「これが世界でもっとも性能のいい軍艦だ」 ときかされた。浪速は高千穂 ( 同 ) とともに英国の造船所でつくられたが、その新技 術による諸性能がいいというのであとで本家の英国海軍が採用したはどだという。 海軍兵学校の生活は日本的習慣から断絶している。生徒の公的生活の一一一一口語も、ほとん どが英語であった。 まるで英国にきたようじゃ。 と、ある生徒がこばした。そういう私語だけが日本語といっていし 教科書も原書であり、英人教官の術科教育もすべて英語で、返答もいちいち英語でな ければならない。号令も大半が英語であり、技術上の術語も、軍艦の大小の部分につい ての名称もほとんどが英語であった。 「お前たちは留学する必要はない」 と、かって英国で教育をうけた日本人教官が真之らに言い、幸福だとおもえ、といっ た。まだ明治初期のころの海軍士官の多くは政府の方針として海外留学をした。 あまぎ 校たとえば真之が入校したころ「天城」の艦長であった山本権兵衛は日本の海軍兵学寮 兵の出身だが、少尉補になってから、同期生七人とともにドイツ軍艦の乗組を命ぜられた。 海日本の海軍省はドイツの海軍省に対し、これら八人の生活費その他の費用をはらって軍 艦ヴィネタ号に乗せたのである。
270 ばっぜん アジアにあっては日本国だけが勃然として洋化を志し、産業革命による今世紀の文明 の主潮に乗ろうとした。旧文明のなかにいる韓国からみれば狂気とみえたであろうし、 ヨーロッパ人からみれば笑止な猿まねと思えたにちがいない。 日本にあっては一国のあらゆる分野をあげて秀才たちにヨーロッパの学問技術を習得 させつつあったが、 一軍事技術者である好古の立場は、ことがらが軍事だけにその物ま ねは息せき切った火急の事柄になっていた。 とくに、馬術である。 好古に課せられた多くの事柄のなかに、フランス風馬術の真髄を身につけて、帰国後、 日本人たちに教えねばならぬということがあった。 それを、励んだ。 ところが滞仏中に、日本陸軍がフランス式からドイツ式に切りかえるという旨の公示 が正式に発せられた。 むろん、日本を出るときからこれは覚悟していたが、正式に公示されてみると、やは り好古としては動揺せざるをえない。馬術は、フランス式とドイツ式では、まるでちが うのである。 第一、これをきいたフランス軍人は、ことごとくこの日本の措置を不央がった。 「日本人はよくない」 と、露骨に好古にいう士官学校教官もいたし、日本人は恩を知らないのではないか、
「メッケル参謀少佐がよかろう」 このと メッケルというのは、クレメンス・ウイルヘルム・ヤコプ・メッケルと一言い まなでし し四十三歳でまだ独身であった。モルトケの愛弟子であり、参謀大尉フォン・デル・ゴ ルッとともにこの時期のドイツ陸軍の至宝とされていた。 それを東洋の、その国名すらヨーロッパ人にとってなじみのうすい日本にやろうとい うのである。契約は一年であった。 これをモルトケからきいたメッケルは即答せず、あすまで考えさせてくれ、といった。 その間、メッケルは日本人に会い 「日本でモーゼル・ワインが手に入るか」 という一事だけをきいた。無類の酒すきで、もしモーゼル・ワインが日本で手に入ら なければこの日本ゆきをことわろうとおもっていた。日本人は、「横浜でなら手に入る」 といった。この返事でメッケルは日本ゆきを決意した。メッケルの日本陸軍における功 績はのちの日露戦争の勝利までつながってゆくことをおもえば、運命のモーゼル・ワイ ンであったといっていし 明治十六年二月、好古はかぞえて二十五歳で陸軍騎兵中尉に任官している。 このとしの四月七日、陸軍大学校に入校を命ぜられた。
織田信長については桶狭間合戦を語った。 老教官はおどろき、何度もうなずき、以後六人ということにしよう、といった。 余談ながら、 「猿」 という、みじめなあだながこの当時の日本人に冠せられている。容貌が猿に似ている、 ということもあるが、要するにヨーロッパ文明を猿まねしようとする民族、という意味 であろう。 ちなみに、この日本人の猿まねについては、最初にはげしく軽蔑したのはヨーロッパ 人でなく、隣国の韓国であった。日本が維新によって大変革を遂げ、開国するとともに ばっ一 : っ 髷を切り、洋服を着、鉄道を敷き、ヨーロッパで勃興した産業文明に追っつこうとした。 「人にして人にあらず」 と、韓国の公文書ではいう。 さらに別な文書では、「ソノ形 ( 髪形や服装 ) ヲ変ジ、俗 ( しきたり ) ヲ易ュ。コレス ナワチ日本人ト言ウべカラズ」とし、だから国交しない、国交したければもとの風俗に なって出なおせ、と言う。日本は明治元年から同六年まで韓国に対し国交を要求したが 馬同国はついにこの強硬な態度をくずさなかった。この当時韓国は清国の保護国であり、 あくまでも中国ふうの儒教国家であるというたてまえをまもり、西洋化を嫌悪した。
