て , 構図全体をまとめあげる役割をしている . 下界は遠方の群衆に対し , 近景のフェリーベ二世を囲む一群とその背 後の群衆は遠近法的にまとめあげられ , 右端のレヴァイアサンのロのなかの蘇生する群衆の一団も遠近法的に統一を 作っている . 彼は , 後年になって盛んに幻想的な画像を作るが , その場合でも , 遠近法を基本とする視覚像の統一が いつも守られているので , シャガールのような遠近法を無視した幻想的イメージを展開することはない . 遠近法は彼 にとっては , 個的視覚像を保証する骨格であり , 彼自身の内的ヴィジョンも , 遠近法の軸の上に結ばれるのである . それが画面の平面に投射されている時に , 最晩年のくキリストの洗礼》 ( 図 52 ) のように平面的展開の影響は受けること はあっても , そのために装飾的配置に譲歩するというのではなく , 充満したヴィジョンの内容をもって画面をすきま なく満たす要求から来るもので , ヴィジョン自体が遠近法を軸とする奧行ある充実したものであることには変わりな いのである . グレコのビザンティン絵画の修業の度合 くエジプトへの避難 > ノヾーセ・ノレヒノレシュ・コレクション グレコは少年時代 , ビザンティン絵画の伝統を誇るクレタ画派の修業をどの程度までカンディアで受けてきたので あろうか . 1541 年頃生まれ , 学者間の通説では 1560 年頃ヴェネッィアに来たとされていた . 当時の習慣からして , 画 家を志す以上早くから修業させられるから , 20 歳になれば一応の画技は心得ているし , 聖画像のひと通りは教えられ たに相違ない . 彼の家系は , ヴェネッィア統治下のクレタ島の首府カンディアで役人を務めてきた家柄であるから , ひと通りの教養もうけ , それが死後の財産目録によって , 当時の画家としては例外的に豊富な蔵書があったことによ って裏付けられる . 多数のイタリア語の書籍のなかには , 文学書の外 , 建築書や有名なヴァザーリの美術家列伝もあ り , この美術家列伝には彼自身の書き入れがあって , グレコのイタリア大家に対する評が注目をひくと言われている が , ホメロスやアリストテレス , ギリシアの教父説教集など多くのギリシア古典も含まれていた . 彼自身 , 生涯 , 彼 の正式の作品には必ずギリシア文字で署名を入れてきた . 1566 年 6 月 6 日に , 画家ドメニコス・テオトコプロスが不 マエストロ 動産売却の保証人になっているカンディアの公証人記録があるが , その時彼はすでに師匠と記され , ひとかどの独立 した美術家の資格を得ていたことがわかる . この時 , 一度ヴェネッィアから戻ったのか , それとも , この時までカン ディアにいて , ここでビザンティン画家として師匠の資格を得て , その上で彼の同郷人の多くが生活のため , 富を求 め機会を求めてヴェネッィアに出掛けて行ったように , 彼もまた画家としてイタリアへ赴いたのではないかというこ とも考えられる . グディオール教授は , 1566 年の夏にグレコがヴェネッィアへやって来たとの説に傾いている . 1560 年頃か 1566 年夏か , いずれを採るかは , グレコのビザンティン絵画の素養の浅深を推測することに関係がある . 25 歳 まで故郷にいたのなら , 衰勢期のビザンティン美術とはいえ , その貴重な技術や知識を心得 , 師匠にまでなっている のだから , たとえティッィアーノのもとに弟子入りしたといっても , ビザンティン流の作品を幾つか残していてもよ さそうなものである . しかも , 他方 , 師匠ティッィアーノの画風をそっくり素直に速やかに学びとった痕跡はない . ティントレットやノヾッサーノといった , 師匠ティッィアーノより新しい世代のヴェネッィアの画家たちの新傾向をも 学んで , いろいろと折衷している . 最初の作品群として伝えられるナポリのく聖痕を受ける聖フランシスコ > ( 参図 2 )
・ドミンゴ・エル・アンティグオの祭壇画 , トレド大聖堂のく聖衣剥奪》 , それにエスコリアールのくフェリ グレコの墓碑銘の詩の一節に親友の学僧パラビシーノが詠ったところは , 決してトレド人の郷土愛から発した誇張で トレドは彼に画筆を与えた」と ートリーのなかに十分受け入れられる作品である . 「カンディアはグレコを生んだが , の西ョーロッパ絵画史上の第一線の堂々たる作品揃いである . くフェリーベ二世の夢》でも当時のマニエリスモのレバ 遠近関係とか少々の反自然主義的態度は , マニエリスモの風潮を考えるなら , 特殊な偏った癖でもない . 16 世紀後半 て , 奇妙なくフェリーベ二世の夢》を除けば , 他の大作はいずれも当時のイタリア絵画の様式であり , 多少非合理的な の夢》 , く聖マウリシオの殉教》と , 後のグレコの主要な作品の種類と表現の大綱が出てしまったといってよい . そし 肖像画とその精神性 はない . 《ジュリオ・クロヴィオの肖像 > 部分 ( 図 10 ) のような庶民タイプの日常生活の題材をも取り扱っている . ファルネーゼ家に伝わった作品であるから , ロー 興味は , ファルネーゼ家に伝えられたナポリのカボディモンテ国立美術館のく火を燃すためにもえさしを吹く若者》 た姿勢で立っている . もう , カラヴァッジオ流の肖像であり , 後のべラスケスの肖像を予告している . 現実に対する これも明るい室内で開かれた窓の戸を示し , 汚れた白壁の前に大きく茶色の幕をさげて , 騎士は実生活の一齣といっ タ島滞在中に , 鎧姿のかのマルタの騎士 , ビンセンティオ・アナスタジの新鮮な肖像 ( 図 (1) を描いたのであろうと . 