340 南洋 稻建 カントン 広東 という四大艦隊を併立させ、あわせて軍艦八十二隻をもち、そのうち対日本防衛のた めの北洋艦隊が最大であった。もし中国大陸にその後内乱がおこなわれず、この艦隊を 維持発展させていったとすれば、日本をふくめたアジアのその後の運命はおそらくこん にちのようではなかったにちがいない。 李鴻章の政治的構想力の規模がよほど大きかったという証拠のひとつは、世界最強の 戦艦を二隻整備したことであった。 ていえん 定遠 ちんえん 鎮遠 がそれであった。 げんそく つくったのはドイツのフルカン造船所で、舷側の装甲はあっさ三〇サンチの鋼板とい うほとんど不沈艦というべきものであり、排水量は七三三五トン、速力は一四・五ノッ 、主砲としては、なんと口径三〇・五サンチ ( 一二インチ ) という当時の日本人の感 覚ではばけものとしか思いようのない巨砲を四門もそなえ、そのほか一五サンチ砲二尸 七・五サンチ砲四門を備えている。
比叡と金剛は、 十月五日横須賀出航 同七日神戸入港 という日程で神戸に入り、検疫所に収容されている六十九人のトルコ軍艦生存者を両 艦にわけて搭乗させた。 ( すいぶん顔がちがう ) と、真之はおもった。トルコ人というのは大むかしは中央アジアの草原で遊牧してい た騎馬民族で、一一一一口語学の通説ではそのことばはモンゴル語や日本語とおなじくウラル・ アルタイ語族に属している。顔つきも日本人に近かったのであろうが、その後中近東の 多くの民族と混血するうちに固有の顔かたちをうしなった。 トルコ人が勃興するのは十三世紀の初頭である。モンゴル人の征服事業に刺戟されて か、この種族もそれにならって西征し、アルメニアに移り、この前後回教文化を手に入 れた。十五世紀のなかば、コンスタンチノープルを占領して東ローマ帝国をはろばし、 艦十六世紀にはハンガリーを征服し、その艦隊は地中海にをとなえてヨーロッパの脅威 になった。このころが、トルコ人によって代表されるアジア人のエネルギーの最高潮の 軍時期であったであろう。 そのころのトルコ人は、キリスト教国を圧迫することをもって宗教的任務としていた
268 老教官は、好古の鼻を指さして、 「君はそういう悲劇的な兵科に身をおいている」 好古には、老教官のいうことがよくわからない。 「つまり、私が」 と、 いった。天才でないとおっしやるのか、というと、老教官はかぶりをふり、 「君が天才であろうとなかろうと、この場合たいしたことではない。たとえ君が天才で あっても君は最高司令官に使われる騎兵であるにすぎない。要は君の使い手が天才であ るかど , つかとい , っことた」 といった。好古は、やっとわかった。 「居るかね、君の国にはそういう天才が」 「それは」 好古は、苦笑し、それは軍事機密に属しますようで、といった。 「しかし過去の例でいえば、先刻の四人しかいないというお説は訂正していただかねば なりませんな。先生の博学は有名ですが、日本のことはご存じない。世界に六人いると おっしやるべきでしょ , つ」 「つまり日本人を二人加えろというのかね。たれとたれだ」 ひょどりごえ 好古は、源義経と織田信長の二人をあげ、義経の鵯越と屋島における戦法を説明し、
「チフスではないか」 と、加藤はあるとき好古にいった。好古はべつにおどろきもしなかった。 「チフスなら、大変なことだそ」 「わかっている」 と、好古は枕のむこうの書棚を指さした。そこに内科全書がひろげたままで置かれて いた。チフスの項が出ている。加藤の察するところ、好古はそれを読んで自己流の手当 をしているらしい こんなことで、ついに弓弓になおしてしまった。あとで、好古はいっこ。 、くじトく 「国辱じやからな」 という。医者に診せることは、である。妙な理屈だが、おなじ時代に生きている加藤 巨忠にはよくわかった。留学日本人が発疹チフスにかかって士官学校のフランス人たち リで無我夢中で背 この種の心清は、バ を」さわがす・とい , っことが、ど , つに・もはず・かしい のびをせざるをえぬ日本留学生の共通したものであった。 陸軍省から好古のもとにとどいた訓令は、 「留学中ハ左ノ諸項ヲ研究致スペシ」 馬という文章である。 諸項というのは、