「万歳ーー。日本人メッケルより」 と、打電した。ちなみに明治時代がおわり、日露戦争の担当者がつぎつぎに死んだあ と、日本陸軍がそれまであれほど感謝していたメッケルの名を口にしなくなったのは戦 きようまん 勝の果実を継いだ たとえば一代成金の息子のようなーー者がたれでももっ驕慢と きようりよう 狭量と、身のほどを知らぬ無智というものであったろう。 メッケルは、その講義でいう。 でばな 「戦いは、出鼻で勝たねばならぬ」 敵の意表に出、その機先を制さねばならぬ、という。この思想は日本人が室町時代以 来数百年かかってつくりあげた日本剣術の基本思想だが、しかしそれが近代軍事学のな かでも通用しようとは、この当時の日本軍人のはとんどは考えていなかった。 これについて、メッケルはさらにい , つ。 「宣戦布告のあとで軍隊を動員するような愚はするな」 となれば、軍隊を動員し、準備をととのえきったところで宣戦し、同時攻撃をし、敵 がねむっているあいだに叩き、あとは先手々々をとってゆく。要するにメッケルは、 「宣戦したときにもう敵を叩いている、というふうにせよ」 というのである。これをきいたとき、学生のほとんどは、 ひきよう ( それは卑怯ではないか ) とおもった。好古なども、
と、真之は兄に肉薄した。兄はぶしよう者のくせに髪をきれいに分けている。 「持たんな」 「しかし兄さん、お髪がきれいじゃが」 と、真之は好古の頭を指さした。そういわれて好古は右ひじをあげ、指をもって頭髪 をかいたが、鳥のにこげのようにやわらかそうなその髪はべつにみだれることなくき れいにしすまっている。寸法のながいその髪は自然の曲線がついているために指で掻き あげるだけでちゃんとしずまるらしい この点でも、この人物は日本人ばなれした骨相だったといえるであろう。余談だが、 かれが日露戦争後、ロシアのコサック騎兵の大集団をやぶったことで世界の兵学界の研 究対象になり、多くの外国武官が日本に見学にやってきた。その武官のなかには、 「日本の騎兵がコサックをやぶれるはずがない。おそらく西洋人の顧問がいるのだろう」 とうたがう者があり、かれらが千葉の陸軍騎兵学校にゆくと、はたしてそれを見た。 そこにいた秋山好古である。好古の顔をみて、 「やはり、西洋人がいた」 之と、かれらはしきりにうなずきあい、好古が日本人であることを容易に信じなかった とい , つ。 真真之のめしがおわった。 好古は、なおも飲んでいる。 ウェープ
余談ながら、私は日露戦争というものをこの物語のある時期から書こうとしている。 小き、な。 といえば、明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。産業といえば農業しかな 、人材といえば三百年の読書階級であった旧士族しかなかった。この小さな、世界の片田 舎のような国が、はじめてヨーロッパ文明と血みどろの対決をしたのが、日露戦争である。 その対決に、辛うじて勝った。その勝った収穫を後世の日本人は食いちらしたことに なるが、とにかくこの当時の日本人たちは精一杯の智恵と勇気と、そして幸運をすかさ すっかんで操作する外交能力のかぎりをつくしてそこまで漕ぎつけた。いまからおもえ 之 ば、ひやりとするほどの奇蹟といっていし 真その奇蹟の演出者たちは、数え方によっては数百万もおり、しばれば数万人もいるで あろう。しかし小説である以上、その代表者をえらばねばならない。 真之
坂の上の 坂の上の雲 ( 一 ) 司馬遼太郎 文春文庫司馬遼太郎作品リスト 最後の将軍ー徳川慶喜ー新装版余話として 十一番目の志士 ( 上 ) ( 下 ) 翔ぶが如く ( 一 ) ー ( 十 ) 世に棲む日日 ( 一 ) ー ( 四 ) 木曜島の夜会 酔って候 歴史を考えるみ ー ( 八 ) 新装版 竜馬がゆく ( 一 ) 対談中国を考える ー ( 六 ) 新装版 功名が辻 ( 一 ) ー ( 四 ) 菜の花の沖 ( 一 ) ロシアについて北方の原形 故郷忘じがたく候 歴史を紀行する 手掘り日本史 この国のかたち ( 一 ) ー 幕末新装版 夏草の賦 ( 上 ) ( 下 ) 八人との対話対談集 義経 ( 上 ) ( 下 ) 対談西域をゆく 坂の上の雲 ( 一 ) ー ( 八 ) 新装版歴史と風土 日本人を考える対談集 ベルシャの幻術師 殉死 司馬遼太郎の世界 ( 文藝春秋編 ) 明治維新をとげ、近代国家の仲間 入りをした日本は、息せき切って 先進国に追いっこうとしていた。 