船出してイタリア半島の南端を廻り , 途中でマルタ島に寄ってスペインに到着したらしいという . そして , このマル からヴェネッィアに帰って , 数か月そこで過ごしてからスペインに出発したらしい . ウェゼイは , ヴェネッィアから の出発点である . イタリアからスペインに行く彼は , どういう経路をとっていったか不明であるが , 1575 年頃ローマ た様子ぶった肖像画とも違う . 真実が彼の芸術の核心なので , 画家として眼前の対象と対決している視覚的体験がそ いう点で , 16 世紀の大家たちの大がかりな様式ぶった肖像画とも , マニエリスモ画家たちの神経質な優美洗練を狙っ リスモ画家とは違う性質である . これがグレコの芸術の大切なところであり , 相手を観察したところを率直に記すと て , 率直な重厚なリアリズムである . この描法でローマの画家たちをびつくりさせたのである . 確かに通常のマニエ ェリスモの肖像画が神経の行き届いた形と色のアラベスクを求め , 平滑で薄手に優美に仕上げる作品であるのに対し 細かい分析的観察の筆になったもので , マティエールは厚手で , タッチが , 観察の痕を一筆ごとに重ねてゆく . マニ のティッィアーノの画風というより , ティントレットの肖像を想わせるという説がある . しかし , それより彼自身の ルネーゼ枢機卿のために作った祈疇書を開き , 右手でミニアチュアの装飾を指差している . クロヴィオの顔は , 師匠 いう新しいポーズを採って , 白髪白髯の赤ら顔を観る人の方にむけ , 左手で , 彼の傑作であるアレッサンドロ・ファ 明るい室内に坐っている . 窓からはティッィアーノ風の景色が見える . 黒服をまとったクロヴィオは斜め正面向きと ているものであろう . グレコはくジ = リオ・クロヴィオの肖像》 ( 図 8 ) を描いてわれわれに残している . クロヴィオは 身について描いた肖像が , ローマのあの画家たちを喫驚させております」という一条は , グレコの芸術の核心を語っ イタリア時代の彼について , ジ = リオ・クロヴィオが手紙の中に語っている重要な事柄「他のことをおいて , 彼自
年表 年代 般 美 術 グ コ ミケランジェロく最後の審判》完成 . カルヴィン , 再 ェル・グレコ , ギリシアのクレタ島の首都カンディアに生まれる . 本名はドメニコス・テオ 1541 びジュネーヴで宗教改革 . トコプロス . ェル・グレコは通称で , スペイン語の冠詞工ルに , イタリア語でギリシア人を意味する グレコをつけたもの . 生年については , 1606 年に自分が 65 歳であると言明した記録があり , そこから コペルニクス『天球回転論』刊行し , 地動説を唱え 1543 1541 年とされる . クレタ島は当時ヴェネッィア共和国の支配下にあり , ギリシア正教徒の多いビザン る . 同年死去 . ティン文化圏に属していた . 一家はローマ・カトリック教徒で , かなり裕福な上流階級に属し , 父ヨ ルギは共和国の徴税吏であった . ジョルジオ・ヴァザーリによる『画家 , 彫刻家およ 青年時代の様子は殆ど解らないが , 裕福な家庭環境は若い頃から哲学 , 文学 , 神学 , 地理 , 歴史 , び建築家の生涯 ( 美術家列伝 ) 』 ( 初版 ) 出版される . 芸術など学芸一般についての教養を身につけることを可能にし , 一方画家としては , 中世工房の名残 りが強い後期ビザンティン芸術の伝統下に画僧について絵を学び , モザイク装飾 , ミニアチュアなど ヴェロネーゼくカナの婚礼》制作 . ティントレット , を手がけながら主として需要の多いイコン画制作の画家として成長したものと思われる . く聖マルコの奇跡》のシリーズに着手 . ー 25 歳ーカンディア市の公証人ミカエル・マラスの 6 月 6 日付の記録中に , カンディアにおけるある プリューゲル 0 ヾベルの塔》制作 . 不動産の売買の証人として彼の名があり , すでにマエストロの称号を持つ一人前の画家として記され ている . この年に 10 歳年長の兄マヌーソスはヴェネッィア共和国の徴税吏に任命されているが , 父は ティッィアーノくお告げ > を制作 . ミケランジェロ死 1564 すでに死去していたと考えられる . この年の夏までにヴェネッィアに出たと推定される . バッサーノ ニのピエタ》を制作 . フ 去 . この年までく口ンダニ のヤコボ・ダ・ポンテ , ティッィアーノ , ティントレットの門に学び , ヴェロネーゼの感化も受く . ランシスコ・パチェーコ , プリューゲルの・子ピーテ 当時ヴェネッィアには , ビザンティン聖画像を制作して生活していた「マドンネリ」と呼ばれる画家た ル生まれる . カルヴィン死去 . ちがいたが , おそらくグレコは当初この派に属していたと考えられる . プリューゲル , この頃く盲人の譬え》く百姓の踊り》な 1568 ー 26 歳一 12 月 2 日付ティッィアーノからスペイン王フェリーベ二世宛書簡に「優れた若い画家がい ど制作 . プリューゲルの子ャン生まれる . ネーデル る . 