坂の上の 坂の上の雲 ( 一 ) 司馬遼太郎 文春文庫司馬遼太郎作品リスト 最後の将軍ー徳川慶喜ー新装版余話として 十一番目の志士 ( 上 ) ( 下 ) 翔ぶが如く ( 一 ) ー ( 十 ) 世に棲む日日 ( 一 ) ー ( 四 ) 木曜島の夜会 酔って候 歴史を考えるみ ー ( 八 ) 新装版 竜馬がゆく ( 一 ) 対談中国を考える ー ( 六 ) 新装版 功名が辻 ( 一 ) ー ( 四 ) 菜の花の沖 ( 一 ) ロシアについて北方の原形 故郷忘じがたく候 歴史を紀行する 手掘り日本史 この国のかたち ( 一 ) ー 幕末新装版 夏草の賦 ( 上 ) ( 下 ) 八人との対話対談集 義経 ( 上 ) ( 下 ) 対談西域をゆく 坂の上の雲 ( 一 ) ー ( 八 ) 新装版歴史と風土 日本人を考える対談集 ベルシャの幻術師 殉死 司馬遼太郎の世界 ( 文藝春秋編 ) 明治維新をとげ、近代国家の仲間 入りをした日本は、息せき切って 先進国に追いっこうとしていた。 この時期を生きた四国松山出身の 三人の男達ーー・ - 日露戦争において コサック騎兵を破った秋山好古、 日本海海戦の参謀秋山真之兄弟と 文学の世界に巨大な足跡を遺した 正岡子規を中心に、昂揚の時代・ 明治の群像を描く長篇小説全八冊 著者紹介 司馬遼太郎 ( しば・りようたろう ) 大正 12 ( 1923 ) 年、大阪市に生れる。 大阪外国語 ! 岩交蒙古言斗卒昭 和 35 年、「梟の城」て、第 42 回直木賞 受賞。 41 年、「竜馬がゆく」「国盗 り物語」て菊池寛賞受賞。 47 年、 「世に棲む日日」を中心にした作家 活動て、吉川英治文学賞受賞。 51 年、 日本芸完恩、賜賞受賞。 56 年、日 本芸術院会員。 57 年、「ひとびとの 跫音」て、読売文学賞受賞。 58 年、 「歴史小説の革新」についての功績 て瀚日賞受賞。 59 年、「街道をゆく 、、南蛮のみち I 、、」て、日本文学大賞受 賞。 62 年、「ロシアについて」て、読 売文学賞受賞。 63 年、「韃靼疾 ) 電刺 て大佛 : 知に賞受賞。平成 3 年、文 イ j 労者。平成 5 年、文イ ~ 章受 を著書に「司馬遼太郎全集」 ( 文 藝春秋 ) ほか多数がある。平成 8 ( 1996 ) 年没。 9 7 8 4 1 6 7 1 0 5 7 6 1 II ⅢⅢⅡⅡⅧⅢ 1 9 2 0 1 9 ろ 0 0 5 5 2 ろ I S B N 4 ー 1 6 ー 7 1 0 5 7 6 ー 4 C 0 1 9 5 \ 5 5 2 E 定価 ( 本体 552 円 + 税 ) 文春文庫 し 1 文春文庫 文 カバー・風間完 552 十税 文春文庫
みどし と答えると、試験官は笑った。願書の安政四年とすれば巳年であるべきだった。試験 官はこの受験生が年齢をごまかしていることに気づいたらしいが、黙認した。 及第し、五月に入校した。伊予松山から大阪に出てきたのは一月であったから、入校 まで検定教師をつとめたのは、ほんの四カ月にすぎない。 この時期、師範学校そのものができてほどがなく、制度も内容もあやふやであった。 最初にこういう学校が大阪に出来たのは二年前の明治六年で、場所は東区法円坂町であ った。法円坂町というのは大坂城のそばにあって、旧幕時代の官庁街である。そういう 屋敷のひとつを利用して発足した。ところが翌年いったん廃止され、官立から府立にな みどう った。場所も俗に、「御堂さん」といわれる船場南久太郎町五丁目、東本願寺別院の掛 しょ 所に移った。 好古が入学したのはここである。風変りなのは ( 草創期で仕方のないことだが ) 、 「時ヲ定メズ生徒ヲ募集ス」 ということになっている。その門に志願者さえ入ってくれば随時試験をしてくれるの である。さらに風変りであったことは、修業年限がきまっていないことであった。その 生徒に学力が乏しければ年月をかけてゆっくり教え、逆に教師たるに必要な学力がそな わっておれば一年ぐらいで卒業させてくれるのである。好古も入学試験のとき試験官か ら、 「君はこの当校に何年いたいかね」
