「つらつらトルコ士官の様子をみるに」 と、当時比叡に乗っていた時事新報特派員野田正太郎が、そういう文章を新聞に送っ ている。 しようよう 「ロひげの色うるわしく、顔色あえて黒からず。新調の服を着け、従容として座せる さま異郷薄命の客とは見えず」 このため通訳を神一尸でやとった。レビーというルーマニア 双方、ことばが通じない。 人で、神戸で酒屋をしていたが、トルコ語と英語に通じているというのでとくに乗せた。 士官は士官室に入れ、日本の士官とおなじあっかいをした。下士官と水兵も艦の下士 官・兵の居住区に入れ、掃除その他の勤務はさせなかったが、食事のしまつだけは自分 でさせた。 十一月一日、シンガポールにつくと、この地にいるトルコ人の有志や回教の僧侶たち が艦にやってきて、同国人からあつめた寄付金をかれらに渡した。 金は、相当の金額であった。奇妙であったのは、かれらトルコの下士官・兵の代表は それをとりまとめ、比叡の一番分隊長坂本一大尉のもとにやってきて、 艦「これを日本側においてあすかってもらいたい」 と、懇願したことである。坂本大尉は、 軍「それはすじちがいではないか」 と、ことわった。金はトルコ士官にあずかってもらうべきであり、わざわざ日本士官
普仏戦争ではフランス陸軍は一戦といえどもドイツ陸軍に勝てす、ついにセダンの要塞 で、ナポレオン三世みずからが十万人の将兵とともに捕虜になるほどの敗北をした。 「、ト・イツ陸〔重・は」 と、メッケルは、 , つ。 兵器の質量においてフランスにすぐれていたのではない。兵の数においても決してフ りま、つ ~ か ランスを凌駕していなかった。ドイツがフランスよりもはるかにすぐれていたのは、各 級指揮官の能力である。 「指揮官の能力は、固有のものではない」 と、メッケルは、 , つ。 「操典の良否によるものだ」 あ よき操典で心身ともに訓練されつくした指揮官は、悪しき操典で動かざるをえぬ軍隊 とメッケルは、 , つ。 に負けるはずがない、 「だから私はこの講義をはじめるにあたっていった。私にプロシャ陸軍の一個連隊を指 揮せしむれば全日本陸軍を破りうると」 校 兵極端な言い方をすれば、メッケルが日露戦争までの日本陸軍の骨格をつくりあげたと 海いえるかもしれない。メッケル自身、後年それをひそかに自負していたようであり、日 露戦争の開戦をきくや、ベルリンから日本の参謀総長あて、
開講早々、この渋柿は、 「わが精強なるドイツ陸軍の一個連隊を予に指揮せしめれば、諸君が全日本陸軍をひき いてうちかかろうとも、これを粉砕することはさほどの苦労はいらぬであろう」 といって、学生のどぎもをぬいた。学生のなかにはこの無礼を怒り、終生この異国人 を憎んだ者もいた。 そのころ、陸軍部隊の最大単位は、 「鎮台」 といった。鹿児島方言などではいまだに兵隊のことをチンダイさんという。たとえば 明治十年の西南ノ役では熊本の鎮台兵が、西郷の私学校兵をふせぎ、カ戦した。 明治四年には鎮台は四つあった。同六年にはこれが六つになった。六鎮台制というも のである。その番号順にいうと、第一は東京、第二は仙台、つづいて名古屋、大阪、広 し、よかっ 島、熊本である。同時にこのころ、全国のおもな城はことごとく陸軍省の所轄になった。 たとえば熊本鎮台は熊本城内におかれた。鎮台といういかにも防御的なにおいのよび名 校と一一一一口い さらにそれが古めかしい城をもっていることと言い、どこからみても鎮台時代 兵の日本陸軍は外征を目的としたものではない。 海国内治安のためのものであり、万一のばあい外国が攻めてきたときのための防衛用の 軍隊であった。
