引「野田小学校」 という看板が出ていた。それへ入ると、寺男のような老人が出てきた。 「ああ、先生でごわりますか」 と、すでに新任の先生が来るということはわかっていたらしく、本堂に通してくれた。 しゆみだん むろん児童はおらず、須弥壇一つがあって、あとは冷えきった畳が三十畳ほど敷かれて いるだけである。 「先生、お宿は」 「まだ決めとらんがの」 たいころう と言いながら本堂を出た。そこに太鼓楼があり、砦のやぐらのように高かったから、 好古はのばってみた。 てんばうざん 窓からのそくと、天保山の方角にかけて一望の田園である。東には大河が流れており、 その河むこうが大阪の市街地であった。タもやが立ち、炊煙がのばり、腹がヘりきって いるせいもあって、 ( えらいところへきたな ) という思いが、こみあげてきた。 降りると、寺男はまだいる。寺男が、 「」 , っし、なはる」 な と、もう一一一一口葉っきまで馴れなれしくなっていた。 とりで すいえん
くつもなかった。ところが好古は、 「やめえ、やめえ」 と、帽子の下から汗をながしながら手をふった。鴨川はおどろき、何してや、ときくと、 「何してて、あげなところ、なんばか辛うてたまらん」 と、好古は頭をふった。 まったくその言葉どおり、この好古の入った期の士官学校というのは辛い課業を生徒 に課した。まだ西南戦争はおわっておらず、陸軍当局としては生徒を在学中に戦地へや るもくろみでいたから、速成の士官教育を計画し、一年でやる学課や実技を半年で詰め こもうとするやりかたであり、この暑中休暇も規定でいえば夏に五週間ということであ るのに、ことしは十日だけしかなかった。 「信さんでも、つらいかねや」 これにま、ー 月もおどろいた。銭湯にやとわれて水汲み風呂たきをした好古の姿を鴨 川は幼友達だっただけによく知っており、その好古がつらがるようでは、 ( あしはどうにもならんな ) とおもった。鵯川は師範学校の成績は好古よりよかったが、体には自信がない。それ に好古の話をきくといまは戦時下でフランス語の勉強よりも実技ばかりをやらせるから 烏川。、思っているような学校ではなさそうであった。 「ほなら、やめた」 つろ なん
と教えられてきた。 みちみち、 士官学校はどこです。 市ヶ谷の尾州 ときいても、たいていはさあね、と首をふるばかりで知らなかったが、 さまはどこです、といえばすぐ答えてくれた。東京といっても現実の地理はまだ江一尸で あった。 市ヶ谷に入っても旧大名屋敷や旗本屋敷はそのままで残り、一望六割ほどが田園であ さないざか った。左内坂をのばってゆくと、にわかに西洋風の門がある。 衛門があり、そこで来訪の意を告げると、兵隊が案内してくれた。校庭はひろく、あ ちこちに日本瓦をふいた木造二階だての、まるで異人館のような校舎が建っている。 事務室に入らされた。 ぐんそう 軍曹が出てきて、 やたて 「矢立はあるか」 からじし と、好古の腰をみた。好古は、曾祖父が愛用していたという唐獅子を彫った赤銅の矢 立を腰からぬいて示した。 昔 や軍曹は、願書の書式を教えた。 春部屋の奥のはうに士官がいた。色白で目がはそくあごの張った男で、近づいてきて、 「おまえはどこの藩かな」 あかがね
2 こまれ、かしこまれ」と叫んで、まっさきに道ばたにへたりこんだ。 こんなぐあいで、歩いてゆく。 戸塚に入ったのは、正午だった。小ぎたない茶店に入ってめしを食った。昨夜十一時 に東京を出てから、はじめてのめしである。 「こんなうまいものがあるか」 と、子規はどんぶりをかかえこんだが、真之は疲労の限度を越えてしまったせいか、 ふた箸はどっけて、 「 , っ士ノ、ない」 しし、そのまま土間にすわりこみ、ゆるゆると体をのばし、横臥し、あとはばろぎ れのようになって寝入ってしまった。 「この男の兄さんがこのざまをみれば、とびあがっておこるぜ」 と、子規はいった。 午後一時になった。 「ゆこう。この秋山をおこさねば」 と、小倉という男が真之をゆりおこしたがそのつどいびきをやめるだけで、目をひら じやけん こうとしない。ついに邪屋にゆすった。 「秋山、だいじようぶか」 おうが