私の弟子にて協力者」と紹介しているが , グレコのことと推定される . ランド独立戦争起こる . ー 29 歳ークロアチア出身のミニアチュア画家のジュリオ・クロヴィオが自分のパトロンであるローマ プリューゲル死去 . フィレンツェ , トスカーナ大公 1569 の枢機卿アレッサンドロ・ファルネーゼに宛てた 11 月 16 日付書簡から , グレコのローマ到着が知られ 国となる . る . この書簡でクロヴィオは , 「ティッィアーノの弟子でカンディア出身の青年 ( グレコを指すと思われ る ) 」を紹介している . おそらくグレコはファルネーゼ家に寄寓し , ミケランジェロ , ラファ工ルロ , ティッィアーノ , この頃くピエタ》に着手 . ダ・ヴィンチなどイタリア・ルネサンス芸術の余映に触れ , また , ファルネーゼ家をとりまく著名 人 , たとえばファルネーゼ枢機卿の司書官オルシーニや , トレド大聖堂首席司祭の弟でスペイン・ユ レバントの海戦 . マニストの一人ルイス・デ・カステイラなどと知り合ったと思われる . カラヴァッジオ生まれる . ー 31 歳ーサン・ルーカ美術アカデミーの記録に「 9 月 19 日 , ドメニコ・グレコ氏は入会金 2 スク ド を支払う」とある . ティッィアーノ死去 . ー 34 歳ーこの頃 , 一時ヴェネッィアに帰っていたと思われる . 翌 76 年にかけてスペインのマドリ に赴く . その目的はおそらくフェリーへ二世が建造中のエル・エスコリアール修道院の装飾と建築上 の仕事を請負うことにあったと思われる . ルーベンス生まれる . ー 36 歳ースペインのトレドに到着する . サント・ドミンゴ・エル・アンティグオ教会より祭壇画く聖 母被昇天》 , トレド大聖堂よりく聖衣剥奪》の委嘱を受け , 制作に没頭する . グレコは署名する際には , 生涯ギリシア文字を使い , 時にはクレタ人であることを示す KRbs の文字を附加した . ネーデルランド総督にパルマ侯アレッサンドロ・フ 1578 ー 37 歳ーグレコとヘロニマ・デ・ラス・クエバスとの間に息子ホルへ・マヌエル生まれる . 彼の妻と アルネーゼ着任 . 推定されるこの女性に関しては , 詳細は不明である . ネーデルランドにユトレヒト同盟成立 . ー 38 歳一 6 月 15 日 , く聖衣剥奪 > 完成し , 最高の評価を得る . 報酬に関する意見の相違から , 訴訟を起 こす . フェリーベ二世に拝謁し , 試作品の提出を求められてくフェリーベ二世の夢 > を制作 . ー 39 歳ーフェリーベ二世より , ェル・エスコリアール修道院のためく聖マウリシオの殉教》を委嘱され モンテー トガル王を兼ねる . る . 4 月 25 日 , 金額の一部が前払いされる . ネーデルランド北部 7 州独立宣言 ( オランダ成立 ) . ー 41 歳ー 5 月 , ェル・グレコはミカエル・リッソというギリシア人の通訳としてトレドの宗教裁判所 に出頭した際 , 自分を「カンディアの町の出身」と陳述する . く聖マウリシオの殉教》完成し , 9 月 20 日 グレゴリウス暦 ( 現行の太陽暦 ) 成立する . 二世はこの絵を拒絶し , グレコのエル・エスコリアールの 絵を修道院に引き渡す . しかしフェリー 画家に登庸される道は閉ざされた . ヴェロネーゼ , この頃くヴェネッィアの勝利》を制作 . 1583 ガリレオ・ガリレイ , 振子の等時性を発見 . ー 43 歳ーエル・エスコリアール修道院のために , グレコのく聖マウリシオの殉教 > に代わる同じ主題の 祭壇画の注文がロモロ・チンチンナトにされた . 10 月 23 日 , トレドのサント・トメ教会堂の司祭ヌニ ェスは大司教よりくオルガス伯の埋葬》図制作の許可を受ける . トレドのビリエーナ侯爵家の持家を借りる . ー 44 歳一 9 月 10 日 , ト・トメ教会堂の司祭ヌニエスとくオルガス伯の埋葬 > について契約する . そ ー 45 歳ー 3 月 18 日 , サン の制作に没頭する . 年代 レ ル 1541 1550 1562 1566 1563 1567 1570 1570 1571 1573 1572 1576 1575 1577 1577 1578 1579 1579 ュ『随想録』発表 . フェリーベ二世 , ポル 1580 1580 1581 1582 1582 1584 1585 詩人口ンサール死去 . 1585 1586
く神殿から商人たちを追い払うキリスト > 部分 ミネアポリス・インスティテュート・オプ・アーツ蔵 ニアチュア画家 1570 年Ⅱ月 16 日 , ローマのファルネーゼ家の邸宅に住んでいたクロアチア出身の有名な画家で , であったジ = リオ・クロヴィオが , 当時ヴィテルボにいた主人公のアレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿に送った手 紙に , ローマ到着間もないグレコを推挙している言葉がある . 「ローマに到着しましたティッィアーノの弟子のカンディアの若者がおりますが , 私の判断では絵に類ないほど優 れておりまして , とりわけ彼自身の肖像画はローマの画家たち皆が喫驚いたしました . この若者がよい身の振り方を 見つけるまでの僅かの間 , 猊下の御庇護のもとで , 生計のことはまかなえましようが , ただファルネーゼの御屋敷の 一室にでも留めおきくださいますれば幸いと存じます . ・・・・・・」と述べているが , ティッィアーノの弟子のカンディアの 若者とは , グレコのことであることは学者が皆認めるところで , 1541 年に中世以来ヴネッィア共和国の支配下に属 していたギリシアのクレタ島の首府カンディアに生まれたとされるから , ローマに到着したグレコはすでに 29 歳で , もう修業は終って , 画家としての自分の特質を十分に心得ていたはずである . グレコは晩成のタイプで , 1577 年スペ インに渡ってから相ついで大制作を実現するまでは , 彼自身の特徴を十分に発揮した作品を描いていない . スペイン 