー 二世の傍には , 正面向きの教皇ピウス五世と背面むきのヴェネッィア総督モチェニゴ (mo- cenigo), そして , さらに二人の軍の指揮官たちが , フェリーベ二世に向かいあって画面の 左端に侍り , フェリーベ二世と共に天空を仰ぎ , イエスの御名を拝す . 三人の指揮官の長 は全軍の総指揮官であったオーストリアのドン・ファンで , 剣を手に立つ姿が特に目をひ く・なお , 教皇は左右に教会の指導者を伴っている・ドン・ファンはネーデルランドの総 督として 1578 年に歿し , ェスコリアールに葬られるので , この勝利者の記念を意味するこ とを兼ねていたかも知れないという . この画はエスコリアールの王室霊廟に掲げられてい たのであるから . この画には , 板画で , これより三分の一より少し大きいくらいの準備のための下絵が残 っているが , 下絵といっても油彩で , ほとんど工スコリアールの作品と同じくらいに細部 も丁寧に描き上げた作品で , 1955 年 , ロンドンのナショナル・ギャラリーに納まった . ことどと かが くフェリーベニ世の夢 ( イエスの御名の礼拝 ) 》 ロンドンナショナル・ギャラリー蔵
年表 年代 般 美 術 グ コ ミケランジェロく最後の審判》完成 . カルヴィン , 再 ェル・グレコ , ギリシアのクレタ島の首都カンディアに生まれる . 本名はドメニコス・テオ 1541 びジュネーヴで宗教改革 . トコプロス . ェル・グレコは通称で , スペイン語の冠詞工ルに , イタリア語でギリシア人を意味する グレコをつけたもの . 生年については , 1606 年に自分が 65 歳であると言明した記録があり , そこから コペルニクス『天球回転論』刊行し , 地動説を唱え 1543 1541 年とされる . クレタ島は当時ヴェネッィア共和国の支配下にあり , ギリシア正教徒の多いビザン る . 同年死去 . ティン文化圏に属していた . 一家はローマ・カトリック教徒で , かなり裕福な上流階級に属し , 父ヨ ルギは共和国の徴税吏であった . ジョルジオ・ヴァザーリによる『画家 , 彫刻家およ 青年時代の様子は殆ど解らないが , 裕福な家庭環境は若い頃から哲学 , 文学 , 神学 , 地理 , 歴史 , び建築家の生涯 ( 美術家列伝 ) 』 ( 初版 ) 出版される . 芸術など学芸一般についての教養を身につけることを可能にし , 一方画家としては , 中世工房の名残 りが強い後期ビザンティン芸術の伝統下に画僧について絵を学び , モザイク装飾 , ミニアチュアなど ヴェロネーゼくカナの婚礼》制作 . ティントレット , を手がけながら主として需要の多いイコン画制作の画家として成長したものと思われる . く聖マルコの奇跡》のシリーズに着手 . ー 25 歳ーカンディア市の公証人ミカエル・マラスの 6 月 6 日付の記録中に , カンディアにおけるある プリューゲル 0 ヾベルの塔》制作 . 不動産の売買の証人として彼の名があり , すでにマエストロの称号を持つ一人前の画家として記され ている . この年に 10 歳年長の兄マヌーソスはヴェネッィア共和国の徴税吏に任命されているが , 父は ティッィアーノくお告げ > を制作 . ミケランジェロ死 1564 すでに死去していたと考えられる . この年の夏までにヴェネッィアに出たと推定される . バッサーノ ニのピエタ》を制作 . フ 去 . この年までく口ンダニ のヤコボ・ダ・ポンテ , ティッィアーノ , ティントレットの門に学び , ヴェロネーゼの感化も受く . ランシスコ・パチェーコ , プリューゲルの・子ピーテ 当時ヴェネッィアには , ビザンティン聖画像を制作して生活していた「マドンネリ」と呼ばれる画家た ル生まれる . カルヴィン死去 . ちがいたが , おそらくグレコは当初この派に属していたと考えられる . プリューゲル , この頃く盲人の譬え》く百姓の踊り》な 1568 ー 26 歳一 12 月 2 日付ティッィアーノからスペイン王フェリーベ二世宛書簡に「優れた若い画家がい ど制作 . プリューゲルの子ャン生まれる . ネーデル る . 