この時期を生きた四国松山出身の 三人の男達ーー・ - 日露戦争において コサック騎兵を破った秋山好古、 日本海海戦の参謀秋山真之兄弟と 文学の世界に巨大な足跡を遺した 正岡子規を中心に、昂揚の時代・ 明治の群像を描く長篇小説全八冊 著者紹介 司馬遼太郎 ( しば・りようたろう ) 大正 12 ( 1923 ) 年、大阪市に生れる。 大阪外国語 ! 岩交蒙古言斗卒昭 和 35 年、「梟の城」て、第 42 回直木賞 受賞。 41 年、「竜馬がゆく」「国盗 り物語」て菊池寛賞受賞。 47 年、 「世に棲む日日」を中心にした作家 活動て、吉川英治文学賞受賞。 51 年、 日本芸完恩、賜賞受賞。 56 年、日 本芸術院会員。 57 年、「ひとびとの 跫音」て、読売文学賞受賞。 58 年、 「歴史小説の革新」についての功績 て瀚日賞受賞。 59 年、「街道をゆく 、、南蛮のみち I 、、」て、日本文学大賞受 賞。 62 年、「ロシアについて」て、読 売文学賞受賞。 63 年、「韃靼疾 ) 電刺 て大佛 : 知に賞受賞。平成 3 年、文 イ j 労者。平成 5 年、文イ ~ 章受 を著書に「司馬遼太郎全集」 ( 文 藝春秋 ) ほか多数がある。平成 8 ( 1996 ) 年没。 9 7 8 4 1 6 7 1 0 5 7 6 1 II ⅢⅢⅡⅡⅧⅢ 1 9 2 0 1 9 ろ 0 0 5 5 2 ろ I S B N 4 ー 1 6 ー 7 1 0 5 7 6 ー 4 C 0 1 9 5 \ 5 5 2 E 定価 ( 本体 552 円 + 税 ) 文春文庫 し 1 文春文庫 文 カバー・風間完 552 十税 文春文庫
を日本史にもとめるとすれば」 と、好古はいっこ。 「源義経とその軍隊だな」 、」う 好古にいわせれば、源平のころから戦国にかけて日本の武士の精神と技術が大いに昂 揚発達し、世界戦史の水準を抜くほどの合戦もいくつかみられるが、しかし乗馬部隊を 集団としてもちいた武将は義経だけであった。 日本の旧武士のありかたは、乗馬の武士がいくにんかの歩卒をしたがえて戦場に出る。 そういう小単位のあつまりをもって一軍をなし、それだけでいくさをする。 それだけのことである。 乗馬兵だけで一部隊を編成すればどうか。 ということは、日本人は考えなかった。 乗馬部隊の特質というのは、まずその機動性にあるであろう。本軍から離れて千里の 遠きへゆくことができる。さらに密集して敵のおもわぬ時期に戦場に出現すれば敵を一 挙に潰乱させることができる。 もろ 兵ところがその欠点もある。脆さである。奇襲にしても事前に敵に発見されれば敵のも つあらゆる重軽火器がこの騎兵集団にむけられ、目標が大きいだけにばたばたとたおさ 騎れてしまう。その長所と欠点をよくのみこんだ天才的な武将がこの騎兵を運用すれば大 きな効果をあげることができるが、凡庸な大将ではそういう放れわざはとうていできない。 よ、つ かいらん
う活動的な姿勢を帯びる。 メッケルのドイツ陸軍はフランスを仮想敵国としてつくられている。一令のもと国境 線を突破してフランス領内を侵すようにその制度や機能がつくられている。日本陸軍が しず このドイツ式に転換したときこそ、その軍隊目的が、国内の鎮めから外征用に一変した ときであった。 日本をとりまく国際情勢も、そういう転換を強制している。清国とのあいだの争点に なっている朝鮮問題が悪化し、日清両国の強硬な外交態度からみて、いすれはこの関係 が外交の域をこえるであろうことはたれの目にも予測された。日本のドイツ式軍制への 転換は、このいずれはのためであるといっていし みやけざか この日本陸軍の基礎をつくったというべきメッケル少佐は、住居を三宅坂にさだめた。 陸軍省は、メッケルに気をつかい、その来日前に参謀本部構内の崖の上に赤レンガの 欧州風住宅をたてた。 メッケルは、講壇に立った。かれは秋山好古を見たとき、ちょっと驚いた様子をみせ、 校「丑須は、ヨーロッパ人か」 兵と、ドイツ語できいた。好古はドイツ語がわからず、メッケルを見つめたままだまっ 海ていた。通訳が、あわてていった。 「この学生も他の学生と同様、きっすいの日本人です」