にあずけることはあるまい というのがその理由であった。が、かれらはかぶりをふつ 「あなたはトルコの実情を知らない。 トルコでは士官をはじめ支配階級はすべて腐敗し きっていて、これほど信用できぬものはない。かれらに金をあずけることは盗賊に金を あずけるようなものだ」 坂本大尉はやむなくそれをあずかることになり、帳面をつくり、金額を書き入れ、あ ずかった。この挿話ひとつをみてもトルコ帝国の秩序が相当腐敗していることを一同は . 知 . った。 坂本大尉は、トルコという国の社会制度に興味をもち、余暇をみては士官たちに質問 それによると、階級はある。貴族と庶民にわかれている。その貴族というのもヨーロ きようじんせしゅう ハのように強靭な世襲階級を構成しているものではなく、庶民でも実力があれば貴 族になることができる。たとえば農夫の出身でも首相の位置にのばることができるが、 首相の職は世襲できない。 この点、トルコの社会は日本とよく似ており、いわば無差別 社会である、などということを知った。 「この点、われわれはロシア帝国よりはすぐれている。ロシアは貴族以外の階級の者は 士官になれないが、 トルコはたれでも一定の能力があれば士官になれる」
「メッケル参謀少佐がよかろう」 このと メッケルというのは、クレメンス・ウイルヘルム・ヤコプ・メッケルと一言い まなでし し四十三歳でまだ独身であった。モルトケの愛弟子であり、参謀大尉フォン・デル・ゴ ルッとともにこの時期のドイツ陸軍の至宝とされていた。 それを東洋の、その国名すらヨーロッパ人にとってなじみのうすい日本にやろうとい うのである。契約は一年であった。 これをモルトケからきいたメッケルは即答せず、あすまで考えさせてくれ、といった。 その間、メッケルは日本人に会い 「日本でモーゼル・ワインが手に入るか」 という一事だけをきいた。無類の酒すきで、もしモーゼル・ワインが日本で手に入ら なければこの日本ゆきをことわろうとおもっていた。日本人は、「横浜でなら手に入る」 といった。この返事でメッケルは日本ゆきを決意した。メッケルの日本陸軍における功 績はのちの日露戦争の勝利までつながってゆくことをおもえば、運命のモーゼル・ワイ ンであったといっていし 明治十六年二月、好古はかぞえて二十五歳で陸軍騎兵中尉に任官している。 このとしの四月七日、陸軍大学校に入校を命ぜられた。
ただ坂本大尉の観察ではトルコ士官は自分の下士官・兵をいっさいかまいつけず、ま るで他人のようであり、無視しきっていた。 この点ちょっと理解しがたい連中だ、と坂本は真之ら候補生に語った。 世界じゅうの国々が、揉みあうようにして国力伸張の競争をしている。その象徴が軍 艦であったであろう。 維新成立後二十余年をへた日本も、多少の軍艦をそろえた。が、列強の東洋艦隊のそ ろうきゅうかん れからみればその性能は論外で、老朽艦や鉄骨木皮の軍艦が多く、鋼鉄をもってつく ふそう られている軍艦といえば、高千穂、扶桑、浪速、高雄、筑紫ぐらいのものであり、それ も三千トンから千トン台の小ぶねで、とうてい海上の威力になりえない。 明治政府の方針として大艦や中艦は外国から買うが、砲艦程度の小さなふねは国産で ゆくということになっており、この計画で何隻かの国産艦が横須賀造船所でできあがっ た。たとえば八九七トンの清輝 ( 木造 ) などはそれであり、この清輝は明治十年にでき あがるや、十一年、わがくにの「国威」を示すために一年がかりでアジア・ヨーロッパ 艦の諸港を巡訪し、遠洋航海に成功した。 かん しん りこうしよう この間、隣国の清帝国もようやく近代化にめざめている。李鴻章が宰相になり、艦 軍隊を整備しはじめたのは明治十二年ごろからであり、大国だけにその規模は最初から雄 大で、
じゅうそうはくじん あびせ、躍進して肉薄し、あとは銃槍や白刃をもって斬りこむ。 砲兵もわかる。大砲をうつ兵種である。 「騎兵とは、騎乗士のことか」 と、幕府の軍事官がフランス人にそう質問したという。騎乗の士といえば、日本の武 士組織では士分 ( 上士 ) のことである。戦場に騎馬をもってのそむ。それ以下の身分の かち 者は徒歩兵であり、日本では徒士 ( 秋山家の身分だが ) と言い、足軽もそれにふくめて きた。要するに騎乗の侍は身分が高い。 「騎兵とは上士の集団のことか」 と、日本では最初そう理解していた。よくわからぬまま幕府も大名も騎兵をもたぬま ま維新をむかえた。 維新後、版籍奉還までのあいだ諸藩は以前どおり藩単位で軍備をもっていたが、その とき土佐藩だけが日本中にさきがけて騎兵をもった。わずか二個小隊であった。 ところで明治四年、それまで直属軍隊をもたなかった新政府に対し、薩長土三藩が軍 隊を献上した。これによって歩兵九個大隊、砲兵一隊 ( 砲六門 ) 、それに土佐藩から献 兵上した右の騎兵二個小隊が日本陸軍の陣容になったが、馬の数でいえば二十頭であった。 「二十頭」 騎真之は、つぶやいた。日本騎兵は馬二十頭からはじまったのである。 「いまは何頭じやろ」 さねゆき