私の弟子にて協力者」と紹介しているが , グレコのことと推定される . ランド独立戦争起こる . ー 29 歳ークロアチア出身のミニアチュア画家のジュリオ・クロヴィオが自分のパトロンであるローマ プリューゲル死去 . フィレンツェ , トスカーナ大公 1569 の枢機卿アレッサンドロ・ファルネーゼに宛てた 11 月 16 日付書簡から , グレコのローマ到着が知られ 国となる . る . この書簡でクロヴィオは , 「ティッィアーノの弟子でカンディア出身の青年 ( グレコを指すと思われ る ) 」を紹介している . おそらくグレコはファルネーゼ家に寄寓し , ミケランジェロ , ラファ工ルロ , ティッィアーノ , この頃くピエタ》に着手 . ダ・ヴィンチなどイタリア・ルネサンス芸術の余映に触れ , また , ファルネーゼ家をとりまく著名 人 , たとえばファルネーゼ枢機卿の司書官オルシーニや , トレド大聖堂首席司祭の弟でスペイン・ユ レバントの海戦 . マニストの一人ルイス・デ・カステイラなどと知り合ったと思われる . カラヴァッジオ生まれる . ー 31 歳ーサン・ルーカ美術アカデミーの記録に「 9 月 19 日 , ドメニコ・グレコ氏は入会金 2 スク ド を支払う」とある . ティッィアーノ死去 . ー 34 歳ーこの頃 , 一時ヴェネッィアに帰っていたと思われる . 翌 76 年にかけてスペインのマドリ に赴く . その目的はおそらくフェリーへ二世が建造中のエル・エスコリアール修道院の装飾と建築上 の仕事を請負うことにあったと思われる . ルーベンス生まれる . ー 36 歳ースペインのトレドに到着する . サント・ドミンゴ・エル・アンティグオ教会より祭壇画く聖 母被昇天》 , トレド大聖堂よりく聖衣剥奪》の委嘱を受け , 制作に没頭する . グレコは署名する際には , 生涯ギリシア文字を使い , 時にはクレタ人であることを示す KRbs の文字を附加した . ネーデルランド総督にパルマ侯アレッサンドロ・フ 1578 ー 37 歳ーグレコとヘロニマ・デ・ラス・クエバスとの間に息子ホルへ・マヌエル生まれる . 彼の妻と アルネーゼ着任 . 推定されるこの女性に関しては , 詳細は不明である . ネーデルランドにユトレヒト同盟成立 . ー 38 歳一 6 月 15 日 , く聖衣剥奪 > 完成し , 最高の評価を得る . 報酬に関する意見の相違から , 訴訟を起 こす . フェリーベ二世に拝謁し , 試作品の提出を求められてくフェリーベ二世の夢 > を制作 . ー 39 歳ーフェリーベ二世より , ェル・エスコリアール修道院のためく聖マウリシオの殉教》を委嘱され モンテー トガル王を兼ねる . る . 4 月 25 日 , 金額の一部が前払いされる . ネーデルランド北部 7 州独立宣言 ( オランダ成立 ) . ー 41 歳ー 5 月 , ェル・グレコはミカエル・リッソというギリシア人の通訳としてトレドの宗教裁判所 に出頭した際 , 自分を「カンディアの町の出身」と陳述する . く聖マウリシオの殉教》完成し , 9 月 20 日 グレゴリウス暦 ( 現行の太陽暦 ) 成立する . 二世はこの絵を拒絶し , グレコのエル・エスコリアールの 絵を修道院に引き渡す . しかしフェリー 画家に登庸される道は閉ざされた . ヴェロネーゼ , この頃くヴェネッィアの勝利》を制作 . 1583 ガリレオ・ガリレイ , 振子の等時性を発見 . ー 43 歳ーエル・エスコリアール修道院のために , グレコのく聖マウリシオの殉教 > に代わる同じ主題の 祭壇画の注文がロモロ・チンチンナトにされた . 10 月 23 日 , トレドのサント・トメ教会堂の司祭ヌニ ェスは大司教よりくオルガス伯の埋葬》図制作の許可を受ける . トレドのビリエーナ侯爵家の持家を借りる . ー 44 歳一 9 月 10 日 , ト・トメ教会堂の司祭ヌニエスとくオルガス伯の埋葬 > について契約する . そ ー 45 歳ー 3 月 18 日 , サン の制作に没頭する . 年代 レ ル 1541 1550 1562 1566 1563 1567 1570 1570 1571 1573 1572 1576 1575 1577 1577 1578 1579 1579 ュ『随想録』発表 . フェリーベ二世 , ポル 1580 1580 1581 1582 1582 1584 1585 詩人口ンサール死去 . 1585 1586