時代でも , 最後まで成長し変化し続けていた . しかし , さまざまの師匠や先輩 , 同輩の芸術を学びとり吸収し尽すこ とはイタリア時代で終っているので , スペイン時代は彼自身の天分に従い , さまざまの吸収したところが消化されな がら , 本当にグレコの芸術となって実を結んでいったのである . ティッィアーノの弟子であるクレタの若者は , ローマへ来て , さらにミケランジ = ロの影響を深く受けていること は , 同じく神殿から商人たちを追い払うキリスト》という主題のヴネッィア時代の作ともされるもの ( 図 2 ) と , ロー マ時代の作 ( 図 3 ) とを比べればよく解る . その上 , 彼はこの後者の作品の右下に師匠のティッィアーノの顔の傍に三 つの顔を描き並べ , 恩顧を受けたジ = リオ・クロヴィオとティッィアーノの間にミケランジ = ロの顔を入れている . 右端の顔は , ラファェ ~ ロとする説が多いが , しかし最近ではプラド美術館館長サラスがコ ~ レッジオとする説を提 案し , コ ~ レッジオの肖像とされてきた画像とも類似し有力となったが , なお問題が残っている . ラファ工ルロとす れば , 彼の作品にやがて現われるマニエリスモの傾向を説明するであろうし , 夜景の光線効果に関心を寄せるグレコ ノッテ はコルレッジオのく夜》 ( p. 96 参照 ) に惹かれ , その著しい影響をスペインに移ってから最初の大作であるサント ンゴ・エル・アンティグオの大祭壇のための一つ , く牧者礼拝》に表わしているし , その上 , 彼が所有していたヴァザ ーリの美術家列伝のコルレッジオの章には , 多くの書き入れを添えて最高級の讃辞をパルマのこの画家に呈している のである . ヴ = ネッィア時代のく神殿から商人たちを追い払うキリスト》やく盲人の治癒》の作品は , ティッィアーノの弟子であ るから , 師の画風が反映しているのは当然であるが , ティントレットやノヾッサーノという他のヴ = ネッィア画派の人 々の影響も目立っている . 若いグレコは盛んに自分の周囲に展開する新しい傾向に関心を向けていたらしい . 最初の 諸作く聖痕を受ける聖フランシスコ》 ( 参図 2 ) やくピエタ》 ( 参図 3 ) の場面にティッィアーノの風景が取り入れられ , ま ーノの弟子グレコ ティッイア
マ時代の作であろうが , ノヾッサーノ流の庶民的リアリズムに共鳴しているのであるから , ヴェネッィア時代に始まっ た傾向であろう . すべての独創的な大画家がそうであるように , 彼もまた写実によって , 換言すれば自分自身の視覚 体験に忠実に修業を重ねて , 師匠や先輩たちの芸術から学んだところを消化し自分の芸術を育てていった . 器用に先 生たちの様式を折衷するたちではない . この点から見ると , グレコをマニエリスモの画家とばかり定義づけてしまう わけにはいかない . 抽象的色彩の不協和音を奏でながらも , く聖衣剥奪》の大作にはルーベンスに通ずる現実肯定の側 面がある . トレド時代の初期の宗教画 , サント・ドミンゴ・エル・アンティグオの大祭壇の諸作から , サンセノヾステ ィアンの < 聖パオロ》 ( 参図 8 ) , く瞑想の聖フランシスコ > , くパドヴァの聖アントニウス》 ( 図 12 ) の諸作にいたるまで , 聖者たちの画像は肖像画的なリアリズムの筆致で描かれている . 平滑に筆痕を消しているように思えるパレンシアの く聖セノヾスティアヌスの殉教》 ( 図 13 ) や , カンサス・シティのロクヒル・ネルソン・コレクションのくマグダラのマリ ア》のような優美な画像でも , 注意して見ると光を跡づけ陰影を追求する細かい筆使いは , 大きく形をまとめあげる マニエリスモ画家の筆使いではない . ジリオ・クロヴィオの顔を描くグレコの態度は , 分析的観察であって , 新し い時代の画の描き方である . 最晩年のティッィアーノは , 細かく光を追うタッチをそのまま画面に並置し , 全面に光 の振動を漂わせる「印象派的筆触」を使っている . この描き方に教えられたのであろうか , すでにジリオ・クロヴィ オの顔ではがっしりと顔の面を描きながら , 輪郭や細部を線的にきちんとまとめるのではなく , 細かく光を追求して 半陰影部から白髪や皺や隆起部の光のあたる具合を細かいタッチを置いて浮かび出させている . 面をまとめあげるデ ッサンというよりも , 面にあたる光と陰の斑点を記してゆくデッサンである . 大画面の祭壇画では , この光と陰影の 単位がさらに大きくなるが , 描き方の方針は同じである . 近よって見ると筆が組く , しかし , 要所要所に光のあたる 具合を明るいタッチで置いてゆき , 陰影部からタッチを浮かび出させている . ・ドミンゴ・エル・アンティグオのく聖母被昇天》でもく三位一体》でも , あるいは単独像のく洗礼者聖ヨハネ > やく福音書記者聖ヨハネ》の画像でも , みなこのような光と陰影のうちに描き出される肖像画的な人物描法から成立し ている . トレド大聖堂のく聖衣剥奪》のキリストを取り囲む群衆が , 鎧姿の百卒長ロンギヌスはじめ , みな肖像的な変 化に富んだタイプの個人から成立している . く聖母被昇天》の , 地上の空虚な石棺を囲んで驚き騒ぐ使徒たちは , 一人 一人が個性的な姿で光と陰影によって , かなり粗い筆で際立たせながら浮かび出させるように描かれている . さまざ まの顔面 , 頭部 , 毛髪や髯の毛まで , それぞれ異なって描き分けられ , しかも , 光のうちに出るもの , 陰影に沈み少 し後ろに置かれるものと変化が記され , 一様に同じ粗い筆で , ごく大まかに扱われたと思われる衣の布でも , 色を変 え形を変えて , 一人一人に特徴づけをしている . 