れについては真之も、 ( 信兄さんのためなら命もいらん ) , 、そういう自分にとって重すぎる関係の兄だけに顔を見合 と子供心におもってきたが、 わせることがむしようにはずかしいのである。 とうとう母親にしよっぴかれるようにして好古の前に出され、あいさつをさせられた。 「いつ、少尉になるんじゃ」 と、父の久敬がきいていた。 好古は「ことしは明治十年じやけん」とつぶやきながら指を折り、 「明治十二年十二月です」 「士官学校というのは三年間な ? 」 「歩兵科と騎兵科は三年で、砲兵科とエ兵科は学ぶことが多いけれ、四年じゃが」 「お前は騎兵な」 「左様」 好古の右腕に蚊がとまっている。血ぶくれていたが、好古は平気な顔で、追いたたき もしない。 この男は死ぬまでそういう男だった。 「なぜ、騎兵を選んだそな」 と、父はたすねた。
真之が海軍少尉に任ぜられたのは、明治二十五年五月である。 りゅうじよう 軍艦竜驤の分隊士に補せられ、翌年、松島艦の分隊士に転じ、すぐその職を免ぜら 艦「英国ニテ製造ノ軍艦吉野ノ回航委員ヲ命ズ」 という辞令をもらった。明治二十六年六月のことである。 軍「任官一年で英国ゆきとは、秋山さん、ただごとじゃないよ。将来の参謀だね」 ネービイ 4 ・ といってくれたのは、ミセス・海軍といわれた品川のおなおさんであった。 この北洋艦隊の日本訪問は、はたして清国にとって外交上成功したかどうか、結果と しては疑問であった。 この朝野の衝撃が、日本海軍省にとっては建艦予算をとる仕事を容易にした。議会は そのばう大な海軍拡張費に対し大いにしぶりはしたが、政府は天皇をうごかしたり、世 かんき 論を喚起したりさまざまないきさつを経て海軍拡充計画を実行して行った。 やしま のちの日清戦争には間にあわなかったが、 富士、八島という一一大戦艦を外国に注文す いつくしま ることが議会で承認された。さらに北洋艦隊来航以前に注文していた厳島、松島、橋 立といういわゆる「三景艦」がこの明治二十四年夏には竣工 ( 橋立のみは遅れた ) しょ うとしていたし、さらに快速巡洋艦吉野も、二、三年後には英国で完成するはずであっ れ、 っ ) 0
ただ坂本大尉の観察ではトルコ士官は自分の下士官・兵をいっさいかまいつけず、ま るで他人のようであり、無視しきっていた。 この点ちょっと理解しがたい連中だ、と坂本は真之ら候補生に語った。 世界じゅうの国々が、揉みあうようにして国力伸張の競争をしている。その象徴が軍 艦であったであろう。 維新成立後二十余年をへた日本も、多少の軍艦をそろえた。が、列強の東洋艦隊のそ ろうきゅうかん れからみればその性能は論外で、老朽艦や鉄骨木皮の軍艦が多く、鋼鉄をもってつく ふそう られている軍艦といえば、高千穂、扶桑、浪速、高雄、筑紫ぐらいのものであり、それ も三千トンから千トン台の小ぶねで、とうてい海上の威力になりえない。 明治政府の方針として大艦や中艦は外国から買うが、砲艦程度の小さなふねは国産で ゆくということになっており、この計画で何隻かの国産艦が横須賀造船所でできあがっ た。たとえば八九七トンの清輝 ( 木造 ) などはそれであり、この清輝は明治十年にでき あがるや、十一年、わがくにの「国威」を示すために一年がかりでアジア・ヨーロッパ 艦の諸港を巡訪し、遠洋航海に成功した。 かん しん りこうしよう この間、隣国の清帝国もようやく近代化にめざめている。李鴻章が宰相になり、艦 軍隊を整備しはじめたのは明治十二年ごろからであり、大国だけにその規模は最初から雄 大で、
321 族とされていた薩摩士族軍をやぶってから、評価がかわった。松山地方でも、 西郷隆盛いわしか雑魚か 鯛 ( 隊 ) に負われて逃げてゆく という唄がはやった。チンダイの意外なつよさが見なおされたのである。 明治のはじめ、松山には連隊がなかった。明治八年、丸亀に歩兵第十二連隊がおかれ、 松山には分営があっただけである。 が、明治十七年、松山にも連隊がおかれることになり、歩兵第二十二連隊とよばれた が、実際にそれが発足したのは明治十九年であった。兵営は温泉郡松山堀之内にもうけ られた。 松山も、えらいものになった。 と、土地の連中は満足していた。さらにかれらを満足させたのは、丸亀にあった歩兵 第十旅団司令部が、去年の明治二十一年、松山に移ってきたことであった。 す町に、兵隊の数がふえた。 しず さらにこのねむったように閑かな城下に話題を提供したのは、お城の北のほうの一万 村の耕地六万坪が陸軍によって買収されたことであった。演習場になるわけだが、この ための用地買収はすでにおわり、師団司令部のある広島からエ兵隊がやってきてそれを