その代表者を、顕官のなかからはえらばなかった。 一組の兄弟にえらんだ。 すでに登場しつつあるように、伊予松山のひと、秋山好古と秋山真之である。この兄 弟は、奇蹟を演じたひとびとのなかではもっとも演者たるにふさわしい たとえば、こうである。ロシアと戦うにあたって、どうにも日本が敵しがたいものが ロシア側に二つあった。一つはロシア陸軍において世界最強の騎兵といわれるコサック 騎兵集団である。 いまひとつはロシア海軍における主力艦隊であった。 運命が、この兄弟にその責任を負わせた。兄の好古は、世界一脾弱な日本騎兵を率い ざるをえなかった。騎兵はかれによって養成された。かれは心魂をかたむけてコサック の研究をし、ついにそれを破る工夫を完成し、少将として出征し、満州の野において悽 惨きわまりない騎兵戦を連闘しつつかろうじて敵をやぶった。 弟の真之は海軍に入った。 「智謀湧くがごとし」といわれたこの人物は、少佐で日露戦争をむかえた。 それ以前からかれはロシアの主力艦隊をやぶる工夫をかさね、その成案を得たとき、 日本海軍はかれの能力を信頼し、東郷平八郎がひきいる連合艦隊の参謀にし、三笠に乗 り組ませた。東郷の作戦はことごとくかれが樹てた。作戦だけでなく日本海海戦の序幕 めいこうじよう の名口上ともいうべき、 さん よしふる ひょわ さねゆき
やがて部屋と寝具をあたえられたが、。 とうにも寒く、好古は袴もぬがずにその上に掛 けぶとんをかけた。抹香のにおいがした。 「そんなかっこ , つで」 おやじ と、娘が寝巻をもって入ってきて、好古をおこそうとした。親爺もその女房も入って きて、着物だけはぬげ、という。掛けぶとんをひきはがそうとするほどの勢いであった。 ( 欲深かとおもえば、存外、親切なところもあるのじゃな ) と観察したが、 干渉好きにはこまった。干渉ずきというより人間というものについて の関心がつよすぎるといったほうが的確らしく、寺男はわざわざ上からのそきこんで、 「こうして上からながめてみると、ええお顔をしたはるなあ」 た と、際限もなくしゃべりはじめた。耳も大きいさかい金は溜まるやろ、しかし見れば みるほど大きいのはその鼻や、左官にでもなればすぐ親方になれる鼻や、色はぞんがい 白うおまんな、などという。 「それにしても、なんで着たままで寝やはるのだす。ぬぎなはれ」 と、もとにもどった。好古は物にかまわぬという点ではほとんど奇人に近く、着たき りで寝るなどはごく日常のことなのである。が、いまはこの親爺のうるささに堪えかね、 や「わかった」 春というなり跳ね起き、くるくると着物をぬぎ、襦袢もぬぎ、ついでに下帯もとってし まって素裸になった。 まっこう じゅばん はかま
真之の少年時代のなかで、最大の事件といえば、兄好古の帰省であった。 真之が十歳のとき、明治十年の夏、暑中休暇で好古は帰ってきたが前ぶれはしていない。 好古は三津浜で船からおり、下士官服に似た士官学校の制服をきて町へ入ってきた。 そういう好古を最初に町角で見かけたのは、幼友達の鴨川正幸であった。 「そこへ行くは秋山の信さんじゃあるまいか」 鴨川は、松山弁でなまぬるくいったが、気持はひどくせきこんでいる。この鴨川正幸 は好古と大阪の師範学校で一緒だったし、その後鴨川は松山に帰って教員伝習所で教べ んをとっている。好古が士官学校に入ったことはきいていたから、 ( この兵隊姿が、きっとそうじやろ ) とおもいながら、声をかけたのである。好古はふりむいた。 ゃあ、鴨川か、と立ちどまった。鴨川はなっかしいよりもなによりも、好古が士官学 校に入ったことがうらやましくてならず、 「士官学校ちゅうのは、やはり官費かな ? 」 とたしかめてから、 「あしも田舎で薄ばんやりすごしていてもつまらんけん、士官学校イでも入ろうと思う 之 んじゃが、どんなもんじゃな」 真鴨川にすれば、本気であった。士官学校に入ればフランス語が学べるという。かれの 当時の語学というのは宝石のように稀少価値があり、語学が学べる場所など日本でもい