224 あとでその内容を通訳からきき、好古は苦笑した。好古だけでなくどの学生も、メッ ケルの一一 = ロ葉がわからない。士官学校で習得したことは、みなフランス語であった。 日本陸軍は、旧幕府がフランス式であったことをひきついだ。明治三年十月、政府は、 「海軍は英式、陸軍は仏式による」 と、正式に布告した。 自然、好古らの学んだころの士官学校の教官もフランス人が多かった。 ドイツ人ということになると、日本そのものが縁がうすい。幕末、ドイツ語を学んだ 者は加藤弘之ひとりとされており、明治後の日本人もドイツについての知識がとばしく、 プロシャなどはヨーロッパの二流国にすぎないとおもっていた。ところが、医学者と哲 学者とが、ますドイツを認識した。ついで陸軍がそれを知った。 知るのも、当然であった。わが国の明治三年七月、プロシャはフランスに宣戦し、 ふふつ わゆる普仏戦争がおこった。九月、プロシャ軍はセダンの要塞を包囲して陥落させ、十 万人の捕虜を得、ナポレオン三世を降伏させ、この戦勝によって大陸における最大の強国 とされたフランスの栄光を消滅させた。翌年一月二十八日、プロシャ軍はバリに 入城した。 このプロシャの勝利は、政略からいえば宰相ビスマルクの勝利であろう。 「わが国の国運は鉄と血によって回転す」 といったこの十九世紀末の政治家は、軍事力的威力の徹底した信者であり、これを外 交の最大の武器につかった。
222 要するに鎮台という制度は外国からの輸入制度でなく、明治初年の日本人の独創によ るものであった。 「諸君はどう思っているかは知らないが、制度としては、児戯にひとしい と、この鎮台制を笑ったのは、メッケル少佐である。メッケルは鎮台が古城に籠って しることについてもおかしがった。 ようさい 「諸君は城を要塞とおもっているか。近代要塞というのはあのようなものではない」 当時の日本陸軍はやがてこのメッケルの意見を容れる。 メッケルが来日したのは明治十八年三月だが、その翌十九年三月、陸軍省のなかに 「臨時陸軍制度審査会」というものが設けられ、制度改革にむかって活漫な活動がはじ まった。委員長は児玉源太郎大佐であり、委員には少将桂太郎、同川上操六らが加わっ しもん メッケルに諮問した。 咨と、うようななまぬるいものではなく、メッケルがロ述するドイツ陸 軍の軍制をそのまま直訳実施しようとするものであった。 ここに明治初年以来の鎮台が、 「師団」 という呼称にあらためられる。師団という単位思想は鎮台よりもはるかに機動的で運 動能力をもっている。いわばいつなんどきでも「師団」を輸送船にのせて外征するとい
1 12 と、これには、幕末から明治初年にかけて駐在した英国公使バークスをおどろかしめ ている。 ークスがおどろいたのはこの改革じたいが革命そのものであるのに、一発の 砲弾をもちいすして完了したことであった。バ ークスはこれを奇蹟とした。 その廃藩置県から、子規や真之の中学上級生のころまでに十年そこそこの歳月が経っ ている。わすかその程度の歳月であるのに、 「なにをするにも東京だ」 つづうらうら という気分が、日本列島の津々浦々の若い者の胸をあわだたせていた。日本人の意識 転換の能力のたくましさ、それにあわせて明治の新政権というものの信用 ( とくに西南 戦争で薩摩の土着勢力をつぶしてからの ) の高さというものが、これひとつでも思いやる ことができるであろう。 子規の東京へのあこがれも、こういう時勢の気分のなかに息づいている。 「東京の大学予備門にゆきたいんじゃ」 と、子規は真之にいっこ。 真之は家にかえってから、かれには特別あまい母親のお貞に子規のことを言い 「あしも中学を中退して大学予備門にゆきたいものじゃ」 とねだってみた。 母親は針をつかいながら、返事をしなかった。真之が中学へかようことすら、兄の好 古の送金によってまかなっている。それが、勝手に中退して東京へ出るなど、好古がゆ
