164 と、真之はいった。哲学に、である。子規はこのところ哲学というものに、まるでは じめて恋をした青年のようなのばせかたで熱中していた。 「はんとうだよ、予備門の書生がなぜえらいか、あしにはわからん。学校で見まわして もそれほどのやつはおりやせんがな」 「だから、予備門の書生はえらいというのは世間の迷信というわけか」 「わけさ」 「そのあたりのイナリの赤鳥居とおなじか」 「おなじだ」 と、子規は気負ってうなすいた。 「世間というのは迷信の着物をきてやっと寒気をしのいでいるのだ。真理とか本当のこ とというのは寒いものなのだ」 「凝ったなあ」 「だって、そうじゃないか。人間もいきものなら、いきもののことを考えるのは、人間 より下等な動物の例をあげるとよくわかる。犬は同類の犬を信仰するか」 ( むすかしいことを言やがる ) 真之は、子規の顔をみつめた。 もともと子規というこの少年には哲学趣味がなかった。伊予松山から上京してきたこ
校長は、右手の扇子を大きくふりあげておのれの左掌をはげしく撃った。 「乱臣賊子だ」 や 好古は辞めてしまおうと思ったが、国を出るとき父からいわれたことを思いだした。 「世間にはいろんな人間がいる。笑って腹中に呑みくだすほかない」 飲みくだす気にはなれなかったが、珍物として敬遠しようとおもった。 好古は、結局は転しこ。 むりをしても、師範学校に入ろう。 と思い立った。無理というのは、年齢であった。数え年十九歳以上というのが国家が 規定した師範学校の入学資格であったが、好古は二歳足りない。が、戸籍がまだ不確か なころであり、役所としては本人の申告を信用する態度をとっている。 ( だいじようぶだろう ) と思い、願書を書き、その生年の項は安政四年うまれとした。実際は安政六年のうま れであったが。 四月に受験をした。学力試験は漢文だけであった。口頭試問のとき、 昔 や「君は、エトは何年かね」 春ときかれた。 「ひつじどしでごギ」りまする」 ひだりて
ことだけで精いつばいで、土の底の根もとのことまでは考えがおよばんじゃった。 「いまやっと自立し、齢も二十代の半ばを数年すぎ、そのことをときに考えることがあ る。が、おれの得た思案は、お前の参考にはならぬ」 「なぜです」 「わしは日本陸軍の騎兵大尉秋山好古という者で、ざんねんながらばく然とした人間で 「ばく然とした人間とは ? 」 「たとえば、書生よ」 書生の立場ならば、人間ということについての思案も根元まで掘り下げて考えること ができるが、すでに社会に所属し、それも好古の場合陸軍将校として所属と身分が位置 づけられてしまっている以上、「人間はどうあるべきか」という普遍的問題は考えられ す、「陸軍騎兵大尉秋山好古はどうあるべきか」ということ以外考えられない。 「そうだろう」 と、好古は湯のみをとりあげた。 「それでもいいんです。陸軍騎兵大尉秋山好古はどうあるべきか」 「書生の参考にはならないぜ」 「聞きょ , つによります」 「なるはど」
っているから早く来いよ、と大声で言いすてて出て行った。 まかあ。 と、好古はわが頭をなぐった。人間、ひとの一一一一口葉が生理に反応するなど、恥すべきこ とではないか。 ( どうも、伊予者は人間が柔だ ) と、ひとからそういわれる。サッチョウのやつらに伍してゆくにはよほど人間をつく りかえぬといかぬと好古はちかごろおもっている。もっとも幸か不幸か好古はまだ薩長 きようそうじようり の人間と競争場裡に立ったことはなかったが。 夕刻、下宿を出た。 もめん 寒い。木綿の粗末な羽織を着ていた。羽織はおとなになったしるしのようなものだか らとおもい、古着を一枚買ったのだが、裏がよほどいたんでいたらしく、三日着るとす だれのように破れはじめた。 好古には、金がない。 いや、あるにはある。なんといっても月給三十円で、それだけもあれば七、八円で玄 関つきの屋敷を借りてたとえ家族持になってもゆっくり養えるのである。ところが、好 昔 や古は下宿代と書籍代をさしひいて毎月松山にいくらか送り、残金は下宿の夫人にあずか 春ってもらっている。積み立てて将来の学資にするつもりだった。 和久正辰の屋敷にゆくと、玄関まで夫人が出迎えてくれて、ぬいだ履物までそろえて やわ はきもの
と、好古は念を押し、あとは炯々とまわりを見まわしながら酒をのむ。真之はこの、 ′」うと、つ 兄の一種豪宕な飲酒の気分がすきで、 いんりつ 人格の韻律を感じさせる。 などと子規にいっていたりしたが、 いまのばあい真之はだまってかしこまっているは 「なぜやめたいのだ。みじかくいってみろ」 と、好古はいった。 授業料のことが心配で。 などとは、真之はいえなかった。いえば好古は一喝するにちがいない。 「兄さん、うかがってもいいですか」 「なんだ」 「人間というものはどう生きれば」 よろしいのでしよう、と真之はおそるおそる、兄の心底をそんな質問でたたいてみた。 人間はなぜ生きているのか。どう生きればよいのか。 人「人間 ? いや、これは」 変好古は顔をなで、 七「むずかしいことを一言やがる」 下唇を突きあげた。おらアな、いままでどう自分を世の中で自立させてゆくか、その いっかっ