彼らは , それぞれのタイプに従った肖像的な画像で , 晩年の十二使 徒の単独画像の肖像画的作品を予告している . 庶民的リアリズムは , く聖衣剥奪》の群衆に限られているのではない . 彼ら使徒たちの姿もこのリアリズムで描かれている . 同じくく牧者礼拝》では , 画題からいっても , 当然この庶民的リ く毛皮の婦人 > 部分 アリズムが一層よく出ている . 聖母と天使たち , 三位一体と天使たちという画題では , 類型的になるのが当然である が , ここでも , 肖像的な観察から得た体験は , 天上界の描出にも新しい迫真性を与えている . 光のなかに描き出され た父なる神とキリストの顔は , 神々しい厳かさの観念の表現を追求して , 現実昇華を心にしながら , 光と陰影のうち に観察を基にして姿を描いているようである . ミケランジ = ロ流のトルソは , 精霊の光輝のうちにまざまざと浮かび 出ている . 天使たちも , 美しい少年たちに昇華されながら , 光のうちに観察されたさまざまの悲しみの表情のポーズ からなっている . く復活》では , 左下に半身を現わした聖イルデフォンソはトレド大聖堂の参事員のディエゴ・デ・カ ステイラの肖像というが , 驚き騒ぐ兵士たちはみな , 裸で眠っている男まで現実の男たちの肖像画的な形像であり ,
く稀なもので , 前方の右隅で十字架に孔をあける男の姿勢がデューラーの版画から影響を 受けていることが指摘され , 左下の三人のマリアは福音書には確かに記されていないが , 聖ポナヴェントゥーラの受難瞑想録に語られているところに拠るというし , ビザンティン 図像に拠っているのではないかとの説もある . 赤衣のキリストの堂々たる姿が画面全体を圧倒する . 左に立ち添う鋼鉄の鎧を着た男は 当代風の姿をしているが , 百卒長のロンギヌスとされ , 聖衣の反射を鎧の上に赤く写して いるのは , 後に悔い改める彼の行為を象徴するのであろうという . 対照的なのは , 右側の 緑衣の兵士で , キリストの手首に綱をかけ , 聖衣の襟に右手をかけている . 手前の身を屈 めて孔をあけている男と左側の三人のマリアに対して , キリストの背後には , ひしめく群 衆の頭がぎっしりと上からのしかかるように並び , キリストの顔を囲んで四方から荒々し くさまざまな嘲罵を浴びせかける . 彼らの日焼けした髯面は群衆肖像のように写実的で , キリストの姿を一段と浮かび出させる . キリストの見つめる天の僅かな青空をさえぎるよ うにたくさんの槍や棒が乱れ立っている . グレコはこの画で , 空間の合理的な遠近構成を故意に圧縮して , ほとんど一平面に , キ リストの姿を中心に前方の人物たちから背後の群衆の厚い層まで , 詰め込んでいることが 指摘され , ここにもマニエリスモの非合理性が現われていると言われる . グレコは , ここ ドミンゴ・エル・アンティグオの作品よりも一層 , 現実感を高揚しながら , で , サント・ 精神的内容の表現をさらに真に迫って表現する . 到底 , マニエリスモという言葉で定義で きるような芸術ではない . 同時に , バロック美術の先駆でもある . ジュリオ・クロヴィオの肖像 1572 年 ( 図 8 ) ナポリカボディモンテ国立美術館蔵 グレコは , ローマで彼の世話をしてくれたクロアチア出身のジュリオ・クロヴィオの肖 像を残しているが , もとアレッサンドロ・ファルネーゼの収集から , 今日ナポリのカボデ ィモンテ国立美術館に納められたもので , イタリア時代の肖像画として貴重な作品であ ニアチュア画家であることを示すように , 左手に祈疇書を持ち , 右 る . クロヴィオは , 手でその細密画の装飾を指差している . この本は 1546 年にアレッサンドロ・ファルネーゼ ーヨークのモルガン・ライプラリーにあるというから のために作ったもので , 現在はニ 興味深い . 開かれた窓からは , 筆細かく描かれた雲多い空の下に雪の遠山を背景に立木の ある美事な風景が見える . 黒い衣服をつけた画家は , 赤褐色の顔色をして白髪 , 白髯が丁 寧に写され , ティッィアーノ風というよりは , むしろティントレットやバッサーノ風の肖 像で , 様式を考慮するより , 分析的な観察を記して , 相手の個性を提示しようと努めて , すでに自己の表現に達している . 彼自身の自画像が , 比肩する者なしというほど当時のロ ーマで評判となったという , ジリオ・クロヴィオの言葉が解るであろう . 署名は右下に ある . くジュリオ・クロヴィオの肖像》
年代 1588 グ 美 術 般 ー 47 歳ーくオルガス伯の埋葬 > 完成 . 6 月 20 日 , 報酬に関する意見の相違に結論が出され , ゥカ ティントレット , 壁画く天国 > に着手 . スペイン無敵 1200 ド 1588 支払われる . 艦隊 , イギリス艦隊に敗れる . ヴェロネーゼ死去 . 12 月 27 日 , ビリエーナ侯爵との借家契約書に署名 . フランスにプルポン朝成立 . ガリレオ・ガリレイ , ー 48 歳ー 加速度の法則発見 . 