円 6 ともおもえる。うぬばれていえば子規以上のようにおもえる。しかしその戯作者や詩 めいそう 文の徒の生活を考えてみると、よくは知らぬながらともかくも書斎にこもり、明窓にむ じようきすずり かい、浄机に硯をのせて日常をすごしているとすれば、どうも自分の肌合とはちがうよ うであった。 ついに、兄の好古に相談してみることにした。ところが、兄の下宿への道がわからな 好古は陸大に入ったあと、市ヶ谷から通うのが不便だったため、陸大の校舎に近いと ころに下宿を移していた。 結局、陸大にゆくことにしこ。 夕刻、門前で待っていると、陸軍騎兵大尉の服装をつけた好古が、騎馬で出てきた。 「兄さん」 といって駈けよると、好古は用件もきかすに、 「淳、くつわをとれ」 と、命じた。陸大に入ると馬丁がっかないから好古はいつも徒歩でかよう。が、きょ し門を出た。さ うはひさしぶりで馬に乗って騎兵連隊の営庭をひと駈けしようとおも、 、、前に真之がいオ 「兄さん、馬はいやぞな」
しだいに打撃がするどくなり、受け手もあとへあとへとさがってゆく。 れんべいじよう しばらくして子規らはやめ、バットとボールを虚子らにかえし、「練兵場を横切って 道後温泉の方へ行って」しまった。 そのうち、 秋山の淳さん。 と、子規のいう真之が、みじかい兵学校の制服をきて帰ってきた。真之は家へちょっ と寄って母親に声をかけると、靴もぬがずに中ノ川の流れる子規宅へいそいだ。 きゅうり のばる 「升 ( 子規 ) さんに胡瓜をもっていっておやり」 と、母親が胡瓜を一本手にもって追っかけてきたが、真之はふりはらった。 この日、松山の城下は「胡瓜封じ」の日で、年のうちもっともあつい日とされている。 道をゆく男女が、みな胡瓜をもって歩いている。 ( 妙な町だ ) と、真之はわが故郷ながらおもった。この日、胡瓜をもって市中の密教系統 ( 真言・ じゅもん す天台両宗 ) の寺へゆき、それへ呪文をかいてもらって疫病ばらいをするのである。 子規の家の垣のうちに入ると、玄関さきにお律がいた。ざるに胡瓜を盛ってどこかへ 出かけようとする様子だった。真之はおもわず停止し、挙手の敬礼をしてしまった。 お律にとってもこんな服装の真之をみるのがはじめてだし、人からそんなぐあいの礼
「新聞じゃが」 みの 子規は答えた。美濃半紙を四ッ切りにして毛筆でこまかく書いてある。どうも印刷で い、かさねて問いただすと、「あしが作った新聞じゃが」 ないところがふしぎだとおも と、子規はさすがにはすかしそうな顔をしていった。 中学二年のころ、子規は近所から中学へかよっている連中をよびあつめてきて、 「きようからあしが新聞を作るけれ」 といって、みなにニュースをとって来させ原稿を書かせ、子規はそれを編集長気どり で文章をなおしたりしてこういう体裁の紙面に筆写した。 「大街道の船田さんの馬があばれたのかな」 と、真之は読みながらいった。大街道という寄席などもある繁華街に、船田という医 師がすんでいる。馬にのって往診することで有名だったが、その馬がある日船田家の門 前につないであったところ、なにが気に入らなかったか通行人を蹴ってけがをさせた。 それだけのことをおもしろく書いてある。 新聞は、二、三号でつぶれた。あと、子規は筆写雑誌をやったりした。この子規の三 おうてい 之畳の書斎の前に大きな桜がある。それにちなんで雑誌の名は「桜亭雑誌」と名づけていた。 「お前も入らんかの」 真というのが、きようの子規の真之に対する目的であったらしい 「あしはやめじゃ」