間の問題になりつつあった。 が、それだけが御用ではなく、「フランス陸軍に釈明するという御用も含められている」 というのが、フランスにおける日本軍人たちのあいだでうわさになっていた。 この明治二十一年に日本陸軍が、在来のフランス式からドイツ式に切りかえたことに ついてフランス陸軍はそれを不快としている。それにつき、山県は日本陸軍の代表とし おんぎ わ て釈明を兼ねて在来の恩誼を謝し、詫びるべきところは詫びる、ということになっていた。 山県有朋がマルセーユに上陸したのは明治二十二年の正月である。当然バリへむかう べきところ、かれはまずべルリンにむかった。 「ドイツ病だな」 と、パリ駐在の交際官である加藤恒忠は好古にいった。加藤はさらにほんの十数年前 まで日本政府にドイツについての認識がほとんどなかったことを好古に語った。 「東京大学医学部がまだ東京医学校といっていた明治八年、はじめてドイツ人のホフマ ンとミューレルの二人をまねいたが、 その講義を通訳できる医者は日本に一人しかいな と、加藤はいう。 め′よ、つかい 馬その通訳は、司馬凌海という。幕末に出現した洋学者で、経歴はふるい。この人物 。、世間に出てくるについては、奇縁がある。
270 ばっぜん アジアにあっては日本国だけが勃然として洋化を志し、産業革命による今世紀の文明 の主潮に乗ろうとした。旧文明のなかにいる韓国からみれば狂気とみえたであろうし、 ヨーロッパ人からみれば笑止な猿まねと思えたにちがいない。 日本にあっては一国のあらゆる分野をあげて秀才たちにヨーロッパの学問技術を習得 させつつあったが、 一軍事技術者である好古の立場は、ことがらが軍事だけにその物ま ねは息せき切った火急の事柄になっていた。 とくに、馬術である。 好古に課せられた多くの事柄のなかに、フランス風馬術の真髄を身につけて、帰国後、 日本人たちに教えねばならぬということがあった。 それを、励んだ。 ところが滞仏中に、日本陸軍がフランス式からドイツ式に切りかえるという旨の公示 が正式に発せられた。 むろん、日本を出るときからこれは覚悟していたが、正式に公示されてみると、やは り好古としては動揺せざるをえない。馬術は、フランス式とドイツ式では、まるでちが うのである。 第一、これをきいたフランス軍人は、ことごとくこの日本の措置を不央がった。 「日本人はよくない」 と、露骨に好古にいう士官学校教官もいたし、日本人は恩を知らないのではないか、
べく横浜を出帆している。 このため、真之が帰郷した二十一年の夏は好古は日本にいない。 「信から手紙がきている」 と、八十九翁は、幾通かのそれをみせた。 その手紙によれば、旧主久松定謨はぶじサンシールの陸軍士官学校に入校できた。好 古はその輔導にあたる一方、フランス陸軍省の許可を得て同校の聴講生になっていると , っ ( 気の毒に。 と、真之はおもった。日本の士官学校を出て陸軍大学校にまで学んだ陸軍大尉が、ま た逆もどりしてフランスの陸軍士官学校で一からものをまなばねばならない。 ハリからの第一信は、 「まるで田舎の処女が、吉原にかつぎこまれたようなものです」 と、八十九翁に対して書いている。 明治二十一年のころの日本というのは、陸海軍学校こそ洋式生活をさせていたが、一 校般はすべての面で封建時代の生活とさほどかわりがない。好古はバリについたとき、ヨ 学 兵ーロッパ文明というものがあまりにも日本と異質なことにおどろき、その技術能力と一言 けんぜっ 海 、富力と言い、日本とどこまで懸絶したものであるかということが見当もっかず、た だばう然とした。その。ハリの華麗さを吉原遊郭にたとえ、自分を田舎から売られてきた