兄のマヌーソスがヴェネッィアでの負債清算の資金援助を求めてトレドに来る . トレドのタ ー 50 歳ー ・ラ・ビエハ教会と祭壇画の契約を結ぶ . ホセ・デ・リべラ生まれる . フべフ タラベラ・ラ・ビエハ教会のためのく聖母戴冠》 , 他を完成・ ポンペイの遺跡発見される . シェークスピア『ヘン ー 51 歳ー 1592 リー六世』発表 . モンテー ュ死去 . トレドのタベーラ病院からキリストの彫刻像の委嘱を受ける . この年か翌年 , 報酬間題に関 ー 54 歳ー する一連の紛争のためマドリードに出る . カラヴァッジオ , この頃く女占い師 X バッカス》制 作 . ブッサン生まれる . ティントレット死去 . ー 55 歳ー 12 月 20 日 , マドリードのドニア・マリア・デ・アラゴン妃の修道院教会堂の祭壇画くキリス トの洗礼》 , 他の委嘱を受ける . シェークスヒ。ア『真夏の夜の夢』発表 . ー 56 歳ーエ房で描いた作品を輸出するため , セビーリャ , ヘローナの業者と契約を交し , プレポステ シェークスピア『ロメオとジュリエット』『ヴェ ス 1597 を , 売上げ金徴収のためセビーリヤに派遣する . 11 月 9 日 , トレドのサン・ホセ礼拝堂の主祭壇画 の商人』発表 . く聖母戴冠》く父ョセフとキリスト > , 両側祭壇画く聖母子と聖女マルティナと聖女アニエセ X 聖マルテ ィネス》を制作する契約を結ぶ . ドニア・マリア・デ・アラゴン修道院の祭壇画の制作を開始する . スルバラン生まれる . ナントの勅令が発布され , ュ 1598 そのための前払い金を受ける . グノー戦争終結する . フェリー 二世死去 . ー 58 歳ートレドのサン・ホセ礼拝堂の祭壇画完成する . 12 月 13 日 , その支払いを受ける . カラヴァッジオ , この頃く聖マタイの殉教》制作 . 1599 ラスケス , ヴァン・ダイク生まれる . ー 59 歳ードニア・マリア・デ・アラゴン修道院の祭壇画完成 . 7 月 2 日 , 四輪馬車の御者ェルナンデ スは , 同祭壇画をマドリードへ輸送することを 1800 レアルで請け負う . 同祭壇画の支払いを受ける . ルーベンス , イタリアに到着し , マントヴァ公の宮 1600 トレドのドン・ファン・スアレス家に寄宿する . 廷画家となる . クロード・ロラン生まれる . イギリ ス , 東インド会社設立 . ー 62 歳ートレドの聖ベルナルディーノ学院の礼拝堂の祭壇画く聖ベルナルディーノ》を委嘱される . 6 月 18 日 , イリエスカスのカリダー病院の祭壇画く憐みの聖母》 , 他の制作について , 息子のホルへ・マ カフヴァッジオくキリストの埋葬 > 制作 . シェークス 1602 ヌエルと二人で契約する . グレコの唯一の弟子ルイス・トリスタンはこの頃より 1607 年にかけてグレ ピア『ハムレット』初演 . オラン久東インド会社設 コの工房で制作した . 立 . 息子ホルへ・マヌエルと妻アロフォンソ・デ・ロス・モラレスとの間に息子ガプリエル誕生 ー 63 歳ー ルーベンス , マントヴァ公の命により一回目のスペ 1603 する . 8 月 5 日 , ビリエーナ侯爵家の広大な邸に再転居 . グレコの兄マヌーソス死去 . イン旅行 . イギリスにスチュアート朝成立 . イリエスカスのカリダー病院の祭壇画完成し , 設置されるが , 報酬に関する交渉のため 7 月 シェークスピア『オセロ』初演 . ー 64 歳ー 19 日 , アングーロとホルへを派遣 . 8 月 8 日 , 意見の相違を生じる . 10 月 9 日 , 全係争の一切をプレ ポステとモンテーロに委任する . カラヴァッジオく聖母の死》制作 . セルノヾンテス『ド ン・キホーテ』第一部刊行さる . ー 65 歳ーカリダー病院に関する係争の記録中に , 自分が 65 歳であると言明・ レンプラント生まれる . カラヴァッジオ , 殺人事件 1606 ー 66 歳ーカリダー病院と合意に達し , 報酬が支払われる . トレド市当局より , サン・ビセンテ教会の をおこしてローマから逃れ , 放浪の旅に出る . シェ オバリエ礼拝堂の祭壇画く無原罪のお宿り》を委嘱される ( この発注は , 元来アレッファンドロ・セ ークスピア『マクベス』『リア王』初演 . スペイン王 ーノになされたものであったが , 死去したためグレコにまわされた ) . 家 , マドリードを首都と定める . ー 67 歳ー 11 月 , タベーラ病院より祭壇画くキリストの洗礼 X お告げ》 , 他の制作を依頼され , 契約書に カラヴァッジオ , マルタ島に渡る . 署名 . この祭壇画はグレコによって着手されたが , 完成は 1622 年頃 , 息子ホルへ・マヌエルによって なされた . ルーベンス , 故郷アントウェルペンに帰る . カラヴ 1608 アッジオ , シチリア島に渡る . く修道士オルテンシオ・フェリクス・パラビシー ー 68 歳ー財政的に窮し , アングーロより借金する . ノの肖像》を制作 . カラヴァッジオくキリストの降誕》制作 . ガリレオ・ ガリレイ , 天体望遠鏡を発明 . オランダ , スペイン ー 69 歳ーくラオコーン》に着手 . から事実上の独立 . ー 70 歳ー女王マルガリータの死を追悼して記念碑の制作をトレド市当局より委嘱される . セビーリャ ールス生まれる . カラヴァッジオ死去 . の画家 , 批評家フランシスコ・パチェーコの訪問を受く . このパチェーコは 1649 年に刊行した『絵画 論』の中に , ェル・グレコについて書き記している . その中に「ドミニコ・グレコは鋭い言辞の偉大な ルーベンスくキリストの昇架 > 制作 . ハルスくヤコプ 1611 哲学者であり , 絵画 , 彫刻 , 建築に関して執筆した」という証言を残している . ・ズアフイウス像》制作 . ー 71 歳ー 8 月 26 日 , 息子ホルへ・マヌエルは , 父と自分の墓所のために , サント・ ルーベンスくキリストの降架》制作 . ドミンコ、・ . 工ノレ・ アンティグオ教会の地下室を , 祭壇画を制作することを条件に借りる . 11 月 20 日 , グレコは契約書に 署名する . 年代 レ コ 工 1589 1589 1591 1591 1592 1595 1594 1596 1596 1597 1599 1600 1603 1604 1605 1604 1605 1606 1607 1608 1607 1609 1609 1610 1611 1610 1612 1612