硯といった。大尉である。校庭で見たフランス士官とそっくりの軍服をきていたが、 はあきらかに日本人で、なまりは長州であった。 ( これが、日本の士官服か ) と、好古はうまれてはじめて士官というものの実物を見た。あとで知ったことだが、 てらうちまさたけ 寺内正毅と言い、長州藩の諸隊あがりの士官で、生徒司令副官という役目をつとめていた。 「試験は、漢文と英語と数学じゃ」 と、大尉はいっこ。 好古はおどろいた。英語というのは師範学校のころに一年はど習ったが、数学ははと んど知らない。漢文だけは幼少のころからやってきたから多少の自信があった。それを 話すと、 「では漢文だけで受けい」 と、この大尉はひどく大ざっぱなことをいった。要するにどの学課であれ、試験官が 答案から頭の内容を察し、よければ合格させようというものであるらしい 試験の当日は風のつよい日だった。 好古は定刻の八時前に尾州藩邸あとの士官学校校庭にゆくと、すでに応募者二百人ほ あか どがあつまってした。・ 、 ' との顔をみても好古同様田舎くさく、服装なども垢ぬけず、一見 して田舎者そろいであった。 こういうなかでも、薩摩と長州がめだった。 顔
たとえばナポレオン一世によって大改革された軍制を維持しているフランス陸軍は、 騎兵については、 きようこう 胸甲騎兵 ( 重騎兵 ) 竜騎兵 軽騎兵 という三種類をもっていた。胸甲騎兵はその名のとおり銀色にかがやくよろいを胸に とうそ、つ つけ、敵の刀槍や弾丸から身をまもっている。これが別称重騎兵とよばれるように、人 はくへい 馬とも大型の体格がえらばれており、主として白兵襲撃にもちい、その主武器は刀と槍 であり、ヨーロッパにおける騎兵の栄光はこの種目がになってきた。 竜騎兵は胸甲はつけない。体格は重と軽の中間のもので、武器は剣つきの騎兵銃であった。 そう 軽騎兵は装備もかるく、兵の体重もかるく、諸事かるがると戦場を運動し、司令部捜 索に任ずる。 そうなっている。 しかしそれだけに課題は複雑で、 日本はこの軽騎兵しか採用する能力がなかったが、 この軽騎兵に他の重騎兵や竜騎兵の機能や戦闘目的をつけ加えようとするものであった。 この この - 計一凹はヨーロツ。、ゝ ノカらみればおよそ乱暴な発想であったかもしれなかったが、 馬種の無理やつぎはぎをやってゆく以外に日本人がヨーロッパ風の近代軍隊の世界に参加 川してゆくことはできない。
348 「 Yes, sir 」 と、ふしぎなはどに通じ、ちゃんとビールをもってきてくれた。 「日本語がよはどわかるようですね」 真之が加藤友三郎にしった 「古いからね。山本権兵衛さん時代からいるから、彼女が海軍にいれば大佐だろう」 ただこのおなおさんのふしぎさはそれほど日本語がわかるくせに、自分の口から日本 語の一語でも出したことがないことだった。英語以外は使わぬという英国人の誇りが、 この女中頭にもあるようだった。 真之らが、エルジック造船所で軍艦吉野をみたとき、これこそ新時代の軍艦だとおも ったのは、帆がないことであった。 真之がかって少尉候補生として乗った比叡もその僚艦である金剛も、むろん蒸気工ン ジンはついているが、しかし汽罐はできるだけ節約して風力で艦をはしらせることが船 乗りの要件とされているし、そのような概念に適わせた艦であったが、この吉野はエン ジンだけが推進力であった。しかも世界最高速力の軍艦なのである。 「小さいが、定遠、鎮遠ごろしの猟犬だ」 と、回航委員長の河原要一大佐はいった。そのとおり、風を巻いて走る猟犬のような、 みるからに速そうな艦形をしていた。