308 だじよう と、子規はいった。東京へ出たころはゆくすえは太政大臣になるつもりであったが、 ちかごろはそんなことを思ったということすらわすれている。 「では、なにを語ろう」 と、子規は、天性のものだがひとにサービスをせざるをえないらし 友たちと共通の話題であるかをさがした。 ふと思いついて、 「べースポールを知っとるかねや」 と、きいた。 「野球か」 と、一人がいった。子規が翻訳した日本語は、もう東京専門学校ではふつうにつかわ れているようであった。 「野球をしにゆこう」 と、この重病人が起きあがった。 人間は、友人がなくても十分生きてゆけるかもしれない。 つないくらいにその派ではなかった。 たとえば、 野球をしよう。 しかし子規という人間はせ い。なにがこの旧
130 のいかなる人間よりもこの兄という人間に興味と関心がつよかった。 「兄さん、なんで茶碗が一つじゃ」 と、おそるおそるきいてみた。 「一つでよかろう」 好古は、親指を茶碗のはしにひっかけて酒をあおっている。山賊の若大将といったふ うであった。鼻が日本人ばなれしたほどに高かったために、松山でもこの信三郎好古の ことを、 はなしん 「鼻信」 きれ と、ひとはかげ口をいった。両眼の眼裂が異様にながく、色白でくちびるが赤い。め ずらしいほどの美男であったが、好古はなにがきらいといっても自分が美男であるとい うことをひとにいわれるほどきらいなことはなかった。この点でもこの人物は目的主義 であり、美醜は男にとってなんの意味もなさずと平素からいっており、男にとって必要 なのは、「若いころにはなにをしようかということであり、老いては何をしたかという ことである」というこのたったひとことだけを人生の目的としていた。 好古はそう弁じ、 「だから茶碗は一つでええ」 とい , つ。 「しかし兄さん、櫛はおもちじやろうが」
升さんーー子規ーーがはらっている下宿代は当時の東京での相場どおり月四円であっ た。部屋代が一円、食費が三円で、この部屋代の一円を二人で分担すれば一人三円五十 銭になる。五十銭が、浮く。 提案家の子規は、かねてより真之にこれをすすめていた。 結局、同宿することになった。 さるがくちょう くろ、つと 神田の猿楽町に、板垣善五郎という表札のかかった二階だての玄人下宿がある。子 規はそこに住んでいた。 「予備門の書生さん」 といえば下宿の主人夫妻も女中たちも、他の書生とはべつあっかいであった。日本一 ただ の秀才だとおもわれていたし、末は博士になるか大臣参議になるか、要するに尋常の若 い者ではない。 「迷信だな」 と、やってきた真之に、子規はいった。そんなものは庶民の迷信にすぎないと子規は 人「人間というのは人間を信仰したがるのだ」 七 と、真之はあざわらった。 「凝ったな」
子規は、気づかなかった。 ある夜、ふたりで古今東西の文学について論じあったあげく、子規は昂奮し、 「淳さん、栄達をすててこの道をふたりできわめようではないか」 といったとき、真之にもその昂奮がのりうつり、 「あしもそうおもっとった。富貴なにごとかあらん、功名なにごとかあらん」 とロ早にいった。戯作小説のたぐいの世界に入るということは、官吏軍人学者といっ とうと きむすめ た世界を貴しとするこの当時にあっては生娘が遊里に身をしずめるような勇気が要った。 「立身なにものそ」 と、子規はいう。 「あしもな、淳さん、松山を出てくるときにはゆくゆくは太政大臣になろうとおもうた が、哲学に関心をもつにおよんで人間の急務はそのところにないようにおもえてきた。 どうもあしにはまだよくわからんが、人間というのは蟹がこうらに似せて穴を掘るがよ うに、おのれの生れつき背負っている器量どおりの穴をふかぶかと掘ってゆくしかない ものじゃとおもえてきた」 人「升さんのこうらは文芸じゃな」 変 ( となれば、あしはどうだろう ) 七とも、真之はおもわざるをえない。それほどの才があるか。 ( ある ) カー
というたけの、・ 単純な目的主義 ( これが生活のすべてにわたっての好古の生き方だが ) によるものであり、それ以外に粗食哲学などはない。「人間は滋養をとることが大事で ある」という西洋の医学思想はすでに入っており、他のひともよく好古にその思想をす すめたが、 つうよう 「べつだんこれで痛痒を感じていない」 と好古は答えるばかりであった。事実、この粗食で十分隊務に服しえたし、のち人間 た ばなれのしたエネルギーを発揮したコサック騎兵との戦いにも十分堪ええたし、七十二 歳で病没するまでつねに血色はあかあかとしていた。 もっとも、好古は酒を好んだ。この兄弟対面のタも弟にはめしを食わせ、自分は酒を のんだ。 奇妙なことに、好古は茶碗を一つしかもっていなかった。一つの茶碗に酒をつぎ、ぐ から っと飲むとその空茶碗を弟にわたす。弟はそれでめしを食う。そのあいだ、好古は待っ ている。ときどき、 「早く食え」 之と、せきたてた。 真真之は松山じゅうの腕白小僧が束になってやってきても平気なはど向っ気のつよい男 だったが、この好古兄貴だけがどうにもならぬほどこわかった。こわいくせに、この世 むこ