9 。々 , い ネ 書 福 三位一体 1577 ~ 79 年 ( 図 4 , 5 ) マドリード プラド美術館蔵 聖母被昇天 1577 ~ 79 年 ( 図 6 ) シカゴ・アート・インスティテュート蔵 トレドのサント・ ドミンゴ・エル・アンティグオ教会堂の大祭壇画は , グレコのスペイ ンに来て最初の重要な制作であったのみならず , イタリア時代にこれといっためぼしい大 作を描く機会に恵まれなかった彼にとって , これが彼の美術家としての生涯最初の本格的 な作品だったのである . 36 歳から 38 歳の頃の仕事である . ドミンゴ・エル・アンティグオは , カルロス五世のイサべラ王后の女官 , ドニ ア・マリア・デ・シルバの寄進によって , 1577 年から 1579 年にかけてトレド大聖堂の建築 家ニコラス・デ・ベルガラの設計で建立されたもので , 国王の建築家へルレラも建設中に介 人している・この造営の管理にあたったトレド大聖堂の参事員ディエゴ・デ・カステイラ から , グレコは 1579 年 3 月までに引き渡す条件で , 大祭壇のく三位一体 > , く聖母被昇天 > な ど 6 画と左右の祭壇のく牧者礼拝 > とく復活》の制作を契約し , 三つの祭壇の建築計画と 5 体 の装飾彫像の下絵まで作っている . 大祭壇の中心をなす図像はく聖母被昇天》 ( 図 6 ) で , 左 右に聖ベルナルドウスと聖ベネディクトウスの胸像を配し , その次にく三位一体》 ( 図 4 ) が 配置された . これら大小 4 点の画は 1827 年に尼修道院が売却し , そのうちく三位一体》が国 王の収集に , 他の 3 点も一王族の収集に人った . 現在 , 大祭壇下段の左右には洗礼者聖ョ ハネと福音書記者聖ヨハネの大画像が残り , 中央はく三位一体》に代わって , く聖母被昇天 > のコピーが置かれている . その上の楕円形にく聖骸布》が掲げられた . 左壁の祭壇にはく牧 者礼拝 > ( 現在サンタンデルのエミリオ・ポティン収集 ) , 右壁の祭壇にく復活》が配置された . グレコがその後 , 最晩年まで繰り返して大画面に取り扱うく聖母被昇天》やく復活 > , く牧者 礼拝》のような主題がここではじめて堂々と取り上げられ , 彼は先例の影響を受けながら も , 自分の聖画像を作り上げた . く三位一体》はグレコの芸術の厳かな誕生である . 黄金の光に包まれた精霊の鳩の下に , 天上の雲の中に父なる神が坐る . 地上で , 十字架の上で人類の罪を贖われて , 永遠のもと に帰ってきた御子イエス・キリストの傷ついた肉体を , 神はその膝の上に抱きかかえ給 う . 天使たちが左右から寄り添い , 悲しみを包み隠しきれず , 激しく嘆きあう . キリスト の両肩や足許には頭と翼だけの霊的な智天使 , 熾天使たちが雲の端から下界を見降して , 沈痛な表情をしている . キリストと父なる神の構成にミケランジェロのピエタの構成が窺 われ , キリストのトルソはミケランジェロの大理石のキリスト像を想わせるし , くの字型 に曲げた右腕を腰にあてる具合も , 階段の聖母の赤子のイエスからメディチの墓廟のロレ ンツオの姿態に見られるかの巨匠の癖を反映したものである . さらに全体の構想にデュー ラーの三位一体の版画の影響があるという . グレコは偉大な先輩たちの作例から熱心に学 びとっているし , 同時代のイタリアのマニエリストの画家たちとも歩調を合わせている . キリストの身体の曲がりくねった姿勢 , 光線と陰影を強調する明暗描法 , 天使たちの顔面 のさまざまの角度から見た短縮図法の駆使 , 類似化をさける現実描写を基調とする努力が ヴェネッィア時代の修業を想わせるが , また , 他方では衣布に塗られた鮮かな色彩のコン トラスト , 肉体の大理石像のような冷たい色と光沢など , フィレンツェ派のマニエリスト 画家たちの抽象的な色彩構成を想わせる . グレコも人物たちの組み合わせに , キリストの 身体を中心に左右の奥の上方から降る斜線を交叉させ , 両翼を開いた精霊の鳩の姿を要点 とする幾何学構図に苦心している . 折り重なる灰色の大きな雲の塊を背景に , 鮮かな衣を まとう天使たちにかこまれ , 精霊の鳩と父なる神の前にキリストの肉体が黄金と白色の協 く三位一体》 く聖骸布》 0 く聖母被昇天》 4 く聖ベルナルドウス》 く聖ベネディクトウス》 く洗礼老聖ヨハネ >