間の問題になりつつあった。 が、それだけが御用ではなく、「フランス陸軍に釈明するという御用も含められている」 というのが、フランスにおける日本軍人たちのあいだでうわさになっていた。 この明治二十一年に日本陸軍が、在来のフランス式からドイツ式に切りかえたことに ついてフランス陸軍はそれを不快としている。それにつき、山県は日本陸軍の代表とし おんぎ わ て釈明を兼ねて在来の恩誼を謝し、詫びるべきところは詫びる、ということになっていた。 山県有朋がマルセーユに上陸したのは明治二十二年の正月である。当然バリへむかう べきところ、かれはまずべルリンにむかった。 「ドイツ病だな」 と、パリ駐在の交際官である加藤恒忠は好古にいった。加藤はさらにほんの十数年前 まで日本政府にドイツについての認識がほとんどなかったことを好古に語った。 「東京大学医学部がまだ東京医学校といっていた明治八年、はじめてドイツ人のホフマ ンとミューレルの二人をまねいたが、 その講義を通訳できる医者は日本に一人しかいな と、加藤はいう。 め′よ、つかい 馬その通訳は、司馬凌海という。幕末に出現した洋学者で、経歴はふるい。この人物 。、世間に出てくるについては、奇縁がある。
350 大尉山本権兵衛が加わっていた。 なお浪速はその同型艦の高千穂とともに英国でつくられたが、同時期にフランスに注 うねび 文した類似艦があり、「畝傍」といった。この畝傍はフランス人の手で回航された。し かしこの艦はついに日本に着かなかった。明治十九年、回航の途上、シンガポールを出 たまではたしかであったが、 その後煙のように消えてしまったのである。これについて はさまざまに取り沙汰されたが、 こんにちにいたるまで謎になっている。 軍艦吉野は明治二十六年十月五日英国を出発し、プリマウス、ジプラルタル、ポート セッド、アデン、コロンボ、シンガポール、香港をへて、翌二十七年三月六日、ぶじ広 島県呉の軍港についた。 ホンコン
160 明治二年、旧幕府における最高の学校であった昌平坂学問所をあらためて、 「大学校」 と称した。その機能を二つに区分し、大学南校と大学東校と言い、南校では人文科学、 東校では医学をおしえた。 これが明治四年、同十二年の学制改革でおいおい充実し、明治十九年の帝国大学令で はじめて帝国大学の設置が規定された。 子規や真之らは、帝国大学以前の制度のときに入学している。かれらが入学した大学 予備門というのは大学に付属した機関で、のちの旧制高校もしくは大学予科に相当する。 「あしや、どうも英語がでけぬ」 と、子規は入学早々、音をあげはじめた。 子規は、入学試験の英語考査のとき、共立学校のころの友人からこっそり教えてもらった。 「 Judicature 」 という単語が出た。 Judge から出たことばで司法権とか司法官という意味があるが、 子規にはわからず、となりの席のその友人に小声で救援を乞うと、 「ホーカン」 ほうかん と、その男はささやいた。法官である。が、子規は、なるはど幇間か、とおもい、そ のように書いた。司法官とたいこもち、すいぶん意味がちがうであろう。 その程度の実力で入学してしまったために子規は当惑した。
好古の理由のひとつは、年限が三年で早く少尉になれて給料を早くとれるということ だった。「人は生計の道を講ずることにます思案すべきである。一家を養い得てはじめ て一郷と国家のためにつくす」という思想は終生かわらなかった。 いまひとつの事情は、腕と脚の長大な者が士官学校入学者のなかにわすかしかおらす、 生徒司令副官の寺内大尉が好古のそういう体格を見込んでこの兵科へ編入させたらしい 脚が長くなければ馬の胴を締めることができす、腕が長くなければその足らぬ寸法だけ 敵の剣が早くのびてくる。 「二年経ってあしが少尉になると、淳は小学校を出る。金を送るけん、淳を中学に入れ てやってくだされ」 好古は、「父さんこれは約束ぞな」と真顔でいった。真之を助けてやってくれといっ た十歳のときの言葉を、好古は大まじめでまもろうとしていた。 明治十一一年、真之も子規も、勝山小学校を卒業して松山中学校に入った。 中学校の校舎は、勝山小学校と同様、以前の藩校明教館の敷地のなかにある。 中学ができたとき、 之 「これで松山もたいしたもんじゃ」 真と、旧藩の連中はよろこんだ。明治五年ごろから全国の大小の藩の旧城下にぞくぞく と中学がつくられつつあり、愛媛県ではそういううわさをきいてあせっていた。愛媛県