聖イルデフォンソ 1600 ~ 03 年 ( 図 57 ) イリエスカスカリダー病院蔵 これもグレコ晩年の傑作である . 書き物をしている聖イルデフォンソは , ふとペンをあ げ , 神秘な言葉に耳を傾ける . 黒い僧服を着た白髪の老聖者の姿は , 緋色の天鵞絨の布を 掛けた大きな四角い机を前にどっしりと徴動だにしない . 背後に , 壁の前に黄金の冠を被 り純白の衣服を着た聖母マリアの像が , 御児を抱きながら , 生けるが如く徴笑んでいる . 飾革の壁と暗い奥の前に , 白と黒と赤紫の形が黄金の飾りと白のハイライトで振動してい る . 聖画像というより , 真実の肖像画で , 細かい観察を記す筆触が顔面に , 両手に , 細々 した文房具に跡づけられる . この画は , イリエスカスのカリダー病院の一連の祭壇画より 先に描かれたとすることは , 祭壇画支払いの係争などとあわせて , 画の描法から見ても推 定できよう . 聖イルデフォンソは 7 世紀のトレドの大司教であって , 『聖母マリアの純潔 処女性について』の著書がある . ニョ・テ・ゲ′ヾラの肖像 1596 ~ 1600 = 年 枢機卿ニ ( 図 58 ) ニューヨークメトロポリタン美術館藏 枢機卿フェルナンド・ ニョ・デ・ゲバラの肖像は , 17 世紀西欧肖像画の中でスペイ ン肖像画の特質を最初に発揮した傑作である . グレコは , すでに数多くの肖像画を描き , くオルガス伯の埋葬 > ( 図 27 ) の群像肖像画のような大作を描いてきたが , ここに至ってその 頂点に達したかの如き観のある密度の高い作品である . 赤い僧服を着た枢機卿は硬い椅子 に坐っている . 周囲は床も壁も背後も褐色と黒の色面構成で , 光を受けた赤服と赤ら顔に 黒縁眼鏡 , 底光りのする眼差し , 肘掛けにもたせた両手 , 白レース付きの下服が簡潔に大 きな形の中に小さな細かい輝きと動きを与えている . ョ・デ・ゲバラは 1541 年に生 まれ , 1596 年サン・マルティノ・アイ・モンテの枢機卿となり , 1600 年宗教裁判官に任ぜ られ , 1601 年から 1609 年までセビーリヤの大司教となった人で , この画は彼がトレドから セビーリヤに去る前に描かれたと推定されている . 修道士オルテンシオ・フェリクス・パラビシーノの肖像 1609 : 年 ( 図 59 ) ポストン美術館蔵 これもグレコの肖像画の傑作で , 詩人であった修道士パラビシーノは , 「クレタは彼に 命を与え , トレドは筆を与えた」という有名な言葉をグレコに捧げた詩の中に語っている が , 29 歳の彼は感受性と知性の豊かな顔貌をして , 白い僧服に黒い外套を着た姿で , 大き な椅子に腰掛け , 左手で肘掛けに置いた大きな本と小さな本を支え , 友情に満ちた親しい 画家の筆に信頼しきっている . バックは赤褐色の地塗りを薄く覆う程度で , ほとんどスケ ッチ風の筆使いを重ねて仕上げている・最晩年のグレコは , 勢いよい筆使いで , この修道 士の精神を画面全体に剌と活かしている . く聖イルデフォンソ > く聖イルデフォンソ > 部分 く修道士オルテンシオ・フェリクス・パラビシーノの肖像 >
福音書記者聖ヨハネ 1595 ~ 1600 年頃 ( 図 42 ) マドリードプラド美術館蔵 トレド大聖堂の救世主と十二使徒のシリーズのなかにある聖ヨハネの画像と同じタイプ であって , 美しい若者の姿の聖ヨハネは緑衣に赤い外衣をまとい , 右手に小龍を載せた金 の宝杯を持ち , 頭をやや下にうつむき加減に右方を見ながら , 開いた左手の掌を上に向け 宝杯を指差している . 深刻な表情を鋭く顔面に凝集させ , 光をやや左正面からいつばいに 浴びている . 背後は , ところどころ閃光に明るくなっている暗青色の空で , 赤衣の白く波 うつ大きな襞と黄色の右袖に緑の陰影で整った襞をつける具合は対照的で , われわれの注 意は自ずからヨハネの顔に集まる . グレコは暗褐色の陰影色で暗部を一様に仕上げる技法 を破って , 色彩の鮮かな構成を意図し , 赤黄の暖色に対し , 緑や青の寒色で陰影付けする というような大胆な方法を試みている . 聖バルトロメオ 1610 ~ 14 年 ( 図 43 ) トレドグレコ美術館蔵 グレコの使徒シリーズの中では , 聖バルトロメオの画像は , このグレコ美術館の画像し か彼の真筆のものは伝わらない . 聖バルトロメオは , 光のうちに輝かんばかりの白衣を大 きくまとい , 黒髪 , 黒髯に囲まれた鋭い顔を右に向け , 主の声に耳を傾けるが如き , 緊張 した瞬間である . 右手に彼の殉教の器具である小刀を持ち , 左手でアルメリアの王女から 追い出した悪魔を鎖に縛って持つのは , 通例の聖バルトロメオの持物である . ウェゼイ は , グレコが最も遅く描いた画像ではないかと言っているが , 使徒像 , 聖者像のなかでも 際立って気迫に漲った画像である . 単純な白・褐色・黒の配色で , 顔面のすさまじい筆勢か ら聖者の精神が溢れ , みごとな衣の襞の筆法にモニュメンタルな響が満ちている . ( 図 44 ) 聖ルカ 1602 ~ 05 年 トレド大聖堂 暗褐色のバックに青緑色の衣を着た聖ルカは , 尖った白襟の中から濡れた眼差しの鋭い 表情の蒼白な長顔を傾け大きな本を開いて左手で支え , その 1 ページに細密画風に描かれ る聖母子の像を示している . 右手に画筆を持ち本の縁に寄せ , 向かいあう本文ページの枠 に筆の影が投ぜられて , 今にも描き続けるのかと思わせる . 聖母の青い外衣の下から膝の 赤衣が鮮かに現われ , 白い衣に包まれた赤子のイエスを抱いている . 書中の画像でありな がら活き活きとしていて , しかも遠い世界の色合いである . 聖ルカは , 伝説によれば , 聖 母の画像を描いたのであるから , 画家のパトロンの聖者であり , この画像にグレコは自分 トレド大聖堂の使徒たちの画像のな の姿を託したのではないかとの説もある . とにかく , かで最も注意を引く . ここでもグレコは , 人物を肉体的に , 写実的に描き写すというより は , 簡潔な筆線で色と形と明暗の適確な配置を作り , 緻密に充実しながら , 人物の心を暗 示し , 喚起させ , 画面全体に響き渉らせている . く聖ルカ >